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東北地方における古代氏族を考えるとき、厄介なのは、その名を語っているからといって必ずしもその名どおりの裔族とは限らないことがほとんどであるということです。当然陸奥国黒川郡の大伴氏にもその指摘があります。 太田亮さんは『日本古代史新研究(磯部甲陽堂)』の中で大伴氏について次のように書いております。 ――引用―― 〜地方の豪族で此の氏族と云ふものは甚だ尠いのである。これは此氏が地方に勢力を張る時期が、他の大氏族よりも遅れた為で、既に地方の大勢が定まった後であった故と思はれるのである。それは他地方に此の氏族と稱する有土の君が尠いのに均はらず、我國民の比較的後期に発展した奥州に於いてのみ、大伴安積連、大伴苅田連、大伴柴田連、大伴白河連、大伴行方連、大伴山田連、大伴宮城連等を出して居るのでわからう。 〜中略〜 此等は皇室又は大伴氏が地方豪族に課しておいたものであって、管理は其地方の豪族にさせ、租税のみを中央に送らせたものであるらしい。かう云うものを除き、此氏族の後裔と云ふ有姓の豪族は殆んどいない、 〜略〜 しかるに陸奥においては、〜略〜 黒川郡に靱大伴連 〜略〜 がある。勿論此等は大伴連の血をひいた者ではなく、大伴氏の配下なる大伴部で、其の中には夷人も随分あるのであろうが、凡べて大伴連姓を冒して居る處を見れば、大伴氏の勢力のもとにあつたからに違ひない。 細部に諸説異論があるものの、おおよそ、この太田さんのような考え方が穏当、かつ定説に近いと思います。つまり、地方の大伴氏は、“大伴ブランド”の“直営店”ではなく、単に名乗ることを許された“フランチャイズ店”であるということになるのでしょう。後年の鎌倉武士のあり方を想像すれば、なるほど納得できます。
ただ、特に反論するつもりもないのですが、俵担ぎの聖地「大郷(おおさと)町」の“諏訪古墳”の発掘成果に照らして考えるとき、微妙な疑問を抱いたりもするのです。 なにしろ黒川郡に勢力を誇った靱大伴連の陵と考えられる大郷町の諏訪古墳は、史料に多賀城が登場する300年も前に造られたものと考えられているわけで、しかもそこからは関西同様の副葬品が出土しているからです。 太田さんによれば、大伴氏の辺境進出は比較的遅いものであっただろうとのことですが、では、陸奥の地においては一体どの氏族の進出が早かったのでしょうか。 考えられるのは、「多(おお)氏」、「物部(もののべ)氏」、「丈部(はせつかべ)氏」、そして、陸奥の地と同じ辺境の雄「上毛野(かみつけの)氏」あたりでしょうか。 にもかかわらず、何故遅れて進出してきた大伴氏が、“物部王国”“丈部王国”あるいは“上毛野王国”がしのぎを削る中をかいくぐり、“遠の朝廷(とおのみかど)”に近い黒川郡にすんなり“大伴王国”を築くことができたのでしょうか。そもそもの大伴ブランドの威光なのでしょうか。あるいは多賀城経営の重役の権威によって得られたものなのでしょうか。 ところが、そう単純なことでもなさそうなことが、初期の陸奥守、上毛野氏を襲った怪異から想像できるのです。 |
大伴一族
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藤原氏に失脚させられた最後の大物氏族の、あまり語られない部分に注目してみます。
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黒川郡大和町に「宮床(みやとこ)」という地名があります。 一説には、もともと難波と呼ばれていたものが、淳和天皇あるいは某かの“宮様”がご下向され、永住されたことに因むと言われております。 この地には、かつて「信楽(しんぎょう)寺」なる寺があったらしいのですが、淳和天皇の勅願で「慈覚大師(じかくだいし)――円仁――」による開基と言われていたものでした。 しかし、『宮床村史』によれば、本山を京都五百佛山智積院とする「真言宗 智積院派」とのことで、ここにも、天台系と真言系の相克の歴史を垣間見れます。 ただ、円仁の東北地方における活躍時期と淳和天皇在位の時期にはズレがあり、このところは実に悩ましいところです。 いずれ、一時は「東北第一の寺」とまで言われたほどの信楽寺ですが、明治に入り、山火事に飲み込まれ、七堂伽藍の一切が焼失してしまいました。なにしろ、その時期の火災は信楽寺の存続にとってあまりにも不幸でした。明治と言えば廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が強く影響を及ぼしていた時代ですから、当然その後信楽寺が復興することはなかったのです。今となっては幻の大寺院です。 さて、ここで私が注目しているのは、この地と淳和天皇との縁です。 古来“大伴氏”の権勢が強い辺境の黒川郡の地に、“大伴の名を持った天皇”の勅による寺が存在しているというのは、なにかしら因果を感じます。 また、只野信男さんの『新・みちのく古代史紀行 ――七つ森は語る(宮城県黒川郡)――(東北歴史資料館友の会)』によれば、信楽寺跡には淳和天皇と恒貞親王のお墓と伝えられている五輪塔二基が並んでいるとのことですが、その五輪塔付近の発掘成果があるようで、『宮床村史』には次のようにあります。 ――引用―― 信楽寺に五輪の塔が二基ある。何人の古墳なのか不明だが村人は之を宮様御院と呼んでいる。先年渡邊正が之を發掘したが四方を木炭にて圍み、其の中に髪一束、骨一本、開元通寶と支那錢一枚があった。 ちなみに、供に発掘された開元通宝――唐の通貨――の流通時期は7世紀から10世紀ですので、信楽寺の縁起に書かれた時代とは矛盾しません。何故“唐の通貨”が埋葬されたのかは興味ありますが、当時の天皇家の“空海”とのかかわりから、密教的ななんらかの要素があるのかもしれません。
淳和天皇は、崩御後の自分の葬儀の方法について、当時としては常識ハズレな火葬を希望しました。そして遺骨は京都府西京区の「大原野西嶺上陵(おおはらののにしみねのえのみささぎ)」で“散骨”されたと言われております。 私は、それが遺言とは言え、かなり常識ハズレなこの“おくりかた”に、とても耐えられなかった淳和天皇を追慕する人物がいて、その人物によってはるばる陸奥黒川の地に運ばれ、埋葬されたのではないかと想像しております。 なにしろ遺骨の一部を持ち出したわけですから、そのような芸当は誰にでも出来るものではなかったはずで、当然そのようなことを出来る人物像は限られてきます。それが“宮様”であり、おそらくは恒貞親王なのでしょう。また、淳和天皇の下向とは、“遺骨の下向”ではなかったか、と考えます。 |
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俵担ぎ(たわらかつぎ)の聖地、宮城県黒川郡大郷町(おおさとちょう)に気になる古墳があります。 「諏訪(すわ)古墳」と呼ばれるその古墳は、直系30メートル程の円墳で5〜6世紀のものと考えられます。この古墳の注目すべきところは、副葬品の埴輪(はにわ)です。その埴輪は、円筒型やあさがお型、つぼ型ということで、いずれも人形や動物型よりも古いタイプと考えられております。関西のものと同じタイプのもののようですが、製作場所はこの古墳近辺と考えられるので、関西との交易により得られたものではなさそうです。 穏当に考えれば、多賀城に赴任した都人の要人の陵墓ということになりますが、なにしろ5〜6世紀となれば、多賀城の300年も前のものということになるのです。大郷町教育委員会設置の現地の説明板によれば、 「葬られた人物は、よほどの勢力を持った者で、歴史には「名」は残ってませんが、後に黒川郡で一大勢力をふるったといわれる「従五位大伴靭負」という人の先祖かも知れません。多賀城ができる三百年ぐらい前の人のお墓です。」 とのことです。 諏訪古墳 古代の黒川郡について、私は多賀城の衛星都市という表現を使いました。しかし、多賀城の造営はせいぜい8世紀と考えられておりますので、黒川郡はそれ以前から既になんらかの繁栄があったということになります。多賀城が出来る300年も昔に関西同様の文化を持った、歴史に名を残さない権力者がこの地に存在したというのです。そして、その人物像として多賀城時代に権勢を誇った“大伴氏の先祖”が想定されているという事実・・・。大伴氏は、朝廷から派遣されるまでもなく、この黒川郡で絶大な勢力を展開していたというのでしょうか。中央の大伴氏と、黒川郡の大伴氏は異なるのでしょうか。だとすれば、たぶんにこの地の大伴氏には蝦夷(えみし)の面影が感じられます。 話をおもしろくするのであれば、古代最大級の大伴氏の故地が、実は九州や畿内ではなく、この東北であった、となるのでしょうが、さすがの私も一気にそこまで飛躍した論の展開は出来ません。 東北地方の史学の権威とも言える高橋富雄さんは、ヤマト朝廷の軍事的征服の前に、予め文化征服があったとしております。 そう言うと、列強の植民地政策の前段として世界に展開したキリスト教布教のイメージがよぎりますが、そのような――ヤマト朝廷としての――組織的なものではなく、ヤマト連合国家草創期における各古代氏族の個別の進出によるものと考えるのが穏当なのでしょう。 それにしても、5〜6世紀の大伴氏といえば、一応はあの武烈(ぶれつ)天皇に仕え、その崩御後継体(けいたい)天皇を発掘してきた“大伴金村”の時代です。 武烈天皇と言えば、「スタッフ〜」のあの方の実家として一躍脚光を浴びた栗原郡の櫻田山神社・・・。 そこも含めた栗原の武烈天皇伝承を思い出すとき、私は多少なりとも鳥肌が立つのを覚えます。 http://blogs.yahoo.co.jp/mas_k2513/6502522.html もう一度この古墳の名前を振り返ってみましょう。 この古墳は「諏訪古墳」と呼ばれておりました。もちろん、そう名づけられたのは後世この地にたまたまお諏訪様の祠でもあって、それに因むということがあるでしょう。 しかし、その場合にしても、何故この古墳を含む一帯に「諏訪」のブランドが残っていたのか・・・。 前に私は、陸奥国近辺において「諏訪(すわ)」を考えるとき、「志波(しわ)」の訛りであることも念頭に入れるべきことを書きました。そして当地の訛り方としてその逆はありえないことにも触れました。 それを踏まえて、諏訪古墳同様“靱大伴連”の祖廟と言い伝えられた富谷町志戸田の「行神社」の別名はなんであったでしょうか・・・。 そして、その志波彦大神にまつわる冠川(かむりがわ)神話がある仙台市泉区の石留(いしどめ)神社は誰の御陵と伝えられていたでしょうか。 |
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宮城県黒川(くろかわ)郡――。 仙台市の北に位置するこの郡には、現在「富谷町(とみやまち)」「大和町(たいわちょう)」「大郷町(おおさとちょう)」「大衡(おおひら)村」といった四つの町村――富谷町は「まち」と読むのが正式――が存在します。黒川郡は仙台のベットタウンとしておしなべて人口増加の著しいエリアですが、特に富谷町などは数年前まで全国一の人口増加率を誇る町でした。 また、大和町や大衡村などは、このほど世界のトヨタの子会社「セントラル自動車」の本社移転と、それに伴う関連企業の移転ブームに盛り上がっております。 一方、大郷町も負けてはおりません。大郷町で“日本一”と言えば、なんと言っても俵担ぎの“日本一”を決定する、あの“日本一俵担ぎ競技大会”! 勝手にT1グランプリとでも呼んでおきましょうか、大郷町はその主催地なのです――ご存知ではない?――。 さて、黒川郡が衛星都市として機能するのは、なにも仙台市の発展に始まったものではありません。奈良・平安期には国府“多賀城”の衛星都市として機能しておりました。陸奥国がほぼヤマト政権掌握下に入った奈良時代において、「多賀城」という“都市”は、都市地理学の観点から言っても、首都「平城京」以下、“遠の朝廷(とおのみかど)”「大宰府(だざいふ)」と並んで日本三大都市の一つでした。黒川郡はその多賀城の衛星都市だったのです。そして、実はその黒川郡の主人公が、“大伴氏”だったようです。 富谷町志戸田(しとだ)に、かつて延喜式神名帳に記載された「行(ゆき)神社」があります。つまり「式内社」です。 行神社 また、同じ黒川郡の大衡村駒場には「須岐(すき)神社」があり、やはり延喜式神名帳に記載がある「式内社」です。 この両神社はそれなりに謎めいた部分があり、秘かに有識者の議論を呼ぶものとなっております。これらを「行き・過ぎ」というように捉えて、一種の“岐神”と考える向きもあれば、もしかしたら「大嘗祭(だいじょうさい)」の「悠紀(ゆき)殿・主基(すき)殿」になぞらえたとも考えられ、好奇心をくすぐるものなのです。 折口信夫さんなどは、「悠紀・主基」そのものが「往き・過ぎの意かもしれぬ」としております。 とにかく、参考までに「大嘗祭」について、『広辞苑(岩波書店)』から引用します。 ――引用―― 【大嘗祭】天皇が即位後、初めて行う新嘗(にいなめ)祭。その年の新穀を献じて自ら天照大神および天神地祇を祀る、一代一度の大祭。祭場を2ヶ所に設け、東(左)を悠紀(ゆき)、西(右)を主基(すき)といい、神に供える神穀はあらかじめ卜定した国郡から奉らせ、当日、天皇はまず悠紀殿、次に主基殿で、神事を行う。おおなめまつり。おおにえまつり。 さて、ここまでネタを振っておきながら、実は私が「行神社」に注目しているのは、その部分ではありません。 行神社の祭神は、現在「猿田彦(さるたひこ)命・磐長姫(いわながびめ)命・大物主(おおものぬし)命・崇徳(すとく)天皇」ということになっておりますが、サルタヒコ以外は明治に入って合祀された他の神社の祭神のようですので、無視は出来ずとも、惑わされるわけにはいきません。つまり、行神社の祭神はサルタヒコとされていたということです。しかし、それだけでは特に私の心を驚かすには値しません。 実は、行神社は一昔前には別名としてですが“志波大明神”とされていたようなのです。 そして、私にとって更に重要なことがあります。 それは、正直なところ有識者からはあまり相手にはされていない言い伝えです。そのことは、参道前の説明看板には書かれておりませんでしたが、暗い拝殿の内部にじっと目をこらすと書いてありました。 行神社は黒川郡の大領主「靱大伴連(ゆげいおおともむらじ)の祖廟」と伝えられているのです。 さて、この地の地名をもう少し詳しく言うと、富谷町志戸田字“塩釜”です。
実は、その因果もかなり気になっていたのですが、拝殿内部の由緒書から元々この位置に鎮座していたわけではなかったことがわかったので、少々思い過ごしなのかもしれません。 |
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「大伴親王」は何故「大伴親王」なのでしょう。まるで「ロミオあなたは何故ロミオなの?」みたいですが、もちろんそのような情緒的な問いではありません。当時は乳母の名を冠されることも多かったのだからとりたてて騒ぎ立てることではない、という意見もあるかもしれません。しかし、それであれば何故名門大伴氏が同じ名であることを憚ってわざわざ自らの名を変名しなければならなかったのか、その顛末がやたらきな臭いと感じるのです。
大伴親王が生まれたのは延暦5年(786)とされておりますが、何故か月日が詳らかではありません。天皇の生年月日が不明であるのもいぶかしいのですが、その誕生前年の様子がなかなか唸らせられます。例の藤原種継暗殺事件があった年なのです。 延暦4年(785)9月23日、事件前に既に死していた大伴家持は、尚も事件の首謀者として連座させられ、官籍を剥奪されております。 その二ヶ月後、11月24日に藤原旅子は無位から急に従三位に昇格しております。つい事件との因果を想像してしまうのですが、これはもしかしたら懐妊によるものかもしれません。年が明けて延暦5年(786)1月17日、旅子は桓武天皇の夫人に任ぜられております。 旅子は天平宝字3年(759)に生まれております。両親は、通説では、父は「藤原百川(ももかわ)」、母は「藤原諸姉(もろね)」となっております。 さて、「旅子」は何故「旅子」なのでしょうか。もちろんロミオとは関係ありません。 実は私は、この「旅子」という名前もひっかかっているのです。何故なら、大伴家持の父親の名が「旅人(たびひと)」だからです。 大伴氏筆頭の家持の父、大納言・従二位という政府高官「大伴“旅”人」と偶然にも似ている名前を持った無位の「藤原“旅”子」が、大納言の息子で中納言・従三位の大伴家持が冤罪で処分された直後に、その家持と同格の従三位まで昇格し、天皇の夫人に任ぜられ、そして生まれた皇子が「大伴親王」であったのです。 私には偶然とは思えません・・・。 ところで、桓武天皇は、予め「安殿(あて)親王――平城天皇――」・「神野(かみの)親王――嵯峨天皇――」・「大伴親王――淳和天皇――」の三兄弟に、各々10年ずつ天皇として在位するように遺言したと言われております。その遺言の真偽については異論もあるのですが、私は事実だったのではないかと思っております。でなければ、同母兄弟の平城から嵯峨の譲位はともかく、異母兄弟の嵯峨から淳和の譲位について、兄弟愛の美談はともかく、現実的な理由が見当たらないからです。 あるいはもしかしたら、安殿――平城――の次は大伴――淳和――へ、という遺言に、神野――嵯峨――が割り込んだのかもしれません。もしそうだとすれば、仁明天皇が恒貞親王を廃した行為は、さほどに父嵯峨上皇の意思に背いたものでもなくなってきます。 それはともかく、桓武天皇のその異例の遺言の意図はどこにあったのでしょうか。 私は、桓武天皇自身が、自分の兄弟――他戸親王・早良親王――を貶めてまで皇位についたが結果、生涯タタリに怯えながら政務を執らざるを得なくなった、その実際の苦い経験から息子達――平城・嵯峨・淳和――に対して教訓を発したのではなかったかと思います。 そして、この遺言で最もポイントとなったところは、私は大伴親王――淳和天皇――にも皇位を継承させようとしたところにあると思います。この三兄弟のうち、平城天皇と嵯峨天皇の母親は正妃の藤原乙牟漏(おとむろ)で、一方淳和天皇の母親はくどいようですが藤原旅子です。普通に考えれば、正妃に二人も男子が生まれていれば、何も他の妃の子にまで皇位継承の権限を与えなくてもよさそうなものです。しかし、桓武天皇はあえてそこにこだわったのだと思います。 それは、ひとつには桓武天皇と早良親王の兄弟自体が傍流であり、皇位継承の身分において淳和天皇と同じ立場であったからだと思います。淳和を正当に認めることによって、遡って自分の正当性もアピールしようと考えたのではないでしょうか。 そしてもうひとつは、大伴親王――淳和天皇――が、乳母云々よりも濃厚なものとして、なんらかの形で大伴家持とつながりがあった――だろう――ことの意味が大きいと想像します。 大伴親王が大伴氏と関係があるか否かにかかわらず天皇が一氏族にそこまで気を遣う必要があったはずはない、と思われる方もいらっしゃるかと思います。 しかし、ヒステリックなまでにタタリに怯え続けた桓武天皇だからこそ、私は“規格外”と考えております。桓武天皇の心を“忌の際(いまわのきわ)”に至るまで苦しませたのは何であったでしょうか。桓武天皇が断末魔最後に残した遺言が大伴家持らを復権させることであったことは無視するわけにいかないと思います。 ただ、桓武の崩御時点で大伴親王は20歳です。平城・嵯峨で皇位期間を費やしたならば、人間50年と言われた昔の寿命で考えたら、確実にまわるとも限りません。そこで各々10年という期間まで定めたのでしょうが、それでも、大伴親王が夭折してしまったらまわらないかもしれません。 しかし、おそらくそれでもいいのでしょう。桓武天皇としては、「大伴親王にも皇位を継承させようとした」という事実さえあれば満足だったのだと思います。それで亡き大伴家持の霊に対して義理を果たせたのだと思います。 |



