道端の出会い ①

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陛下 御陵 宮内庁

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第33代 推古天皇
すいこてんのう
磯長山田陵・合葬 
しながの やまだの みささぎ
第30代敏達天皇 竹田皇子墓
大阪府太子町 2010.12.
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推古天皇と竹田皇子の・合葬・磯長山田陵

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第33代 ・ 推古天皇 ( すいこてんのう )

まだ若年だった我が子の、竹田皇子を将来皇位に就けるべく、額田部皇女( 第33代・推古
天皇 )は  蘇我馬子と組んでさまざまな 布石を打っていく。

その手始めは、実兄である橘豊日皇子 ( たちばなのとよひ・用明天皇 ) の天皇擁立で
あろう。
敏達天皇14(585)年8月、 夫の敏達帝が当時大流行した天然痘で逝去すると、 次期天皇の擁立で群臣達の意見が分かれた。

皇位継承者の筆頭としては、 敏達帝の先の皇后・広姫の子であり、 敏達朝において政治に
参画した経験もある、 押坂彦人大兄 ( おしさかのひこひとのおおえ ) 皇子がいた。
さらに母の妹にあたる小姉君 ( おあねのきみ ) の子で、皇位継承に異常な関心を寄せる穴穂部 ( あなほべ ) 皇子がいたが、先の皇后という地位を利用して、額田部皇女は蘇我馬子とともに 橘豊日皇子を強力に推した。
その結果、 敏達天皇14(585)年9月、 橘豊日皇子は第31代・用明天皇として即位した。

だが、 用明天皇(第31代) は病弱な天皇だった。 2年後の4月には病死してしまう。
再び皇位継承問題が再燃、 そこで額田部皇女が打った次ぎの手は、 異母弟・穴穂部皇子の排除である。

当時、 額田部皇女は 敏達天皇(第30代)の遺骸を殯宮( もがりのみや )で祀っていた。
異母弟・穴穂部皇子は、彼女犯そうとして 殯宮に侵入する狼藉を はたらいたことがある。

そんな経緯から 彼女はこの皇子を毛嫌いし、蘇我馬子に命じて、穴穂部皇子と宅部( やかべ ) 皇子を殺させた。

さらに、 穴穂部皇子の強力な擁立者であり、 政界における蘇我馬子の対抗勢力でもあった
大連 ・ 物部守屋 ( もののべのもりや ) を、 馬子が討伐するのを支援した。
額田部皇女の支援は、蘇我馬子にとってまさに錦の御旗だった。 

用明天皇2(587)年7月、彼は皇族の諸皇子や主な豪族をすべて自陣に引き入れて、 渋河の別邸で臨戦態勢を整えていた、 物部守屋を討ちこれを滅ぼした。

額田部皇女は、泊瀬部皇子の次に、竹田皇子を皇位につけるというシナリオを描いて見せたであろう。 こうして、用明天皇2(587)年8月、 第32代・崇峻( すしゅん ) 天皇が位に就いた。

人の生涯は、誰にも予見できない。 竹田皇子が死んでしまった。
その時期は不明であるが、 崇峻天皇 (第32代) の在位中であることは 間違いあるまい。
額田部皇女の、悲嘆にくれる姿が眼に見えるようである。 
彼女には もう一人息子がいた。
尾張皇子 ( 聖徳太子の妃橘大郎女の父 ) である。
額田部皇女は、竹田皇子の代わりに 尾張皇子を、次期天皇にと画策した様子はない。

崇峻天皇5(592)年11月3日(12月12日)、 崇峻天皇(第32代) が東漢直駒 ( やまとのあやのあたいこま ) に刺殺されるという 大事件が起こった。
崇峻天皇暗殺の翌月、 額田部皇女は群臣に乞われて、我が国最初の女帝として豊浦宮で即位した。 39歳のときである。

即位した推古天皇は、聖徳太子を摂政に任じ、蘇我馬子の共同執政という政治形態を創出
して36年間在位したが、 推古天皇36(628)年3月7日(4月15日)、 75歳で崩御、 天皇の和風諡号 「 豊御食炊屋姫 」 ( とよみけかしきやひめ) がおくられた。

 無断・転載もと −   ここ  
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推古天皇と竹田皇子の磯長山田陵
◆‖30代 敏達天皇皇子 竹田皇子の墓
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竹田皇子( たけだのみこ ・ 生没年不詳
飛鳥時代の皇族。 
父は敏達天皇(30代)。
母は皇后 炊屋姫 ( 推古天皇 )。
名前の由来は、葛城地方の地名から。 竹田王、小貝王とも。

第31代・用明天皇の崩御後、押坂彦人大兄皇子と共に、有力皇位継承権者であったと
『 日本書紀 』 等では記されているが、 穴穂部皇子 ( 欽明天皇の皇子 ) を推す勢力から
敵視され、用明天皇2(587)年、その一派である  ( なかとみ の かつみ )に 像を作り呪詛されている。

当時勢力を拡大していた蘇我氏にとって、蘇我稲目の孫にあたる 炊屋姫から生まれた 
竹田皇子 が 即位すると、蘇我氏の権勢を増大させるのに有利に運ぶ事から、早くから
皇位継承の有力候補と 目されていた。

第30代・敏達天皇崩御時は、竹田皇子は幼少であった事や、異母兄である 押坂彦人大兄皇子 ( おしさかのひこひとのおおえのみこ ) を擁立する動きもあった為、即位が見送られ
敏達天皇の皇兄弟、 橘豊日尊 ( 第31代・用明天皇 )が即位する。 
これが 用明天皇だが、天皇は即位後僅か2年で崩御してしまう。

これにより、蘇我氏と物部氏による、皇位継承を巡る争いに発展する。

皇子は、蘇我馬子と物部守屋との合戦の際には泊瀬部皇子( 第32代・崇峻天皇 )、厩戸皇子( 聖徳太子 )、 難波皇子春日皇子 と共に、蘇我馬子側について従軍した。

この合戦後に、泊瀬部皇子( 第32代・崇峻天皇 )は即位するが、竹田皇子は 「 記紀 」 に
登場しなくなる。
恐らく この前後に薨去(崩御)したものと思われる。
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竹田皇子の墓は、 推古天皇が 竹田皇子の墓に合葬するように遺詔した事から、推古天皇陵として治定されている、 磯長山田陵とされる。 ( 『 日本書紀 』 は陵墓名を記さず)

近年では、奈良県橿原市五条野町にある 植山古墳 」 が 古事記に見える一時合葬していた大野岡上陵とされている。

竹田皇子 Wikipedia
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路傍人の 御陵巡礼索引は ここです
過ぎゆく時を たいせつに・・・
第33代 推古天皇
すいこてんのう
磯長山田陵・合葬 
しながの やまだの みささぎ
第30代敏達天皇 竹田皇子墓
大阪府太子町 2010.12.
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推古天皇と敏達天皇竹田皇子の合葬 磯長山田陵
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第33代・推古天皇は  聖徳太子 の 叔母になる人で 第29代・欽明天皇の  第三皇女 

炊屋姫( かしきひめ )で  名を 額田部皇女( ぬかたべのひめみこ ) といい

第30代・ 敏達天皇 の妃です

敏達天皇5(576)年  敏達天皇 ( 異母兄 ) の 皇后 広姫の 薨去にともない

その 後添えとなった   それから 10年後に 敏達天皇が亡くなり

そこで  用明天皇( 第30代 ) が 即位されて  わずか2年で崩御された

そのため  妹でる 額田部皇女 が  群臣の薦めによって  即位(592年)され

日本で 最初の女帝として 第33代・推古天皇と なられた のです

時に 39歳であったが  内政 外交の問題を  乗り切る為に  その4ヶ月後に

聡明な 22歳の  聖徳太子を 摂政に望まれ  太子と共に 国政に専念され
 
この推古年間に  日本国家の基盤を  次ぎ々と制定され

飛鳥文化に  花を開かせられた  天皇です

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第33代 ・ 推古天皇 ( すいこてんのう )

日本初の女帝であると 同時に  東アジア初の 女性君主である
■生没年 :  
欽明天皇15(554)年 〜  推古天皇36(628)年3月7日(4月15日)
『 古事記 』では 戊子年3月15日)  (75歳) 『 日本書紀 』
喪礼が行われたのは その年の9月20日  
遺骸は 9月24日 竹田皇子( たけだのみこ ) が 眠る陵に葬られた 
その陵は 最近発掘された 奈良県明日香村の 「 植山古墳 」 とされている
後に 母子の遺骸は現在の 「 河内国磯長山田陵 」 に改葬された
改葬の時期は不明である 
■在位 :
崇峻天皇5(593)年12月8日(1月15日) 〜  推古天皇36(628)年3月7日(4月15日)
『 古事記 』 では 37年  飛鳥時代   
■別名 :
諱 額田部皇女 ( ぬかたべのひめみこ )
和風諡号 豊御食炊屋姫尊  ( とよみけかしきやひめのみこと ) 『 日本書紀 』による
 『 古事記 』 では 豊御食炊屋比売命 
  天皇号を 初めて用いた 日本の君主という説がある
■皇后・ 皇妃・ 皇子女 :
敏達天皇との間に   二男五女をもうけた
    菟道貝蛸皇女( 聖徳太子妃 )、  
    竹田皇子、  
    小墾田皇女 ( 押坂彦人大兄皇子妃 )、
    尾張皇子 ( 聖徳太子の妃橘大郎女の父 )、  
    田眼皇女 ( 田村皇子・後の舒明天皇妃 )
■皇居 :
豊浦宮 ・ 小墾田宮 
■御父 :
欽明天皇 ( 第29代 )の 皇女
母は 大臣蘇我稲目の女堅塩媛  第31代用明天皇は同母兄  第32代崇峻天皇は異母弟
■御母 :
 蘇我堅塩媛 ( そが の きたしひめ )
■御陵名 :
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磯長山田陵 ( しながの やまだの みささぎ )
山田高塚古墳  宮内庁はここに治定している 
■陵形 :
東西 61m  南北 55m  高さ 12m  三段築成の方墳
周囲には 幅7mの 空濠を巡らしてあり
濠の外堤までを含めた 規模は 一辺が100m に達する 
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小高い丘の上に在って 住宅開発の攻撃に遭わず 初の女帝陵に最良の場所に在る
■所在地 :
大阪府南河内郡太子町山田
   電車:近鉄あべの橋より長野線「 喜志 」駅下車 
    金剛バス「 御陵前 」下車  徒歩5分
     近鉄・南大阪線「 上ノ太子駅 」 から徒歩約 1.3km
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第33代 ・ 推古天皇   ( すいこてんのう ) 
推古天皇は、我が国で正式に皇位に就いた 最初の女性として、その知名度は高い。

崇峻天皇(592)年11月、第32代・崇峻(すしゅん)天皇が「 暗殺 」 されるという、前代未聞の
不祥事が起こった。
その年の12月、民衆の動揺を押さえるため、再三辞退したにもかかわらず、群臣に乞われて皇位に就いたという。

我が国には、卑弥呼( ひみこ ) や 飯豊皇女( いいとよのひめみこ ) など 巫女的な女王が存在した。
また 神功皇后 のように、天皇に匹敵する権力をもったとされる女性や、安閑天皇の皇后 ・
春日山田皇女 のように、即位を乞われた女性がいたとされる。

だが、正式に天皇になったのは 推古天皇が  最初である。
我が国だけでなく、東アジアにおいて 「 最初に女帝 」 となった。

我が国では、崇峻天皇5(593)年の 推古天皇即位から、宝亀元(770)年の 第49代光仁天皇即位までの間に、重祚(ちょうそ)も含めて、8代・6人の女帝が皇位に就いている。
   第33代・推古、 第35代・皇極( こうぎょく )、
   第35代・斉明( さいめい・皇極の重祚 )、第41代・持統( じとう )、
   第43代・元明( げんめい )、 第44代・元正( げんしょう )、
   第46代・孝謙( こうけん )、第46代・称徳( しょうとく ・孝謙の重祚 )である。

この間に、男帝は7代・7人で、在位年数をカウントすると、女帝と男帝はほぼ同じである。
しかし男帝の 第42代・文武天皇や、第47代・淳仁天皇のときは、第41代・持統上皇と第46代・孝謙上皇が、実際の権力を握っていたことを考えれば、まさにこの時代は  「 女帝の時代 」であった。 

額田部皇女( 第33代・推古天皇 )には  敏達帝( 第30代 ) との間にもうけた 竹田皇子がいた。

彼女は権力志向の強い女性で、我が子を天皇に就けるために、異常な執念を燃やしていた印象を受ける。 その点では後の、 持統天皇( 第41代 )のイメージが重なる部分が多い。

その野望を実現すべく、さまざまな策略をめぐらせる。
だが、我が子死亡という不測の事態が生じたため、止むを得ず自ら登極することになった。
そうした経歴もよく似ている。

さらに、 持統天皇( 第41代 )には 藤原不比等 ( ふひと ) という無類の策略家が背後にいた。

同様に、推古天皇にも叔父にあたる 蘇我馬子 ( そがのうまこ ) という希代の政治家に良き協力者であった。
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過ぎゆく時を たいせつに・・・
聖徳太子 磯長墓
第31代 用明天皇の 第2皇子
叡福寺 境内
えいふくじ
大阪府太子町 2010.12.
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聖徳太子 磯長墓

この磯長墓の宮内庁の制札(製札)には「推古天皇皇太子聖徳太子」と書いてあります。
第32代・崇峻天皇(在位587-592)が蘇我馬子の陰謀で暗殺されて、
第33代・推古天皇(在位592-628)が即位します、第31代・用明天皇(540?〜587)は同母兄であり
崇峻天皇は異母弟で、用明と推古の母は 蘇我稲目の娘である堅塩媛(かたしひめ)です。
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叡福寺 金堂

大阪・太子町にある  叡福寺 ( えいふくじ ) は 

聖徳太子の墓所とされ  叡福寺北古墳があることで  知られています

宗派は 真言宗系の単立寺院で「 太子宗 」 です

大阪・羽曳野市の 「 中之太子 」   野中寺  

大阪・八尾市の 「 下之太子 」   大聖勝軍寺  とともに

三太子の一つに数えられ  「 上之太子 」 と 呼ばれています

叡福寺本堂と 多宝塔は  推古天皇( 第33代・女帝 ) が 
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多宝塔

聖徳太子の墓を  守護する 香華所として建立し 

後に  聖武天皇 ( 第45代 ) の勅願で

伽藍が整のい  その後  織田信長の兵火によって  全山が焼失したが

豊臣秀頼  の聖霊殿再建に始まり 

順次伽藍が再興され  現在に至っている そうです 

金堂に安置されている  如意輪観音像は  鳥仏師  の 作と伝えられています

本堂の奥にある  豊臣秀頼が建立した  聖霊殿正面の 欄干擬宝珠には

秀頼や  片桐且元 ( かたぎり かつもと ) の名が刻まれている  そうです
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聖霊殿

正面左手にある金堂  その奥にある聖霊殿 

正面の石段を 上がると 聖徳太子墓 です
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聖徳太子 墓

聖徳太子は  推古天皇( 第33代・女帝 ) の 摂政として

十七条憲法や  冠位十二階の制定  遣隋使の派遣など 

進んだ 政治制度や  文化を取り入れ  政治改革を図りました

『 日本書紀 』  によると  推古29(621)年に 亡くなり  
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ここ 磯長( しなが )の地に  葬られました
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太子墓は 径50m  高さ10m  ほどの円墳で 

内部は 精巧な切石を用いた 横穴式石室  だそうです

太子と  母君の  穴穂部間人 ( あなほべのはしひとの ) 皇后   

妃の  膳部菩岐々美郎女  ( かしわでのほききみのいらつめ )  の  

3人の棺が  納められていると 伝えられることから   

「 三骨一廟 」 と 呼ばれています

江戸時代までは  

寺の許可があれば  石室内に入ることが できたようで

太子信仰の高まりと共に  多くの高僧が 廟内に入って

修行したと 伝えられています 

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聖徳太子 ( 第31代・用明天皇 第2皇子 )

■生没年 :  
敏達天皇3(574)年1月1日(2月7日)〜 推古天皇30(622)年2月22日(4月8日)
( 推古天皇29(621)年2月5日説がある  『 日本書紀 』 )  ( 49歳 ) 飛鳥時代 
■先祖 :
神武天皇 〜 武烈天皇 = 継体天皇  − 欽明天皇 −  用明天皇 − 聖徳太子
■御父母など :
用明天皇 ( 第31代 ) の 第二皇子
◎ 母 ・ 蘇我石寸名
      ○ 田目皇子( 用明天皇の第一皇子 )
◎ 母 ・ 穴穂部間人皇女 欽明天皇の皇女 ・ 穴穂部間人皇女 
( あなほべのはしひとのひめみこ )
      ○ 厩戸皇子( 諡号:聖徳太子 )
        ( 上宮太子 ・ 豊聡耳皇子 ・ 法主王ともいう )  
         − 推古天皇の皇太子・摂政
      ○ 来目皇子
      ○ 殖栗皇子
      ○ 茨田皇子
◎ 母 ・ 葛城廣子
      ○ 麻呂子皇子
      ○ 酢香手姫皇女
◎ 妻子  ○ 刀自古郎女   以下省略
■御陵名 :
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聖徳太子御廟 ・ 磯長墓( しながりょう )
墓所 「 叡福寺北古墳 」 が 宮内庁により比定されている
『 日本書紀 』 には 磯長陵とあるが  磯長墓と呼ばれることもある
穴穂部間人皇女  膳部菩岐々美郎女 を合葬する三骨一廟
後世に 定められたものとする説もある 
聖徳太子自ら ここを永眠の地と定め 生前に築いたとされます
■陵形 :
直径約55mの 円墳
墳丘の周囲は「 結界石 」 と呼ばれる石の列によって二重に囲まれている
平成14(2002)年、結界石の保存のため、宮内庁書陵部によって整備され、
墳丘すそ部が3カ所発掘された。
平成14(2002)年11月14日、考古学、歴史学の学会代表らに 調査状況が初めて公開された 
墳丘の直径が 55mを 下回る可能性が指摘されている
■所在地 :
大阪府南河内郡太子町 叡福寺境内     
近鉄・長野線 「 喜志駅 」東口に出ると 金剛バスのバス停があるので
上の太子駅行きか 太子循環のバスに乗り 太子前(叡福寺前)で降りるとすぐ
左側に叡福寺
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金堂

聖徳太子 詳しくは Wikipedia 参照くください
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太子町のどこからでも見える 二上山

路傍人の 御陵巡礼索引は ここです
過ぎゆく時を たいせつに・・・
第31代 用明天皇
ようめいてんのう
河内磯長原陵
こうちの しながのはらの みささぎ
大阪府太子町 2010.12.
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道路端の道標から数十メートルで拝所です
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聖徳太子を ご存じでしょう 〜     

太子のお父さんは どなたかご存知ですか  ・・・ ?

ここは  第31代・用明天皇の御陵です

用明天皇は  第29代・欽明天皇の 第四皇子で 聖徳太子の お父さんです

古墳時代終末期の 古墳として  空濠を巡らせて 
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濠の外堤までを含めた規模は  一辺100mに達する

最大級のスケールを有し  天皇陵に 相応しいものです
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付近には 第31代・敏達陵 ( 推古天皇の夫 )  第33代・推古陵 ( 欽明天皇の皇女 ・ 推古

天皇は 初めての女性天皇で敏達天皇の皇后 )  第36代・孝徳陵 ( 敏達天皇の孫で

押坂彦人大兄皇子王子茅渟王・ちぬのおおきみ・長男 ) そして  聖徳太子墓 が集まっており

エジプトの王家の谷  に なぞらえ 「  王陵の谷 」 と 呼ばれて

大阪・太子町  磯長谷( いそながたに ) 古墳群を 形成しています 

地図で見ると  推古天皇(33代)陵と  聖徳太子墓を 結ぶ直線の  中間位置に

この 用明天皇陵があり  すぐ西側には 太子町立太子中学校 があります 
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一代前の 敏達天皇(第30代)は  「 前方後円墳 」 に 葬られる 

最後の天皇となりましたが  この 用明天皇陵は  

初めて 「 方形の墳丘 」 を もった 王墓ということに なります 
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天皇としての 在位期間は短く  短命だったとされ

土壇場で  仏教に帰依する  発言をした以外  

大した業績は 挙げられていません
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第31代 ・ 用明天皇 ( ようめいてんのう )
 
■生没年 :  
生年不詳  〜 用明天皇2(587)年4月9日(5月21日)  ( 48・69歳
■在位 :
敏達天皇14(585)年9月5日(10月3日) 〜 用明天皇2(587)年4月9日(5月21日)  飛鳥時代  
■別名 :
橘豊日天皇 ( たちばなの とよひのすめらみこと )『 日本書紀 』
橘豊日命  ( たちばなのとよひのみこと )『 古事記 』
諱は 池辺皇子 ( いけのべのみこ )
また 即位前の名称として 大兄皇子 ( おおえのみこ ) とも称する
■皇后・ 皇妃・ 皇子女 :
◎ 皇后 ・ 穴穂部間人皇女  ( 泥部穴穂部皇女ともいう。欽明天皇29代・皇女 )
        第二皇子 ・ 厩戸皇子   ( 諡号は聖徳太子。 上宮太子 ・ 豊聡耳皇子
       ・ 法主王ともいう  )  − 推古天皇の皇太子・摂政
        第四皇子 ・ 来目皇子   ( または久米王 ) − 撃新羅将軍。
          登美真人の祖( →山村王 )
        第五皇子 ・ 殖栗皇子 - 蜷淵真人   ( みなぶちのまひと )の祖
        第六皇子 ・ 茨田皇子
◎ 嬪 ・ 石寸名   ( いしきな、蘇我稲目の女。または意富芸多志比売 )
        第一皇子:田目皇子  ( または多米王。別名豊浦皇子 )
◎ 妃 ・ 広子  ( 葛城直磐村の女。または葛木当麻倉首比里古の娘 )
        第三皇子:当麻皇子   ( 別名麻呂子皇子 )  − 征新羅将軍。
        当麻公・当麻真人の祖
◎ 皇女 ・ 酢香手姫皇女   ( または須賀志呂古郎女 )  − 伊勢斎宮
■皇居 :
磐余池辺雙槻宮 ( いわれのいけのへのなみつきのみや ・
          現在の奈良県桜井市阿部 あるいは 同市池之内か ) 
■御父 :
欽明天皇 ( 第29代 )の 第四皇子      
■御母 :
堅塩媛
娘3人を天皇に嫁がせた 蘇我稲目 の娘
■御陵名 :
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河内磯長原陵 ( こうちの しながのはらの みささぎ )
  『 日本書紀 』 によれば 磐余の池上の陵 ( いわれのいけがみのみささぎ ・    現在その所在地は不明 ) に葬られたが後の 推古元(593)年に 「 河内の磯   長の陵 」に 改めて葬ったと 記録されているそうです
■陵形 :
墳丘は3段築成の方墳で  直径・ 東西約67m  南北約63m  高さ 10.5m
周囲には  幅7mの空濠を巡らせており この濠の外堤までを含めた規模は
一辺100mに達する  巨大な規模を有しています 
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墳丘規模や形は  蘇我馬子 の墓と言われる  石舞台古墳 ( 奈良県明日香村にある古墳時代
後期の古墳 ) と よく似ていると いわれています
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年代・ 古墳時代終末期 7世紀
■所在地 :
大阪府南河内郡太子町春日      
   近鉄・長野線「 喜志駅 」から 金剛バスで「 春日口 」 徒歩400m
    近鉄・南大阪線「 上ノ太子駅 」 から徒歩約 1.3km
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一息の道草: 「 上ノ太子駅 」 それは関西でも最大級の広さを誇る 「 上の太子観光みかん園 」 
なんといっても ミカン山の頂上から眺める景色は素晴らしく 
思わず声を上げずにはいられない  天気のいい日は 明石海峡大橋が見えて 
南河内の町並みが よく見えま〜す ・・・

第31代 ・ 用明天皇 
 
第30代・敏達天皇が崩御後に即位。

敏達天皇とは違い、用明天皇は 蘇我稲目の孫と言う事もあり、「 崇仏派 」であり 
仏法を重んじた。
一方、危機感を持った「 廃仏派 」の筆頭である、物部守屋は 欽明天皇の皇子の一人 ・
穴穂部皇子と通じていた。

しかしながら、用明天皇は疱瘡のため、在位2年足らずの 587年4月9日( 古事記では4月
15日 )に崩御した。

享年には諸説あり、48歳 ( 欽明天皇元(540)年出生説 ) とも 69歳 ( 継体天皇13(519)年
出生説 )   とも 伝えられている。

崇仏派と廃仏派

 用明天皇 Wikipedia  
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路傍人の 御陵巡礼索引は ここです
過ぎゆく時を たいせつに・・・
第30代 敏達天皇
びたつ てんのう 
第29代・欽明天皇后 石姫皇女
河内磯長中尾 合葬陵 
こうちの しながのおの にささぎ
大阪府太子町 2010.12.
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石姫皇女の陵へ
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 ‖30代 ・ 敏達天皇 ( びだつてんのう )
■皇居 :
百済大井宮 ( くだらのおおいのみや )
  大阪府河内長野市太井・奈良県北葛城郡広陵町百済
  大阪府富田林市甲田・奈良県桜井市 などの諸説あり
   575年 卜占の結果に従い、訳語田幸玉宮 ( おさたのさきたまのみや )
   現在の奈良県桜井市戒重 へ遷った。
■御父 :
欽明天皇 ( 第29代 )の 第二皇子
■御母 :
宣化天皇 ( 第29代 )の皇女 皇后 石姫皇女 
■御陵名 :
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河内磯長中尾陵   ( こうちのしながのおの にささぎ )
( 太子西山古墳/奥城古墳 )
■陵形 :
前方後円墳
『日本書紀』 に よれば、この陵は当初、石姫(いしひめ)皇女を埋葬するために 
造られた陵だった 
天皇陵としては  最後の 前方後円墳 全長約93m である
周囲には 空濠を巡らせている そうです
周辺から埴輪が採集され  これらから  古墳時代の後期前半に築造されたと
考えられている そうです
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              敏達天皇は 前方後円墳に葬られる 最後の天皇である。
■所在地 :
大阪府南河内郡太子町大字太子 が 敏達天皇陵に比定されている

第30代 ・ 敏達天皇 ( びだつてんのう )
  
敏達天皇は廃仏派よりであり、廃仏派の物部守屋と中臣氏が勢いづき、それに崇仏派の
蘇我馬子が、対立すると言う構図になっていた。

仏教を巡る争いは 次の世代に持ち越された。
 第30代 敏達天皇 − Wikipedia  

∪佗厩捗
第29代欽明天皇の皇后
いしひめのひめみこ
磯長長原陵 合葬
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欽明天皇・石姫皇女 陵

■生没年 : 不詳
■第29代・欽明天皇の皇后
    ・欽明天皇元(540)年1月15日(2月8日) 欽明天皇の皇后に立てられた 
    ・敏達天皇元年4月3日(572年4月30日) 息子敏達天皇の即位と同日に 
      皇太后に立てられた 
■別名 : 石比売命 ( いしひめのみこと ) 『 古事記 』
■第29代・欽明天皇在位 :
      宣化天皇4(539)年12月5日 〜 欽明天皇32(571)年4月15日 
■皇居 : 檜隈廬入野宮 ( ひのくまのいおりののみや ・
      現在の 奈良県高市郡明日香村檜前 )
■御父 : 宣化天皇   第1皇女
■御母 : 橘仲皇女 (  第24代 ・ 仁賢天皇 の皇女  ) 
       ・ 敏達天皇( 30代 )の母  同母妹の小石姫皇女  『 古事記 』のみ
       ・ 倉稚綾姫皇女 ・ 日影皇女(以上紀のみ) ともに欽明天皇の妃となった 
       ・ 上殖葉皇子  ・ 某(夭逝、男女不明)
■子 :  ・ 箭田珠勝大兄皇子  ・ 敏達天皇(第30代)  ・ 笠縫皇女
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第29代・欽明天皇と石姫皇女との間に、敏達天皇(第30代)が誕生しています。
敏達天皇と広姫の間に、押坂彦人大兄皇子( おしさかのひこひとのおおえのみこ、
第一皇子、麻呂子皇子 )が産まれ、 この方は天皇にはなっていませんが、 この方の
御子が 舒明天皇 (第34代) です。

舒明天皇は   天智天皇(第38代)、 天武天皇(第40代)の 父となっています 

石姫皇女の系列が ( 押坂彦人大兄皇子だけを除いて )、 用明(第31代) ・ 崇峻(第32代) ・
推古(第33代)の  後の天皇として続いている わけです
いずれにせよ、 宣化天皇(第29代)の血統も  石姫皇女を通して 現在まで受け継がれて 
いるようです

皇后とは 何様でしょうか
一夫多妻制の場合は 正妻を指します しかし時代によって その権限や立場は
大きく異なります
父親の地位身分が高く  自身は幼い頃から あらゆる教養を身につける
これが 現在までの皇后です ね

以前は違ったようです  奈良時代以前の皇后は 教養より政治力でした
親族結婚が多かったりして  夫に早く死に別れる事が多く  
息子もまだ若かったりして  万が一の時は自分が 大王にならなければ なりません
皇后自身も 大王になれる 血筋を持って いなければなりません ・・・
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路傍人の 御陵巡礼索引は ここです
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なにか懐かしい
過ぎゆく時を たいせつに・・・

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