道端の出会い ①

このブログ「道端の出会い」を立ち上げて、10年が経ちました。感謝。

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第47代 淳仁天皇
じゅんにん てんのう
淡路陵 
あわじの みささぎ
南あわじ市 2011.1.
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冷え込む朝の 明石海峡大橋

淡路島に 唯一存在する 天皇陵で

我が国の 天皇125代の中で   「 廃帝 」 と呼ばれる 帝が いらっしゃる

それは 第47代 ・ 淳仁(じゅんにん)天皇  ただ お一人です

万葉人が多くが 歌を残し  流れる潮流に 時間をかけて渡島の  明石海峡

今では  世界最長の吊り橋  海峡大橋を いっきに渡って  淡路島が始まり
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島の南にある 淳仁天皇淡路陵を 訪れました

奈良時代  淡路島は政争に敗れた  王侯貴族の 「 流刑の島 」 でも  あったようで

天平宝字 8(764)年   恵美押勝の乱 ( えみおしかつ の らん)に  連座したとして

帝位を剥奪された  第47代・淳仁天皇は  淡路島に配流の 身となりました

『 続日本紀 』  宝亀 9(778)年3月己巳( 23日 ) 条に

「  勅、淡路親王墓宜称山陵、其先妣当麻氏墓称御墓、充随近百姓一戸守之  」 と あり

第49代・光仁天皇 は 淡路廃帝の境遇を 

哀れに思い 宝亀 3(772)年  遺体を改葬させると  

宝亀 9(778)年 山稜に列するように  したと  されています
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第47代・淳仁天皇 淡路陵

淳仁天皇陵の 所在地は  いくつか伝えられて   

江戸時代に ここの地だとされた  平地にある小丘    

自然の丘と異なって  古墳に見えて 天王森 といわれています

陵の北 1.5 ぐらいのところに  西山北古墳という 

淡路島 最大の横穴式  石室を持つ円墳がある  そうで

その円墳に 先行する  首長墓では ないか  とか

古墳を  再利用して  淳仁天皇を  埋葬したのでしょうか・・・?
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ささやかな 周濠は涸れて
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かっては周濠に流れた ? 陵墓脇のため池

淳仁天皇陵の周りは  田畑で  季節季節に 農村のニオイが・・・
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淡路といえば玉ねぎ   img

籾殻の タマネギの などなどの  風が運んでくる ニオイを想像して 
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懐かしい 思いを味わっての 参拝でした
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第47代 ・ 淳仁天皇 ( じゅんにんてんのう )

■生没年 :  
天平5(733)年 ? 〜 天平神護元(765)年10月23日(11月10日)( 32?歳
■在位 :
天平宝字2(758)年8月1日(9月7日)〜 天平宝字8(764)年10月9日(11月6日)  奈良時代後期 
6年の在位ののち 皇位をめぐる争いに巻き込まれ 天平宝字8(764)年 淡路島に配流された。
■別名 :
諱は  大炊( おおい ) 、 践祚前は 大炊王( おおいおう )
古文書では 廃帝( はいたい )または 淡路廃帝( あわじはいたい ) と呼ばれる。
■皇后・皇妃・皇子女 :
     ◎ 粟田諸姉 ( あわたのもろね )
     他 不明 
■皇居 :
淡路国三原郡  ( 現在の南あわじ市 )
■御父 :
舎人親王  天武天皇の皇子  七男として誕生    
■御母 :
当麻真人山背 ( たぎまのやましろ )
■御陵名 :
淡路陵 ( あわじのみささぎ )
御陵は淡路国三原郡に造営された。 (現在の兵庫県南あわじ市の天王森丘とされる)
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宝亀3(772)年、第49代・光仁天皇 は 僧侶60人を派遣し、斎を設けて、その魂を鎮めた。
宝亀9(778)年、山陵扱いとされた。
しかし践祚していながら、 稱徳天皇 (第48代)の意向によって、 長らく天皇のひとりと認められず、
廃帝または「 淡路廃帝 」 と呼ばれていた。
■陵形 :
山形
■所在地 :
兵庫県南あわじ市賀集
   JR三ノ宮駅(神戸市) 近くの神姫バス「三ノ宮バスターミナル」から
    淡路交通運行の 「洲本高速バスセンター」行きに乗車 
     淡路交通バス縦貫線「福良」行きに乗車 「御陵前」で下車 南へ1km
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第47代 ・ 淳仁天皇( じゅんにんてんのう )   
天武天皇(第41代)の皇子・舎人親王の七男として誕生する。 母は当麻真人山背。
だが、3歳で父が没したこともあって、天皇の孫でありながら官位を受けることもなく、存在が注目されることもなかった。

天平宝字元(757)年、聖武天皇(第45代)の遺言によって立太子した 道祖王 に代わって、未婚の女帝・孝謙天皇(第46代)により立太子された。

この立太子は、藤原仲麻呂( 後に恵美押勝に改名 )の強い推挙によるものだった。

大炊王( 後の淳仁天皇・第47代 )は 仲麻呂の子 ・ 真従(まより)の未亡人である 粟田諸姉 を妻とし、仲麻呂の私邸に住むなど、仲麻呂と強い関係を持っていた。

天平宝字2(758)年、 孝謙天皇( 第46代・女帝 ) から譲位を受け践祚した。

だが皇位に就いたのは良かったが、政治の実権はほとんど 藤原仲麻呂 が握り、また仲麻呂の後見人である 光明皇后 ( 藤原光明子・第45代 聖武天皇の皇后 ) が強い影響力を持っていた。
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淡路島 玉ねぎ畑

5000文字制限ため分割。
過ぎゆく時を たいせつに・・・

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