はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

蒙古襲来と鎌倉終焉

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 陸奥国への南朝思想の影響と、当時の歴史背景を眺めます。
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蒙古の碑

 大陸で蒙古が勢力を拡大していた頃、日本の仏教にも変革が起こり始めます。最澄が開いた比叡山天台宗の高弟たちがいよいよ各々の独自の宗教観を深化させてきたのです。栄西から道元へ、法然から親鸞へ、そして日蓮といった鎌倉仏教の祖たちが開化したのです。私はこれら仏教の変革と蒙古勢力の拡大が無関係だったとは思えません。なにしろ、当時の僧侶は海外事情に最も精通した存在だったはずだからです。
 日蓮が、時の執権「北条時頼(ときより)」に献上した「立正安国論(りっしょうあんこくろん)」は、蒙古襲来を予言したものとしても有名ですが、私は、これは予言でもなんでもなく、当時海外事情にちょっとでも詳しければ誰にでも想像できたことだったのではないかと思います。なにしろ、当時世界最大の文明国――中国――がもはや風前の灯だったのですから・・・。 
 一方で、鎌倉仏教の興隆に少し遅れて、藤原氏の氏神「春日(かすが)大社」の創建なり由緒なりを記した『春日権現験記絵(かすがごんげんけんきえ)』という絵巻が書かれております。この絵巻に書かれてある内容は、奥州一ノ宮の鹽竈神社の謎を考える上で大変な示唆を含んでおり、後年のこととなりますが、実際に仙台四代藩主「伊達綱村(つなむら)」が綴り直した鹽竈神社の由緒にも、この絵巻の語るところが多大なる影響を及ぼしております。その件についてはいずれあらためて触れるつもりです。ここでは現代の基礎となる宗教的変革の根源が、元寇前後の世に萌芽していることにだけ注目しておくことにします。
 元寇がもたらしたもの、それはおそらくアジア全体が抱いた恐怖心と社会不安かと思います。蒙古が勢力を拡大していた頃、日本では将軍源頼朝の血統が事もあろうに殺害によって途絶えました。折からの末法思想――ある時期に仏の教えがすたれるとされる思想――の下地に、その実際的な社会不安が呼応したからこそ、いわゆる鎌倉仏教の興隆があったのではないでしょうか。また、神道において『春日権現記絵』のようなものが描かれたのも同様な世情に影響されていたのではないかと思うのです。
 元寇の後、奥州の宮城郡においては、何故かいくつかの“妙な”板碑が建立されております。
 無味乾燥な言い方をすれば、建立された年号に因んで「弘安の碑」と呼ばれるものの類ですが、何故か地元では「蒙古の碑」とか、「モクリコクリの碑」と呼ばれております。
 特に、仙台市宮城野区燕沢の善応寺にあるそれは、「無学祖元(むがくそげん)」が元軍の兵士を弔った供養文とされております。無学祖元とは、前にも触れましたが北条時宗の頭脳的役割を担った僧です。その内容については未だ賛否両論があるものの、一応は「林子平(はやししへい)」の親友でもあった当時の鹽竈神社の祠官「藤塚知明(ふじつかともあき)」の碑文解読によるものです。
 昭和16年、蒙古連合自治政府の主席「徳王」が仙台を訪れ碑前で供養をし、同時に、敵兵である蒙古の戦没者を丁重に祀っていることに大変感動したといいます。徳王は碑前に松を植え、揮毫(きごう)を添えられました。

善応寺 蒙古の碑と徳王手植えの松
イメージ 1
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徳王揮毫の碑
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 ところで、「祖元が蒙古兵を供養した碑文」という解釈にはどこか違和感を覚えませんでしょうか。何故なら、被害者はむしろ日本側であり、怨霊となるべき要素はこちら側にあるからです。また、前にも述べたとおり、南宋の僧である祖元にすれば、蒙古を恨みこそすれ、供養する筋合いはないと思うからです。「祖元は高尚な僧であり、それは下衆の勘繰りに過ぎない」という意見もあるかもしれませんが、だとすれば、おそらくは祖元に相談しただろう時宗が、断固として蒙古の要求をはねつけた意味もわからなくなります。
 したがって「蒙古兵を供養する碑」という部分か「祖元の供養文の碑」という部分の、いずれかが間違っている可能性は十分あると思います。
 しかし、実は私は「蒙古兵を供養する碑」という意味においては、ひょっとしたら“奥州であればこそあり得たのかもしれない”とも思っているのです。

鎌倉幕府の斜陽化

 元寇を乗り切った執権北条氏の鎌倉政権――幕府――は、これまでの国内の戦争と異なり、敵地を奪えたわけではなかったので論功行賞が難航することとなりました。
 これまでの国内の戦争であれば、敗軍から奪った領土をもって功のあった武将に配分することが出来たわけですが、今回は単に海外から侵略してきた軍を撃退しただけなので、勝ち戦とはいえ何も得るものがありませんでした。武士による武士のための幕府が、このとき公のために活躍した武士達に満足のいく見返りを捻出出来なかったのです。ここで遂にこの政権がほころび始めることになります。
 そもそも源氏をないがしろにして政治を推し進める北条氏には、やっかみも含めてくすぶるような不満はあったことでしょう。有力御家人に過ぎないはずの執権北条氏が、ここまで大きな実権――得宗(とくそう)専制体制――を握ることが出来たのは、ひとえに源頼朝のスポンサーであった過去があるからこそ、でした。たしかに頼朝が武士の世を創れたのも、平家に目をつけられている罪人時代の彼を、それでも保護してくれた「北条時政」がいたからこそでしょう。またその娘政子は頼朝の妻になるのでした。
 しかし、元寇の時代にあっては、その源頼朝の血統は既に半世紀も前に消滅し、北条氏は、もはや源氏とは――血縁上――さほどに関係はありませんでした。それでも、本来は北条氏が真の鎌倉政権のプロデューサーであったのでしょうから、その創業の理念(?)をもって武士の棟梁代行としての役割を果たせていたのでしょう。
 しかしここにきて満足な論功行賞を行えない状態になりました。このあたりから徐々に北条氏は支持を失い始めます。世論の不満は北条氏に集中することになりました。元の侵略を阻止した北条時宗は、その心労からか34歳という若さで寿命を終えてしまいました。
 時宗の舅に「安達泰盛(あだちやすもり)」という有力御家人がおりました。かつてNHKの大河ドラマ『北条時宗』で柳場敏郎さんが演じていた(安達氏も東北人なのは偶然か)武士です。彼は御家人の間でも人望が厚く、リーダー的存在でもありました。その彼は時宗の死後、自分の孫でもある時宗の息子「北条貞時(さだとき)」を執権に奉じて、鎌倉幕府を実態に近い姿、すなわち“御家人連合政権”の形を強めようと考えましたが、それは得宗家すなわち北条氏の独占力を弱めることにもなり、ここにひと波乱が起きることになります。「霜月騒動(しもつきそうどう)」です。この騒動で安達一族は滅ぼされます。黒幕は北条――得宗――家の“内管領(うちのかんりょう)”言うなれば秘書か執事かといったような地位にいた「平頼綱(よりつな)」です。頼綱は、時宗の生前には付き人のようなものでしたから、得宗家の権威が高まるほどに自分の地位も高まるのです。また、頼綱は北条貞時の乳母の夫でもあるのです。とにかく、この騒動によって北条氏の得宗専制体制はさらに強化されていきます。しかし、結局その平頼綱も後に北条貞時に討たれることとなり、鎌倉政権としては無理がどんどん蓄積されていくことになるのです。

蒙古襲来

 ニワタリ神の始原がいつ頃まで遡るのかは正直なところ掴みかねているのですが、この神がインドの風合いを帯びるようになったのはおそらく密教の影響ではないかと考えております。しかし、この東北地方において密教の波が押し寄せたのは少なくとも3度はあったはずで、そのうちのどれが大きく影響したのかも、これまた掴みかねるところがあります。3度の波というものを私なりに語るならば、最大級なものとしては、政策も多分に含んでいたと思われる――慈覚大師円仁による――天台密教の波ではないかと思われます。
 また、それと競うような真言密教の波もあったことでしょう。
 そして、それからしばらく時を経て、南北朝時代の南朝勢力がもたらしたもの、実は私はこれが最大の黒幕と考えております。
 せっかくなので、しばし東北地方に影響を及ぼした南朝勢力とその時代背景について語っていきたいと思います。
 天皇家が具体的に南・北、二つの朝廷に分かれたのは、西暦1336年に足利尊氏が光明天皇を擁立したことに始まるわけですが、その種は約80年ばかり遡った「後嵯峨(ごさが)天皇」によって蒔かれております。
 後嵯峨天皇は二人の皇子のうち弟の「恒仁(つねひと)」を可愛がっておりました。しかし一応は兄「久仁(ひさひと)」に皇位を継承し、これが「後深草(ごふかくさ)天皇」となります。
 ところが、後嵯峨は、後深草天皇をわずか在位14年で上皇にし、皇位を弟に譲らせたのです。「亀山天皇」の誕生です。後嵯峨天皇(上皇)は、亀山天皇の系統に皇位を継がせていくつもりだったようですが、そのあたりを明確にしないまま崩御してしまいました。おかげでその次代以降に混乱をきたすことになってまいります。
 後に、弟亀山天皇の系統が「大覚寺(だいかくじ)統」、兄後深草天皇の系統が「持明院(じみょういん)統」と呼ばれることの始まりで、執権北条時宗が調停案を出して以降、皇位はこの両統の間を行ったり来たりするものになってしまいました。
 しかし本来時宗はそんなことに気を遣っている場合ではなかったのです。なにしろその頃、日本国始まって以来の最大の国難が迫ってきていたのです。
 「元寇(げんこう)」です。
 元寇――蒙古襲来――は、当時世界最強の蒙古軍「元」が大陸を席巻し、ついには当時世界一の文明国である中国(宋・南宋)を滅ぼし、いよいよ日本に矛先を向けてきたものです。元は一応使者を差し向け、事実上の降伏勧告をしてきましたが、時宗率いる幕府――鎌倉政権――はこれを断固として退けました。
 もちろん軍事政権である幕府が、そのような脅迫に屈することなど出来るわけがなかったとも思いますが、私はここに「蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)」や「無学祖元(むがくそげん)」といった、時宗の師匠らの意思が働いていたと思います。彼らが南宋の禅僧であることは重要な要因であったことでしょう。
 また、おそらくはこの時期、蒙古軍に圧迫されて逃げのびてきた中国人らとともに宋学がバブルの如く輸入されたことは想像に難くなく、それらがこの後現れる後醍醐天皇の思想に大きな影響を及ぼすことになったのだと思います。

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