はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

畿内探索 聖徳太子編

[ リスト | 詳細 ]

 実質、日本という国の形が生まれた時代の甚だしい隠蔽と矛盾を覗き見ます。
記事検索
検索

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 前のページ ]

 天武天皇に対する持統天皇の思いというものは、実際には“夫婦愛”などという甘いものではなかったようです。もちろん私も出来れば薬師寺は美しい愛の結晶であってほしいとは思っております。しかしどうしても先にうさんくささがにじみ出て感じられるのです。

天武・持統陵
イメージ 1
イメージ 2

 持統天皇は皇位継承に際して、天智系から天武系へと入れ替わった血の流れを、すべからく自分の血の流れに持ち込もうと考えていたようです。なにしろ、持統天皇は天武天皇の妻である一方で、その敵、天智天皇の娘でもあります。なにかしら思うところはあったのではないでしょうか。そこに復権を狙う藤原氏の諸々な思惑も絡み合い、平城遷都の青写真にもその思惑は予め組み込まれたと考えられます。
 ただ、そんなこととは無関係に薬師寺は美しいのです。
 その薬師寺で、ほう、と偉そうに感心したことがありました。正面の南門、中門をくぐって順路どおりに金堂に入ると、有名な白鳳時代の薬師三尊像と遭遇するのですが、その後そのまま順路どおりに進むと金堂の北側にある講堂に至ります。そこには薬師三尊像に決してひけをとらない、やはり白鳳時代の「弥勒(みろく)三尊像」がありました。

弥勒三尊像が安置されている薬師寺講堂
イメージ 3

 弥勒菩薩といえば、前にも触れましたが、56億7千万年後に、釈迦の次の「如来(にょらい)」になり、釈迦の救いに洩れた人々をことごとく救うことが約束された「菩薩(ぼさつ)」です。釈迦の高弟「迦葉(かしょう)」は、56億7千万年後に如来となって下生するはずの弥勒菩薩に、釈迦から預かった法衣を渡すために「鶏足山(けいそくせん)」にてその日を待つことを決意するのでした。その故事が陸奥国のニワタリ信仰にもなんらかの影響を与えたのではないかという推測も、前に述べました。
 それはともかく、この薬師寺で私は驚き、そして感動したのです。よく見ると弥勒像には「弥勒菩薩(みろくぼさつ)」ではなく「弥勒如来(みろくにょらい)」と書かれているではありませんか。ここでは弥勒がもう菩薩ではなく“如来”になっているのです。
 どうやら、私は薬師寺の金堂をくぐった後、56億7千万年後の世界に来てしまったようです。薬師寺は門をくぐり金堂を抜け講堂に至るとき、タイムマシンを用意したかのような造りになっているようです。

薬師寺境内図
イメージ 4

 この講堂に弥勒三尊像が安置されていることについて――現地で買い求めた――ガイドブックの説明は以下のとおりです。

――引用――

平成の弥勒三尊修復により、仏様自体は創建時の白鳳時代の仏様であることは確認されています。その後西院伽藍弥勒堂の本尊として安置され、近世になって尊名を薬師三尊として旧講堂にお迎えしましたが、平成の復興に併せて弥勒三尊としてお帰り頂きました。


 どうやら、現在のこの驚愕の配置は平成になってからのものであり、その前には「西院伽藍弥勒堂」にあったということですから、かつては中心伽藍の西側に“現存していない伽藍”があり、そこに安置されていたということになります。
 しかし、このガイドブックの文章だけでは当初からそこにあったのかどうかもわかりませんし、やはり当初から弥勒“如来”だったのかどうかもわかりません。個人的には、当初から現在のとおりであったのならすごい話だ、という――なかば欲望的な――感情があります。しかし、その感情を置いても私は、これは当初の建立理念に基づいた伽藍配置に違いない、という一つの確信があります。何故なら、この配置は十分に持統天皇の思いを表現出来ているからです。
 この伽藍は、現在中心になっている仏の後に未来の仏――菩薩の未来の姿――が現れる構図になっております。その未来の仏とは何を意味するのでしょうか。これは天武天皇亡き後の持統天皇――及びその血統――を置いて他にはないと思うのですが、いかがなものでしょう。
 それにしても見事に考えられた配置です。
 ところで、弥勒菩薩(如来)については、この後旅の道中で――別な角度ながら――ずっと私の脳裏で引きずり続けることになるのでした。
 そもそも、薬師寺は何故“薬師”なのでしょうか。
 そんなことは本尊が薬師如来だからに決まっているではないか、という答えが返ってきそうですが、私が気になるのは、何故その本尊に――例えば釈迦如来ではなく――薬師如来が選ばれたのか、ということです。
 縁起上では、持統天皇が病に伏したおりに、天武天皇が病気平癒を祈願し発願したから、ということになっておりますので、その意味で薬師如来を本尊にした、というのは極めて自然で矛盾もないのですが、これが藤原京を代表するような“限りなく私寺的要素をもった公共事業”であったことが私を迷わせるのです。「愛の寺」というのは微笑ましくて実によろしいのですが、これだけ大きいものを発願するには、それなりに世論が納得するような理由も必要かと思います。例えば後の東大寺や法華寺を初めとする国分寺(尼寺)も、実際には聖武天皇が、自分の呪われた血に悩み苦しんでいる光明皇后のことを思いやり、それこそ“愛”の気持ちから発願した部分もあると思うのですが、それでも一応は「国家鎮護」なり「滅罪」なり大義名分を持ち合わせておりました。
 もちろん薬師寺は東大寺を初めとする諸国国分寺ほどの大きなプロジェクトでもありませんし、まして藤原京時代のそれは平城京のそれほどは大きくもなかったのでしょうが、それでも首都の限りある一等地の、極めて貴重な一ブロックまるごとを割いて豪華極まりない伽藍と仏像を配する、実に贅沢な公共事業なのです。 
 ひとつ思い当たるとすれば、前に、陸奥国分寺の地に現在は薬師堂が祀られている件について触れました。私は薬師如来が持つ意味というものは、現在私達が考えるようなその言葉どおりの医学的な仏様というよりも、本地垂迹に基づく「少彦名(すくなひこな)」の神様が持つ“国土開拓”の意味合いが含まれていたのではないかと思うのです。
 少彦名は「大国主(おおくにぬし)」と共に日本の国土開拓に活躍したことになっている、いわば先住民族を代表するような神様です。それであれば、藤原京にしても平城京にしても、京を建設する際に重要視されることは納得できると思うのです。
 ましてや、藤原京は、日本最大級の祟り神「大物主(おおものぬし)」が三輪山から常に睨みを利かせている場所に展開しております。この大物主の正体については、少彦名であるとか大国主であるとか、はたまた「饒速日(にぎはやひ)」であるとか、とにかくいろいろと取り沙汰されておりますが、いずれも先住民族の雄であったことは間違いないでしょう。その地に京を開こうとする為政者が、そのような神様を意識しなかったわけはありませんので、私は薬師如来にはそのような思惑も仮託されていたものと考えます。

三輪山
イメージ 1
三輪山から望む藤原京方面(畝傍山手前あたり)
イメージ 2


 後年の東大寺や国分寺の建立趣旨から思うのですが、聖武天皇と光明皇后にもその基本的な意志――寺院建立による先住信仰慰撫の精神――は受け継がれたのではないでしょうか。
 今回の旅では、谷川健一さんの『四天王寺の鷹(河出書房新社)』と、梅原猛さんの『隠された十字架(新潮文庫)』、そして土門拳さんの『古寺を訪ねて 斑鳩から奈良へ(小学館文庫)』をガイドブック代わりにしておりましたが、最も訪れたかったのは「法隆寺(ほうりゅうじ)」でした。私があらためて触れるまでもなく、法隆寺の謎については多くの識者の各々の見解があるようですが、ミステリー性においてその衝撃的なパイオニアは梅原さんの『隠された十字架』なのではないかと思っております。
 ふと、今回の旅のガイドブック(?)の著者を振り返るに、谷川健一さんは民俗学者であり地名研究家、梅原猛さんは哲学者、土門拳さんは写真家、と、一人として歴史学者がいないことに気づきました。決して歴史学者が悪いと言っているわけではありません。かくいう私も、大学では実は史学科を卒業しております。とは言え、当時の専門は“地理”であり「歴史を専攻した」という自負心にはだいぶ欠けておりますが・・・。 ただ、少なくとも歴史専門の諸先生方々の教えを聞ける立場にはあったことも事実です。
 歴史学者はある種裁判官みたいなところがあって、史料で実証されないものについては決して有罪(?)判決を下しません。その姿勢はとても重要なのですが、その反面、想像を張り巡らすことに対して抜群に効きのいいブレーキをも持ち合わせていらっしゃるものですから、案外真相に迫れない側面も持ち合わせているような気も致します。
 もしかしたら歴史作家の方々のほうがよっぽど歴史の真相に近い位置にいるのでは、と感じることも多々あります。いずれにせよ、私のような素人がこのようなブログを立ち上げて世に荒唐無稽な妄誕めいたものを簡単に振り撒けること自体が問題かもしれませんが(笑)。
 さて、一日を有効利用すべく、朝7時30分には興福寺付近にある宿を出た私は、一路法隆寺に向かいました。ところが、カーナビゲーションが、「大安寺」から「薬師寺」・「唐招提寺」付近を経由するルートを示してしまったため、大きな迷いを生じることになりました。「まあ、ここでこれらに立ち寄ったところで、午前中には法隆寺も制覇できるだろう」と、ナビの誘惑に負けた判断を下し、結局大安寺と薬師寺には立ち寄ることにしました。
 何故この二つの寺に立ち寄ったかといいますと、平城京を普請する際、最も優先的に配された寺のひとつ(二つ)だと思うからです。当然そこには平城京遷都自体も含めたなんらかの政策的意味があったはずです。

大安寺
イメージ 1
イメージ 2


 これらは、聖徳太子との関連が直接的ではないものの、少なくとも大安寺については、建前上ですが聖徳太子の仏法思想を受け継ぐものとして建立されたものといいます。大安寺は、元々は「大官大寺」といい、一応は太子薨去時の発願遺言がのびのびになっていたものを天武天皇の代にようやく実現したとするものです。
 これは、蘇我氏滅亡により勢いが衰えたとはいえ、対外交易にも利があり、かつまだまだ影響力の強かった崇仏派の勢力を囲いこむ政治的意図があったことは明白で、聖徳太子の意思といいつつも事実上仏法の保護者であった蘇我氏が築き上げた果実を得んとするものであったことでしょう。
 推測ですが、ひょっとしたら天武天皇には蘇我氏の築いたものを正統に継承する意思もあったのではないかと思います。しかし、天武崩御後、天智系――厳密には藤原氏――の力が復活するや、それらの寺は平安遷都に伴う移転をもって、益々蘇我氏の功績の略奪兼抹殺を促進させる遺物と化したようにも思うのです。
 大安寺と薬師寺は、一応はペアです。大安寺は元の「大官大寺」という名のとおり、聖徳太子の意思を継ぐ天武天皇の公の寺であり、梅原さんの言葉を借りれば国家の父なる寺とされ、薬師寺は持統天皇の悲しみの内面に基づく天武・持統夫妻の“愛”の寺、言うなれば母なる寺とされていたようでした。

薬師寺金堂
イメージ 3
薬師寺西塔
イメージ 4
薬師寺東塔
イメージ 5
 もちろん、私が訪れた薬師寺は平城京の“世界遺産”のそれであって、本来のものは――大安寺もですが――藤原京に建立されております。
 薬師寺は天武・持統天皇の合作であるとも、天武天皇の崩御の悲しみによって持統天皇が単独で建立したものともいいますが、いずれにせよ天武天皇はその完成した姿を見ずに崩御しております。

四天王寺

四天王寺における太子信仰の中心「聖霊院」
イメージ 1
イメージ 2

 谷川健一さんの著書『四天王寺の鷹』にある学僧M師の話によれば、
「四天王寺には守屋に仕えた者たちで、守屋の廃死後、四天王寺の奴婢になった連中の末裔が、今なお四天王寺でいろいろな仕事についており、それらの人々は公人(くにん)と呼ばれております。その中の公人長者はとくに四天王寺の大祭の聖霊会には欠かせない役柄です」
ということです。
この話を聞いた谷川さんは、
「歴史は一過性の過去のものと見られている。しかしそれに訂正を迫る途方もなく、長く持続する連続体がここに現れた」
と驚きを表現しておりました。
 また、M師は金堂を指差し次のような話もされたようです。
「金堂の破風に緑色の欄干が見えます。その傍に、やはり緑色で描いた冂の形をしたものがあるでしょう。あれが鷹の止り木なのです」
 前に、宮城県の大高山神社の縁起などから、聖徳太子と鷹や白鳥の関係を触れておきました。その際、この四天王寺には物部守屋が悪禽となって来襲し多大な損害を与えたという伝承と、それを聖徳太子が白い鷹となって追い払ったという伝承にも触れました。その“鷹”の止り木が金堂に表現されているというのです。私は、金堂よりも先に聖霊院を訪れたので、そのうちに夕方4時を過ぎてしまい中心伽藍に入ることが出来ませんでした。おかげで残念ながら金堂のそれを確認することができませんでした。
 尚、これら四天王寺の謎については、谷川健一さんが三つの謎として提起されておりましたので、以下にそのまま引用いたします。

――引用――

第一は守屋が啄木鳥となって攻め、聖徳太子が白鷹となって防いだという伝承があり、その証拠が今も金堂の破風に冂の形で残っていること、第二に守屋の祠がながくその奴婢の末裔の人々によって祀られていること、第三に守屋の奴婢が公人として現在も四天王寺に暮らしていること、である。


 日本書紀の祟峻天皇即位記に、「大連の奴(やっこ)の半と宅を分けて、大寺の奴・田所とす」とあります。つまり、物部守屋の討伐後、守屋の従臣や不動産といったいわば戦利品を、四天王寺の財産として分けた旨が記載されております。四天王寺御手印縁起にはもう少し細かく「子孫従類二百七十三人為寺永奴婢。没官所陵田園拾捌万陸仟捌佰玖拾代、定寺永財畢。・・・」とあるようですので、ここに守屋の末裔の方々がいらっしゃることについては目新しいことでもないのでしょうが、谷川さんが言うとおり、歴史の世界からの連続体として現在の私達の目の前にそれがあること自体に感慨の深さを噛みしめざるを得ません。
 ここで、あらためて私の聖徳太子についての仮説を述べておきたいと思います。
 まず、聖徳太子が実在したか否かで言えば、私は実在したと思っております。
 しかし、聖徳太子は幼くして薨去(こうきょ)、あるいは水子であったような気がしております。したがってその功績と伝わるものは、おそらくは他の何者か、特に蘇我馬子の功績ではなかったかと思っております。それにしても、その場合に気になっていたのは太子16歳像にはどんな意味があるのかということでした。おそらく3歳未満の童子像であれば、それが実際の太子の姿だったとは思うのですが、16歳という少年へと成長した太子にはどんな意味があるのか。一応は物部守屋に戦勝したとされたときの姿であったのだとは思いますが、それが太子の誕生日から数えた実際の年齢であったと考えるのが穏当なのか・・・。ひょっとしたらそもそも“16歳ありき”でその逆算から誕生日を決定されたこともあり得るのかもしれないとも思いました。それは、今回の旅でそう感じ入る部分があったからです。それについては後に述べますが、とにかく、この四天王寺で思ったことは、本当はこの寺を誰が造営したのかということです。
 この地――厳密には四天王寺が現在の地に遷される前の場所――には、物部守屋の邸宅があったといいます。この寺が物部守屋の鎮魂の寺であったことは、これまで述べてきたことからもほぼ確実かと思うのですが、物部守屋の御霊を、その臣の末裔をもって代々鎮魂せねばならなかったのは誰でしょうか。少なくともそれが聖徳太子ではないだろうと思っていることは今述べたとおりですが、そうすると単純に蘇我馬子なのでしょうか。
 それについては、他の聖徳太子ゆかりの地を巡りながら考えていきたいと思います。

聖徳太子の影を追う旅

 畿内はいつ訪れても思うのですが、とにかく私が知りうるキーワードだけでも数え切れないほどに満ち溢れ、ある程度テーマを限定してかからないと消化不良を起こしてしまいます。畿内には古代なら古代、中世なら中世、幕末なら幕末、といったように、どこの時代を切りとっても存分な見所があり、もっと言うならば古代なら古代でも「どの事件を中心に見るか」ということまで絞らないと、よほど滞在期間を長くとらなければなりません。例えば宮内庁管轄の陵墓を東北地方内で探してみたところで、山形県の羽黒山にある「蜂子皇子の墓」くらいしか思いあたりませんが、奈良県内を移動していると“これでもか”という程有名な天皇の陵墓が目に付きます。やはり、限られた時間と予算で探索するには、ある程度特定の事件なり人物なりについて考える、というような細かいところまでテーマ設定をする必要があるのかなと思います。もちろん、普通に「世界遺産をまわるんだ」という観光も“あり”ですが、残念ながら私の場合は不器用なので、それをやると熟考の余地もなく移動せざるを得ないために好奇心の空腹感を満たされないか、あるいは逆に情報が多すぎてすぐに容量オーバーになってしまいます。せっかく訪れたならいろいろ見てまわりたいですし、大勢で訪れる場合にはむしろその方がいいのですが、どうもスタンプラリー的な旅になってしまいがちで、少なくとも私個人の旅においてはなるべくそういう選択を避けることにしております。偉そうに言いつつもだいぶスタンプラリー(?)に後ろ髪はひかれますが(笑)。

 今回は高速道路のETC深夜割引をフルに利用した、“自家用車での畿内探索”という初の試みを決行致しました。初日、夕方遅くに到着予定だったので本来奈良の宿に直行するつもりでしたが、思ったより早く午後3時30分くらいに大阪市内に到着できましたので、翌日の行程を楽にするためにも今回探索予定地唯一の大阪市内「四天王寺(してんのうじ)」をクリアしておこうと考えました。
 今回何故奈良に宿をとったのかと言いますと、これまで、飛行機と宿泊をセットにした格安パッケージを利用して、大阪市内に宿をとることがほとんどだったのですが、そのために散々失敗した経験があるからなのです。全般的に私の旅は公共交通機関では不便なところが多く、基本は自動車による行動が多くなるのですが、大阪市内を拠点に動くと、恐ろしい渋滞にはまり、それはすなわちレンタカーの延長料金が発生してしまうハメにもなります。そうなると、道中そのことが頭から離れず時間ばかり気になって落ち着いて探索できないのです。大阪拠点方針は、夜の行動については不自由しないのですが、目的がそちらではありませんので今回はあえて奈良に拠点を構えました。結局、自家用車だからあまり関係もないのですが・・・。
 さて、四天王寺を歩いてみます。まずは、現地で買い求めたリーフレットにある縁起をご覧ください。

――引用――

今を去ること千五百年
五三八年に 仏教 が遠く天竺より唐国を経て日本に伝来した
新仏教 仏教 を指示する蘇我氏と日本古来の宗教を推す物部氏の二大豪族の狭間で
弱冠一六歳の聖徳太子は 仏教 を支援し
仏の尖兵である四天王に祈願して戦いに勝利した

その喜びに建てられたのが四天王寺である
この地は大阪湾の入口に当たり交易の要所として飛鳥京と密接な関係を保ち
且つ外国に対して国威を示すのにも格好の地であった
四天王寺は四箇院制度の下広く一般民衆に手をさしのべ
太子信仰の拠点となると同時に庶民救済の中心地ともなるのである

爾来四天王寺は日本仏教最初の大寺として復興を繰り返し
今日なお創建当時と同じ伽藍配置で多くの庶民に親しまれ
「大阪の仏壇」の名で親しまれている


イメージ 1
イメージ 2
イメージ 3


 この縁起によれば、四天王寺とは、聖徳太子が四天王に戦勝祈願をし、また、それに勝利をした喜びで建立されたものということです。もちろん、その戦は蘇我氏と物部氏の戦です。あらためて言うまでもないのですが、聖徳太子は仏に祈願したわけですから、縁起に明記はされておりませんが、敵は日本古来の宗教を推す物部氏だったわけです。もちろん、これは歴史の授業で覚えた基本的な話と一緒です。この蘇我氏とは特に「蘇我馬子(うまこ)」、物部氏とは特に「物部守屋(もりや)」のことを指しますが、現地にて、ひとつとても気になることを紹介しておきます。おそらく一般の参拝者はあまり気づかないと思うのですが、この四天王寺境内には、「守屋祠」なる小祠がひっそりと祀られているのです。私が訪れたときには、夕方だったからかも知れませんが、立ち入りが出来ないようになっておりました。

守屋祠
イメージ 4
イメージ 5
イメージ 6

 物部守屋を倒すべく祈願をした場所に、物部守屋が祀られているのです。

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 前のページ ]


.

ブログバナー

検索 検索
今野政明
今野政明
男性 / O型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

過去の記事一覧

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
10/31まで秋の行楽キャンペーン実施中

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事