道端の出会い ①

このブログ「道端の出会い」を立ち上げて、10年が経ちました。感謝。

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第72代 白河天皇
成菩堤院陵
じょうぼだいいんの みささぎ
京都 伏見区 2010.8.
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白河天皇 成菩堤院陵
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今回は 藤原政治の終末期 源氏・平家を筆頭とする  武士集団の台頭 と

第72代 白河天皇( 法王 )です  

かつて 鴨川( かもがわ )は 竹田( 京都市伏見区 )の 東側を流れ  
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鴨川と桂川の合流点付近 img

下鳥羽 ( 京都市伏見区 ) の南で  桂川と 合流していました  

この 旧鴨川と桂川の 合流点附近に位置する  鳥羽の地は 

陸路は山陽道  水路は淀川を経て  瀬戸内海へ通じる 水陸交通の要所で

運ばれてくる 物資の多くは  京の都に最も近い 鳥羽の港で陸揚げされました 


現在 近鉄電車京都線で 京都から奈良へ向かって  または

京都市営地下鉄烏丸線で  京都駅から 10分の 「 竹田 」 駅付近に 

「 白河(72代) 」「 鳥羽(74代) 」「 近衛(76代) 」 という

院政の権化 」 とも言うべき 平安時代後期 天皇の 陵墓があります

その御陵も  京都市唯一の 都市高速道路  阪神高速道路8号 京都線

城南宮 出入り口が 開通 ( 平成20(2008)年1月19日 ) し 道路整備が整って  
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阪神高速道・城南宮出入り口附近

附近一帯の景観は 一変しました

白河天皇も  騒がしくなってきたぞ と  驚きでしょう

出家して 院政を開始した 「 白河天皇・72代 」 は 「 法王・法皇 」 となっても

戒壇 ( かいだん ) で 受戒せず 法名も名乗らず

息子の「 堀河・73代 」  孫の「 鳥羽・74代 」  曾孫の

( 実際は「 法皇 」の息子と言う説が有力 ) 「 崇徳・75代 」 天皇と

三代 43年に渡って 院政を しかれた 法皇であった 

平安京の 真南に  離宮を造営し( 鳥羽離宮 ) その豪壮さは  当時の日記によると

「 さながら遷都( みやこ うつり ) の ごとし 」 と 表現されています
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専横と 執権の限りを尽くした 好色な 白河法皇 」 も

やがて 崇徳天皇・75代 の  御代に 77歳で 生涯を閉じられる

この時代以降の  天皇たちは 藤原政治の 終末期 

源氏・平家を筆頭とする 武士集団の台頭 という 端境期( はざかいき )にあって

いわゆる「 院政時代 」 とでも言うべき  皇室内の 権力掌握に明け暮れます

天皇たちは  幼くして即位し  実権は 上皇・ 白河法皇  にあって 

「 天皇 」 とは 名ばかりで  法皇が 全てを支配しました

その端緒を 築いたのが  この「 白河法皇 」 で 

「 白河法皇 」 は 60歳で  10歳そこそこの 権大納言藤原公実  の娘

「 璋子・たまこ・ 後の待賢門院 」 に 手をつける  

そして 「 璋子・たまこ 」 が 17歳になった時  
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自分の孫 15歳の 「 鳥羽天皇・74代 」 に 押しつける のです

生まれたのが 「 顕仁( あきひと ) 親王( 後の崇徳天皇・75代 ) という ことで

表向きは結婚した 「 鳥羽天皇・74代 」 と 「 璋子・たまこ・ 後の待賢門院 」 の

第一皇子でありな がら  誰もが 「 白河法皇 」 と 「 璋子 」 の間に 生まれた子だと
  
信じて 疑わなかった そうです

実際 「 鳥羽天皇・74代 」 は 「 崇徳( すとく )天皇・75代 」 のことを

「 叔父子(おじご) 」 と呼んで 生涯 憎み続けたと  伝えられました


その後 「 鳥羽天皇・74代 」 と 「 璋子・たまこ・ 後の待賢門院 」 の 間には

数人の  皇子皇女が生まれ ますが  その内の 何人かは 「 白河法皇・72代 」  と

「 璋子・たまこ 」 の 間に 生まれた子では ないかと 疑われていた  そうです・・・


このあたりの 確執から 「 崇徳上皇・75代 」 は 「 鳥羽法皇・74代 」が

崩御すると同時に 挙兵する  保元の乱 (1156年)  であります

「 崇徳上皇・75代 」  派と 「 後白河天皇・77代 」 派の 二つに割れた 天皇家に

藤原氏 源氏 平家も  それぞれ二分して戦うが 結果は「 崇徳( すとく )上皇・75代 」 派の

敗北となり  崇徳上皇は 讃岐( 香川県・陵墓は坂出市 )へ  流されます

院政 」 を開始した 権力者として 「 白河天皇 」 は

世に知られるが   実は 系統に不信と疑心暗疑を植え付ける  ことになった張本人 で

鳥羽天皇(74代)からも  崇徳天皇(75代) からも  そして  

おそらくは 「 璋子・たまこ・ 後の待賢門院 」 からも  憎まれた  

のではないかと  推測される  そうです・・・

「 白河法王 」 も やがて 「 崇徳上皇・75代 」 の 御代  

大治4( 1129 ) 年7月 に 77才で生涯を 閉じて  その 御陵は

現在  道路やガレージ  開発で少なくなった 田圃に囲まれて います
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住宅開発で 少なくなった田圃に囲まれて  

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過ぎゆく時を たいせつに・・・

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