岸和田市本町のまちづくり

2012年4月 7(土)夢灯路開催 8(日) 紀州街道にぎわ市 大阪城甲冑隊出演

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リバ−ティ−(岸和田市並松町にある)の東側に旭スポ−クスの会社があります。その会社の東側の壁が煉瓦造りの壁です。130年近くの歴史ある煉瓦の壁が、旭スポ−クス跡地の開発で岸和田煉瓦(岸煉)の壁が壊されそうになりましたが、この開発の会社の社長さんが理解を示してくださって今現在残っています。しかし開発が進み住宅が立ち並ぶと道を広く取らなければならないちう法律があるので、それまでに煉瓦を移動して保存しなければ、この煉瓦の再生はありえません。この岸和田煉瓦は、新島襄とも関係が深くこれと同じ煉瓦が同志社大学の煉瓦なのです。
私からの提案この煉瓦に関係する三箇所の場所に移動をする
.ンカン場  煉瓦を焼く時の石炭をこの場所に集めれた
岸煉の会社の跡地(現在:ナムコスパ−リゾ−トでリバティ−)
0込み線が敷かれていた南海岸和田駅
の三箇所に「煉瓦」のモニュメントとして設置する。その横に解説を付ける。

   奥  正孝

キシレンの煉瓦(れんが)塀について
                         北翔大学生涯学習システム学部
                                 教授 水野信太郎(工学博士)
 わたくしは現在、北海道内の大学で建築学を研究している一教員です。昨日わたくしの研究室へ岸和田市民の御一人から速達の郵便が届けられました。内容はキシレンの煉瓦を積んでできた塀が取り壊されるかもしれないとのことです。その方は、わたくしが煉瓦の歴史を研究しており、東京の大学院学生であった当時、何十回とキシレンに通い続けていたことを御存知の方です。時代は移りましたので、おそらく今では岸和田市民の大半が、かつて岸和田の地に日本を代表する煉瓦会社があったことなど全く御存じないでしょう。
 本日は急ぎ、その煉瓦の塀が持ついくつかの面での価値を文書にして、可能ならば今後とも長く岸和田市民共通の「たからもの」として残されることを願うものです。

これまでのこと(歴史)に関して
 岸和田煉瓦という大規模な企業・製造所は、煉瓦生産の業界で西日本の双璧をなしたガリバー工場の一方でした。その創業は明治5年と驚くほど古くまで遡ることが出来ます。煉瓦そのものが日本国内で焼かれるようになったのが江戸時代の終わり頃ですので、明治5年は大変に早い時期です。キシレンの社名変更の歴史は、以下のようなものです。
明治5年9月 岸和田藩士の山岡尹方(やまおか・ただかた)が岸和田藩の練兵場跡
       に丸窯を3基築く 明治になって禄を離れた士族授産として煉瓦製造
明治18年   同上の場所(岸和田市並松町)で屋根瓦製造工場
明治20年7月 第一煉瓦製造会社
明治26年11月 岸和田煉瓦株式会社
大正8年12月 岸和田煉瓦綿業株式会社
昭和46年4月 株式会社岸煉(この後さらに株式会社キシレンとなるのか要確認)
 岸和田煉瓦は大阪(おそらく大阪市)商工会議所のメンバーとして株式会社登録をした第一号と伝えられる西日本の名門企業です。
 全国的な視野で煉瓦生産を見渡しますと、東日本が日本煉瓦製造株式会社、西日本は大阪窯業と岸和田煉瓦で占められていました。日本煉瓦製造は本社が東京、工場を埼玉県深谷市に置いて明治20年10月25日に創立されます。日比谷公園の周囲に政府の各官庁舎を建設するため、渋澤榮一や益田孝ら財界人の出資でつくられた、半ば国策会社の性格をもつ大企業でした。現在の法務省や東京駅、そして旧三菱丸ノ内煉瓦街に製品が大量に使用されました。この煉瓦会社の子会社が秩父セメントです。秩父セメントは、山口県の小野田セメントと合併して、現在は太平洋セメントになっています。
 岸和田煉瓦と並ぶ西日本の煉瓦界の双璧であった大阪窯業株式会社は
  明治15年1月 硫酸瓶製造会社を1月12日に創立 大阪造幣寮で使用する硫酸を入れるためのボトルである「硫酸瓶」を製造して納入する窯業専門の会社
  明治18年5月 上記の硫酸瓶とは別に、建築用の煉瓦も製造し始める
  明治21年12月 有限会社大阪窯業に改称(硫酸瓶製造停止)建築用煉瓦製造の専門に
  明治27年1月 大阪窯業株式会社
 大阪窯業も大正7年2月からセメントの製造に乗り出しています。そのセメント分野が本社から子会社として独立するのは、昭和元年の12月でした。
 キシレン・岸和田煉瓦の製品は近畿地方だけでなく、瀬戸内海の水運を利用して山口県下関市や鳥取県米子市内などでも使用されていました。おそらく近畿・中国・四国・九州一帯に広く販路を有していたものと思われます。また広島県竹原市吉名町の山陽煉瓦株式会社では自社のマークとは別に、岸和田煉瓦綿業株式会社へ専門に納入するため岸煉の社章である十字型の刻印を押した煉瓦をも製造していました。なお岸煉に限らず泉南地方の堺・岸和田・貝塚などで生産された煉瓦は、福岡県北九州市ほかで確認されています。

これからのこと(未来)への視点
 過去の歴史的な重要性だけでなく、キシレンの煉瓦塀は残しておかれますと、今後とも無限の価値を生み出してくれるものと考えられます。その理由は、ひとつには現代では日本国内で焼くことが出来ない色調の煉瓦だからです。その上、あの煉瓦塀に使用されている煉瓦は充分に焼きが良いため、今後とも風化の心配はなく末永く現状を未来に伝えてくれます。現在日本の煉瓦工場はすべてJIS規格の工場として認定を受けています。その結果、不良品になるような煉瓦は生産しなくなりましたが、逆に日本中どの工場でも同じような煉瓦しか焼くことが出来なくなってしまいました。それどころか煉瓦の魅力の最大の点である「色むら」さえも全く出すことが出来なくなってしまったのです。
 一方、キシレンの塀は充分に焼き締められています。燃料は薪(まき)ではなく、石炭です。石炭を燃やしますと窯の中の温度を1200℃以上まで高めることができます。900℃前後までしか焼成温度を上昇させることができない薪に比べますと、キシレンの塀の煉瓦は非常に焼きが良く、硬く焼き締まっています。このため雨に濡れるなどしても、煉瓦が水分を吸い込む割合(吸水率)が小さく、その事によって結果的に長い年月を経ても痛まない(風化しない)材であると言えます。それに加えて煉瓦はメンテナンス・フリーと呼ばれる維持管理が不要な「手のかからない」放置したままで構わない素材なのです。新築時は勿論きれいですが、何十年も何百年も経過しながら「美しく老いる」稀な材料です。
キシレンの塀に使用されている煉瓦の物性がきわめて優れている点とは別に、あの塀にはハイ・ソサエティーな要素が盛りだくさん隠されています。キシレンの創業者である山岡尹方(1841〜1915)は岸和田藩で重要な地位をしめていた人物です。その彼は明治維新後、最新の西洋文化に触れる機会を得ました。そして新島襄(にいじま・じょう)の関係からクリスチャン(キリスト教徒)となります。実は新島の明治16年10月12日の日記には「煉瓦は泉南産が良い」と記されていて、同志社大学に使われている煉瓦にも岸和田産煉瓦が含まれているものと考えられます。キシレンの煉瓦塀は同志社の兄や姉とは申せませんが、声を大にして「同志社の弟妹」だと宣伝して結構です。
キシレンの煉瓦塀には近代の西洋文化、名門大学、博愛のキリスト教精神、そして現在では高級感の漂う住宅街などと言う、いずれもハイ・ソサエティーな印象があります。
以上、披瀝いたしました通り『旧キシレンの煉瓦塀』は、もう今日では得ることが不可能な「歴史性」と「物理的性質」と「話題性」と「高級感」を併せ持つ、ほんとうに魅力的な都市景観の要素です。この時期に残しておかれますと将来長く有形無形にして無限の財産を、所有者・住人・使用者・岸和田市民・そして未来に生まれて来る日本人ほか全ての人々に価値を与えてくれるものと思います。

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