道端の出会い ①

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陛下 御陵 宮内庁

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久邇宮多嘉王 墓
くにのみや たかおう
第93代 後伏見天皇 20世皇孫
御墓 泉涌寺境内
京都 東山区 2012.2
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93代 後伏見天皇20世皇孫 久邇宮家墓

お墓を存じたのは 平成22(2010)年1月 京都一周トレイル 約70キロのコースに

挑戦した東山コ−スの標識6 を通過  山道を進んだ右手に

宮内庁管轄陵墓の製札 「 守脩親王 ・ 淑子内親王 ・ 朝彦親王 」 を見た時です

淑子内親王( 桂宮 )墓 は既に紹介しました
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久邇宮 多嘉王墓

ここでは  朝彦親王墓 第93代 後伏見天皇 20世皇孫  久邇宮 多嘉王墓 です
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久邇宮多嘉王妃 静子墓
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久邇宮多嘉王 ( くにのみや たかおう ) 日本の皇族

■生没年 :1875(明治8)年8月17日〜1937(昭和12)年10月1日
■御父 :久邇宮朝彦親王 ・ 伊勢神宮祭主の  第5王子
■御母 : 泉亭靜枝子
■妻 : 多嘉王妃静子( 水無瀬静子 ) 1884年9月25日〜1959年9月27日
■父・朝彦親王兄弟 : 邦憲王、 邦彦王、 守正王、 多嘉王、 暢王、 鳩彦王、 稔彦王。
■父・朝彦親王姉妹 : 智當宮、 栄子女王、 安喜子女王、 飛呂子女王、 絢子女王、
                 素子女王、懐子女王、 篶子女王、 純子女王。
■子 : 
第1王女 : 発子女王( 1911〜1915.6月26日 )
第1王子 : 賀彦王 ( 1912〜 1918.6月18日 )
第2王女 : Щ匳王( 1913〜1918.6月27日 )
第3王女 : 恭仁子女王( 1917〜2002.7月6日 )
        伊勢神宮大宮司二条弼基公爵に降嫁
第2王子 : 家彦王( 1920〜  )
         1942.10月5日 宇治姓を賜り伯爵に叙爵。
第3王子 : 徳彦王( 1922〜2007.2月7日)  
         1943.6月7日に龍田姓を賜り伯爵に叙爵。戦後梨本姓となる。

多嘉王は1907(明治40)年に子爵水無瀬忠輔の娘静子と成婚し3男3女を儲けるが、
第1王女発子女王、第2王女Щ匳王、第1王子賀彦王はいずれも早世した。

多嘉王は宮家を創設していないため、成人した二人の息子は何れも臣籍降下して
伯爵を叙せられている。
         
                  転載もと : 久邇宮 多嘉王−Wikipedia
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久邇宮多嘉王 子墓
                  後伏見天皇21世皇孫女 発子 第1女王墓 
                  後伏見天皇21世皇孫  賀彦墓 第1王子墓
                後伏見天皇21世皇孫女 Щ丗2女王墓
 
生涯
1907( 明治40)年 皇室典範が増補され  王が臣籍降下し華族となる道が開けた。
従来は、男子皇族の臣籍降下は認められておらず、男子が絶えぬ限り皇族が増え続ける
こととなっていた( 永世皇族制 )。

しかし、皇族が養子をとることは禁じられていた為、男子のいない宮家は断絶する事と
なっていた。

皇室典範増補により、当時の宮家当主ではない王は、皆一様に臣籍降下し華族となり
爵位を賜ったが、多嘉王のみ臣籍降下しなかった。

これには「 西久邇宮 」 創設の為に、温存されたとの説がある。

1875( 明治8 ) 年 誕生
1895( 明治28 )年 7月 貴族院議員( 皇族議員 )
1907( 明治40 )年 3月6日 勲一等旭日桐花大綬章受章
1917( 大正6 ) 年 10月31日 大勲位菊花大綬章受章
1937( 昭和12 )年 10月1日  薨去 63歳
■御陵 : 泉涌寺の山門前を  通過して雲龍寺参道の右手です
■所在地 :  京都市東山区泉涌寺山内町
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雲龍寺への径
路傍人 御陵巡礼索引はここ
過ぎゆく時を たいせつに・・・
皇室の宮家について
2012.2.
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宮家 ( みやけ ) とは、 日本の皇室で代々皇族の身分の保持を許された一家のことである。
宮 ( みや ) とは、元々、天皇並びに皇族の邸の事を指し、転じて住んでいる皇族のことを指すに至った。
この 「 宮 」 という呼称を世襲することから 「 宮家 」 という言葉が起こった。
ただし、法的な根拠を持つものではない。
現在の法令上の取り扱いでは 「 ○○宮 」 の称号は、あくまでも宮家の当主個人の称号とされている。
従って、個別の宮号に 「 家 」 を付けた 「 ○○宮家 」 という表現は、俗称あるいは便宜的
に用いられるものであり、公式な場面や書類では使用されない。
Wikipedia 「 宮家 」 から転載

現存する宮家

秋篠宮   1990年( 平成2年 )  6月29日創設。   当主:文仁親王
常陸宮   1964年( 昭和39年 ) 9月30日創設。   当主:正仁親王
三笠宮    1935年( 昭和10年 ) 12月2日創設。  当主:崇仁親王
桂 宮    1988年( 昭和63年 ) 2月11日創設。   当主:宜仁親王 (
高円宮   1984年( 昭和59年 ) 12月6日創設。   当主:憲仁親王妃久子

  桂宮(
  桂宮宜仁親王(かつらのみや よしひとしんのう、1948年(昭和23年・2月11日〜 )
  日本の皇族。三笠宮崇仁親王と同妃百合子の第二男子。今上天皇の従弟にあたる。
  身位は親王。皇室典範における敬称は殿下。お印は桂(かつら)。勲等は大勲位。
  皇位継承順位第7位。
  戦後初めて、独身で宮家を創設した。

四親王家

伏見宮、 閑院宮、 桂宮()、 有栖川宮。

1947( 昭和22 ) 年 皇籍離脱

伏見宮、 閑院宮、 久邇宮、 山階宮、 北白川宮、 梨本宮、 賀陽宮、 朝香宮、
竹田宮、 東久邇宮、 東伏見宮。

断絶  時代は断絶時期を示す

  鎌倉時代  岩倉宮、 四辻宮。

  室町時代  常盤井宮、 木寺宮、 花町宮、 五辻宮、 小倉宮、 玉川宮、
           護聖院宮。

  明治時代以降  
          桂宮()、 小松宮、 有栖川宮、 華頂宮。

戦後
          秩父宮、 高松宮。

詳しくは ・ 転載もとは ここをご覧下さい
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御寺 泉涌寺境内

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守脩親王(梨本宮) 墓
なしもとのみや もりおさ しんのう
第93代 後伏見天皇 18世皇孫
御墓 泉涌寺境内
京都 東山区 2012.2.
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合葬墓

お墓を存じたのは 平成22(2010)年1月 京都一周トレイル 約70キロのコースに挑戦した  

東山コ−スの標識6 を通過  山道を進んだ右手に

宮内庁管轄陵墓の製札  「 守脩親王 ・ 淑子内親王 ・ 朝彦親王 」 を見た時です

ここでは  第93代 後伏見天皇 の 18世皇孫 伏見宮貞敬親王の

第 9王子 守脩親王が創設した宮家  梨本宮初代 墓
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守脩親王 墓

江戸時代末期から明治時代にかけての日本の皇族

■生没年 : 文政2年10月29日(1819年12月16日)〜 明治14(1881)年9月1日
■別名 : 王子幼称は 万代宮
■御父 : 伏見宮貞敬親王の第9王子
     伏見宮邦家親王の弟。 邦家親王の数知れずの王子女達の叔父でもある
■御母 : ?
■親王には継嗣となる王子が無かったため、山階宮晃親王  の王子菊麿王を養子とした。
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生涯
天保4(1833)年4月 親王宣下。 守脩と命名される
同  (1833)年9月 円満院(えんまんいん)は、滋賀県大津市園城寺町33にある
             天台宗系の単立寺院円満院に入り、出家し覚諄入道親王を名乗る。
安政3(1856)年   二品に叙せられる。
安政6(1859)年6月 円融院に入り梶井門跡となり、名を昌仁入道親王と改めた。
             親王は 比叡山延暦寺の貫主(住職)天台座主も務めた。
             明治維新後は 他の皇族と同様に還俗し、梶井宮守脩親王を名乗った。

明治元年(1868年)還俗して梶井宮と称する。

明治2(1869)年 上野国 ( こうずけのくに ) 太守に任ぜられる。
明治3(1870)年 宮号を 「  梨本宮  」 に改称した。

明治14(1881)年9月 薨去 63歳。

■御陵 : 泉涌寺の山門前を  通過して雲龍寺参道の右手です
■所在地 :  京都市東山区泉涌寺山内町
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泉涌寺境内 後月輪東山東北陵への径

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久邇宮 朝彦親王 墓
くにのみや あさひこ しんのう
淑子内親王墓 ・ 守脩親王墓
第93代 後伏見天皇19世皇孫
御墓 泉涌寺境内
京都 東山区 2012.2.
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朝彦親王墓 ・ 淑子内親王墓 ・ 守脩親王墓

お墓を存じたのは 平成22(2010)年1月 京都一周トレイル 約70キロのコースに挑戦した  

東山コ−スの標識6 を通過  山道を進んだ右手に

宮内庁管轄陵墓の製札 「 守脩親王 ・ 淑子内親王 ・ 朝彦親王 」を見た時です

淑子内親王( 桂宮 )墓 は既に紹介しました
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朝彦親王墓

ここでは  朝彦親王墓 第93代 後伏見天皇 19世皇孫  朝彦親王( 久邇宮 )墓 
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■生没年 : 文政7年(1824)1月28日 〜 明治24(1891)年1月29日 68歳。
■御父 : 伏見宮邦家親王 第四王子
■御母 : ( 正妻 )妃鷹司景子
       ( 実母 )女房・鳥居小路信子 富宮とも称した
■妻・子 : 
\亭靜枝子
    第1王女:智當宮(ちたのみや、諡:眞實行院・1864〜 1866)
    第1王子:男子(諡:淨寶珠院・1865〜12)
    第2王子:賀陽宮邦憲王 (1867 〜1909)
    第3王女:池田安喜子(安喜子女王・あきこじょおう・侯爵池田詮政夫人・1870
〜1920)
    第4王女:飛呂子女王(ひろこじょおう・1871〜1889)
    第5王子:多嘉王 (1875 〜 1937)
    第6王子:暢王(のぶおう・1877 〜1878)
∪萬喜子
    第2王女:東園栄子(栄子女王)(さかこじょおう・子爵東園基愛夫人・1868〜
1949)
    第5王女:竹内絢子(絢子女王)(あやこじょおう・子爵竹内惟忠夫人・1872〜
1946)
    第3王子:久邇宮邦彦王 (1873〜1929)
     第6王女:仙石素子(素子女王)(もとこじょおう・子爵仙石政敬夫人・1877〜
1918)
    第7王女:懐子女王(やすこじょおう・1879〜1880)
    第8王女:壬生篶子(篶子女王)(すずこじょおう・伯爵壬生基義夫人・1879〜
1947)
    第7王子:男子 (1882〜)(母:女房泉萬喜子)
8凝銚枝子
    第4王子:梨本宮守正王 (1874 〜1951)
せ尾宇多子
    第9王女:織田純子(純子女王)(あつこじょおう・子爵織田秀實夫人・1885〜
1912)
    第9王子:東久邇宮稔彦王 (1887 〜1990)
コ囘朕棆貉
    第8王子:朝香宮鳩彦王 (1887 〜1981)

転載もと : 久邇宮朝彦親王−Wikipedia
生涯
天保8(1837)年12月10日、親王となり、成憲と名のる。
天保9(1838)年4月20日、15歳、落飾、尊応法親王となる。
嘉永5(1852)年3月22日、勅命により青蓮院門跡となる。
嘉永5(1852)年3月23日、尊融法親王(中川宮)改名。
                 江戸幕府が行なった弾圧安政の大獄。 
安政6(1859)年9月、相国寺内、桂芳軒に永蟄居。 この頃、獅子王院宮と称す
文久2(1862)年4月、39歳,御赦免青蓮院へ還住さる。しばしば参内朝議に参画。
                 河原町広小路、一乗院里坊の新殿へ移る。
文久2(1862)年8月18日、深更参殿、政変決行す。尊攘主義者から非難される。
文久2(1862)年8月27日、弾正尹 に任じ、御名を朝彦と賜わる。 以後、尹宮
元治元(1864)年10月10日、賀陽宮と改めらる。
慶応2(1866)年12月25日、第121代 孝明天皇 崩御までの間、朝廷政治の中心にあった。
明治元(1868)年8月16日、事により、第120代 仁孝天皇 養子、親玉、宮位共に停止。
明治3(1870)年10月20日、伏見宮に復帰。
明治5(1872)年1月6日、宮号を称し、三品に叙す。
明治8(1875)年5月8日、仁孝天皇養子・親王に復す。
明治8(1875)年5月20日、久邇宮と称す。
明治8(1875)年7月12日、神宮祭主に任ず。
明治8(1875)年12月31日、勲一等に叙す。
明治19(1886)年12月29日、大勲位に叙す。
明治24(1891)年1月29日、甍去。68歳。

■御墓 : 泉涌寺泉山墓地    土地を贅沢に使った六角丘となっています
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                       泉涌寺 舎利殿

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淑子内親王( 桂宮 )墓
第120代 仁孝天皇皇女
御陵 泉涌寺境内
京都 東山区 2012.2.
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淑子内親王(桂宮)、朝彦親王(久邇宮)、守脩親王(梨本宮) 墓  

第120代 仁孝天皇 第三皇女・淑子内親王・第11代桂宮(1829〜1881) の 御陵です

明治以降に没し 桂宮家を継承し 未婚で薨去の 淑子内親王は 

仁孝天皇皇女 であるためか  泉涌寺に 御陵があります  

桂宮家 智仁( としひと )親王 ( 正親町天皇皇孫 ) が

死去の際  慈照院を 香華所( 菩提所 ) に 

定められました ので  桂宮家 15仏様は 慈照院に 眠られています 

次のページ 桂宮家の菩提所 慈照院(相国寺塔頭)  慈照院 ・ 桂宮墓をご覧下さい
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桂宮 淑子内親王 ( かつらのみや すみこ ないしんのう )

■生没年:文政12年1月19日(1829年2月22日)〜 明治14(1881年)10月3日)
                  未婚のまま薨去された 53歳。
■幼少名: 敏宮( ときのみや ) 
■皇妃: 仁孝天皇 第三皇女
■敬称: 桂准后宮
■御父:  実父 ・ 仁孝天皇( 第120代天皇 )
       養父 ・ 桂宮節仁親王( 第11代桂宮 ・ 仁孝天皇の第6王子 )
■御母: 按察使典侍・甘露寺妍子
■御陵:  泉涌寺の山門前を通過して雲龍寺方向です
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桂宮 淑子内親王 ( かつらのみや すみこ ないしんのう )

第121代 ・ 孝明天皇は異母弟
既投稿の 皇女・和宮内親王、徳川家に降嫁 は 異母妹にあたる。

天保11年1月28日(1840年3月1日)、閑院宮愛仁親王 と婚約。
天保13年9月15日(1842年10月18日)には 結婚を前に内親王宣下がなされる。

その2日後の9月17日(10月20日)に 愛仁親王が薨去したことにより結婚には
至らなかった。

文久2年12月23日(1863年2月11日) 異母弟 節仁親王の没後、当主不在となっていた桂宮家を継承し、第12代桂宮となる

これは 女性が当主として 世襲親王家を継承した唯一の例である

次いで慶応2年4月22日(1866年6月5日)には 准三宮(准后)、一品に叙されるなど、異例の厚遇を受けた。

以後、 桂准后宮と称せられることになり、 座次でも同じく准三宮( 准后 )であった。
孝明天皇 女御 英照皇太后( 九条夙子・1834〜1897 )より上座とされた。

明治14年(1881年)53歳で薨去。

同年10月20日 京都市上京区の相国寺で 葬儀が執り行われ 同市東山区の泉涌寺内に葬られる。

淑子内親王の薨去をもって、 桂宮家は継嗣不在のため11代で断絶した。

大変人見知りの激しい性格で、御所の庭を散歩するときにも輿に乗り、簾の間からかいま見る、という行動をとっていた。

物怖じしない性格の  和宮とは全く対照的だったという。

その和宮とは、 一時期同居していたことがある

現在の 二条城本丸御殿()と いわれているのが、淑子の住まいであった桂宮邸である。

能を愛好していた彼女の好みにより、座敷の一部は能舞台として使えるように改造がくわえられており、今でもその遺構が残っている。
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淑子の住まいであった桂宮邸      二条城本丸御殿
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本丸御殿 西側からみる

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○ 相国寺の境内塔頭 慈照院に 「 桂宮家 」の墓地があります
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二条城
過ぎゆく時を たいせつに・・・

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