道端の出会い ①

このブログ「道端の出会い」を立ち上げて、10年が経ちました。感謝。

陛下 御陵 宮内庁

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第17代 履中天皇
りちゅうてんのう
百舌鳥耳原南陵
もずの みみはらの みなみのみささぎ
堺市 2010.12.
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履中天皇 百舌鳥耳原南陵
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我が国の最大の古墳は  仁徳天皇陵 第2位は 應神天皇陵  

履中天皇陵は 3番目にランクされる古墳です   

閑静な住宅街の 開発攻撃で  すんなりと 外周遊は出来ませんが  50分は要します
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西側から見た古墳前方部分南西端
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後円部 大きくて全体像が撮れません

「 百舌鳥古墳群 」 の中で  田出井山古墳( 反正天皇陵 ) ・ 大仙古墳( 仁徳天皇陵 ) と

ともに 「 百舌鳥古墳三陵 」 と呼ばれ  その三陵を 宮内庁が管理して 

仁徳天皇  第一皇子である 履中天皇の御陵です
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正面 南東部から見ます

陪塚は 10基以上あったそうで  江戸時代の記録では  

後円部中央に 大きなくぼみがあったと  いわれていることから  

盗掘を受けている  可能性があるようです

もう古い話でしょうか  平成17(2005)年8月  天皇皇后両陛下には

履中天皇 1600年式年祭にあたり  おまいりなさって おります
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頑丈なフエンスでガードされて
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第17代 ・ 履中天皇 ( りちゅうてんのう )

■生没年 :  
仁徳天皇24(336)年 ? 〜 履中天皇6(405)年3月15日(4月29日)   
( 70歳 『書紀』、  64歳 『古事記』、  67歳  『神皇正統記』。)
■在位 :
履中天皇元(400)年2月1日(3月12日 〜 履中天皇6(405)年3月15日(4月29日)  古墳時代
■別名 :
大江之伊邪本和気命  ( おおえの いざほわけの みこと )
中国の『 宋書 』 に見える「 倭の五王 」 中の 倭王讃に 比定する説がある
( 応神天皇もしくは 仁徳天皇とする説もあり )
また 『 古事記 』 には「 壬申年正月三日 」 に 64歳で崩ずとの記事が見え、
これが正しければ、在位期間が427年から432年となり、生年が逆算して369年という事に
なるが、定かではない。
大兄去来穂別尊   ( おおえのいざほわけのみこと ) − 『 日本書紀 』
大江之伊邪本和気命 ( おおえのいざほわけのみこと ) − 『 古事記 』
大兄伊射報本和気命 ( おおえのいざほわけのみこと ) − 『 播磨国風土記 』
■皇后・皇妃・皇子女 :
    ◎ 皇妃 ・ 黒媛 ( くろひめ。葛城葦田宿禰の娘、一説に羽田八代宿禰の娘)
          “愃篁塋娉“惺鳥辧 福,い錣気のいちのへのおしはのみこ ) 
            仁賢天皇( 24代 ) ・ 顕宗天皇( 23代 ) の父
         ◆仝翡蝋鳥辧 福,澆泙里澆魁 
          青海皇女 ( あおみのひめみこ )
    ◎ 皇后 ・ 草香幡梭皇女 ( くさかのはたびのひめみこ・応神天皇( 15代 )の皇女 )
         ぁ|羂觜捗 (なかしのひめみこ、中蒂姫命) 大草香皇子の妃・後に
            安康天皇( 20代 )の皇后
    ◎ 嬪 ・ 太姫郎姫 ( ふとひめのいらつめ、'933;魚磯別王の娘 )
    ◎ 嬪 ・ 高鶴郎姫 ( たかつるのいらつめ、'933;魚磯別王の娘 )
■皇居 :
磐余稚桜宮 ( いわれのわかざくらのみや ・ 奈良県桜井市池之内に稚桜神社がある ) 
■御父 :
仁徳天皇 ( 第16代 )の 第一皇子 
■御母 :
磐之媛 ( いわのひめ ) 葛城襲津彦の娘
■御陵名 :
百舌鳥耳原南陵 ( もずのみみはらのみなみのみささぎ ) に葬られた
■陵形 :
上石津ミサンザイ古墳  前方後円墳 に 比定されている 
前方部を南に向け   規模  墳長 365m
前方部  幅 237m   長さ 190m   高さ 15.3m
後円部 径 200m    高さ 18.5m   頂径 47m
考古学的には ミサンザイ古墳 ( 第17代 履中天皇陵 ) →  大仙古墳の順に ( 第16代 仁徳
天皇陵 ) 築かれていて  履中天皇の墓とは 考えにくいとされている 

大林プロジェクトチームの試算で、大仙古墳( 仁徳天皇陵 )を 古代の工法で築造した
場合 工期は15年8ケ月を 要するとのこと
であるなら  第3位のミサンザイ古墳だって 10年以上の歳月は要したはずである
大王位に即位して すぐに造営にとりかかったとしても  第17代履中天皇 在位6年の間に
完成していたとは 思われない  現在の比定は誤りということ
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画像無断借用もと ここです
■所在地 :
大阪府堺市石津ヶ丘町      
JR阪和線「 上野芝 」西側出口から
出たところを 線路沿いに北に向かい 歩道まで渡ったところで左折し 「 南陵通 」を
進むと表示がでています
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画像は 陵の西側です

第17代 履中天皇'''( りちゅうてんのう ) 
仁徳天皇87(399)年1月、第16代仁徳天皇崩御。
住吉仲皇子( すみのえのなかつみこ・墨江之中津王・仁徳天皇の皇子 )が皇位を奪おうとして叛するが、弟の瑞歯別皇子( 後の18代反正天皇 )に命じてこれを誅殺させ、履中天皇元年
(400年)2月に第17代に即位。

同2(401)年、 蘇我満智( まち ) ・ 物部 伊莒弗( いこふつ ) ・ 平群木菟( つく ) ・
円大使主
( つぶらのおおおみ ) らを  国政に参画させた。

同4(403)年8月、諸国に国史( ふみひと )と呼ばれる  書記官を設置し、
国内の情勢を報告させた。
同6(405)年 正月に蔵職 ( くらのつかさ ) と 蔵部を興し、3月に病気のため稚桜宮 ( 奈良県桜井市 )で  治世6年で崩御した。
転載もと 履中天皇Wikipedia  
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路傍人 御陵巡礼索引はここ
過ぎゆく時を たいせつに・・・
第16代 仁徳天皇
百舌鳥耳原中陵 
新聞記事 二題
2010.12.
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このページは 前ページからの 続きです
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国道310号 高野街道と外濠

新聞ニュース記事 二つ
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世界遺産、暫定リストに大阪の仁徳天皇陵や佐渡金山2件を 追加
2010年10月06日

 政府は6日、世界遺産条約関係省庁連絡会議を開き、仁徳天皇陵など「 百舌鳥(もず)・
古市(ふるいち)古墳群 」( 大阪府 )と国指定史跡の相川金銀山遺跡など「 金を中心とする
佐渡鉱山の遺産群 」( 新潟県 )を世界文化遺産候補として、国連教育科学文化機関
( ユネスコ ) の暫定リストに記載することを決めた。
リストに掲載される日本の世界文化遺産候補は、計13件となる。

「 百舌鳥・古市古墳群 」は 4世紀後半〜6世紀前半の古墳群。
世界最大の古墳として知られる 前方後円型の仁徳天皇陵などで構成され、日本の古代国家形成期に造られた 巨大記念工作物と評価されている。

「 金を中心とする佐渡鉱山の遺産群 」は、400年以上にわたって金や銀を採掘した鉱山の
遺跡など。
国内外の技術を発展させて 鉱山の文化的伝統を形成し、江戸幕府や明治政府の経済基盤となったほか、金本位制を基準とする 国際経済にも影響を与えた。

暫定リストは、世界遺産登録を目指す候補地などについて、各国から資料提出を受け、ユネスコが作成する一覧表。
掲載された候補地は、すぐに世界遺産に登録されるわけではなく、まず政府が優先的に推薦する候補地を絞り込み、そのうえでユネスコ世界遺産委員会が、審議・決定する。

文化庁によると、今年8月現在で世界遺産は 911件あり、ユネスコが新規登録を抑制する
傾向にあるため、すぐには同委員会の審議も進まない見通し。
産経ニュース 
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中学校の歴史「 仁徳天皇陵 」 改め 「 大仙古墳 」   
2008年03月27日

日本で最も規模が大きい古墳といえば「 仁徳( にんとく )天皇陵 」と習った人も多いはず。
この古墳の名称が10年ほど前から、「 大仙( だいせん )古墳 」 などと表記されるようになった。
この古墳は堺市大仙町にあり、宮内庁は現在も「 仁徳天皇陵 」として管理し、立ち入り調査を認めていない。

一方、考古学研究者らは 仁徳天皇が埋葬されているか確認されていないとして 通常の遺跡と同様、 所在地名に由来する 「 大仙古墳 」 などと 呼ぶようになった。
この動きにあわせ、東京書籍の表記も変更された。

大仙は、前方後円墳で5世紀ごろに造られたらしい。
周囲に47基ある百舌鳥(もず)古墳群の 中心的な存在。

大仙は、考古学や歴史学の16学会が、宮内庁に立ち入り調査を求めている古墳の一つ。

宮内庁は今年(2008年)、神功( じんぐう )皇后陵とされている  「 五社神(ごさし)古墳 」
( 奈良市 )への立ち入り調査を認めたため、大仙も認められるのでは、という期待が高まっている。

調査が入ったとしても、この古墳が再び仁徳天皇陵と、表記されるかどうかはわからない。
「 この時代、天皇の称号はまだ用いられていないし、宮内庁が指定する人物と被葬者が一致するか、確認されなければならない 」(富山大の高橋浩二准教授)という。
アサヒコム

路傍人の 御陵巡礼索引は ここです
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仁徳陵を終わります
過ぎゆく時を たいせつに・・・
第16代 仁徳天皇
にんとくてんのう
百舌鳥耳原中陵 
もずのみみはらの なかのみ ささぎ
堺市 2010.12.
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仁徳天皇 百舌鳥耳原中陵

このページは 前ページからの続きです
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第16代 ・ 仁徳天皇 ( にんとくてんのう )

■皇后・皇妃・皇子女 :
    ◎皇后(前) ・ 磐之媛命 ( いわのひめのみこと・石之日売命。葛城襲津彦の娘 )
         大兄去来穂別尊 ( おおえのいざほわけのみこと・17代・履中天皇
         住吉仲皇子 ( すみのえのなかつみこ・墨江之中津王 )
         瑞歯別尊 ( みずはわけのみこと・18代・反正天皇
         雄朝津間稚子宿禰尊 ( おあさつまわくごのすくねのみこと・19代・允恭天皇
    ◎ 皇后(後) ・ 八田皇女 ( やたのひめみこ・矢田皇女。15代・応神天皇の皇女 )
    ◎ 妃 ・ 日向髪長媛 ( ひむかのかみながひめ。諸県君牛諸井の娘 )
         大草香皇子 ( おおくさかのみこ・大日下王・波多毘能大郎子 )
         草香幡梭姫皇女 ( くさかのはたびのひめみこ・橘姫皇女・若日下部命 ) 雄略
          天皇・21代の皇后
    ◎ 妃 ・ 宇遅之若郎女 ( うじのわきいらつめ・菟道稚郎姫皇女。17代・応神天皇の皇女 )
    ◎ 妃 ・ 黒日売 ( くろひめ。吉備海部直の娘 )
■皇居 :
難波高津宮 ( なにわのたかつのみや・現在の大阪府大阪市中央区か ) 
■御父 :
応神天皇  ( 第15代 )の 第4皇子 
■御母 :
品陀真若王の女 ・ 仲姫命 ( なかつひめのみこと )
■御陵名 :
百舌鳥耳原中陵 ( もずのみみはらのなかのみささぎ  ) に葬られた。
名前の由来は  陵墓造営中に野から鹿が走り込んできて絶命。
その鹿の耳の中から モズが現れた ことから地名を 「 百舌鳥耳原 」 と名づけられる
    ( なお モズは大阪府の鳥である )。
     また  この古墳の 北と南にも大古墳があり( 北陵は反正天皇陵、南陵は履中天皇陵 ) 「 中陵 」 と 名づけられている。
■陵形 :
三重濠を巡らす 前方後円墳   面積約 46万4千平方m  
規模  総長 512m   墳長 486m
前方部 幅 300m    長さ 225m   高さ 33m
後円部 径 249m    高さ 35m    頂径 ?m
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仁徳天皇 百舌鳥耳原中陵
『 日本書紀 』 によると 仁徳天皇637(379)年の冬10月5日に、河内の石津原( 堺市石津町〜中百舌鳥町一帯 ) に行幸して陵地を定め、同月18日から工事が始まった。
それから20年後の仁徳天皇87(399)年の春正月16日になくなり、同年の冬10月7日に百舌鳥野に葬られた。
3段に築造した 「 前方後円墳 」で両側に造り出しをもち、その墳丘をめぐって3重の周濠がつくられ、その外側に12の陪冢( 陪塚・ばいちょう ) がつくられている。
徳川時代の中頃までは、陵墓の管理が充分に行われず、嘉永5(1852)年、ときの堺奉行 川村修就 はこれを憂いて、後円部上にあった勤番所を裏門に移し、天皇を葬ったと思われる後円部
200坪( 661.1 m2 )に高さ3尺( 0.90m ) の石の柵を設けて、陵内を整備したと伝えられている。

明治5(1872)年9月、前方部正面の第2段の やや上がくずれ、立派な石積の竪穴式石室( せきしつが )発見された。
「 長持型石棺・せきかん 」というすばらしい石棺と、石室面のあいだから「 金銅製の甲冑・刀剣の断片20・ガラスの椀 」 などが見つけられたが、もとの通り埋めたといわれている。

詳細な絵図の記録があり、甲冑は金銅製の立派なものだったようで、アメリカのボストン美術館には、本古墳出土と伝えられる 「 細線文獣帯鏡 」 や 「 単鳳環頭太刀 」 などが所蔵されていると 聞こえる。
『 日本書紀 』 などに 伝えられる 仁徳(16代) ・ 履中(17代)の 在位順とは逆に、履中天皇陵
古墳よりも、 後で築造されたことがわかっている。

『 喜式 』 諸陵寮に「 百舌鳥耳原中陵。在和泉国大鳥郡。兆域東西八町。南北八町。  陵戸
五烟。 」 とあり  同陵は大阪府堺市堺区大仙町の大仙陵古墳( 大仙古墳・大山古墳とも )に
比定される。
『 古事記 』 にも 「 御陵は毛受( もず )の耳原にあり 」
『 日本書紀 』 には 寿陵であったと記され、 「 (八十七年)冬十月の癸未の朔己丑に、百舌鳥野稜 ( もずののみささぎ ) に 葬( はぶ )りまつる 」 とある。
■所在地 :
大阪府堺市大仙町      
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JR阪和線「 百舌鳥 」駅から 徒歩10分
大仙公園駐車場/乗用車108台( 有料 )

堺観光ガイド から転載します
◆内部非公開◆ 全貌を肉眼で見るのは難しいですが、よく見えるポイントが次の3ヶ所です。
永山古墳南側の陸橋の上、JR百舌鳥駅南側の陸橋の上、堺市役所高層館21階展望ロビー 」。

第16代・仁徳天皇 ( にんとくてんのう )   
第15代・応神天皇の崩御の後、 最も有力と目されていた 皇位継承者の 菟道稚郎子 ( うじのわきいらつこ ) 皇子と 互いに皇位を譲り合ったが、皇子の死により即位したという。
( 『 日本書紀 』 は 仁徳天皇に皇位を譲るために 自殺したと伝える )
この間の 3年は空位である。

人家の竈( かまど )から、炊煙が立ち上っていないことに気づいて租税を免除し、その間は
倹約のために、宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった、と言う記紀の逸話に見られるように、仁徳天皇の治世は仁政として知られ、「 仁徳 」の 漢風諡号もこれに由来する。

ただ一方で、記紀には好色な天皇として、皇后の嫉妬に苛まれる人間臭い一面も描かれて
いる。

また、事績の一部が 父の応神天皇(第15代)と重複・類似することから、元来は1人の天皇の
事績を 2人に分けたという説がある。

葬られた 「 百舌鳥耳原中陵 」 は「 大仙( だいせん )古墳 」( 大阪府堺市大仙町 )にあてられているが、時期的にあわないとする見解がある。

また 『 播磨国風土記 』 においては、大雀天皇と 難波高津宮天皇として 書き分けられて
おり、二人の天皇の事跡を 一人に合成した とも考えられる。

『 日本書紀 』 の 仁徳の条の冒頭では、五百城入彦皇子( 成務天皇・第13代の弟 )の孫と
なっているが、この記載は 『 古事記 』 の 応神の条の冒頭に ある記事と矛盾する。
すなわち、大雀天皇の母中日売の父が、五百木入日子の子 品它真若(?) となっている
ことである
( この場合、大雀は五百木入日子の曾孫となる )。

この矛盾も、応神〜仁徳の系譜が、実際には造作されていることをうかがわせる。

なお、『 宋書 』 倭国伝に 記される「 倭の五王 」 中の讃(さん)または珍(ちん)に 比定する説があるが、確定していない。

 仁徳天皇 − Wikipedia  
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古墳を 鍵穴に見立てると 頂上付近の外濠です
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5000文字制限ため分割。 ここへ続きます。

路傍人の 御陵巡礼索引は ここです

過ぎゆく時を たいせつに・・・
第16代 仁徳天皇
にんとく てんのう
百舌鳥耳原中陵 
もずのみみはらのなかのみ ささぎ
大阪府堺市 2010.12.
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仁徳天皇 百舌鳥耳原中陵
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クフ王ピラミッド  始皇帝陵 と並ぶ 世界三大古墳の一つといわれる  

仁徳天皇陵 ( 大仙陵古墳・だいせんりょうこふん )  

日本最大の 「 前方後円墳 」 を 訪れました
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とにかく でかい 巨大な丘

どこから見ても  三重の周濠に囲まれ 

樹木が  生い茂るにまかせた  巨大な丘にしか見えません
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この古墳は  丘陵の先端を利用して  築かれた墓ではなく

何もない大地を  掘削し  盛土して  長い年月をかけて

築き上げた  ものだ  そうです

まさに巨大な  人工の丘であり  人工の建造物です

その大きさを  実感体験に  周囲を歩いて みると

普通に歩いて 1時間は かかります
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陵の 周遊路として 全周2.8kmが整備され  南側前方部と 西側には遊歩道があります
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正面から50mの地点で 濠の東側を見ました
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濠の西側を見ました

南側車道は 桜並木にもなっています

古墳の中に 入ることはできませんが  濠の外からでも  巨大さは 

十分に  実感することができます
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↑左画像の近辺に 銅亀山古墳 が遊歩道の西側に

西側歩道中央部には  犬養孝博士揮毫による  

仁徳天皇 皇后の磐之媛命   ( いわのひめのみこと )  の

万葉歌碑があります 
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仁徳天皇 皇后の磐之媛命万葉歌碑
”  ありつくも 君をは待たむ うち靡く わが黒髪に 霜の置くまでに ”

拝所は  大仙公園側にあります  整然として 厳かな雰囲気です

周濠の 水流に落差が あったようで  水を片寄らせないように 
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調整の工夫が   オバーフローの形で 数カ所 造られてあるのが 
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フエンス越しに 見えました

周濠の水は  ここ ↓ から 外界へ放出されています
イメージ 15 イメージ 16

築造に要した時間は ?
日本考古学の基礎を築いた 梅原末治( 1893〜1983)は、かって築造に要した時間を
試算したことがある。
1000人の人間を動員できたとしても、4年の歳月が必要だったという。

大林組プロジェクトチームが、1985(昭和60)年に行なった別の試算では、古代の工法そのままで現在実施すれば、1日あたりピーク時に 2000人を動員したとして、延べ680万7千人、工期は
15年8ヶ月、総工事費796億円になるという。
 転載もと・詳しくは ここ 
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南側の濠

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第16代 ・ 仁徳天皇 ( にんとくてんのう )
■生没年 :  
神功皇后摂政57(257)年   〜   仁徳天皇87(399)年1月16日(2月7日) 
143歳 ・古事記では83歳 
没年
「 この天皇の御年、八十三歳( やそじまりみとせ )丁卯の年の八月十五日に崩  ( かむあが ) り
ましき 」   『 古事記 』 
「 八十七年の春正月の戊子の朔( ついたち )癸卯に、天皇、崩  ( かむあが ) りましぬ 」  
『 日本書紀 』 
■在位 :
仁徳天皇元(313)年1月3日(2月14日) 〜  仁徳天皇87(399)年1月16日(2月7日)  古墳時代 
  『 古事記 』の干支崩年に従えば、応神天皇の崩御が西暦394年、仁徳天皇の崩御が西暦427年と
なり、その間が在位期間となる。
■別名 :
名は  大雀命( おほさざきのみこと )  『 古事記 』
大鷦鷯尊 ( おほさざきのみこと ) 大鷦鷯天皇 ( おほさざきのすめらみこと )
聖帝   『 日本書紀 』
難波天皇 『 万葉集 』
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過ぎゆく時を たいせつに・・
第36代 孝徳天皇
こうとくてんのう
大阪磯長陵
おおさかの しながのみささぎ
大阪府太子町 2010.12.
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孝徳天皇 大阪磯長陵
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石川の支流 飛鳥川に治って 二上山の 西斜面に刻まれた

磯長( しなが )谷は  大販府南河内郡太子町内に 位置し  

古くから  大阪・堺から東へ向かい  二上山の南麓 竹内峠を越えて 
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奈良・葛城市の 長尾神社付近に至る  大和と河内を  結ぶ主要な
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竹内街道 約26kmの 1劼世 ↑・↓ 歩いて 
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第36代 孝徳天皇陵を 訪ねました

孝徳天皇は  乙巳の変 ( いっしのへん ) の 後に即位しました 

改新に功績のあった 改新政治を 推し進めました

しかし 中大兄皇子 ( 後の天智天皇 ) らと 

不仲となった  孝徳天皇は 難波宮(大坂) で  

白雉5(654)年 孤独のうちに  亡くなられ  この地に葬られました 
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第36代 ・ 孝徳天皇 ( こうとくてんのう )

■生没年 :  
推古天皇4(596)年 〜 白雉5(654)年10月10日(11月24日) (59歳 ?)
■在位 :
孝徳天皇元(645)年6月14日(7月12日 〜 白雉5(654)年10月10日(11月24日)  飛鳥時代 
■別名 :
諱  軽 ( かる )
諡号  天万豊日天皇 ( あめよろずとよひのすめらみこと ) 
その在位中に  難波宮に宮廷があったことから  後世その在位時期を
その政策などを含めて ( 後世のいうところの大化改新 ) 難波朝( なにわちょう )という 
別称で称されることがあった 
■皇后・ 皇妃・ 皇子女 :
    ◎ 皇后 ・ 間人皇女 (  はしひとのひめみこ ・ ? 〜 天智天皇4(665)年2月25日) 
           − 舒明天皇(31代)皇女
    ◎ 妃 ・ 阿倍小足媛   − 左大臣阿倍内麻呂( 阿倍倉梯麻呂 )女
            皇子: 有間皇子
    ◎ 妃 ・ 蘇我乳娘 ( ちのいらつめ  )  − 右大臣蘇我倉山田石川麻呂女
■皇居 :
難波長柄豊碕宮 ( なにわの ながらの とよさきのみや・大阪 )
■御父 :
茅渟王 ( ちぬのおおきみ ) の 長男    
敏達天皇(第30代) の孫で 押坂彦人大兄皇子の王子 
■御母 :
欽明天皇の孫で 桜井皇子の王女 吉備姫王 ( きびひめのおおきみ )
皇極天皇 ( 斉明天皇 ) の 同母弟
■御陵名 :
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大阪磯長陵  ( おおさかの しながのみささぎ )
■陵形 :
 竹内街道沿いに自然の丘を利用して築造された 直径 約30m 小さな円墳 
■所在地 :
大阪府南河内郡太子町山田     
  近鉄・南大阪線「 上ノ太子駅 」 から徒歩約 1.3km
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第36代 ・ 孝徳天皇 ( こうとくてんのう )   
舒明天皇(第34代) が崩御して、皇后 ( 宝姫王・たからのひめみこ ) がその後を継ぎ
皇極天皇(第35代) となる。
有力な後継者であった 山背大兄皇子 ( やましろのおおえのおう ) は、 蘇我入鹿 ( そが の いるか ) の手にかかり、 一族全員皆殺しにあってしまう。

中大兄皇子 ( 皇位継承前の天智天皇 ) が、自分の身にも危険を 感じたとしても不思議
ではない。 蘇我入鹿を倒さなければ、次は自分だと思ったのは想像に難くない。

権勢を誇る 蘇我入鹿の存在を、こころよく思わない人物がもう一人いた。
蘇我氏に滅ばされた、物部氏に従っていた 中臣鎌子( なかとみのかまこ ・ 後の、藤原鎌足 )である。

鎌子は中大兄皇子と結託し、 蘇我倉山田石川麻呂 ( そがのくらの やまだのいしかわのまろ ) をも仲間に引き入れ、蘇我入鹿を滅ぼす。

世に 「 大化の改新 」 (乙巳の変:いっしのへん) と呼ばれる、クーデターである。

皇極天皇(第35代)は、この事件の責任をとる形で退位、 即座に息子の中大兄皇子( なかのおおえのおうじ ) に即位を促した。
だが、中大兄皇子は即位せず、実際には皇極帝(第35代)の同母弟で、中大兄皇子の叔父である 軽皇子( かるのみこ ) が 孝徳天皇(第36代)として即位した。

はじめ軽皇子は、舒明天皇(第34代)の長子 古人大兄皇子( ふるひとのおおえみこ ) が
ふさわしいと辞退するが、古人大兄皇子は仏門にはいるからと 皇位継承を辞退して、その申し入れをするやいなや、太刀を抜き髪と髭を切り落とし、たちまち僧形となった。

そこでや、むなく軽皇子が(第36代) 即位したとある。

即位した孝徳天皇は、難波へ遷都し長柄豊碕宮 ( ながらとよさきのみや ) に都を構える。
現在大阪市にある 難波宮跡の「 前期難波の宮跡 」 と呼ばれる部分が、この宮跡ではないかと 考えられている。

孝徳天皇(第36代)は 中大兄皇子を皇太子とし、 阿倍内麻呂 ( あべ の うちまろ ) を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣に任じた。

中臣鎌足 ( 藤原鎌足 )には、大錦( だいきん )の冠位を授け、内臣( うちつおみ )とした。

天皇は、東国の国司らを集め戸籍を作り田畑の調査を命じたり、有名な 「 大化の詔・みことのり 」 を発したりしたが、しかし結局この天皇は、所詮中大兄皇子・中臣鎌子らの傀儡 ( かいらい ) でしかなく、最後には中大兄皇子と仲違いの末、一人長柄豊碕宮に( 現・大阪市中法円坂 )取り残され、中大兄皇子らは飛鳥へ引き上げてしまう。

中大兄皇子 ( なかのおおえのおうじ ) の独走に怒った天皇(第36代)は、恨みを抱いて皇位を捨て山碕離宮に隠遁しようとしたが、離宮の完成を見ることなく、
白雉5(654)年10月10日(11月24日) ( 59歳 ?)長柄豊碕宮に没した。

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孝徳天皇の眠る 磯長谷の杜

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