道端の出会い ①

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陛下 御陵 宮内庁

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第117代天皇 ( 最後の女帝 )
後桜町天皇しのび 式年祭  
200回目の命日
転載元 : 京都新聞  
京都東山区 2013.12.
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後桜町天皇しのび式年祭
                           画像 ↑ 転載 京都新聞

既投稿(2010.8.)天皇陵巡礼 第117代天皇

( 在位 : 宝暦12年7月27日(1762年9月15日)〜 明和7年4月28日(1770年5月23日))。  

江戸時代から現在まで 最後の女性天皇 ご参照

歴史上 8人いた女帝のうち 最後の 後桜町天皇( 1740〜1813年 )が

亡くなって 200回目の命日祭 「 式年祭 」 が24日

京都市東山区の 泉涌寺 にあると 月輪陵

皇居で行われた
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泉涌寺
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月輪陵  
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後桜町天皇は  江戸時代中期の 1762(宝暦12)年  

弟の 桃園天皇( 116代 )が 急逝したため  

23歳( 旧暦の数え年、以下同 ) で皇位を継承。

桃園天皇の 5歳の長男( 後桃園天皇・ 118代 ) を教育し  1970年に譲位した。

天皇が即位後  初めて神々に新穀を供える重要祭祀 「 大嘗祭 」 を

女帝として  約千年ぶりに実施  和歌に秀で 約2千首を残した

生涯結婚せず  74歳で亡くなった。 ( 共同通信 )

             京都新聞 【 2013年12月24日 11時10分 】
  
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御寺 泉涌寺  

過ぎゆく時を たいせつに・・・@
 ※ 勝手ながら「コメントの窓」を閉じています。
宮内庁  
皇室ゆかりの古典籍
ネット公開へ
転載元:京都新聞  
宮内庁 2013.10.
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後鳥羽天皇勅撰の新古今和歌集の写本(宮内庁提供 ・ 京都新聞 )     

皇室ゆかりの古典籍  ネット公開へ

宮内庁は 「 古典の日 」 の 11月1日から

皇室ゆかりの 古典籍の画像や 目録を 同庁ホームページで公開する。

第1弾の画像 約1万点では  天皇直筆の書や  新古今和歌集の写本  

薩長同盟の裏書 など 歴史的な資料群を 閲覧できるようにした。


古典籍は  明治維新後に 京都御所から 東京へ 移された 蔵書群が 大半。

宮内庁の図書寮文庫にある   蔵書数約39万点のうち 目録で32万点

国文学研究資料館で  デジタル化した文書など 約8千点

明治以後の写真   約600点の画像を 先行公開する。


宮内庁図書課は 「 旧宮家や 公家などを含めて 京都ゆかりの品々が多い。

研究者だけでなく 市民も いつでもどこでも見られるよう

順次インターネットで 公開する画像を増やしたい 」  としている。

              京都新聞 【 2013年10月30日 23時00分 】 
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皇居

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宮内庁
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伏見櫓とお呼びで 2層櫓

既投稿記事御陵巡礼
第82代 後鳥羽天皇・大原陵ご覧下さい。

過ぎゆく時を たいせつに・・・’
文政地震(1830年)直後の
第120代 仁孝天皇
神器の鏡 出す必要なし
転載元:朝日新聞 9月28日 be e7
2013.9.
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京都大宮御所 お車寄せ

朝日新聞( 2013・平成25年9月28日 be e7 )に 掲載されていた

磯田道史 の・備える・歴史学 』 を転載します

巡礼で投稿した 第119代・光格上皇(天皇)御陵  と 一部分に 重複があります
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京都大宮御所  御常御殿 ( おつねごてん )

地震直後の光格上皇(天皇)  「 神器の鏡、出す必要なし 」

天皇陛下( 今上・平成天皇 )が 京都御所に お泊まりに なれなくなっている。 

京都大宮御所 の 常御殿は 築146年 

明治維新の前年 1867(慶応3)年の 木造御殿だ。  

ところが この御殿の 耐震強度を調べてみたら 「 震度6強から 7で倒壊のおそれ 」 との

判定がでた。 

宮内庁は 約8千5百万をかけ 来年度中に 耐震補強 完了する  ときいた。
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京都大宮御所  御常御殿

歴史上 京都御所は  何度も強い地震に 襲われている。 

最後は 1830年の 文政京都地震だ。  時の天皇は  第120代 仁孝天皇。 

このときは まだ父の 第119代・光格天皇が 上皇として健在であった。
 

やや話はそれるが   江戸時代の 天皇のなかでは 光格天皇が  一番 「 庶民的 」 な

天皇であったろう。  生涯の経緯が興味深い。 

ひとつの恋愛が 光格天皇を 誕生させるきっかけになった  との説がある。 
 
光格天皇は 天皇の子ではない。 

父は 閑院宮典仁親王  113代・東山天皇の孫 で  

宮家から  天皇の「 養子 」 に入って 皇統を継いだ。


だから  生母( 大江磐代 )は 庶民で  9歳まで 鳥取県倉吉( 現在は市 ) の 

鉄問屋で育った  商家の娘である。

その父 つまり  天皇の祖父は 岩室宗賢という 医者で  

元は 鳥取藩家老・荒尾家に支えた  微禄の武士だった。  

先祖は 忍者で知られる 甲賀( 現在・滋賀県甲賀市 )の 地侍であった という

( 森納 『 因伯の医師たち 』 )。

この祖父が  鉄問屋の娘 りん と恋仲になり 子ができた。

しかし 岩室家は 商家との縁組みを 許さず 

りんの 実家も 微禄の岩室家との縁談に 反対だったのか とにかく 結婚はできなかった。

そこで 天皇の祖父 岩室宗賢は 「 京都に出て医者になろう 」  と 一念発起し 

妊娠中の  りんをおいて 上京した。
 

生まれた子 ( 大江磐代 ) は  可愛い女子で  9年間 倉吉で育ち  

父のいる京都にやってきて  公家や 宮家で  奉公するうち   

閑院宮典仁親王( かんいんのみや すけひとしんのう ) 様の

子を宿して  その子が 天皇になったため  

商家の娘が  天皇の生母なる ストーリーができた。

現在の 平成天皇家は 直接には この 第119代・光格天皇( 在位 1786〜1817 ) 

お血筋である。

■御母:119代・光格天皇の御生母。
大江磐代 磐代君は延享元(1744)現・鳥取県倉吉市湊町に生まれ、
医師岩室宗賢の父に連れられて、京都にのぼりました。
そして、成子内親王 ( 中御門天皇・114代・皇女 ) に仕え、内親王が関院宮典仁
親王(119代・光格天皇)に嫁いだ時、その待姫となりました。
その後、典仁親王の女房となり、 明和8(1771)年 祐宮兼仁親王( 光格天皇・119代 )ほか
三皇子を産みました。
磐代君は天資聡明で徳操高く、筆跡にも優れ、また歌道にも通じていました。 宮仕えの女性
として少しもひけをとらず、 田舎出身などと思わせなかったと言われています。
晩年は仏門に入り、69才までの余生を静かに送りました。( 鳥取県倉吉市・観光情報 )

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京都大宮御所  御常御殿

文政京都地震 の時  光格上皇 ・ 仁孝天皇の御殿は 激しく損傷した。 

「 宝暦現来集 」によれば 「 宮城内は目も当てられぬ 大損害に 御座候。

かつ御所は大破損にて 御殿向もゆがみ 」 という 状態であった。 

「 余程 傾き申し候 」 とあり 建て替えが 検討されたほどである。


建物内にいた 仁孝天皇は 常御殿から小御所の前庭まで 必死で逃げた。 

田鶴丸という者が書いた書状には  「 天皇様も 地震で お庭に素足で 飛び降り 

草の上に 立たれたらしい。 二日の夜は お庭で夜を明かされた 」 とある。

逃げた後は どうしたのか。  伊勢 ( 三重県 ) の神宮文庫に 

「 文政13年7月地震候日 」 という 秘録が残る。 

俄に庭中に莚( むしろ ) で道をつくり 天皇の座をもうけ 近臣が前後を護衛し 

女官を 随( したが ) い  ( 三種の神器のうち ) 剣と璽( じ ) を 座辺においた 」。

その場に 僧籍のい者がいたが 

「 ( 死者を弔う ) 僧尼は不浄なので  少し後ろにさがった。

剣と璽に近づけない からであった 」。  

そのとき 女官が天皇にいった。 

御所内の賢所( かしこどころ )で 神に仕える処女の 女官たちである。

「 揺れがやみません。 賢所( 別置した三種の神器の鏡 )を出しますか 」

しかし 天皇はいった。 「 賢所から出すには容易ではない。 

( 建物が ) 傾き危ないから この限りではない。 今少し猶予せよ 」。

天皇は  命がけで神器の鏡を取り出せ  とは 命じなかった。 


この日 天皇はやむなく 庭先で食事をとっている。



地震の後の 天皇には  泉殿 のちの皇后に  

地震殿という トイレ付きの 耐震避難小屋が 御所に建てられた。 

( 最後の地震は 文政京都地震 文政13・1830年 )

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京都御所

御陵巡礼 既に投稿更新の記事ご案内
120代・仁孝天皇 月輪陵    119代・光格天皇 月輪陵
路傍人 御陵巡礼索引

過ぎゆく時を たいせつに・・・
               http://www.clocklink.com/clocks/5002-red.swf?TimeZone=JST
第75代・崇徳天皇
すとくてんのう ・ 1119年7月7日〜1164年9月14日
御廟
京都東山区祇園町南側 2013.8.
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崇徳天皇 御廟

京の路地歩き  祇園町南側の小路8耄輿按 の探索
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保元の乱で破れ  讃岐の地に流され 亡くなった 「 崇徳天皇 御廟 」 があるを知った

天皇の寵愛厚かった阿波内侍 が 遺髪を請い受けて 一塚を築き
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亡き天皇の霊を慰めたと  伝承されているのが 「 崇徳天皇御廟 」  

弥生会館・祇園町南側甲部歌舞錬場 の 裏手に植えられた  巨木の楠に護られて 

ひっそりと 祀られている  

崇徳天皇御廟  崇徳天皇は 保元元(1156)年 保元の乱 に破れ

讃岐の国に流され そのまま 彼の地で崩御

この御陵は 天皇の霊を慰めるべく この地に 塚を築いたもの

しかし その後 天皇の怨霊は 猛威をふるい  平清盛  の死も その祟りと いわれるほどに・・・ 
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人々は この地に 諸堂を建てて   その怒りが 鎮まるのを願った

現在は 「 廟 」を  遺すのみとなっている
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さて 『 保元物語 』 等によると 「 保元の乱 」 に敗れて

讃岐に流された 崇徳天皇は  松山の御堂 ( 坂出市青海町 ) を経て 

志度郡直島 ( 香川県香川郡直島 ) の 御在所に軟禁され

その後 鼓岡( 鼓ケ岡 )に 御所を設けて 移した

この間 天皇は仏教に深く 傾倒し五部の大乗経 を血書して 京都鳥羽の安楽寿院

奉納して欲しいと 仁和寺 を通じて朝廷に提出し

京都への還幸を願うも  朝廷は 小納言・藤原信西が 呪詛の意図 かもしれないと

進言して  結局 朝廷は奉納を拒絶し 送り返した 

これに激怒した天皇は  以後  爪も髪も切らず 形相凄まじく 生きながら

天狗になったと  いわれる程 だったと伝承

こうして 憤怒の気持ちを抱いたまま  天皇は9年間の 流刑生活の後

長寛2(1164)年8月26日 46歳で 崩御  

9月18日 ご遺体は  遺言どおり 白峰山に移されて 荼毘に付され 

白峯山陵に 埋葬された     
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崇徳天皇 白峰陵   ( しらみねの みささぎ )


京都では 天皇の寵愛厚かった  阿波内侍が

遺髪を請い受けて  邸内に一塚を築いて  亡き天皇の霊を 慰めたと伝承  


その後 京都では  天皇の 怨念による祟りによって  飢饉等の異変や 戦乱が相次いで発生


治承元(1177)年7月29日 讃岐院と呼ばれていた天皇に 「 崇徳院 」の謚号を奉り

同じく「 保元の乱 」の首謀者で  祟りをなしたと 考えられた

故左大臣藤原頼長 に 正一位太政大臣を 贈っている 

さらに 『 史料綜覧 』 から引用すると  寿永2(1183)年12月

第77代 後白河法皇 が 崇徳上皇と 藤原頼長の  

霊の鎮魂のため  両者の霊を祀る祠を 鴨川の東 春日河原に

粟田宮 (あわたのみや) を  創建し 寿永389(1184)年4月に

両者の霊を 春日河原に 社殿を 遷宮させたという 

( 春日河原 = 西は京都御苑・北は府立医大病院 細長い三方ふさがりの地域といわれる )


明治時代に 創建された白峯神宮( 京都市上京区 )  は 
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白峰神宮

第75代・崇徳天皇   第47代・淳仁天皇 という

悲劇的な生涯を送った  お二方天皇を 祀る神社

幕末の動乱期  第121代・孝明天皇は 異郷に祀られている 崇徳上皇の霊を慰めるため

その神霊を京都に移すよう   幕府に命じたが その後間もなく 孝明天皇は崩御

子の 第122代・明治天皇が その意を継ぎ 現在地に社殿を造営し

慶応4(1868)年 御影堂の神像を移して 神体とし 白峯宮を創建
 

神宮の社地は  蹴鞠の宗家であった 公家・飛鳥井家の屋敷の 跡地である

摂社の地主社に祀られる  精大明神は蹴鞠の守護神であり 現在ではサッカーのほか

球技全般およびスポーツの守護神とされ  サッカーをはじめとする

スポーツ関係者の参詣も多く  社殿前には サッカーや バレーボールの

日本代表チームや Jリーグに所属する選手などから

奉納されたボールなどが 見られる


第75代・崇徳天皇 皇后聖子月輪南陵

路傍人御陵巡礼索引は ここ
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崇徳天皇白峰稜から瀬戸内海を見る
過ぎゆく時を たいせつに・・・
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両陛下 京の宿泊先
大宮御所
来年度(2014)に耐震工事へ
転載元:京都新聞
京都市上京区 2013.8.
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京都大宮御所 御車寄

天皇・皇后両陛下が 京都で宿泊される 京都大宮御所(京都市上京区)の

御殿棟(ごてんとう)が、大地震で倒壊するおそれがあるため、来年度に耐震工事が

行われることが19日、宮内庁京都事務所への取材で分かった。

工期は約1年間を予定しており、異例の早期完成を図る方針という。


京都大宮御所は京都御苑内にあり、京都御所の南東に位置している。

宮内庁によると、御殿棟は木造平屋約700平方辰僚餘‖い蠅如¬声0歐形宛紊亡粟した。

文化財には指定されていないが 同等の価値があるという。

 宮内庁が今年2月に耐震調査を実施したところ、 震度6強〜7で 倒壊するおそれがあると

判定された。

このため両陛下は、今年6月は 京都迎賓館に お泊まりになった。

文化的価値の高い建物の耐震工事は、一般的に数年かけて実施される。

しかし、両陛下が慣れ親しまれた 御殿棟を早く使っていただくため、鉄骨を建物内部に

設置して補強する工期の 短い工法を念頭に設計するという。

宮内庁は本年度中に設計を終え、来年度には工事に着工し、完成させる方針だ。

総工費は約1億円程度になるという。

     京都新聞 【 2013年08月19日 13時04分 】
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仙洞御所・州浜と一升石
2007.12.撮影 仙洞御所を訪れて

過ぎゆく時を たいせつに・・・

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