はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

蜂子皇子伝承―出羽三山信仰の原点

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 出羽三山信仰の成立から、東北地方の日本史的役割を考えて見ます。
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出羽三山信仰の独立性

 江戸幕府は、全国の修験を「天台宗本山派」と「真言宗当山派」という二派に分類して統制し、かつ支配しようとしたといます。修験と言えばどちらかというとその奔放な自在性がウリ(?)であり、そのずば抜けた身体能力といわば無国籍な物流能力が諜報活動などに利用され“歴史の影の立役者”となっていたフシもありましたので、幕府としてはそれらも抑えておく必要があったのかもしれません。
 当然蜂子皇子が開いたという“出羽三山(でわさんざん)信仰――羽黒(はぐろ)派修験道――”も例外ではありませんでした。
 羽黒派修験道は、真言・天台いずれにも属さず平安末期から鎌倉期にあっては、奥州藤原三代秀衡や、その後源頼朝等の庇護を受けており、磐石な基盤のもとに独自展開していた歴史がありました。
 しかし、鎌倉末期から戦国時代の混乱で、戦国大名同様に入れ替わる権力者の派閥の揺らめきに翻弄され、その結束が揺らぎ、室町末期頃にはやや真言系の色合いが強まってきておりました。
 ここに出羽三山信仰の独立を守り抜こうとした人物が現れました。
 出羽三山信仰中興の祖「天宥」です。
 天宥は、元は「宥誉」と名乗っておりましたが、徳川家康のブレーン「天海僧正」の弟子になり、その一字をもらい、名を天宥と改めたのです。天海は言うまでもなく天台宗の僧で、当然天宥も天台の色合いを帯びておりました。真言宗風な色合いにあった出羽三山を、天台宗の色合いに塗り替え、なんとか出羽三山の独立を画策したようです。そしてそれは一応の成功を見たようで、出羽三山信仰は幕府の制定した二派いずれに属することもなく、あくまで独自の“出羽三山信仰”であるという確固たる地位を確保出来たのでした。
 しかし、その際――天宥としては――大きな代償を払うことにもなりました。
出羽三山の第一等の奥ノ院として「湯殿山」が加わることになったのです。『修験の世界(講談社学術文庫)』の久保田展弘さんによれば、湯殿山こそが古来からの最も秘すべき三山の奥ノ院とのことでしたが、現実にはそれまで三山に加わっておりませんでした。
 いずれ、これにより、出羽三山は「湯殿山」「月山」「羽黒山」という現代の形になりました。
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 もちろん湯殿山はそれ独自で既に霊験あらたかな聖地であったようで、特に真言系の聖地となりつつありました。
 その真言系勢力が、この独立運動のどさくさに天宥を出羽三山のトップの地位から追放しようという革命を起こしたようなのです。
 天宥は天台系の僧です。純粋に羽黒修験の独立を企てたわけでもなかったことでしょう。厳密に言えば、真言系に持っていかれつつあるものを――天台系の立場として――辛うじて阻止したといったところでしょうか。

羽黒山「天宥社」
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 いずれにせよ、天宥のおかげで羽黒派修験道の独自性は保たれることになったようです。
 そもそも出羽三山信仰とは、山形県内陸の村山地方から見れば「葉山(はやま)」「月山(がっさん)」「羽黒山(はぐろさん)」であり、山形県日本海側の庄内地方から見れば「鳥海山(ちょうかいさん)」「月山」「羽黒山」という組み合わせでした。しかし、この革命により「葉山」と「鳥海山」が外れることになったのです。

伏せられた大伴姓

 川俣町小手郷――福島県――の伝承は、もともと「秦峯能(はたのみねのぶ)」という人物がこの地で養蚕を奨励した事実があり、そこに大伴糠手というキャラクターが被ったと考えるのが穏当と言えるのかもしれません。
 大きな小手姫像が立つ川俣中央公園内の説明板には、小手姫と大伴氏の因果は一切書かれておりません。
 また、この公園内に祀られている「峯能(みねのぶ)観音――峰能観音――」の脇にある石碑の説明は以下のとおりです。

「今から千数百年の昔 秦之峯能と云う人が朝廷の命を受け養蚕織物を普及するため奥州のこの地に派遣された その時信心深い秦氏が奉持してきた御仏像が如意輪観世音菩薩様で 信仰する人に長命 安産 除難の利益をお授けになったので小手郷の人々が根元山の此の地に祀り信仰したのがはじまりで秦之峯能の名をとり峯能観音と称し小手三十三観音の一番礼所として信仰されてきた 〜以下省略〜 」

公園案内図
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小手姫像
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峯能観音堂
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 やはり大伴氏との因果については触れられておりません。また、ここでは「朝廷の命で派遣された」とあり、少々考えさせられます。
 ところで、この観音様は「如意輪観世音菩薩」とのことです。
 ちなみに、斑鳩(いかるが)の「中宮寺」の――私が気に入った――美しい半跏思惟(はんかしい)の菩薩像も、寺伝では「如意輪観世音菩薩像」とされておりました。
 しかし、前にも触れたとおり、この像が広隆寺――蜂岡寺・秦寺――の弥勒半跏思惟像を模したものであることは明白でした。どういう理由で如意輪観世音菩薩と呼ばれるようになったのかはわかりませんが、本来は“弥勒(みろく)菩薩”であっただろうことは土門拳さんを始め、「中宮寺門跡」発行の『大和いかるが 中宮寺の美』でも指摘されているところです。
 「峯能観音」については実物なり写真なりを確認していないのでなんとも言えませんが、弥勒菩薩と如意輪観世音菩薩というキーワードは、秦氏を介してなんらかの関連があるようです。
 いずれにせよ、何故「秦氏」に対して「大伴氏」が被ったのかには興味があります。大伴氏と東北地方の関わりは、その後の多賀城経営において濃密であることを考えると、この伝承のもつ意味にも侮りがたいものを感じます。
 ところで、「出羽三山の開祖は蜂子皇子である」という証拠も、実はそもそも見当たりません。かつては、出羽三山の開祖は「能除太子」とだけ言われていたようで、それがいつの頃からか蜂子皇子を指すことになったようなのです。
 では、蜂子皇子伝承は根も葉もない作り話なのでしょうか。
 そう切り捨ててしまえば簡単だとは思いますが、何故それがあえて蜂子皇子なのかについては尊重しておくべきだと思います。そのものズバリではなくとも、なんらかの因果は必ずあるはずです。
 私は、案外蜂子皇子も小手姫も、実際に落ち延びてきたのだと思います。少なくとも小手姫は“夫殺し”“天皇殺し”の汚名を着せられた国家犯罪幇助(ほうじょ)の“指名手配犯”であったと思われるのです。本人はもちろん、匿った里人にしても、どうしてその素性をあからさまに出来たでしょう。能除太子と蜂子皇子、秦峯能と大伴糠手に、各々史料上の因果が見られなかったからと言って簡単に“付会”のレッテルを貼ってしまうのは、大切に伝えてきた里人に対して失礼な気がするのです。
 川俣の伝承は、むしろ小手姫の悲劇に対する里人のとても優しい心遣いさえ想像させられます。

小手姫伝説

 福島県伊達郡川俣町には、大伴小手子が、父の「大伴糠手連」と愛娘――蜂子皇子の妹(姉?)――「錦代(にしきで)皇女」と共に流れてきたという伝説があります。当地の「機織(はたおり)神社」の石碑には次のように書かれております。

「今を去る祟峻天皇の御宇 蘇我氏の乱にあい蜂子皇子の後を追って奈良の都を逃れ出られた小手姫は 実父大伴糠手 錦手皇女の三人で漸く楯の里この川俣に辿り着き ここで里人に機織の業を伝えられました 芋ヶ作に住居を構えて住んでおられましたが尋ねる皇子に会うことも出来ない悲しみの為に大清水の池に身を投じて崩じられ里人達は池のほとりに祠を建てて祀ったと伝えられています 又後庵舘は姫が年をとり尼となって住んでいた跡だともいわれています」
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機織神社小手姫像
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 もし、祟峻天皇殺しの命令を下したのが本当に蘇我馬子であるならば、小手子が逃げなければならない理由はだいぶ割り引かれます。
 日本書紀の記述が真実であれば、なにしろ馬子にとって小手子は、夫を裏切ってまで自分に迫り来る危機を教えてくれた恩人です。祟峻天皇殺しが暗殺ではなく、日本書紀に明記されるように馬子の指図によることが明らかだったのであれば、馬子はそのことをなんら隠す必要もなかったわけで、むしろ自分の正当性の証人としての小手子は死守すべき存在だったはずです。また、小手子自身は祟峻天皇や蜂子皇子と異なり、皇位継承のライバルにもなり得ません。小手子は、優遇はされても迫害を受けることはないと思います。
 川俣の伝承によれば、小手姫は、先に宮中脱出を計った我が子「蜂子皇子」を追いかけているうちにこの地にたどりつき、残念ながら、我が子と再会することは叶わなかったとのことです。小手子は日々我が子のことを思いながら、ただひたすらこの地で「機織(はたおり)」の技術を教え広め、やがて川に身を投じて自殺したというのです。
 ただ、尼となって余生を過ごしたような言い伝えもあることから、“小手姫”とは小手子とその娘「錦手――錦代――皇女」のキャラクターが入り乱れたかにも思えます。
 それらが本当に大伴小手子御一行様かどうかはわかりません。ただ少なくともこの地に養蚕・機織を教え広めた人物はいたようで、それが小手子――地元では小手姫(おでひめ)――と考えられたのです。
 何故、養蚕の技術が小手子につながるのでしょうか。それは、小手子が養蚕を彷彿とさせるなんらかの属性を持ち合わせていたからではないでしょうか。

 ひとつ重要なことを申しあげます。
 
 小手子と一緒にこの地に落ち延びてきたというその父親「大伴糠手連」は、変名を使っていたとされています。
 その名は、なんと「“秦”峯能(はたのみねのぶ)――秦峰能――」とのことなのです。
 『日本書紀』の「欽明紀」によれば、任那(みまな)と新羅(しらぎ)は、土壇場で蜂や蛇のような本性を表すのだといいます。
 任那と新羅の本性が“蜂”と“蛇”だというのですから、おそらく、新羅――新羅の外交官(?)――は“蛇族”なのでしょう。少なくとも、書紀編者はそう考えていたのでしょう。
 そして、お気づきのとおり、その議論の相手、任那――任那の外交官(?)――は、どうやら“蜂(はち)族”のようです。
 これをトーテムとして捉えるならば「ハチ」は谷川健一さんのいう「鉢」ではなく、「蜂」のほうが適正にも思えます。
 ところで、大和岩雄さんは『日本にあった朝鮮王国』のなかで、“唐(から)”についての江本淡也さんの興味深い解釈に触れておりました。
 江本さんは福岡県周辺に点在する「唐(から)」地名は、「加羅(から)――伽耶(かや)――」のことであろうとしております。これを受けて大和さんは、『豊前国風土記』で「香春(かわら)の神」が「新羅の国の神」とあることについて、「本来は加耶(羅)の国の神であったろう」としております。
 つまり、風土記の当時、伽耶の国々は新羅に併合されているので、伽耶を指す場合も新羅と表現していたことが考えられるわけです。
 前に触れたとおり、香春の神とは、秦氏が奉斎する神と考えられそうでした。そしてその秦氏は――大和さんの推測では――伽耶あたりから渡来してきたものと考えられております。
“伽耶あたり”とは、つまり任那です。
 つまり、秦氏は、“蛇――新羅――”と喧々諤々議論していた“蜂――任那――”の国から渡来してきたと考えられます。
 さて、「金鐘行者――良弁――」と験徳を競いあった「辛国行者」は、谷川健一さんによれば物部氏とのことでした。
http://blogs.yahoo.co.jp/mas_k2513/14141613.html
 しかし私は、物部氏ではなく秦氏ではなかったか、と考えるのです。秦氏がなんらかの事情で“名族”物部氏を名乗ったのではないでしょうか。あるいは、父系・母系のいずれかが物部氏であったのかもしれません。
 少なくとも“辛国”や“蜂”が物部氏の属性とは思えないのです。
 秦氏には他にもそう思わせる例があります。蜂子皇子の母親である「大伴小手子(こてこ・おてこ)」にも、実は秦氏の影を感じさせる伝承があるのです。
 大伴小手子・・・・・・。
 蘇我馬子が祟峻天皇を殺害する動機になったのは、小手子の密告――讒言――に起因していた説があることについては既に触れました。そして、その一連の流れに不自然さを感じることについても触れました。
http://blogs.yahoo.co.jp/mas_k2513/13879863.html
 もし、それらが政略的に仕組まれたものであれば、小手子はピエロにされているわけで、この一連のストーリーのプロデューサーから見れば当然口封じの対象にされたはずです。小手子は殺されたのか、逃げ延びたのか、いずれ都からは抹殺されたと考えられます。

ヲロチ

 「日本最古の神社」と言えば、一般的には奈良県の三輪山にある、いえ“三輪山そのもの”とも言われる「大神(おおみわ)神社」です。主祭神とされている「大物主(おおものぬし)」は古代においてタタリ神の最たるものともされておりますが、蛇の神様としても有名です。卵が供えられているのもそのような事情によります。
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 さて、この「大物主」は、出雲の「大国主(おおくにぬし)」のこととされているのですが、そう考えてしまっては日本書紀編者の思うツボ(?)でしょう。つまり、注意深く見ていくと大国主ではあり得ないことがわかるのです。ここでは深入りしませんが、少なくとも私――今野――はそう思っております。
 この大物主については諸説紛糾しておりまして、一説には少彦名(すくなひこな)であったり、あるいは饒速日(にぎはやひ)であったり、論者によってまちまちなのです。
 「饒速日(にぎはやひ)命」と言えば、物部氏が一族の始祖神として奉斎する神様ですが、多くの有識者から「実は皇祖神――真の天照大神――だったのでは」とさえ言われるミステリアスな神様です。
 『日本書紀』における饒速日は、「神武天皇」に先立って畿内に降臨しており、河内の豪族「長髄彦(ながすねひこ)」の妹「三炊屋媛(みかしやひめ)」を娶り、既にこの地に独自の強固な信頼関係を築きあげておりました。
 長髄彦は、後からやってきた神武天皇に対し、
「私は饒速日命――天神の子――に仕えています。天神の子というのは二人おられるのですか。なんでまた天神の子などと名乗って人の国を奪おうとするのですか」
と、しごくまっとうな抗議をしていることが書紀にも明記されております。
 となれば、当時の天皇家から見てあまりに正統すぎる物部氏は、しっかり首根っこを押さえつけておかなければならないやっかいな存在であったと想像するに難くありません。
 それはともかく、谷川健一さんの『白鳥伝説(小学館)』を読んでいると、物部氏は白鳥をトーテムとしていた種族であったのか、と思えてくるのですが、三輪の神様とも重なるように、饒速日命にはもう一方の顔として“蛇”との関係をも感じさせることも多いようです。
 ところで、6世紀前半のヤマトにおいて、物部氏と並んで天皇家――大王家――の両輪の一つでもあった大伴氏は、「武烈天皇」に仕えていた大連の「大伴金村(かねむら)」が、武烈天皇崩御後、皇統の途絶えかけた窮地に「継体天皇」を推戴したことで功を奏し、しばしの間、一歩抜きん出た感がありました。
 しかし、その後の朝鮮問題の失策(?)が災いし、権威も著しく失墜してしまいました。その朝鮮問題の失策をついてきたのは同じく大連であった「物部尾輿(おこし)」でした。
 尾輿は、欽明天皇の「新羅を討つにはどれだけの軍勢が必要か」という投げかけに対し、「少数では無理でございます」と答えました。その際、「かつて継体天皇の時代、百済が任那の4県を乞うてきた際に金村が安易に受け入れたことを新羅は恨んでおります」と補足したというのです。尾輿は新羅攻めに対しやんわりと反対したのでしょう。
 少し不思議なのは、物部氏は天皇の両輪として大伴氏と同等の権限があったはずなのですから、金村の失策を問うならば共犯のはずです。おそらく、継体天皇の政策批判は出来ないので、遠まわしに大伴金村の失策をあげつらうような、ちょっとした“君側の奸責め”をしたのでしょう。
 あるいは、もし尾輿の言葉どおりならば、その頃の金村はやはり一歩抜きん出た権限を保持していたのかもしれません。
 いずれ、この一連の流れで垣間見れるのは、百済寄りと見受けられる大伴氏に対し、物部氏はやや新羅寄りにも見えるという構図です。もちろん、たまたま当時の世情に応じた政策論の摩擦であろうとは思いますが、私は、物部氏や出雲神族には少なからず新羅系の要素を感じており、実は親百済とも言われる蘇我氏にすらそのような気配を感じることがあります。そして興味深いのは、新羅にはしばしば蛇のイメージもまとわりついていたということです。

――引用――

 任那(みまな)と新羅(しらぎ)と、策(はかりごと)を運(めぐ)らす席(しきゐ)の際(きは)に、蜂(はち)蛇(をろち)の怪(しるまし)を現(しめ)すことを。亦衆(またひと)の知(し)れる所(ところ)なり。

 これは、『日本書紀(岩波文庫)』の欽明天皇紀に見える一節です。岩波本の同書の注釈には、
「(任那と新羅が)策を決定する間際になって、本性をあらわす意か。ヲロチは峯(ヲ)ロ霊(チ)の意」
とありました。私は、蛇は素直に“蛇”でもいいと思っております。同じくだりを宇治谷孟さんの全現代語訳『日本書紀(講社学術文庫)』で見ると次のようになります。

――引用――

 聞くところでは任那と新羅が策を決定する際も、土壇場で蜂や大蛇のような本性を表すと、世の人はいう。

 「蛇(をろち)」を素直に「大蛇」としており、だいぶ直訳的ですが、大賛成です。

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