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それまでの天皇と異なり、後醍醐天皇は「神国日本は天皇の国」という激しいイデオロギーのもとに、一切の妥協を許さない覚悟で幕府との対決姿勢を露わにし始めました。再び世の中は大きな混乱の時代に突入し始めたのです。時代は鎌倉幕府のいわゆる“幕末”を迎えることになります。 しかし、落ちぶれたとは言え、軍事政権の幕府と戦うには後醍醐天皇は貧弱過ぎました。案の定、緒戦は大敗北に終わりました。 そこで満を持して歴史の表舞台に現れるのが、源氏の正統な血統である足利(あしかが)氏や新田(にった)氏でした。言わずもがな、申し分のない強さとカリスマ性を兼ね備えた武士の正統です。北条氏の政権を苦々しく思う朝廷と源氏――足利氏・新田氏――は、ついに共通の敵――北条氏――を倒す方向で当座の利害が一致し、動き始めました。鎌倉時代の薩長同盟といったところでしょうか。しかし、江戸の幕末と違うのは、その主導権が天皇そのものにあるというところです。 ちなみに、幕府を認めたくない後醍醐天皇にとっての“源氏”という存在は、案外現在の日本の自衛隊の存在――軍の存在は認めないが、自衛隊があるという状態――に似ているのかもしれません。 いずれ、さすがに源氏が立ち上がったことの意味は大きく、あたかも導火線で導かれたかのように各地の武士達にも引火し、ついに大噴火に至らしめました。こうなるとさすがにもう幕府には勝ち目がありません。そしてここでついに北条氏と鎌倉幕府は火砕流に飲み込まれるが如く消滅するのです。 しかし、その断末魔、幕府はその後の歴史を激しく揺り動かすことになる“種”を蒔いておりました。 それは、幕府の行動自らの正当化の為に、後醍醐天皇の「大覚寺統」に対抗すべく、以前も触れた、天皇家としては十分に正統すぎる「持命院統」の系譜から天皇――光厳天皇――を立てたことです。日本という国は、ここにいわゆる「北朝」という別系譜の天皇家をご懐妊したのです。後の話になりますが、南朝はやがて滅びますので、現在の天皇はこの北朝の系列に連なっていることになります。そう考えたときに、このときの幕府がいかに大きな種を蒔いたのかを計り知れるというものです。 それにしても、鎌倉幕府が崩壊したからと言ってそれで全てが解決されるわけではありません。現代にも通じることですが、いかに現政権に不満があり壊してやりたい気持ちがあろうとも、ただ破壊するだけではなんの解決にもならないのです。最も重要なことは、江戸幕末の大政奉還に向けて坂本竜馬が考案した「船中八策」のような、壊した後にどうするのかというビジョンです。「幕府をぶっ壊した」のはいいですが、その後の政策が決まっていない状態では政権不在の大きな社会不安を残すのみとなってしまいます。 一応は、後醍醐天皇には自分の正義に基づく政策はありました。それは“律令政治の復活”であり、全てを朝廷の行政と刑罰のもとに統制するというものです。 つまり、農民――武士――が「一所懸命」開拓した土地の所有権も、原則国家の元に返還帰属されなければならないことになるわけで、その実質は国民無視の政策であり、かつて破綻した形態の再現でもあり、決して支持を得られるような内容ではありません。そもそも当時の主権者である武士の存在を否定するところから始まる政策ですから、支持を得られないのは当然と言えば当然でした。ここで国民の期待は足利氏に集まることになります。国民は、足利氏に“健全な幕府”を再興して欲しかったのです。 ところが、期待の足利尊氏という武将は政治家として愚直すぎる面がありました。尊氏は戦にめっぽう強く、かつ優しい男で、一個の人間としては大変魅力的なのですが、政治感覚には極めて鈍感でした。多少「源義経」的な部分を持ち合わせていたのかもしれません。しかし、それを補うかのように、戦に弱いが権謀術数に優れた弟、「直義」がおり、そのおかげで「その時歴史が動いた」わけです。 時代は急展開を迎えました。 足利兄弟は、後醍醐天皇と真っ向から対決する姿勢を示したのです。 昭和の終戦のほとぼりもさめた頃、三島由紀夫が日本という国の粘膜のような部分を刺激する主張しました。三島由紀夫は、憲法上「軍事力を持たない」とする国家から半ば認められていないにも関わらずその統制下にある「自衛隊」に対し、「男として怒るべきである」と主張したのです。
極端な仮定ですが、今、もしも三島由紀夫のような人物が現れて「自衛隊は決起すべし」旨の主張を高らかに公言して、それに自衛隊が呼応したらどうなるのでしょうか。その時、天皇なり内閣総理大臣なりが、あくまで国内で解決すべしと仮に警察を動員してそれを鎮圧しろという緊急指令を出したとしても、とうてい無理な話です。 後醍醐天皇のおかれた立場は極めてそれに近かったと言えます。 |
蒙古襲来と鎌倉終焉
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陸奥国への南朝思想の影響と、当時の歴史背景を眺めます。
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真言密教に限らず、仏教には「一即多(いっそくた)」という概念があります。
例えば米一粒が生まれるためにも、太陽の恵みや土、水の恵み、人間の営みなど全てのものが関わっており、すなわち米一粒の中にも宇宙が凝縮されております。一つが全てで全てが一つ、宇宙の中に一個人があり、一個人の中にも宇宙がある。これらには全て切り離すことの出来ない因果があり、またそもそも同じ一つのものだ、という概念だと言えばよろしいのでしょうか。 空海は仏教全般において不浄、及び煩悩とされる人間の性(セックス)についても宇宙の一原理として考え、切り捨てませんでした。 ライバル最澄が、不得意とする密教を謙虚に学びに来ていたとき、当初気前よく協力していた空海は、あるとき突如最澄を突き放し罵声を浴びせるが如く豹変しました。空海はもともとやっかみ的な感情から最澄を快く思っていなかったフシもあるのですが、この場合はそれとは少々異なります。その理由は、最澄が「理趣経」を解説した「理趣釈経」を借りたいと申し出たことにあります。 理趣経とは男女の交合つまりセックスについて書かれた経典でもあり、一歩間違えば「セックスこそが悟りへの道」のようにも受け取られかねない要素を含んだ経典で、空海はこれを面授なしに書面のみで理解しようとすることは大変危険性があると考えたのでしょう。 そもそも真言密教の大原則は面授口伝にあります。師と弟子が直接面授で同じ空気の中に身を置きながらそのオーラのようなもので極意を伝授するものだけに、特にこの危険極まりないものについては空海も気前のよい態度を取れなかったのでしょう。 このときの空海の懸念は、やがて鎌倉時代に実現されてしまったようです。必ずしもそうは言い切れないのかもしれませんが、セックスに特化した――そう評価された――「真言立川流」が生まれました。度々触れましたとおり、後醍醐天皇はそれに没頭していくのです。 後醍醐天皇はその一方で朱子学を政治哲学にしておりました。 朱子学には「性即理(せいそくり)」という概念があります。「性」とは人間の本性のことで、「理」とは天地万物の法則性のことで、これらは切り離すことの出来ない表裏一体のものという考え方のようです。私が思うに、おそらく朱子学の「性即理」の概念は、真言立川流に心酔する後醍醐天皇の中でおおいに一致する感覚だったのではないでしょうか。 そして、この朱子学が持つ理念の大きな特徴としては、尊王思想があります。 朱子学によれば、徳のある本来の王が天下を治めるべきで、徳の備わらない野蛮人が治めるべきではないということになるのです。これはおそらく元に対しての精一杯の思想攻撃のようなものでしょう。朱子学がこの時期に興った事情は、やはり蒙古帝国の拡大に起因すると思います。文明人を自負する南宋人にとって、漢民族以外、ましてや中華思想においては野蛮人でしかない蒙古人に王座を奪われたという経験は、極めて屈辱感の強いものであったはずで、そのことが朱子学の理念に強く反映されたことでしょう。 そしてその思想的な感覚は、ここ100年以上も幕府の下風に立たされ続けた朝廷側の理解を、ごく自然に得ることになりました。後醍醐天皇は、朱子学に裏付けられた自分の中の激しい正義に基づいて、ついに行動を起こすことになるのです。 |
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はじめに、前回記事へのルゴサさんのコメントで気づかされた件について触れておきます。 元軍は、陸戦においては得意の騎馬戦術で最強無比の強さでありましたが、海を渡る術、及び海で戦う術を持っておりませんでした。ひょっとしたら水泳自体もままならなかったとさえ聞きます。したがって日本を攻める際、高麗や南宋の造船技術と水軍を利用したようです(仮に陸戦でも彼らを最前線においたでしょうが)。つまり、日本が闘った元兵の多数が、高麗や、南宋人で構成されていたというわけですから、当然日本軍が殺傷した兵や台風で壊滅した舟に乗っていた兵らにも多くの南宋人が存在したということになります。となると、南宋の僧である無学祖元が、供養の碑文に筆をしたためたくなる感情というものもわかろうというものです。 ただ、何故それが宮城郡なのか?という謎は相変わらずですが・・・。 さて、源頼朝が武士主導の鎌倉政権を立ち上げて以来、しばらく煮え湯を飲まされてきた朝廷が、鎌倉の斜陽化に野心を高ぶらせ始めたのは自然の成り行きだったでしょう。そしてその思いは後醍醐天皇の代になってついに噴火しました。 後醍醐天皇は度々触れましたが真言立川流(理趣経)の熱心な信者である一方、政治哲学としては宋学、特に朱子学が基本理念としてありました。私にはこれらはある部分で共通しているように思えますが、特にこの朱子学が後醍醐天皇の感情を発火性の強いものにしていたことは間違いないでしょう。幕末の勤皇倒幕志士と同じ哲学といえばわかりやすいかもしれません。 そのような後醍醐天皇の思想をのぞき見る準備として、少し空海の真言密教について触れておきたいと思います。空海についての私の基本的な知識は、かなりの部分で司馬遼太郎さんの『空海の風景(中央公論新社)』から得たものであることを予め申しあげておきます。 空海は密教を究めんがため、なんとか唐に渡ることが叶いました。唐において空海の師匠は「恵果」という僧であったといいます。その恵果の師匠が「不空」という僧だといいます。空海は、実は恵果よりもこの不空のことこそ尊敬しており、自分は不空の生まれ変わりであるとまで公言しておりました。
空海の行動原理には多分に不空の影がちらついており、日本に帰国してからの空海の政治への関与の仕方を見ると、あきらかに不空を意識していたかに見えてきます。空海にとって直接の師である恵果への思いは、ある意味密教を得る単なる手段に過ぎなかったのかもしれず、少なくとも早い段階で自分の方が上であるという認識が芽生えていたようです。 ところで「雑密(ぞうみつ)」と「正密(せいみつ)」という言葉があります。 「雑密」とはある種さまざまな断片的なまじない的要素のことを総じてひとくくりに呼んだ言葉ですが、それに対する体系化された「正密」はおおまかに分けて二通りになります。 ひとつは精神性の原理を説く金剛経系(金剛界)。 もうひとつは物質の原理を説く大日経系(胎臓界)。 もともと本場インドにおいて別々の発展を遂げたもので、各々異質な思想であり、本来、矛盾はしても決して相容れることのない思想同士なのです。 不空は金剛界系統の人であったようで、恵果もそれを受け継いでいたわけですが、恵果はたまたま別口で「玄超」という僧から大日経系の密教も伝授していたのです。史上初の正密両刀使いになったわけです。 しかしその相矛盾する体系を自らの体内に取り込む過程において、恵果は人格が破綻しそうなほどに葛藤しました。そのうちに、あくまで気分としてですが、それらが一体のものであるということを悟ったようです。ただそれでも空海に出会う前の恵果は、例え弟子の中に逸材がいたとしても、あくまで自分の本筋である金剛経系を伝授してきました。大日経系については自らに封印でもしていたのでしょう。 そこに、空海という天才が現れました。空海を目の前にした恵果は「こいつならひょっとして・・・」とでも思ったのか、大日経系の密教も伝授することにしました。そして自分では気分としてしかつかめなかった、それら二つを融合させた思想の“具体的体系化”という極めて困難な作業を空海に期待したようなのです。 結論をいえば空海という天才はそれをやってのけ「真言密教」を確立させたのでした。 |
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「蒙古の碑」なる奇妙なものが、特に宮城郡で集中していることを少し掘り下げて注目してみたいと思います。 そもそもこのような板碑は、サイズにもよりますが、一つ建立するにも村一つ分の税収に匹敵する費用がかかると言われております。とても村人たちが気軽に建立できる代物ではなく、よほどの権力者か、あるいはよほどのスポンサーをバックにした存在が建立したことには間違いないのです。黒幕はこの地の領主と考えるのが自然で、「留守(るす)」氏がその最有力候補と考えられております。 留守氏は、このあたりの地頭であると同時に、平泉を任された「葛西(かさい)」氏とともに「奥州惣奉行(おうしゅうそうぶぎょう)」とされるほど地位が高く、この地に土着した他の鎌倉武士とは一線を画す存在でした。 ちなみに、他の鎌倉武士たちは郡単位の広い領域を支配しておりましたが、この宮城郡は多賀国府のある奥州の心臓でもあり、いわば“特別郡”でありましたので、留守氏といえども郡全域の直接支配までは任されておらず、あくまで「高用名(こうゆうみょう)」と呼ばれる郡内中枢地区の地頭となっておりました。奥州の首府として特別な宮城郡を、現代の東京23区にあてはめて言うならば、 ――「東京23区≒宮城郡」は首都特別区のため、他の「市町村≒郡」と異なり“長”というものは存在しません。しかし23区の各々には長がおり、特に「皇居や国会議事堂≒多賀国府」のある「千代田区≒高用名」の「区長≒地頭」については「東京都知事≒奥州惣奉行」が兼任している―― といったところでしょうか――実際の都知事は千代田区の区長など兼任しておりませんが――。 留守氏の初代「家景(いえかげ)」は、もともと伊澤氏を称しており、武士というよりは中央の藤原姓の事務官で、「陸奥国留守職」を賜ってからその役職である「留守」を名乗りました。家景は京において公家の「九条光頼(くじょうみつより)」に仕えておりましたが、鎌倉のフィクサー北条時政からその行政事務能力を高く評価され、鎌倉御家人として推戴されていたのです。だからこそ奥州惣奉行にまで任ぜられたのでしょう。 そして留守氏は代々鹽竈神社の大神主として祭事を執り行うことにもなります。ここが他のアウトロー的な土着武士とは違うところで、少々インテリな印象を受けます。おそらくはそんなプライドも持ち合わせていたことでしょう。 さて、善応寺の「蒙古の碑」の碑文は、その内容や文体の装飾から、かなり高度な知識を持つ人物の原稿に基づくものと考えられております。だからこそ執権時宗のブレーン「無学祖元」の名が最有力候補として浮上するのです。たしかに、その鎌倉知識層とのつながりからも、やはりここは留守氏が関与していたと考えるのが一般的です。事実、宮城県は全国的に見ても中世板碑の集中エリアですが、それらは特に留守氏のテリトリーに目立つのです。 善応寺以外の「弘安の碑」はどうなのでしょうか。 仙台市青葉区八幡の「来迎寺」にある「弘安の碑」も、やはり蒙古の碑と伝えられる一つです。とは言え、その碑は現存しておりません。しかし、この寺にはもう一つ「延元の碑」なるものが現存しております。弘安の碑より50年ばかり遅い建立のようですが、こちらも「蒙古の碑」あるいは「モクリコクリの碑」と呼ばれる類の板碑です。モクリコクリとは「蒙古・高麗」の意味とも言われております。言うまでもなく、「高麗(こうらい・こま)」は「高句麗(こうくり)」ともいい、朝鮮王朝の一つです。 余談ですが、コックリさんというキツネの霊をお招きする――ひと頃大流行した――少々怖い(?)占いがありますが、コックリの語源は高句麗であるという話も聞いたことがあります。高句麗には稲荷信仰となんらかの関係があるのかもしれません。 それはともかく、高麗も元に征服され、元の一部隊として日本侵略の最前線に立たされたわけで、もしかしたら、これらの碑は元軍と言っても、意思とは無関係に前線に立たされ死に追いやられた朝鮮兵のような存在を供養したのかもしれない、とも頭をよぎります。ただしそれだけでは「何故宮城郡なのか」の回答には足りません。ひょっとしたら、留守氏の血統に高句麗系のつながりでもあるのでしょうか。 ところで、ここには私にとって見逃せない霊験が伝わっております。それは百日咳です。ここの板碑は百日咳に霊験があるというのです。 ちなみに、この来迎寺の近辺には、大雨洪水警報を発令した“鶏の化身(権現)”の伝説が残されております。 来迎寺 延元の碑 一方、仙台市泉区根白石(ねのいろいし)にある「弘安の碑」にもどうやら百日咳に霊験があるとされております。 根白石 弘安の碑
百日咳への霊験は“ニワタリ信仰”によくよく見られる傾向なのです。なにやら蒙古とニワタリの結びつきも漂っております。 ところで、蒙古の碑のスポンサーは本当に留守氏だったのでしょうか・・・。こうして見てくると、私には国分氏の影の方が色濃く思えてしょうがありません。特に今紹介した仙台市内の青葉区八幡や泉区根白石は、伊達政宗以前の時代には国分氏の領域となっていたところです。 しかし、留守氏と同時代に活躍していたはずの国分氏なのですが、実は史料にその動きを散見出来るのは南北朝時代に入ってからで、鎌倉時代の動きとしては全く見えてこないのです。 |
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「奥州であれば蒙古兵を供養することもあり得たのかもしれない」 少々“勢い”でそういう私見を述べてしまいましたが、思うところがいくつかあります。 一つは、そもそも奥州人は鎌倉に対していいイメージを持ち合わせていなかっただろうということです。 たしかに、当時奥州を支配していた武士達は、少なくともあくまで支配者層に限っては既に従来からの奥州武士ではなく、進駐してきてそのまま土着した鎌倉武士がほとんどだったことでしょう。しかし、そう考える際に気をつけなければならないのは、以前にも触れたとおり、おそらく奥州に土着した鎌倉武士のほとんどはアウトローであっただろうということです。その精神性においては、自分達を見下しかねない本家筋がいる土地よりも、よっぽど奥州の辺境的土壌のほうに愛着を覚えていたのかもしれません。 近いうちにあらためて触れる話になりますが、後醍醐天皇が足利尊氏、つまりは武家政権そのものと対峙した際、奥州武士の主力はほとんど後醍醐天皇側に味方しております。それはやはり“幕府嫌い”の心理が根底にあったからではないでしょうか。 南朝勢力の拠点となった福島県の「霊山(りょうぜん)」 ひとつ思い当たることを申しあげておくならば、今でこそコメの本場のような奥州(東北地方)ですが、それは後世の血のにじむような努力やコメそのものの品種改良の結果であり、本来温暖な気候に適したコメづくりは、寒冷地である奥州には適していなかったのです。当時の奥州はむしろ金や馬の産地である利点を生かして交易で潤っていたのです――ちなみに楠木正成も商業系武士と言われております――。 もしかすると奥州武士が感じる恩恵は、「一所懸命」の言葉に代表される坂東――農業系――武士が感じる恩恵とは異なっていたのかもしれません。 それにしても、はっきり言えば後醍醐天皇のやろうとしていたことは確かに滅茶苦茶であったとも思います。個人的感情としては足利氏に明らかな正義があったと思います。それは後醍醐天皇に寄せられた味方からの諫言の数々を見ていてもわかります。逆に言えば、それだけ不満があるにも関わらず尚も味方につくというのは、もちろん我国における天皇という存在の大きさもさることながら、例えば新田義貞のように、単に“意地でも足利の味方に付くものか”的な理屈抜きの悪く言えばいわば稚拙な感情というものも、私達が人間である以上決して侮れない行動原理であるということでしょう。恨みは買いたくないものです。 そういう歴史を考えると、奥州武士たちは果たしてどんな本音で元寇を眺めていたのかが気になってまいります。案外幕府が蒙古につぶされることを期待していたのではないでしょうか。 余滴として書きとめておきますが、元寇の際最も最前線で戦ったとされる“松浦水軍”は、当地に流された「安倍宗任(むねとう)」の末裔という説もあります。遠い九州での出来事ではありますが、例えば奥州藤原氏の全盛を築いた三代「秀衡(ひでひら)」の母親は、何を隠そうその安倍宗任の娘でもあります。奥州武士にとって北九州は意外に近い存在でもあったことでしょう。もしかしたら蒙古兵の供養を展開したのは、実際に直接元軍と戦った松浦党と深く関係がある人物だったのでは、とも想像しております。
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