はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

蜂子皇子伝承―出羽三山信仰の原点

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 出羽三山信仰の成立から、東北地方の日本史的役割を考えて見ます。
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羽黒古道

 山形県の羽黒山の北東麓に「鉢子(はちこ)」という集落があります。漢字表記は異なれど、読みは蜂子皇子の「蜂子」と同じです。
 少し、大仏殿建立をめぐる「金鐘行者」と「辛国行者」の“験徳競べ”の話を思い出してみます。

http://blogs.yahoo.co.jp/mas_k2513/14141613.html
 
 “鉢”は、木地屋に関係があり、砂金を砕くのにも用いるといいます。この鉢子という集落は、砂金採取の中心地であったともいうのです。
 谷川健一さんが言うとおり、蜂と鉢を利用した験徳競べは、同業者同士の語呂合わせかもしれませんが、私は全く異なるライバル同士の特性を表していたという想像も“あり”だと思います。いかがでしょう。
 興味深いのは、この鉢子地区において「元羽黒」つまり“元祖”をアピールしようとする動きがあることです。開祖については、通説どおり“蜂子”皇子とはしているものの、蜂子皇子の墓についても、羽黒山山頂の宮内庁比定地とはまた別な場所を主張しているのです。

羽黒古道の案内板
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 庄内地区の『コミュニティ新聞 郷土の未来をつくるコミュニティペーパー』によれば、実はこのような動きは平成18年に町おこしの一貫として策定した「立谷沢川流域基本振興計画」に基づくもののようで、どうやらごく最近からのようです。
 とは言えこれがなかなか侮れないのです。「庄内町商工観光立谷沢川流域振興係(立川支所)」発行の『羽黒古道ガイドブック』によれば、まず集落を「鉢子」と表記している理由としては、もとは「蜂」と称していたが、のちの住民が尊き名をはばかって「鉢」に変えたとされる、とのことでした。
 これでは、どちらかといえば砂金がらみの“まず鉢ありき”の谷川さんの話とはまるっきり逆になってしまい、にわかには信用できませんが、ただこれも“あり”のような気がします。蜂子皇子の“逃亡劇”というドラマで考えるならば、福島の小手姫伝説での想像同様、伏せた可能性もあると思うからです。
 また、この鉢子集落の裏山には「皇野(すべの)」という地名があるようなのですが、ガイドブックでは、蜂子皇子がこの地に葬られたとされ、「皇子を納める野」という意味、と解説してあります。
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 町おこしのこじつけなのでしょうか。
 しかし、一応そう主張するだけの根拠もあるのです。まず『三山雅集(さんざんがしゅう)』によれば、「室町時代まで大皇山満納寺を中心に社寺・坊舎500余りが軒を並べ繁栄した、羽黒派修験道発祥の地とされる」そうで、なにより、「台地のいたるところから井戸の跡や礎石、庭石などが出土していることから信ぴょう性の高さが伺え、國學院大學考古学資料館による調査も継続中」とのことなのです。早く調査結果を見てみたいものです。

羽黒の蛇

 羽黒山は言うまでもなく蜂子皇子の開基とされております。なにしろ蜂子皇子の御陵まであり、しかもそれは宮内庁管理なのです。
 しかし、蜂子皇子という名前が出てくるのは、江戸時代の出羽三山中興の祖「天宥」の頃以降とする考え方もあるようです。東北歴史博物館の企画展『熊野信仰と東北』の同名記念誌所載の政次浩さんの論稿『東北地方の熊野信仰と出羽三山信仰についての覚書』によれば、
「この独立工作の過程で、天宥およびその周辺が、出羽三山の独自性を主張するため、いまにみる蜂子皇子等の諸縁起を創作したことは想像に難くない」
とのことでした。「この独立工作」とは前に触れた江戸幕府の修験流派の統制化に対する動きのことです。
 ともかく、確かにそれ以前はあくまで「能除(のうじょ)太子――能除大師・能除仙――」であり、蜂子皇子ではありませんでした。
 ただ、『修験の世界(講談社学術文庫)』の久保田展弘さんによれば、14世紀頃の成立になる『神道集』の「出羽国羽黒権現事」(四の二二)には、羽黒山開山者として「祟峻天皇の第三皇子能除大師」が登場しているそうで、第三皇子が実在したのかどうかや、それが蜂子皇子か否かはともかく――蜂子皇子は第一皇子と思われる――、“祟峻天皇の皇子”が開山したという話は天宥――17世紀――のはるか前から言われていたことがわかります。
 ところで私は、蜂子皇子に“蜂(はち)”の名がついていることに注目しておりました。蜂には“任那(みまな)”を思わせる符号を感じますし、それは“秦氏”の影さえ感じさせられるからです。ところが、一方では、それについて自信を持って主張できない部分もあり、少々悩まされております。
それは羽黒町手向の「正善院」にある「羽黒神(うぐろじん)」の像の姿です。
それは長い髭を生やしたリアルな翁の顔をした蛇の像です。なかなか不気味なものです。かつて羽黒山麓ではこの像を祀る例が多かったというのです。この像から考える限り、蛇、すなわち“新羅”系の影を感じざるを得ません。※注
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 蜂子皇子開山というのは、やはり天宥の付会なのでしょうか。
 しかし、祟峻天皇の皇子である蜂子皇子に“蜂”の文字が用いられていることは日本書紀が明記するところであり、決して羽黒山の縁起に基づくものではありません。福島県の小手姫伝説からも、祟峻天皇をとりまく環境になんらかの形で秦氏が介在していたことは十分に許される想像だと思っております。仮にもしも祟峻天皇自身に秦氏の血が流れていたならば、そのことが祟峻天皇排除につながった可能性も出てくると思います。能除大師がそのような祟峻天皇の皇子であったとされるならば、仮に蜂子皇子と別人であったとしても、なんらかの共通する属性を持ち合わせていたことは十分考えられると思います。
 蜂と蛇、羽黒山の支配においてどちらが先かはわかりませんが、どちらにも真実があるのだろうな、と思います。
 蜂や蛇といったトーテム(?)で任那と新羅を分類することはナンセンスだと言う人もいるかもしれません。ただ、トーテムの持つ影響力というものは、必ずしも現代日本人の倫理観で捉えられるものでもなかろうとも思います。私は、朝鮮半島が3ないし4つの国に分裂していたことの根底には、案外トーテムの持つ民俗性というものもあったのではないかと思っております。
 少なくとも日本書紀において任那と新羅の関係を蜂と蛇という特性で捉えていたフシがあったことは、前にも書いたとおりです。

※注 平成三十一(2019)年2月17日補記
現在は出雲系の可能性についても検討が必要と考えております。

羽黒山と平将門

 月山の下山後、間髪入れずに羽黒山神社の三神合祭殿でご祈祷を受けるとのことでした。幸い、羽黒山については山頂の駐車場までバスで行けるとのことで、過酷な2446段の階段は登らずに済みました――しかし、苦難から逃げたという心の苦みを克服すべく、後日個人的に登りました(笑)――。
 “死の山”である月山に対し、羽黒山は“現世利益”をもたらすとのことでした。
 羽黒山の表参道は鬱蒼とした黒い森で、それ自身が“神”であったとも言われております。
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 参道には東北地方最古と言われる国宝の五重塔があるのですが、こちらは、平安時代の920年代に坂東の雄“平将門(まさかど)”が建立したとも伝えられております。
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 平将門といえば、圧倒的な強さで朝廷に対抗する関東独立国を立ち上げようとしたとされる史上屈指のツワモノです。
 その将門が建立したというのは、ちょっとにわかには信じられないのですが、かと言って同じ時代にこれだけの五重塔を建立できるほどの――財をもった――出羽周辺の実力者とは誰なのか、と考えてもちょっと思いつきません。もちろん、現在の塔は最上義光(もがみよしあき)――伊達政宗の伯父(実母の兄)であり、ライバルであった戦国大名――による修造であり、当初のものが必ずしも同等のものであったかどうかはわかりませんが・・・。
 さて、この地の実力者といえば奥州藤原氏がおりますが、初代清衡にしても世に登場するのは将門の時代からはだいぶ下りますし――そもそも、将門を倒した藤原秀郷(ひでさと)の末裔です――、仮にそうであれば奥州藤原氏によるものと素直に伝えられると思います。
 それとも藤原氏、あるいは少し前の安倍氏や清原氏は朝廷からみて賊軍扱いだから伏せられたのでしょうか。それであれば、天皇家にあからさまに刃を向けた将門こそが賊の極めつけと言えるでしょう――私は将門が必ずしも天皇家に反乱を起こしたとは思っておりませんが――。
 穏当に考えるならば、五重塔の当初の建立は朝廷のバックアップによるものと思います。920年代といえば『延喜式』をまとめあげている頃でしょうし、延喜式における出羽三山――月山――が別格であったことは明確です。
 もし本当に将門建立なら、むしろ破壊されそうなものです。ただ、将門は強烈な怨霊と化したので破壊がためらわれたとは言えるかもしれませんが・・・。
 仮に朝廷によるものだったとして、では何故“将門建立”と伝わるのでしょうか。何故わざわざ国家犯罪者の建立ということにするのでしょうか。私は、ひょっとしたら朝廷が将門の怨霊鎮護を出羽三山の神に託したのではないのかとも想像しております。
 あるいは、奥州藤原氏が、自分の先祖――秀郷――が滅ぼしてしまった平将門を供養したのかもしれません。
 いずれ、この五重塔については――将門によって建立されたか否かにかかわらず――そう伝えられていることにかなり興味を覚えます。

別格な月山の神

 出羽三山に限らず、三山信仰にすべからく共通するのは“死と再生”というキーワードではないでしょうか。
 3つの山で「現世」「死」「来世」といった三要素を三山に仮託しているのでしょう。
 月山は死の山です。私は昨夏、ひょんなことから出羽三山登拝の機会に恵まれ、初めて月山の登山に挑戦しました。主催者側からはなるべく白い装束を要求されておりましたので、とりあえず手持ちの白いジャージで臨みました。その時「月山に登るということは一度死ぬということなんですよ」と教えられ、白装束の意味もなるほど納得させられました。
 月山の本地仏は阿弥陀(あみだ)如来とされております。どうやら頂上には死後の極楽浄土が待ち受けているようです。
 運動不足気味の私は、この月山登拝に向け、一ヶ月前から若干の走り込みを続け足腰の鍛錬をしていたのですが、つくづく若干でも走りこんでいて良かったと思わされました。深夜2時頃に8合目のバスプールを出発して、戻ったのが朝8時頃ですから、約6時間に渡って足場の悪い山道を歩き続けたわけです。頂上付近ではまさによじ登る状態が連続し、両手も駆使しての全身運動でした。恥ずかしながら、下山後足が利かなくなってしまいました。
 それにしても驚きなのは、私よりずっと高齢と思しき方々が平然と登っていることです。聞けば、「月山だけは平気で登れる」のだといいます。きっと信仰心のなせる業なのでしょう。
 この日、下界は雨が降っておりましたが、登山中白み始める空に星が見えました。どうやらこの日の月山は「頭を雲の上に出し」た状態だったようです。やがて、足元の雲海から朝日がさし始め、来迎を拝むことが出来ました。
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さすが、8月までスキーが出来るというだけあって、真夏の残雪風景は、別世界の感があります。
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気圧のバランスが悪く、雲海の形も目まぐるしく変化し続けていたのですが、丁度一筋の雲が立ち上っていく光景に遭遇しました。その姿はまさに昇り竜で、信者の方々はさぞありがたく感じたに違いないでしょうし、私も思わず感動せざるを得ませんでした。
 さて、山頂にある月山神社は「月読命(つくよみのみこと)」を祀っているとのことでした。
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 以前、とある地鎮祭に参加した際、司祭の神主とさもない会話を交わしました。その神主はどちらかと言えば新興宗教的な教団の教主といった立場の方でしたが、興味深かったのは毎年必ず訪れる神社が二つあるということでした。そのうちの一つが月山ということで、「東北地方でただ一つの官幣(かんぺい)大社なんです」ということを盛んにおっしゃっておりました。「月山の月読(つくよみ)の神様は最も重要な神様なのです」ともおっしゃておりました。
 『弘仁式』及び『延喜式』――古代の六法全書(?)――において、税金の使い道を示す『主税式』によれば、日本全国で正税から祭祀料を受けていた神社は全国に4社しかありませんでした。「陸奥国鹽竈社一万束」「伊豆国三島社二千束」「淡路国大和大国魂社8百束」そして件の「出羽国月山大物忌社二千束」の4社だけです。鹽竈社以外は延喜式神名帳に記載があるということは前に述べましたが、ここでは置いておきます。
 ともかく、その特筆すべき異例の4社のうちの1社がこの月山頂上に祭られている神様ということになります。
 例えば、鳥海山は具体的に噴火という目に見える形で祟り――蝦夷の祟り?――を具現化しました。そのたびごとに位階を増したという歴史もあります。それに比べると月山は有史以来特別に噴火した形跡もなく、そこまで重要視された――恐れられた――理由については明確ではありません。しかし当時の国家から――むしろ噴火を繰り返した鳥海山よりも――“ちやほや”されているのです。それに対する明瞭な回答を現段階では持ち合わせておりませんが、私はそれが蜂子皇子の悲劇と無縁ではないと想像しております。
 東北人としては複雑ながら、当時の東北人は野獣並みの扱いであり、その反乱もある種自然災害の一種であったと思われます。つまり、蝦夷の反乱も鳥海山の噴火も等質のものであり、“蝦夷が祟る”というよりも、何か他のモノの祟りの具現化として蝦夷の反乱も位置づけられていたと考えられます。
 つまり、月山の神、そして鹽竈の神が別格な理由は、朝廷側にとって本来正当すぎる何者かの祟りを鎮めたい意思が働いている、と想像しております。

原初の出羽三山

 出羽三山の原初の信仰とは、天台でも真言でもないことはもちろんですが、あるいは蜂子皇子も仏教そのものも熊野信仰も、全く関係なく成立した「素朴な信仰」ではなかったかと想像しております。
本来は山形県内各地方の身近な“ハヤマ”として、文字通りの「葉山(はやま)」あるいは「鳥海山(ちょうかいさん)」があったのでしょう。
 “ハヤマ”すなわち“ハヤマ信仰”とは仏教輸入以前からある東北人、いや日本人全体にも言える原初的な祖霊信仰の形で、家族に死者が出た場合、その霊魂が身近にある里山――ハヤマ・神奈備山(かんなびやま)――に昇り、そこで浄化されるのを待ち、やがては例えば「月山」のような壮大な霊峰に昇り天に召されるという考え方です。
 昇華され、神になった霊魂は時折ハヤマに降りてくるようで、家族はハヤマから先祖に見守られることによって安心感を得ていたのでしょう。迎え盆や送り盆などの習俗は現代人から見ると一見仏教のようなイメージもありますが、本来仏教では、死者は六道――地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天――のいずれかに生まれ変わるわけですから、“霊魂”という概念がありません。つまり、先祖の霊魂と村人・家族が交流するという概念は仏教以前からの日本人の信仰形態に基づくものと思われます。
 それにしても、その理屈からすると、鳥海山についてはしっくりこない部分もあります。なにしろ鳥海山は月山よりも標高がある山なのです。おそらく、庄内地方から月山を遥拝する場合には、ハヤマは鳥海山ではなく羽黒山であったのではないかと思います。

庄内平野から見た月山と羽黒山
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最上川越しに望む月山と立川の風車群
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 つまり、本来の三山は村山地方の「葉山」、庄内地方の「羽黒山」、そして両地方から共通して「月山」であったと思われ、個人的には鳥海山を含めた三山成立の過程は、また違う歴史に基づくものではないかと思っております。その経緯については鳥海山の山名から推測出来そうですが、ここでは置いておきます。
 そもそも、“三山”という概念が、おそらくは紀州の「熊野三山信仰」の影響であることは間違いないでしょう。そこで庄内地方に元からあった羽黒山と月山のハヤマ信仰に、もうひとつ霊峰を加えてバランスをとろうとしたのではないでしょうか。それが鳥海山であり、湯殿山であったように思えます。

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