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安倍貞任の末裔が何故安東(あんどう)氏を名乗ったのかといいますと、祟神天皇の御代に、最初に安倍姓を賜ったご先祖様の名前が「安東(やすはる)」であったことに因むとされているようです。 「アベ」の系譜を考えるとき、ややこしいのは、中央氏族の阿倍と奥州の安倍との関係です。中央氏族の阿倍氏は、人皇8代孝元天皇の子「大彦(おおびこ)命」がその祖となっております。 その大彦命とその子「武淳川別(たけぬなかわわけ)命」の親子は、10代祟神天皇の御代に、俗に四道将軍と呼ばれて国内各方面に派遣された4人のうちの2人です。 『古事記』によれば、父親のオオビコは「高志道(こしのみち)――北陸――」を進軍し、子のタケヌナカワワケは「東方十二道――日本書紀では東海(うみつみち)」――を進軍したとされております。親子が再び出会った場所は、それに因んで「相津(あいづ)――福島県会津――」と呼ばれるようになったのだそうです。どうやら古くから東北方面には縁がある系譜のようです。 日本海側の蝦夷鎮圧の守護神、新潟県新発田市「古四王(こしおう)神社」 寛文12年(1672)に編纂された『会津旧事雑考』には、この遠征のときの逸話として、おおよそ次のようなことが書かれているようです。 大彦命の子、「安倍河別(あべのかわわけ)命――すなわち武淳川別命――」が、蝦夷相手に苦戦していたとき、奥州安倍氏の祖「安東(やすはる)」が進み出て、言いました。 「我が祖先安日(あび)の罪――長髄彦対神武戦のこと――を赦免していただけるのなら、先鋒に立って戦います」 そして安東は見事に手柄をたてました。 結局功を挙げた安東は、安倍姓を賜り、それが奥州安倍の始まりだというのです。 おそらくは、そもそも奥州安倍氏に伝わる安日(あび)の系譜をなぞったものなのでしょうが、少なくとも、安東なる人物からの系譜は素直に信じてもいいような気がします。 どのみち祖先が蝦夷である前提には変わりがないでしょうが・・・。 一方、37代斉明天皇の頃――7世紀――、この系譜に「阿倍比羅夫(ひらふ)」なる人物が登場し、蝦夷を巻きこんで大活躍をしております。 比羅夫に関して、まずこんな話があります――宇治谷孟『全現代語訳 日本書紀 (講談社)』より――。 ――引用―― 夏四月、阿陪臣が船軍百八十艘を率いて蝦夷を討った。秋田・能代二郡の蝦夷は、遠くから眺めただけで降伏を乞うた。そこで軍を整え、船を齶田浦(秋田湾)につらねた。秋田の蝦夷の恩荷(おが)は、進み出て誓っていった。「官軍と戦うために、弓矢を持っているのではありません。ただ手前どもは肉食の習慣がありますので、弓矢を持っています。もし官軍に対して弓矢を用いたら、秋田浦の神がおとがめになるでしょう。清く明らかな心をもって、帝にお仕え致します」と。恩荷に小乙上の位を授け、能代、津軽二郡の郡領に定められた。有馬の浜に渡嶋(おしま)の蝦夷どもを集めて、大いに饗応して帰らせられた。 ここで、7世紀においても尚蝦夷は狩猟に頼った生活をしていたということがわかります。また、彼らが決して敵意をむき出しにしていたものでもないことがわかります。官軍に恐れをなしていたのか、あるいはもしかしたら秋田浦の神が争いを許さない神だったのかもしれません。少なくとも恩荷(おが)の一派はそういう信仰であったことはわかります。 秋田浦の神と思われる赤神を祀っていたとも考えられる真山神社は、なまはげの本場
ちなみに、この恩荷は、現在の秋田県の「男鹿(おが)」の語源のようです。 また、この恩荷が安倍氏の祖であったと見る見解もあります。 だいぶ時代が下がって『義経記』の中で、「金売吉次(きちじ)」が奥羽のことを訊ねられた際、かつて奥羽を治めていた領主のことを、「おかの太夫」と表現しております。この「おか」は「おが」ではないかというのです。 そのおかの太夫については、嫡子を厨川次郎貞任、次男を鳥海三郎宗任・・と紹介していることから、それが安倍氏を指していることは間違いありません。このことから、比羅夫に恭順の意を示した恩荷は、安倍氏の祖であったと考えることも出来るわけです。 その説が正しければ、安倍氏の根拠地は能代や津軽であったことになります。 |
トビの一族
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隠蔽された日本史と東北地方を結びつけるキーワードをトビの語感から探ります。
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安倍氏の系譜を伝える藤崎系図及び秋田系図――秋田氏も安倍貞任末裔、安東氏の系譜――は、いずれも安倍氏の祖を長髄彦の兄「安日(あび)」であるとしております。 安日などという人物は、記紀などその他の文献史料には全く登場しません。したがって有識者のほとんどはその伝承を信じません。 そうした中で、谷川健一さんは鵜呑みには出来ないとしながらも無視出来ないものとしてこれらの系図を重要視しております。谷川さんの著書『白鳥伝説(小学館)』には次のように書かれております。 ――引用―― 太田亮は『姓氏家系大辞典』の中で、安藤(安東)氏や秋田氏の系譜の始祖として、叛臣のナガスネヒコの血筋をひく安日をもってきたことは、それが架空ではなく真相を伝えているかにみえるが、明らかに将門の裔、純友の裔でないものが、武家時代にはその後裔と伝えるものが多いのと同様、武勇をことに尊んだ結果にほかならない、としている。 しかし太田の説明ではなお不足である。奥州の安倍氏は蝦夷の末裔とみなされていた。またその安倍氏の流れをくむ安東氏や秋田氏もおなじ立場に立っていたはずである。出自に負い目をもつこれらの人たちが「武勇を尊んだ」結果、ナガスネヒコの係累である安日なる人物を創作したというふうにはとうてい考えられない。将門も純友も朝廷に叛いたとはいえ、おなじ武士仲間である。しかし、『古事記』はナガスネヒコを「賎しき奴」と呼び『日本書紀』はナガスネヒコは性質がねじけていると述べている。 〜中略〜 大和朝廷から異族として蔑視されているナガスネヒコの兄をわざわざ創作して、それを自分たちの始祖とするということがあり得ようか。ふつうの場合、そうしたことは起こり得ない。奥州の安倍氏がもともと蝦夷であったとしたならば、その出自の跡をむしろ消そうとつとめるはずである。 この後谷川さんは「安日なる人物を創作した根拠はおそらく一つしか考えられない」として、神武帝の軍と勇敢に戦ったナガスネヒコの武勇に対して、“おなじ蝦夷として”共感と誇りをおぼえたのだろうとしております。 そして、さらに、 ――引用―― ナガスネヒコの兄を創出した心理の底には、物部氏とナガスネヒコが連合していたというかつての事実への親近感がひそんでいなかっただろうか。東国における物部氏と蝦夷との関係は密接なものであったと考えられるから、それが強調されたのではないか。 と、ご自身の論考エピローグへの布石を投じております。 素晴らしい仮説だと思います。また、ほぼ賛成です。 どうせ系図を創作するのであれば、人間の心理としては通常高貴な血統につながるように創作したいはずです。確かに例えば平将門などは、国家反逆の重罪人とはいえ、なにしろ平家です。元々の血筋は高貴であり、しかも比較的近い時代の、ある種武門の英雄です。武士の世が到来した時代には純粋に英雄として考えられていたとしても不思議ではありません。 それに比べ、安東氏の場合は、わざわざ人間扱いされないほど蔑まれる賎しい異族としての始祖を創作したというのですから、太田亮さんが語るような単純なものではないと思います。 ただ、谷川さんもあくまで創作という一線は崩しておりません。それは果たしてどんなものでしょう。その賎しい系譜を頑なに守る安東氏の態度には、私はむしろ真実味を感じます。少なくとも、創作であると“言い切る”ことに対しては抵抗があります。 藤崎の八幡宮境内にあった碑文。安東氏が安日の末裔である旨が記されております。
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「藤原経清(つねきよ)」の義理父でもある東夷の酋長「安倍頼時(よりとき)」亡き後、その息子「安倍貞任(さだとう)」、つまり経清の義理兄が安倍家の棟梁として一族を引っ張っていきます。貞任は「黄海(きのみ)の戦い」の発端となった人物です。 安倍頼時の息子たちは、各々その本拠地――居城?――に応じた名前で呼ばれていたようです。史料により多少の違いはあるのですが、概ね次のような感じです。 「安東太郎井殿盲目」「厨川次郎貞任」「鳥海三郎宗任」「黒沢尻五郎正任」「北浦六郎重任」「鳥海弥三郎家任」「白鳥八郎則任」あるいは「白鳥八郎行任」など。 ここで、宗任や家任に「鳥海」が、則任や行任に「白鳥」が冠されていることに注目しておきたいと思います。何故そのような名前の城柵があったのかが気になるところです。 さて、安倍氏は、源頼義と、その子で後世の源氏からカリスマ性をもって崇められる“八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)”――源義家――によって滅ぼされたように見えますが、厳密には出羽の豪族「清原武則(たけのり)」の活躍によるところが大きかったように思います。 源頼義・義家(よしいえ)親子は、自らが率いる朝廷軍単独ではどうしても勝てなかった安倍氏を、安倍氏同様、出羽の「俘囚の長」と微妙な評価をされていた清原氏の援護射撃を得ることで倒すことが出来たのでした。 援護射撃と書きましたが、具体的な実働部隊はほとんど清原氏であったと言って良いかと思われます。源氏親子は、広義での蝦夷を内部から崩壊させたと言っていいかもしれません。 いずれ、この安倍氏討伐の一連の戦争を「前九年の役」といいます。 ここで注目すべきは“役(えき)”という言葉です。 戦争を表す言葉として「役」の他に「乱」「変」などがありますが、「乱」というのはいわゆる反乱です。つまり、官軍が反乱軍と戦ったものをそう呼びます。 「変」というのは、天皇家や将軍家の内部抗争など、お互いが官軍と思しき場合、あるいはそれをもって官軍の立場が入れ替わった場合などに用いられます。 それに対し、「役」というのは、対外戦争を指す言葉です。 「前九年の役」や、その後清原氏が討伐される「後三年の役」は、「役」なのです。すなわち対外戦争の扱いだったということです。大和朝廷から見て、安倍氏や清原氏は外国人の扱いだったことが、これでわかります。 さて、津軽発祥の藤崎氏――安東氏――の系図では、前九年の役で安倍氏滅亡の際、酋長貞任の子「高星(たかあき)」が津軽に落ち延びたとされております。 一説に高星は、その後藤崎氏あるいは「安東太郎」を名乗ったといいます――秋田系図では、安東太郎を名乗るのは、高星4代孫の愛季(よしずえ)からとなっております――。 海の王者、安東氏の本拠地「十三湖」 ちなみに、蝦夷のデビルマン藤原経清の子――貞任の甥――は、母方実家の滅亡と父経清の惨い斬首刑の後、母と共に敵方である清原氏に引き取られました。 母はよほどいい女だったのでしょうか。罪人の妻にもかかわらず、清原武則の後継者武貞の正妃として迎えられているのです。 その母子は安倍一族と藤原経清の悲願を孤独に受け継ぎ、やがて子は陸奥・出羽統一の王者、つまり奥羽の王者として100年の栄華を築くことになるのです。 つまり経清の子とは奥州藤原初代「清衡(きよひら)」です。 藤原清衡が眠る中尊寺金色堂覆堂
あわよくばなのですが、私は清原氏も奥羽の名族の一として、奥州藤原氏の成立を念願していたものと想像したい部分があります。要するに、自分達や安倍氏の血筋ではなんともならないものが、藤原氏の血が取り込まれたことによって、蝦夷による奥羽の統治が可能なのではないか、と考えたということはなかったのでしょうか。仮にも逆賊安倍の娘とその子を引き取って厚遇したのは、清原氏のそんな思いの表れではなかったのかなあ、と考えたりもしております。 |
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永井豪さんの超傑作漫画に『デビルマン』という作品がありました。 テレビアニメーション版は子供向けなので比較的楽な気持ちで観ていられますが、原作の連載漫画版は――少年向けのはずですが――あまりに生々しく、人間誰しもの心の中に潜むどうにも救われない本質を鋭く抉(えぐ)っております。変な話し、読後感がとても不愉快になってしまうほど、実に“見事な作品”でした。 さて、原作漫画は別として、アニメーション版では、個人としての主人公デビルマンが、自らはデーモン――悪魔――であるにもかかわらず、人間の愛に触れたことをきっかけにそれを裏切り、人間に危害を加えるかつての仲間と対峙する、という物語でした。 実は、奥州藤原氏も、蝦夷(えみし)の愛に触れた官人の裏切りによって誕生します。 その官人こそはまさに蝦夷にとっての正義のデビルマン、藤原経清(つねきよ)です。 経清は、どんな理由でかわかりませんが、「亘理(わたり)権大夫」という官職を得て陸奥国亘理郡――宮城県亘理郡――のリーダーとして赴任しておりました。亘理の豪族出身だったのではないか、と言われる一方で、史料によっては「散位藤原朝臣(あそん)」などという記録もあり、この当時、陸奥の地で朝臣を名乗っているのは国司ら上級官人がほとんどですから、経清はよほど格の高い高級官僚であったことも想像出来ます。 藤原経清の本拠と考えられる亘理郡衙跡及び三十三間堂跡 経清が亘理に赴任(?)していた11世紀中頃は、アテルイの乱からもだいぶ時を経て、陸奥国では「東夷の酋長」とも揶揄される豪族「安倍(あべ)氏」の勢力が幅を効かせておりました。 とは言え、比較的平和だったようです。その証拠に、経清は酋長「安倍頼時(よりとき)」の娘を妻にし、また、亘理の隣、伊具(いぐ)郡の官人「平永衡(ながひら)」も、同様に安倍頼時の娘を妻にしておりました。これらは安倍氏の南下政策ととる向きもありますが、いずれ、朝廷側と俘囚側が友好的な状態であった証とは言えそうです。 ところが、なんとか自分の任期中に安倍氏の領有財産を簒奪しておきたい歴代の陸奥の守なり国司なりは、陰に陽に安倍頼時を挑発しておりました。 『陸奥話記』は安倍氏を征伐しようとした藤原登任(なりとう)の惨敗から始まっております。 朝廷は、登任に代えて、武門の誉、源氏を陸奥国府の長として派遣しました。 源頼義(よりよし)です。 鼻息荒い源頼義でしたが、当の安倍頼時は恭順の意を示し続け、しかも、もともと「頼良(よりよし)」という名前だったものを、国司と同じ訓では恐れ多いとして、「頼時(よりとき)」と変名したほどで、全くもって源頼義に逆らう気配など見せませんでした。源頼義はさぞやきもきしていたことでしょう。 そして、いよいよ源頼義の任期も終わろうとする頃、頼義にとってとても都合よく事件が起こります。あまりにタイミングが良すぎるので、頼義側の陰謀であったのでしょう。 『陸奥話記』には、おおよそ次のような顛末が語られております。 ――意訳―― 酋長の安倍頼時は、国司である源頼義の任期の最後に、鎮守府――胆沢(いさわ)・安倍氏の本拠――にて平身低頭、最高のもてなしをして気持ちよく国府――多賀城――に帰しました。 ところがその国府要人らの帰路を狙って、何者かが野宿中の藤原光貞らを襲撃し、人馬を殺傷してしまいました。 その情報を聞いた源頼義は怒り、被害者の藤原光貞を呼んで容疑者の確認をすると、安倍頼時の息子、貞任(さだとう)だと言うのです。 貞任は、かつて藤原光貞の妹を娶ろうとしていたらしいのですが、光貞が安倍一族の卑しい身分を理由にそれを許さず、貞任はそれを屈辱として恨んでいたというのです。 源頼義は激昂し、安倍頼時に対し、息子貞任を処罰するように要求しました。 ところが安倍頼時は 「貞任がいかに愚かと言えども、我が息子は差し出せない、それで攻めてくるというなら、一緒に討ち死にするのもまたよいではないか」 と親族に洩らし、親族もそれに賛成しました。 結局、頼時は貞任の処罰を拒否したので、ここに源頼義は大義名分をもって安倍氏討伐に軍勢を動かしたのです。
もちろん、その討伐軍の中には藤原経清も平永衡もおりました。 ところが、その際平永衡が、安倍氏から賜った銀の兜をかぶって進軍していたので、源頼義は 「永衡は安倍氏と通じているに違いない」 と断罪し、斬首してしまいました。 それを知り、最もショックを受けたのは藤原経清だったことでしょう。 永衡同様、安倍氏の娘を妻に持つ経清は、明日は我が身か、と考えたかもしれませんが、まがりなりにも権大夫――五位相当――の経清は、つまりは朝廷の高級官僚ですので永衡のように斬首されることはなかったと思われます。なにしろ格としては国司である源頼義に比べてもさほど遜色ありません。 したがってここで経清のとるべき方法としては、安倍氏の女である妻と離縁をすることでしょう。それをもって身の潔白を証明すれば、特にそれ以上の追求もなかったことでしょう。 ところが、藤原経清は全く逆の行動をとりました。 源頼義との縁と名誉を捨てたのです。つまり朝廷への裏切りです。 名門藤原氏の名前に泥がつくことも顧みず、あえて卑しい蝦夷の酋長側に寝返り、安倍氏と共に源頼義率いる朝廷軍に刃を向けました。 経清は妻との愛を優先したのです。 まさにデビルマンです。 そして、「黄海(きのみ)の戦い」と呼ばれる戦にて、見事に源氏が率いる官軍を撃破してしまったのでした。 |
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「火のないところに煙は立たず」と言いますが、津軽に偽書が生まれ、それが一時的にせよそれなりの信頼を得られた背景には、やはりそれなりの土壌が必要なはずです。偽書を生み出すだけであれば、いくらでも可能でしょう。しかし、それが信頼を得られたという部分が問題なのです。専門家をして「これはあり得る」と思わしめる土壌があったのでしょう。津軽においてその土壌を想像するのはさほどに苦労しません。何故なら、津軽は国内有数の縄文文化の環境に包まれているからです。 特に、遮光器型土偶を擁する縄文文化の一大ブランド、「亀ヶ岡文化圏」などは縄文時代を考察する上で極めて重要な指標ともなっております。 また、青森市の遺跡になりますが、縄文文化に都市は存在しなかったという定説をくつがえした「三内丸山(さんないまるやま)遺跡」があります。この遺跡に至っては、弥生最大級の「吉野ヶ里(よしのがり)遺跡」に匹敵する規模の都市だということもわかっております。もっと言うならば、遺跡規模が同レベルだからと言って、同規模の都市だったなどと単純に考えることはナンセンスです。なにしろ三内丸山は縄文時代の遺跡です。吉野ヶ里遺跡よりもはるかに古い都市なのです。 例えば、江戸時代の江戸は人口100万人だったと言われておりますが、現在私が住んでいる仙台の人口も100万人強です。それをもって東京と仙台が同規模だなどとは口が避けても言えません。あくまで時間軸を想定に入れた相対性という視点を忘れてはならないのです。 もちろん、三内丸山の全域が、同一時代に現在の遺跡規模ほどの繁栄があったとは言えません。長い時間にわたってそこに繰り返し都市が重複展開したと思われるからです。しかし、それはそれで、そのような都市性の強い文化が定着していた証拠でもありますから、現在でいう国家のかたちかどうかは別としても、縄文時代に既になんらかのルールに基づいた統一規格なり文化なりが存在していたことは間違いないと思います。 しかも縄文文化とは交易の文化です。ということはどこかに相手側も存在していたということになります。事実、本来青森にはないはずの出土品なども多々見受けられます。 衝撃的な木造駅駅舎
三内丸山遺跡 それにしても、三内丸山遺跡の資料館には、なんの衒(てら)いもなくクジラやイルカ、サメの骨が出土品として展示されてありますが、よく考えたらこれはかなり驚くべきことではないでしょうか。当時の技術で一体どうやって捕獲したのでしょう。石鏃と貧相な船しかなかったと思われる時代に、どうやって海上であの巨大な生き物と格闘し、そして仕留め、陸揚げしたのでしょう。ヘミングウェイの『老人と海』もびっくりです。 どうしても気になり、学芸員(?)に質問してみたのですが、わからないとのことでした。変な質問に、実に困った顔をされておりました。学芸員さん、すみませんでした(笑)。 |



