道端の出会い ①

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文政地震(1830年)直後の
第120代 仁孝天皇
神器の鏡 出す必要なし
転載元:朝日新聞 9月28日 be e7
2013.9.
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京都大宮御所 お車寄せ

朝日新聞( 2013・平成25年9月28日 be e7 )に 掲載されていた

磯田道史 の・備える・歴史学 』 を転載します

巡礼で投稿した 第119代・光格上皇(天皇)御陵  と 一部分に 重複があります
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京都大宮御所  御常御殿 ( おつねごてん )

地震直後の光格上皇(天皇)  「 神器の鏡、出す必要なし 」

天皇陛下( 今上・平成天皇 )が 京都御所に お泊まりに なれなくなっている。 

京都大宮御所 の 常御殿は 築146年 

明治維新の前年 1867(慶応3)年の 木造御殿だ。  

ところが この御殿の 耐震強度を調べてみたら 「 震度6強から 7で倒壊のおそれ 」 との

判定がでた。 

宮内庁は 約8千5百万をかけ 来年度中に 耐震補強 完了する  ときいた。
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京都大宮御所  御常御殿

歴史上 京都御所は  何度も強い地震に 襲われている。 

最後は 1830年の 文政京都地震だ。  時の天皇は  第120代 仁孝天皇。 

このときは まだ父の 第119代・光格天皇が 上皇として健在であった。
 

やや話はそれるが   江戸時代の 天皇のなかでは 光格天皇が  一番 「 庶民的 」 な

天皇であったろう。  生涯の経緯が興味深い。 

ひとつの恋愛が 光格天皇を 誕生させるきっかけになった  との説がある。 
 
光格天皇は 天皇の子ではない。 

父は 閑院宮典仁親王  113代・東山天皇の孫 で  

宮家から  天皇の「 養子 」 に入って 皇統を継いだ。


だから  生母( 大江磐代 )は 庶民で  9歳まで 鳥取県倉吉( 現在は市 ) の 

鉄問屋で育った  商家の娘である。

その父 つまり  天皇の祖父は 岩室宗賢という 医者で  

元は 鳥取藩家老・荒尾家に支えた  微禄の武士だった。  

先祖は 忍者で知られる 甲賀( 現在・滋賀県甲賀市 )の 地侍であった という

( 森納 『 因伯の医師たち 』 )。

この祖父が  鉄問屋の娘 りん と恋仲になり 子ができた。

しかし 岩室家は 商家との縁組みを 許さず 

りんの 実家も 微禄の岩室家との縁談に 反対だったのか とにかく 結婚はできなかった。

そこで 天皇の祖父 岩室宗賢は 「 京都に出て医者になろう 」  と 一念発起し 

妊娠中の  りんをおいて 上京した。
 

生まれた子 ( 大江磐代 ) は  可愛い女子で  9年間 倉吉で育ち  

父のいる京都にやってきて  公家や 宮家で  奉公するうち   

閑院宮典仁親王( かんいんのみや すけひとしんのう ) 様の

子を宿して  その子が 天皇になったため  

商家の娘が  天皇の生母なる ストーリーができた。

現在の 平成天皇家は 直接には この 第119代・光格天皇( 在位 1786〜1817 ) 

お血筋である。

■御母:119代・光格天皇の御生母。
大江磐代 磐代君は延享元(1744)現・鳥取県倉吉市湊町に生まれ、
医師岩室宗賢の父に連れられて、京都にのぼりました。
そして、成子内親王 ( 中御門天皇・114代・皇女 ) に仕え、内親王が関院宮典仁
親王(119代・光格天皇)に嫁いだ時、その待姫となりました。
その後、典仁親王の女房となり、 明和8(1771)年 祐宮兼仁親王( 光格天皇・119代 )ほか
三皇子を産みました。
磐代君は天資聡明で徳操高く、筆跡にも優れ、また歌道にも通じていました。 宮仕えの女性
として少しもひけをとらず、 田舎出身などと思わせなかったと言われています。
晩年は仏門に入り、69才までの余生を静かに送りました。( 鳥取県倉吉市・観光情報 )

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京都大宮御所  御常御殿

文政京都地震 の時  光格上皇 ・ 仁孝天皇の御殿は 激しく損傷した。 

「 宝暦現来集 」によれば 「 宮城内は目も当てられぬ 大損害に 御座候。

かつ御所は大破損にて 御殿向もゆがみ 」 という 状態であった。 

「 余程 傾き申し候 」 とあり 建て替えが 検討されたほどである。


建物内にいた 仁孝天皇は 常御殿から小御所の前庭まで 必死で逃げた。 

田鶴丸という者が書いた書状には  「 天皇様も 地震で お庭に素足で 飛び降り 

草の上に 立たれたらしい。 二日の夜は お庭で夜を明かされた 」 とある。

逃げた後は どうしたのか。  伊勢 ( 三重県 ) の神宮文庫に 

「 文政13年7月地震候日 」 という 秘録が残る。 

俄に庭中に莚( むしろ ) で道をつくり 天皇の座をもうけ 近臣が前後を護衛し 

女官を 随( したが ) い  ( 三種の神器のうち ) 剣と璽( じ ) を 座辺においた 」。

その場に 僧籍のい者がいたが 

「 ( 死者を弔う ) 僧尼は不浄なので  少し後ろにさがった。

剣と璽に近づけない からであった 」。  

そのとき 女官が天皇にいった。 

御所内の賢所( かしこどころ )で 神に仕える処女の 女官たちである。

「 揺れがやみません。 賢所( 別置した三種の神器の鏡 )を出しますか 」

しかし 天皇はいった。 「 賢所から出すには容易ではない。 

( 建物が ) 傾き危ないから この限りではない。 今少し猶予せよ 」。

天皇は  命がけで神器の鏡を取り出せ  とは 命じなかった。 


この日 天皇はやむなく 庭先で食事をとっている。



地震の後の 天皇には  泉殿 のちの皇后に  

地震殿という トイレ付きの 耐震避難小屋が 御所に建てられた。 

( 最後の地震は 文政京都地震 文政13・1830年 )

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京都御所

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