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学校と教育

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体罰ー全裸ランニング

なぜスッポンポンで走らせるのかわからない。恥をかかせて反省させるためだろうか。
試合でミスをしたからといって、そんな体罰をするのは、まったく教育的指導ではないと言える。
本来の部活動指導からはなはだしく逸脱している。
ある程度先生が怖いというのは必要なのかもしれない。親父が怖い、お袋が怖いというのも必要なのかもしれない。
それは畏怖の念のなかにも、尊敬ということが備わっているからだと思う。
しかし、ときどきこういう指導者がいるのである。ただ怖がられているだけ。怒鳴るは当たり前、そして叩く蹴る。昔はこれが当たり前だと言っている。

大阪の公立中学校での話のようだ。そしてその前には岡山の私立高校でも。サッカー部と野球部の話である。片方は起訴されて、判決も受けているとか。でも片方は定職2ヶ月である。

何十年も前の話だが、私が高校生のときである。八戸市内の某私立高校の話である。その高校は数年前に甲子園でベスト4に入った野球の強い学校として有名になっているが、かつてはレスリング部が強く、全国にその名をとどろかせていた。私と同学年には全国制覇し、のちにオリンピックで二つのメダルを取った人もいる。
おそらく地元の放送局が取材したのだろうと思うが、テレビでそのレスリング部の紹介をするときに、監督が、その将来世界的な選手になる生徒を全裸にして走らせているシーンを流した。これだけ厳しく練習をしたり、罰を与えたりしているのだということを、平気でメディアを通して流していたのである。とても違和感を覚えたのを覚えている。そこまでする必要があるのかと。
まだまだ体罰問題が大きな社会問題になっていなかった時代なので、当たり前に放送局は流し、監督も自慢そうに映っていたのである。その監督は同系列の学校の副校長になり、今どうしているかはしらないが、昔のことなので時効と笑っているのかもしれない。後悔しているのであればまだ見込みがあるが。

私はもともとメディアに対して不信感を持っている。弟が海でおぼれ死んだときも、学校の言い分だけを記事にし、現実のことは一言も流さない。学校ではきちんと指導した。でもその子は守らなかった。一つの死を無駄にするような、そんな新聞報道だった。だからいろいろな記事を見ても、実際はどうなんだろうと思う、という目で私は読んだり見たりすることが多い。そして学校にも不信感を持った。そういう私が学校の先生になったのは、皮肉的とも言えるが。もっとも弟の学級担任だけは、たびたび家を訪れ、1周忌にも来てくれた。申し訳ないと頭を下げるばかりであった。私の指導のなさもあるということだったと思う。別に担任の先生が悪いわけでも何でもないのだけど。こういう指導者でありたい。


何か教育だけでなく、社会全体で、昔の日本の美徳が失われてしまい、責任のなすりあいをしているような気がする。急に大きな話しになったかもしれないが、そうではないと思う。全裸ランニングをさせた指導者のどこを尊敬すればいいのだろう。時代の違いがあるかもしれないが、まったく対応が変わったメディアのどこに正義感があるのだろうか。

参観日

今日は参観日らしい。
今年に入って、私は妻の学校の年間行事をまったく把握していない。
そろそろこんな行事がるんじゃないかぐらいはわかっているが、何日に何があるなんてまったくわからない。
昨年度は、年間行事予定表が、このコンピュータのおかれている部屋に貼ってあったので、だいたい把握していたが、今年は貼っていない。そして私も妻に聞かないし、妻も別に必要ないと思って私にはしゃべらない。

参観日であるが、最近の参観日はいろいろなパターンがあって面白いと思う。
昔は1時間の授業を見た後に、年度始めであればPTA総会をやって、学年懇談をやり、学級懇談で閉めるというパターンが多かった。年度始め以外でも、1時間の授業の後は学年懇談と学級懇談をやるのがパターンであった。

オープンスクールとして、好きな時間に自分の子ども見に来てもいいという参観日をやっている学校が増えてきている。また給食を一緒に食べようという参観日もある。それ以外にもたくさんあると思う。

私個人的には今のような参観日には賛成である。いままでの参観日では子どもも先生も化粧をする。本当の学校での姿が親には見れない部分もある。でも給食を一緒に食べたり、昼休みに子どもたちが遊ぶ姿を見たり、先生たちが休み時間にどんな動きをし、子どもたちとどのように接しているかを見てもらえれば、化粧をしない素の姿をいくらかでも見てもらえるのではないかと思うのである。
普段、子どもも先生も頑張っている姿、そして足りない部分を保護者から見てもらって、忌憚のない意見を言いながら、今後の成長へとつながればいいと思っているのである。

もっとも保護者は自分の子どもがメインだから、そこに集中すると思うが、いじめなどの問題もある昨今、全体の様子を見ようとする方もたくさんいると思う。

教育委員会や教育事務所、そして地域の実力者による学校評議会などもあるが、直接教育に携わっているのはやはり教員と保護者であるから、保護者の方にたくさん見てもらうのが一番かなと考える。そして参観日以外にもどんどん気軽に学校へ足を向けてほしいものである。そのためには学校の敷居を低くする必要がある。

私は部活動中によく保護者の訪問を受けた。仕事帰りのお父さんたちと、どうすれば勝てるか!などと話していると楽しくなる。逆になぜ勝てないんだ!先生の指導が悪いんじゃないの言われると、ちょっとムキになったりして言い返したり。でも親がこうしたらいいんじゃないかと言ってくれるので、ありがたかった。帰り際には「先生また飲もう!」と言ってくれるし。そういうお父さんたちは、自分の子どもばかりでなく、他の子どものことについても気にかけてくれることが多かった。

開かれた学校と言われている昨今である。お互いを理解するうえでも大切なことではなかろうかと思うのである。ただし、不審者対応をしっかりとしなければならないのも事実である。

大学を卒業するときに、ゼミの先生から、「授業の前に必ず指導案を書くくらいの気持ちで頑張りなさい。」と言われた。日本古代史専門のその先生は、教育面でも少し研究をされており、私にアドバイスをしてくれたのである。
初任者の頃、1時間の授業にその4倍くらいの時間をかけて準備するのが理想だと、先輩教師から言われた。地域の歴史研究家としても有名な先輩教師は、そのあと、「まあ、現実は無理だけど。」と笑っていた。

確かに指導案を書くことで、しっかりとした授業の準備はできると思う。そして実践を繰り返すことで、いい授業ができるようになると思う。でも、それをしていたのであれば、教師は一生眠れないだろう。24時間じゃ足りないだろう。

私の場合はノートを作り、1時間1時間の授業の流れを、形式にこだわらずにメモ書きしておいて、それを毎年、見直しながら、付け足していったり、削除しながらやっていた。他人が見てもわからないようなメモ書きである。

指導案をまったく書かなかったわけではない。必ず年に最低2回は指導案を書いた。書いたというか書かされた。ほとんどの場合はA4判2枚〜3枚程度の略案であるが、細案も数度書いた記憶がある。社会科の授業のやつ何回かと道徳の授業のやつ1回。10枚くらいは書いていた。作成するのにかなりの時間を要するのである。もちろん机上だけではない、準備物にも時間がかかる。

3年間ほど現場から離れているが、現在もそれほど指導案の書き方は変わっていないのだろうと思う。
一字一句の言葉にこだわり、授業の展開にこだわり、しかも森を見ずして何とかで、1時間の授業だけでなく、単元や1年間を見通した視点も必要になってくる。評価基準、評価規準なども重要視されてきている。

毎日書くことは不可能に近い。ただ、指導案を何度となく書いて、それを実践し、反省し、それを繰り返していくことで、授業の指導能力は高まっていくものだと思っている。それは本末転倒であるかもしれないが、人に見られ、指導案を書かなければならない、となると授業の工夫をしたり、勉強したりするわけで、苦しいながらも自分の成長へとつながるのである。
理想は教師という仕事が授業だけに集中できること。そうなれば毎回指導案を書き、授業研究に十分な時間をかけ、日々の授業の反省をしっかりでき、次につなげていける。年間計画作成やら評価基準作成やらも相当な時間をかけなければならないものだから、教科だけに集中できるようになれば、教師の指導能力はもっと高まっていくことだろう。
かといって、それは現在の社会システムからいって無理なことであり、教師は様々な教育的な指導やら事務関係の仕事をしていかなければならない。
生徒指導に追われる場合もある。中学校では部活動関係の仕事に多くの時間を費やさなければならない場合もある。(部活の時間だけではない、部活動の書類関係などもかなりある。)そして行事関係である。(簡単に修学旅行といっても、それの計画やら外部との連携やらで、担当者になるとものすごい負担がかかるのは身を持って体験した。)

これから更に学校現場は厳しい状況におかれることであろう。精神的な病に陥る教師も増えてくることだろう。それでも、自分が何か一つでも頑張れた。という気持ちで、そしてそれが子どもたちに還元されたときに、また前向きになれるのである。

朝の会と帰りの会

小学校の場合、学級担任は自分のクラスの子と多くの時間を過ごすことができる。音楽や体育などの専科を除いて、登校から下校まで、ほとんどの時間を一緒に過ごす。

中学校の場合、自分のクラスの生徒とは、朝と給食と帰りと、そして自分の専門教科の授業と、小学校に比べて、接する時間がだいぶ少なくなる。

何気ない毎日の朝の会と帰りの会であるが、たった10分とか20分くらいの時間であるが、私はとても大事な時間だと思っている。

まずはどのような流れにしていくかである。何のための朝の会と帰りの会なのかを考えれば、おのずと流れも見えてくるのかもしれない。連絡としてだけ、出欠の確認だけの時間であれば、極端な話し、連絡することがなければ帰りの会なんていらない。そして学級担任なんていうのもいらない。交代でクラスに行って、話しをすればいいのである。
朝の会と帰りの会は、自分たちの生活をしっかりと見つめていく、そういう場だと思っている。今日はこんなことを頑張るぞ!と確認したり、意欲付けをしたり、じゃ、どうだったと、帰りの会に反省やら確認やらをして、明日はもっと頑張ろうかな、という気持ちを引き出させる。

若いときに、短学活のことを、先輩から話しを聞いたり教えられたりした。そして自分なりの流れを作り実践してきた。またそれをその時の生徒に応じて学校に応じて変えていったりした。
でも、マンネリ化ということで、ずっと悩んでいた。形式上の、表面だけの上っ面しかないものであり、私の工夫や指導が足りない部分だろうと思った。
ただ、最後の「先生から」で、子どもたちとフリーに話しをしていると、子供たちの本音が見えてくる。香港に来る前に持った最後のクラスである。それまでの私は、先生からのときは、きちんとした姿勢で話しを聞くこと、それにばかり気を遣っていたが、生徒に、どう思うとか、どうしたらいい、など投げかけていくうちに、いろいろな意見が飛び交ったりして、時間があっという間に過ぎていった。時には漫才みたいな形で冗談で終わることもしばしばであったが、生徒の自主性もそこから生まれてきたときもある。

もちろん、しっかりした流れで、しっかりと生徒一人一人、日々の目標と反省をすることが一番の重要なものだと思っている。フリートークでは全体のものとは必ずしもなりえない。発言権の強い生徒にとってはいいが、おとなしい生徒は、依然として受け身のままである。
復帰後の課題はこれだと私は思っている。

朝の会や帰りの会は、道徳の授業の重要性と同じくらい重要なものである。道徳の授業を1年間しっかりとやるのとやらないのでは、大きな差が生じてくる。道徳はすぐの結果は期待できるものではないし、沈黙する時間も実は大事である。他の教科だと、先生の質問に反応がないのはあまり良くないことだが、道徳の授業の場合は、反応がなく沈黙するのも、それは考えていることであり、したがって、極端な話し、最後のまとめがなくてもいいのである。ただ、継続していくことで、子どもたちがどんどん成長していく。それと、朝の会や帰りの会は同じであると、私は考えている。だから毎日しっかりと指導していくことが大切だと思う。

身なりをきちんと!

生徒がTシャツや夏用の制服の上(ワイシャツ)を、ジャージや短パン、もしくはズボンの中に入れずに、学校で生活している場合、それを見てすぐに注意した。身なりをきちんとすることが大切だということも教えてきたつもりである。

ところが、最近の社会的環境などから、身なりをきちんと、といっても通用しない。

ファッションもあるだろうが、普段着でいるときはTシャツをズボンの下入れて歩いている人はほとんど見られない。かえっておかしく見えてしまう。時代の変化だろうか。という私もスーツを着たり、ちょっと正式な服装が必要なとき以外は、絶対にズボンの中に上着を入れたりすることはしない。
もちろんファッション性などを考えて、上着を下のズボンなどに入れるのがいい場合もあるが、私はそういう服装をまったく最近していないから(Tシャツに短パンがほとんど)、今度現場に復帰したときに、生徒にどのように指導していったらいいか悩んでしまう。

制服については簡単だと思っている。開襟シャツのようなものであっても、制服は男性の着るスーツと同じであり、ズボンの中に上着のシャツを入れるのが当たり前だと思っている。それがマナーであり、相手に好印象を与えることであり、正式な場、たとえば仕事として、生徒の場合は勉強をする場として、大切だからである。
困るのは、スポーツ的な服装をしているときである。ジャージにTシャツでいるとき、短パンにTシャツでいるとき、必ずしも、安全性とか、だらしないとか、で指導できなくなっている現在の環境がある。
だからであろうか、私が現場から離れた2年半前のときでも、多くの生徒がTシャツを外に出して過ごしている姿が多く見られるようになり、教師たちも注意しない。保護者も注意しない。もっとも若い教師たちの中には、それのほうが自然だと感じているところもある。だから教師たちもシャツをズボンの中に入れなくなってきている。

私も、実はTシャツを中に入れたくない派であるから、プライベートのときはそうしてきた。ただ、どうしても、学校という場で、教師としての立場として注意するからには、自分もきちんとした服装をしなければならない。だから学校にいるときは必ずズボンの中にシャツを入れていた。だが、そのきちんとした服装って何なんだろうと、私自身が今悩んでいるのである。昔の人が言うきちんとと、最近の人たちが言うきちんとは、やはり時代の変化に応じて変わってきており、ちょうど時代の狭間にある我々の世代は、子供たちを指導するにも悩むのだろうと思うのである。

下らないことと思われるところもあるだろうが、子供たちにとっては、生きる力を植えつけさせていくいい材料だとも思っている。学級活動などでディベート形式で討論させるのも面白いかもしれない。もっとも学校として、きちんと指導させることが必要であるから、シャツ出しはいいんだと子供たちが勘違いしてしまわないように指導しなければならない。慎重にやらねばならない。そうなると私のほう(教師のほう)から、なぜそういう服装をすることが大事なのかを、生徒に納得する形で教えていかなければならない。とりあえずは規則を守ること、学校の決まりを守ることの大切さを教えていくことが大切であり、その基盤がなければ前には進めない。
そしてその決まりがなぜ大切なのかを子供たちが考えていこうとする。まさにそれが生きる力につながっていくのではないかと思うのである。

現在において、シャツを出して歩くことは、けっしてだらしないことではない。むしろそれが自然のようにも思われるときがある。ただ、学校は様々なことを学ぶ場であり、そのことを子供たちにも納得させていかなければならないと思っている。

生徒たちに、先生たちもしくは大人たちは自由でいいなと、よく言われた。服装も髪型も、その他いろいろ自由だから、ということであろう。
でも大人も様々な規則の中で生活している。それが社会で生きていくために必要なことであるから。


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