はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

畿内探索 聖徳太子編

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 実質、日本という国の形が生まれた時代の甚だしい隠蔽と矛盾を覗き見ます。
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 廣隆寺(こうりゅうじ)は、「聖徳太子建立の日本七大寺の一つ」なので聖徳太子が建立ということになるのですが、直接的には、太子から仏像を賜った「秦河勝(はたのかわかつ)」が、それを本尊に建立したということになっております。
 秦河勝・・・。
 結論から言ってしまうと、私はこの人こそが宗教面・文化面での“聖徳太子その人”かと思っております。ちなみに政策、軍事面での太子像は「蘇我馬子(そがのうまこ)」であったと思っております。
 要するに、私達が常識として認識している聖徳太子像は、私は秦河勝と蘇我馬子をミックスしたキャラクターではないかと思っているのです。
 聖徳太子は、実在したとは思うのですが、実在の人物としての太子は、残念ながら私達が思うほどの活躍はしていないと思うのです。研究者諸氏から様々な仮説が挙がるとおり、現実的に聖徳太子が活躍したような明確な証拠、また、実在したという明確な証拠もないのが実情のようです。
 例えば、聖徳太子の功績として有名な「冠位十二階」ですが、家永三郎さんが編者となっている『日本の歴史(ほるぷ出版)』の以下の指摘はかなり重要です。

――引用――

〜よく教科書には、太子は、冠位十二階を定め、氏(うじ)や姓(かばね)にとらわれないで、才能や功労のある人を取りたてようとした、と書き、その目的は、豪族の勢力をおさえて、天皇を中心とする統一国家をつくるためだとするのがふつうである。しかし、これにもいろいろと問題がある。
 『日本書紀』603(推古11)年12月3日の条は、主語ぬきで「はじめて冠位を行う」と書いてあるだけである。『日本書紀』は、聖徳太子がしたことは、必ず「皇太子・・・・・・」と、主語をはっきり書いているのに、冠位十二階のところには、その主語がないのである。だからといって、聖徳太子が関係しなかったとはいえないが、しかし、これまでのように太子が定めたというのは考えなおしてみる必要があるだろう。
 どのような人が、冠位をさずけられたかを調べると、推古の時代には飛鳥大仏を作ったという鞍作鳥(くらつくりのとり)以外は、すべて臣(おみ)・連(むらじ)という姓(かばね)をもった中央の有名な大豪族ばかりである。その後、大化年間まではほぼ40年間のあいだに、少しずつ範囲をひろめていったが、それにしても、氏族や姓にとらわれないで、人材を登用したとはいい切れない。
 ここで、注目すべきは、馬子はじめ蘇我(そが)氏の名が1人もみられないことである。蘇我氏は、別に紫(むらさき)の冠位をもっていたが、これは大臣(おおおみ)の身分にともなう十二階をこえた高い地位である。つまり大臣である蘇我氏には紫冠が、そして冠位十二階は、はじめから蘇我氏をのぞくほかの中央豪族にあたえられたものである。とすると、冠位を制定した主役は、聖徳太子でなく、蘇我馬子と考えられそうである。
〜以下省略〜

 おそらく、そうなのでしょう。書紀では原則として、蘇我氏が悪者になっていてくれなくてはならなかったと思いますので、こういう輝かしい功績については誰か他の人間の功績にしておかなければならなかったに違いありません。300年後の「菅原道真(みちざね)」のケースを見れば容易に想像がつきます。 讒言で大宰府に左遷されてしまった菅原道真の功績は、あたかも「藤原時平(ときひら)」らのもののようにされかけました。
 ただ、道真の場合は左遷地での憤死後、激しくタタリを為しました。それでたまたま後の世で正当に評価されることになったのでしょう。
 道真のタタリはよほど朝廷に恐怖を植え付けたようです。政敵時平は39歳の若さにして死去、その後朝廷内に死者が続出、極めつけは会議中の清涼殿への落雷で、それにより政府要人に多数の死傷者が出ました。
 さすがに朝廷は道真の罪――そもそも無実ですが――を赦免し、最終的には人臣最高位でもある太政大臣にまで昇格させました。流されていた一族も京へ呼び戻されております。なにより北野天満宮を建立して雷神としての道真を祀りました。朝廷の恐怖心をうかがい知れるというものです。現在私達が学問の神様としてお参りできるようになったのも、ひとえに道真が怨霊として暴れまくってくれたから、というのも悲しい話です。一歩間違えば、道真は歴史上の“罪人”として教えられていたのかもしれないのです。実際そのように終わってしまっている歴史上の陰の功労者はまだまだたくさん眠っていることでしょう。蘇我馬子もそのような人の1人だと考えます。ただ、馬子死亡時には特に遺恨もなかったでしょうから、怨霊にもならなかったようです。しかしその子「蝦夷」と孫「入鹿」は十分に怨霊化する要因がありました。事実、死後鬼となって現れていたことが史料で確認できます。

蘇我入鹿殺害現場「板蓋宮跡」伝承地
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蘇我入鹿の首塚
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 また、私が思う“宗教面での聖徳太子”「秦河勝」についても――謎が多いながらも――、実はささやかながら怨霊化したフシがあるのです。

廣隆寺の弥勒菩薩

 今回の旅の最終地として、私は京都の「廣隆寺(こうりゅうじ)」を選択致しました。
 実を言いますと、廣隆寺は当初の予定に入れておりませんでした。京都にまで立ち寄ってしまうと、ついでに立ち寄りたいこところがあまりに増えすぎるのは必至で、とてつもなく巨大な未練を残したまま仙台に帰るハメになる気がしたからです。
 しかし、刺激に満ち溢れた大和路を放浪しているうちに、秦氏と弥勒信仰というものがあまりにも頭の中で大きくなり過ぎてしまい、廣隆寺に行かずにはいられなくなったのです。奈良から、広隆寺を目指したわけですが、途中いかなる魅力的な場所があろうとも脇目もふらず目的地につけるように、断腸の思いで極力高速道路を利用しました。幸い、私のカーナビゲーションのデータは古く、実際にははるかに高速道路が延伸しており、思いのほか短時間で京都市内に入ることが出来ました。
 都市部に入ったからには、やはりカーナビの画面をマメに確認しなければいけません。ふと目に飛び込んできたのですが、困ったことに私のナビは「東寺」に限りなく近いルートを選択してくれておりました。東寺は比較的京都駅に近いこともあり、以前鉄道にて京都を訪れたときには帰り際の最終探索地として予定していたのですが、詰め込みすぎのスケジュールがたたり、時間がおして寄ることが出来ませんでした。結局、駅からうらめしく五重塔を眺めて終わってしまった遺恨の寺でもあります。
 東寺は嵯峨天皇が心の友(?)弘法大師空海にプレゼントしたお寺でして、私が一番見たかったのは密教彫像群による「立体曼荼羅(まんだら)」でした。仏像で曼荼羅を表現していることもすごいですが、大日如来を中心に、その周りをなんと他の如来たちが固めているというから驚きです。その中には阿弥陀如来もいらっしゃるようなのです。大日如来を“如来中の如来”と考える真言密教なのだから当然といえば当然ですが、浄土真宗など阿弥陀如来を信仰する人達がみたら発狂するかもしれない・・・などと、いろいろ頭を駆け巡りましたが、結局ここは涙をこらえて“強い意志をもって”通過しました。
 さて、ようやく廣隆寺に到着しました。
 うれしかったのは、駐車場が無料であることです。今回の旅で立ち寄ったところ全てを記事にはしておりませんが、振り返れば結局結構な数の古寺を見てまわりました。しかし、多くの寺で拝観料のみならず、他に駐車場料金も発生したため、予想以上のスピードで財布が軽くなっておりました。ましてや、私はそこでしか入手できないと思われるオフィシャルな文献等は極力買い求めてしまうため、ここにきて守衛さんに駐車場が無料と伝えられたときには妙に涙ぐみそうになりました(笑)。

廣隆寺南大門
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 では、廣隆寺がどのような寺であるのか、とにかくリーフレットから沿革を読んでみたいと思います。

――引用――

広隆寺沿革
 広隆寺は推古天皇十一年(六〇三)に建立された山城最古の寺院であり、聖徳太子建立の日本七大寺の一つである。この寺の名称は、古くは蜂岡寺(はちおかでら)・秦公寺(はたのきみでら)・太秦寺(うすまさでら)などと言われたが、今日では一般に広隆寺と呼ばれている。
 広隆寺の成立に就いて、日本書紀によると秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子から仏像を賜りそれを御本尊として建立したとあり、その御本尊が現存する弥勒菩薩であることが廣隆寺資財交代実録帳(しざいこうたいじつろくちょう)を見ると明らかである。
 秦氏族(はたしぞく)が大勢で日本に渡来したのは日本書紀によると第十五代応神天皇十六年で、主は養蚕機織(ようさんはたおり)の業であり、その他に大陸や半島の先進文化を我国に輸入することにも努め農耕、醸酒等、当時の地方産業発達に貢献していた。
 我が国に大陸文化を移し産業と文化の発達の源流・経済の中心ともなった太秦の、この広隆寺は、衆生済度の道の探求、仏法への絶対的な帰依、そして“和を似って貴しと為す”平和な世界をめざされた慈悲の権化である聖徳太子の、理想の実現に尽力した秦氏の功業を伝える最も重要な遺跡であり、信仰と芸術の美しい調和と民族の貴い融和協調とを如実に語る日本文化の一大宝庫である。
 広隆寺は弘仁九年(八一八)に火災に遭ったが、秦氏出身で弘法大師の弟子である道昌僧都(どうしょうそうず)によって再興、更に久安六年(一一五〇)にも炎上し、復興された。このように、度々の災禍にも拘わらず、多くの仏像がよく保存された事を思うと、これらの仏像がいかに強い信仰の対象となっていたかが、うかがわれる。

 廣隆寺の歴史のみならず、秦氏がどういう氏族かについても要約されておりましたので、全文引用させてもらいました。
 この沿革の最後にもありますように、とてつもないことと痛感させられるのは、驚くほど多くの――古代の――仏像がここには残っているのです。その中には国宝に指定された二体の「弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)」があるのですが、同じ弥勒菩薩でも全く似ておりません。
 ひとつは百済伝来とされる飛鳥時代のもので、ぱっと見た瞬間私にはいじけているように見えたのですが、その独特の表情から案の定「泣き弥勒」という通称もあるようです。
 そしてもうひとつ、こちらも飛鳥時代のものらしいのですが、とにかく、驚くほど、あの私が惚れてしまった中宮寺の菩薩半跏像と似ているのです。それもそのはずです。谷川健一さんの『四天王寺の鷹(河出書房新社)』によれば――厳密には谷川さんが参照した久野健さんによれば――どうやら中宮寺のそれは廣隆寺のそれを模したと考えられるようなのです。

国宝・重要文化財で満ちあふれそうな「新霊宝殿」
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 それはともかく、その弥勒菩薩像について私には無視できない事実があります。
 廣隆寺沿革に、廣隆寺は「聖徳太子建立の日本七大寺の一つ」とありましたが、実は法隆寺をのぞく六寺――四天王寺・中宮寺・橘寺・廣隆寺・法起寺・葛木寺――全てが、金堂の本尊を「弥勒半跏思惟像」もしくは「弥勒半跏像」を安置しているのです――田村圓澄さん「半跏思惟像と聖徳太子信仰」における指摘――。
 聖徳太子といえば私達の国の仏教のパイオニア的存在です。その太子が弥勒菩薩を選んでいるのです。一般的には仏教といえばお釈迦様だと思いますので、どうやら他に何か思惑があるようでしょう。
 ちなみに唯一弥勒菩薩を本尊としていない法隆寺は、穏当(?)に「釈迦如来」が本尊ということになっております。
 しかし、前にも触れましたとおり、そもそも法隆寺の金堂には本尊らしき如来として、釈迦如来・薬師如来・阿弥陀如来の三尊が並立しております。そのうち、釈迦如来と薬師如来においては、実際的に区別しづらい様式になっておりますので、また別な意味で不思議なのです。
 
 太子は何故「弥勒菩薩」を好んだのでしょう。

王陵の谷の太子廟

 大阪府南河内郡太子町は、古代、難波津と飛鳥京を結ぶ最古の官道・大道――竹内街道――が横断するヤマトの玄関口でした。この太子町には「竹内街道歴史資料館」なる資料館もあり、もちろん見学してまいりました。我が故郷にも「東街道歴史資料館」のようなものがあったらなあ、などとうらやましく感じたりもしながら、相変わらず関連文献などを不用意(?)に買い求めてしまい、だいぶ金子を浪費してしまいました。
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用明天皇陵
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推古天皇陵
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 この竹内街道は、シルクロードの終着点としての外交的文化的側面の他、用明天皇や推古天皇といった飛鳥時代の著名な為政者たちの陵墓も連なり、「王陵の谷」などと呼ばれる葬送の道でもありました。
 司馬遼太郎さんの母方の実家はこの街道の葛城峠を越えた奈良県側あたりらしく、司馬さんは幼い頃その家に預けられていたようなのですが、家の裏には地元の人が「“長髄彦(ながすねひこ)の墓”だ」と言ってはばからない「しょうむない丘」があるのだそうです。その一事からしても歴史の厚みを感じざるを得ませんが、残念ながら今回はその話を旅の道中に突然思い出したので、その「しょうむない丘」の場所を探さずに通過してしまいました。帰宅後ネットで調べてみたら、私は限りなくそこに近い場所を通過していたようで、事前調査不足を大変悔やんでおります。次回は必ずこの目で確認してこようと思っております。※確認済み
 さて、聖徳太子の陵墓と伝わる「磯長廟(しながびょう)」も、大阪側ですがその竹内街道沿線、先に述べた「王陵の谷」にあります。「磯長山 叡福(えいふく)寺」というお寺はその陵墓を祭祀守護する役割を果たしており、それを中心としたこのあたりは太子信仰の一つのメッカでもあるようです。
磯長廟
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 さて、太子の墓と言われるこの磯長廟ですが、少々妙な点があります。まずは叡福寺の縁起の一部をご覧ください。

――引用――

〜 境内北方の高所に営まれた磯長墓は、推古二十九年(六二一)崩御の聖徳太子の生母穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとこうごう)、翌年二月大和斑鳩宮(やまといかるがのみや)において、時を同じくして、亡くなられた聖徳太子、同妃膳部大郎女の三人が一所に葬られているところから、三骨一廟(さんこついちびょう)とよばれ 〜

 聖徳太子は、単独ではなく母親と妃とともに葬られていると言うのです。前に少し触れましたが、井沢元彦さんは著書の『逆説の日本史(小学館)』において、このことから聖徳太子が怨霊であったというアプローチをしておりました。井沢さんは古代埋葬の習慣である「殯(もがり)」に注目して、その期間の長さでそれが怨霊候補であったかどうかを推測できるというのです。殯については『日本史広辞典(山川出版社)』では以下のように説明されております。

――引用――

もがり【殯】荒城(あらき)とも。古代に行われた喪葬儀礼の一つ。人の死後、埋葬までの間、遺骸を小屋などに安置し、近親らが奉仕する。六四六年(大化二)の薄葬令以降、王以下庶民の殯は禁止された。天皇の殯は、六世紀以降、中国の殯(ひん)礼の影響をうけて儀礼化したが、仏教の喪葬儀礼や火葬の普及のため、文武天皇を最後に行われなくなった。

 井沢さんは、殯には儀礼的宗教的意味合いの他に、陵の造成期間という実質的な目的もあったと説明しております。それが何故怨霊の“リトマス試験紙”になり得るかというと、その造成期間も待てずに早く埋葬してしまいたいという心理が関係するからです。怨霊候補の遺体は、既に出来上がっている誰かの墓に合葬する傾向があったようです。
 なるほど、その死者に対して後ろめたい気持ちがある人物にしてみれば、遺体が墓に葬られずにいつまでもその辺に置かれていたのではとても落ち着かないことでしょう。とにかく早く供養しなければ恐ろしくてしかたありません。
 もちろん、その場合でも合葬の相手は選ばなければなりません。その異常な死を遂げた人物にとって一緒に葬られても納得のいくような人物の墓でなければ、尚更その死者の怒りを買い兼ねないからです。
 なるほど、磯長廟の聖徳太子はこれにピタリとあてはまるようです。太子の命日に関しては諸説あるのですが、命日から埋葬までの殯の期間は長く見ても25日ほどのようで、とても陵を造成している時間はないようです。
 井沢さんはこのことと、“徳”の一文字が贈られた人物が往々にして“無念な死”を遂げていることを例にあげ、ましてや聖徳太子においては最大級の賛辞といえるような「聖徳」という命名が贈られていることから、「聖徳太子が怨霊である」とされておりました。
 ところで、他にももう一つ奇妙なことがあります。太子と一緒に埋葬された膳部(かしわで)妃は、三人いたという太子の妃のなかで最も身分が低いのです。しかも、先に引用した叡福寺の縁起からもわかるとおり、この妃は太子と「時を同じくして、亡くなられ」たとのことで、どうやら太子はこの妃と心中されたようなのです。このことは『太子伝暦』に書かれております。
 井沢さんは、急いで埋葬されたことについてはちゃんと触れている『日本書紀』が、「心中」や「合葬」について触れていないのは、「この事実を隠そうという意図があってのことだろう」としております。更に、『太子伝暦』は太子を賛美するために書かれた伝記であるはずなのに、このような不名誉なことをあえて書いているのは、やはりそれが事実であったからであろうとしております。
 なるほど納得です。
 それが真実であれば、巷に言われる“聖徳太子キリシタン説”はここに破綻することになります。何故ならば、キリスト教の熱心な信者であれば、“主”――造物主・創造主――からもらった命を勝手に終わらせることは絶対に許されないからです。
 余談ながら、もし聖徳太子の夫婦心中――自殺――が真実であれば、当然私の仮説――太子幼年期夭折説――も破綻します。それについては、いずれあらためて私なりの解釈を述べてみたいと思います。
 前回、賢しらに蘇我氏の系譜云々とは書いたものの、血統でそのまま対立関係を考えてしまいますと、時折思わぬ落とし穴にはまることがあります。
 例えば、蘇我倉山田石川麻呂のように、蘇我氏内部でも裏切りがあるわけですし、同じ蘇我氏でも物部氏との姻戚関係につらなる系譜もあるわけです。
 なにしろ、イメージ的に蘇我氏筆頭でもある蘇我馬子自体、その妻がライバル物部守屋の実の妹です。
 「蘇我」対「物部」の構図を「仏」対「神」の対立などと解釈しようものなら、神を厚遇する蘇我氏や、仏を厚遇する物部氏というシチュエーションに出くわしたとき、築き上げた仮説の全てが一瞬にして崩れ去ります。
 「蘇我」対「物部」の構図は、どちらかというと物部内部の相続問題に起因するものと考えた方がよさそうです。厳密に言うと蘇我馬子夫人が守屋の財産を狙ったが為に勃発した戦という可能性が高いようです。
 結局守屋に勝った馬子は、その財産を手に入れることが出来ました。
 前にも少し触れましたが、四天王寺は、どうも守屋の邸宅だった可能性が高いようで、だからこそ、そこには守屋祠なるものが鎮座しているのでしょう。
 つまり後に藤原氏がそうなったように、蘇我氏も物部氏の怨霊に怯えていた可能性はあったのかと思います。法隆寺の資財帳によれば、法隆寺の寺領には分配された守屋の資産もあったようです。考えようによっては、法隆寺自体も物部守屋の怨霊を意識する部分があったのではないでしょうか。
 飛躍した妄想ですが、蘇我氏と物部氏の対立自体も中臣氏――藤原氏――の策略であったのでは、と考えてしまうこともあります。これは全く裏をとっていないので、完全に私の思いつきの妄想として読み流してもらって構わないのですが、もしかしたら、渡来系――おそらく――である中臣氏は、同じ渡来系の秦氏とヤマトの摂政(?)の地位を巡って競合していたのではないのでしょうか。
 有力氏族である物部氏や大伴氏にうまく取り入って軌道に乗りつつあった中臣氏は、新興勢力の蘇我氏と組むことによってにわかに権力を増してきた「秦(はた)氏」にあせりを感じたのではないのでしょうか。まさか蘇我氏が軍事を司る物部氏に勝てるとは思わなかったでしょうし、その誤算から陰謀の上塗りが始まったのではないでしょうか。
 さて、妄想はここまでにして――全編が妄想みたいなものですが――、今回の旅の道中、長屋王の系譜を考えていたときに、ふと頭をよぎった件がありましたので挿入しておこうと思います。
 最近、ネット上でいろいろ調べていて、天武天皇の正体は「漢皇子(あやのみこ)」ではないかという説に度々遭遇しました。別に今回初めて目にした説でもないのですが、それを“妄誕”として一蹴する反対者の書き込みなどもなかなか攻撃的で、まるで普段の自分自身が攻められている気分になりました(笑)。
 それはともかく、その漢皇子がどういう存在かといいますと、彼は、天智・天武天皇の母親である宝皇女、すなわち斉明天皇――皇極天皇――と舒明天皇以外の男(前の夫)との間に生まれた皇子ということになっております。要するに天武天皇は天智天皇と異父兄弟だという説ということになります。私はこの説に対し、特に支持でも不支持でもなく、その可能性もないとは言い切れないのではないのかなあ、という卑怯な立場です(笑)。
 それよりも、その“前の夫”が気になります。前の夫の名は「高向(たかむこ)王」といい、『日本書紀』によれば、用明天皇の孫とのことです。
 ちなみに『救世観音像封印の謎(白水社)』の著者、倉西裕子さんはこの高向王を救世観音像のモデルの筆頭候補にあげておられました。なるほど納得できると思いましたが、その理由は同書を読んでいただくとして、倉西さんはその著書の中で『本朝皇胤紹運録』という後小松天皇勅の系図をとりあげて、そこには「高向皇子――高向王――は用明天皇の孫ではなく皇子である」という説があることを紹介されておりました。日本書紀が高向王の父の名に触れ得なかったことと、この系図の遠まわしな記述から、それが聖徳太子自身である示唆を含むことはあり得るでしょう。
 そこで思い出したのが、前にご紹介した宮城県南の白鳥伝説です。


 伝説が聖徳太子あるいは高向王の誕生秘話かどうかはもちろんわかりません。しかし、それらを示唆するものとは十分考えられます。
 一方、倉西さんは、高向王の出自を九州筑紫の宗像君に求めておりました。私もそれが説得的だとは思うのですが、それであれば本来九州にあるべき逸話が、何故この宮城県南部にあるのか・・・。少々思うところはあるのですが、いずれ別の機会に触れたいと思います。

宮城県白石市「児捨川(こすてがわ)」
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旧国道4号にかかる「児捨川橋」
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児捨川橋では縁起が悪いというので新しい国道の橋は「白鳥橋」になりました。
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夢殿建立の背景

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 今、私の手元には山川出版社の『山川日本史総合図録』というものがあり、その巻末にある年表を開いてみました。すると、夢殿建立の2年前に“あの事件”がありました。
「藤原不比等の4子死去」
 そうです。多くの学者も認めるところの“長屋王のタタリ”が爆発していた頃なのです。念のため「長屋王の変」と呼ばれるこの事件について、やはり山川出版社の『日本史広辞典』から引用しておきます。

――引用――

ながやおうのへん【長屋王の変】奈良前期の藤原氏による政敵排斥事件。藤原不比等(ふひと)の没後、長屋王が太政官の首班になるが、七二九年(天平元)二月中臣東人(なかとみのあずまひと)らが王の謀反を密告し、藤原宇合(うまかい)らが王の宅を包囲した。舎人(とねり)親王らの審問ののち王は自殺し、正室吉備内親王とその子も自殺した。変の背景には、その直前に聖武天皇の夫人藤原安宿媛(あすかべひめ 光明子)所生の皇太子が夭折し、もう一人の夫人県犬飼広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)が安積(あさか)親王を出産したことがある。藤原氏は安積の即位阻止のため安宿媛の立后をはかり、その障害になる王を排除したと考えられる。皇女を母にもつ長屋王の血統から、大化前代の皇位継承原則に照らすと、宮子所生の聖武天皇に劣らず長屋王の即位がありえたことも要因であろう。

 この陰謀の後、平城京では疫病が猛威をふるい、なんと言っても陰謀の主犯格であった藤原不比等の4子が次々と死んでしまったのです。こんな偶然が起きたなら現代人でもタタリを疑ってしまうのではないでしょうか。
 山背大兄王一族殺害事件、すなわち聖徳太子一族の滅亡から100年も経過して、急にその縁の地で夢殿が建立されたのは、おそらく、この長屋王がタタリを為した――と思われた――ことと無関係ではないでしょう。この事件があったればこそ東大寺や国分寺が発願されただろうことは前にも触れました。
 それにしても、屋上屋を重ねることになるかもしれませんが、何故長屋王のタタリを封印するために斑鳩宮――聖徳太子の宮殿――が選ばれたのでしょうか。そもそも長屋王とはどういう系譜の皇族だったのでしょうか。
 前述辞典の長屋王の項によれば、長屋王は天武天皇の孫で、高市皇子(たけちのみこ)の子ということになりますが、問題は母系です。
 同辞典では「母は天智天皇の子で元明天皇の姉御名部(みなべ)皇女か」とあります。しかし、肝心な「御名部皇女」の項がありませんので、同辞典からでは今ひとつどのような系譜かが確認できておりません。少なくとも元明天皇――妹――の母は『続日本紀』などから「蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)」の娘「姪娘(めいいつらめ)」ということが確認できておりますし、同辞典でもそうなっております。また、ウェブ上の百科辞典『ウィキペディア』では、御名部皇女が元明天皇の“同母姉”ということになっておりましたので、一応信用していいと思うのですが、それを信用するならば、長屋王は“蘇我系の皇族”だったということになるのです。
 ところで、その曾祖父――蘇我倉山田石川麻呂――の“死に様”も妙です。石川麻呂といえば、従兄弟である蘇我入鹿が謀殺される、いわゆる「乙巳(いっし)の変」の際、偽りの外交儀式にて暗殺の合図となる「三韓進調」を読み上げていた人物です。その後、その功により改新政権で右大臣に任命されたものの、結局、讒言によって天皇から兵が派遣され、妻子とともに自殺するハメになりました。全く救いようの無い最後ですが、おそらく全てが中大兄皇子と中臣鎌足最強タッグの筋書きどおりで、石川麻呂は入鹿をおびき出すために利用されただけなのでしょう。追い詰められて妻子もろとも自殺というと、心なしか、山背大兄王に似た最後に思われます。
 ともあれ、「長屋王の変」がこの救世観音の封印となんらかの因果があるとすれば、タタリへの恐怖心以外には考えられません。蘇我氏排斥の最後を飾ったとも言えそうな「長屋王の変」でしたが、その直後、藤原一族はたたみ掛けるようなタタリに襲われました。そのことがこの時期この場所に救世観音を封印する理由になったのではないかと思います。
 では、救世観音のモデルは長屋王だったのでしょうか。いえ、それはないと思います。何故なら救世観音そのものは飛鳥時代まで遡れる作品のようなので、長屋王が生まれる前に彫られていたと考えられるからです。
 しかし、おそらくは、用明天皇ら皇族を含め、蘇我氏系の誰かがモデルであることには違いないのではないかと思っております。彫像の当初は秘仏でもなんでもなかったのかもしれません。当初は、そのモデルが誰であるのかは衆目の一致するような仏像だったのかもしれません。その後布でグルグル巻きに封印されたのが夢殿建立当初からなのかいつからなのかはわかりませんが、おそらくその姿は、藤原氏が後ろめたさを感じる何者かにあまりにもそっくりだったのではないのでしょうか。そして封印されると同時に、当初の名前は消され聖徳太子像ということに変えられたのではないでしょうか。私は、聖徳太子にまつわる一連の功績や悲劇は、そのほとんどが歴史から隠蔽されかけた蘇我氏の系譜に起こったものの仮託ではないかと考えているのですが、この救世観音封印の件もそれを想像させるもののようです。

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