道端の出会い ①

このブログ「道端の出会い」を立ち上げて、10年が経ちました。感謝。

陛下 御陵 宮内庁

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第108代 後水尾天皇髪歯塚
ごみずのてんのう はつしか つか
相国寺 境内
京都 上京区 2012.1.
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後水尾天皇髪歯塚

相国寺 の境内には  第108代 後水尾天皇 ( ごみずのお ・ 1596〜1680 ・ 89歳 )の 

毛髪や歯を納めた 『 後水尾天皇 髪歯塚 』 ( はつしつか ) が 現存しています
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髪塔や髪爪塔は  数が多いですが   髪歯塚というのは

ここだけだと思います
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江戸時代初期に  皇位を継承した  第108代・後水尾天皇 は 

江戸幕府による 「 禁中並公家諸法度 」 など  皇室への圧力に抵抗し

第109代・明正天皇 に 皇位を譲りました。

その後  第110代・後光明天皇 ( ごこうみょう )

第111代・後西天皇 ( ごさい ) 第112代・霊元天皇 ( れいげん ) と

4代の天皇  51年間に渡って 院政 ( 上皇として政治を行なう ) を 行いました 

昭和60(1985)年)7月12日までは  歴代最長寿の天皇でもあったが

昭和天皇が 記録を抜かれました

中宮・ 徳川和子 (東福門院)(1607-1678) を更新しました  が

皇子・皇女 33人が誕生   女性関係は派手で

禁中法度を無視し  宮中に遊女を招きいれたり  

遊郭にまで  おしのびで出かけられた  とか  

中宮以外の  女性に多くの子を  産ませ

56歳で出家した 後も治らず 

58歳でのちの 第112代 霊元天皇 を産ませられた。

相国寺 境内    075-231-0301
住所 : 京都市上京区今出川通烏丸東入

 宮内庁は「 天皇、皇后、太皇、太后及び皇太后を葬る所を陵、
その他の皇族を葬る所を墓 」と規定し 陵墓の他に分骨所、火葬塚、灰塚、髪・歯・爪塔及び塚、白鳥陵、殯斂地、陵墓参考地を管理している。

路傍人 御陵巡礼索引はここ
過ぎゆく時を たいせつに・・・
第108代 後水尾天皇の后( きさき )
東福門院・徳川和子 
とくがわ まさこ・かずこ
泉涌寺 月輪陵域
京都 東山区 2012.1.

このページは 前ページからの続きです。

大御所・徳川家康は  和子の入内を申し入れ 慶長19年(1614年)4月に

入内宣旨が出される。

入内は大坂の陣や 元和2年(1616年)の家康 の死去

第107代・後陽成天皇(ごようぜいてんのう) の 崩御などが続いたため 延期された。

元和4年(1618年)には女御 御殿の造営が開始されるが

後水尾天皇の寵愛する 女官四辻与津子( よつつじ よつこ・お与津御寮人 )が

皇子賀茂宮を出産していたことが 判明すると入内は問題視される。

翌元和5年には 秀忠自身が上洛して参内し 与津子の兄弟である

四辻季継・高倉嗣良を含む 近臣らを流罪し 与津子 と 所生の皇女梅宮らを

宮中より 追放することなどで合意した およつ御寮人事件

和子は  元和6(1620)年11月28日に 後水尾天皇の女御として入内する。

元和6(1620)年6月18日 将軍家の威信をかけて  二条城から 大な行列が

盛大にとりおこなわれた  入内の行列を描いた 屏風 ↓ です
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東福門院入内図屏風 借用もと 徳川美術館   和子は 左側の牛車に乗車

東福門院入内図屏風 6曲1双の内 には その様子が描かれている

元和9(1623)年に 懐妊し  同年6月には  秀忠 ( 江戸幕府の第2代征夷大将軍 )と

嫡男家光 ( 江戸幕府の第3代将軍 ) が
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二条城

将軍宣下のため上洛し  禁裏御領1万石を 寄進される 

元和9(1623)年11月19日  第108代・後水尾天皇 と 徳川和子( かずこ ) の

皇女 一宮興子内親王 ( 後の明正天皇・第109代 ) が 誕生する 

和子は  寛永元(1624)年 冊立( さくりつ・正式に定める )され  中宮となり

同2(1625)年9月 には  女二宮が誕生する 

寛永3(1626)年 には  徳川秀忠  ・  家光が上洛し 

後水尾天皇の  二条城  行幸が行われた

和子は 寛永3(1626)年11月13日  高仁親王を出産した

しかし 寛永4(1627)年 高仁親王は夭折  

この年生まれた 男二宮も  誕生直後に没した

寛永6(1629)年には朝廷と幕府間で紫衣事件 (対立) が発生し 

同年10月8日に 後水尾天皇は突然 譲位

女一宮に 内親王宣下が下される 

同年11月9日に 院号宣下があって  和子は 「 東福門院 」 の号を賜る

翌寛永7(1630)年9月12日  女一宮は 即位して 明正天皇・第109代 となる

寛永11年(1634年)には  新将軍となった兄の  家光  が上洛し 
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二条城 謁見の間

姪にあたる 明正天皇に拝謁し 東福門院の 御所も訪れている

東福門院 ・ 和子は 
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東福門院・徳川和子の眠る月輪陵
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延宝6( 1678 ) 年6月15日  崩御  72歳  泉涌寺月輪陵域に葬られた
 

家康は 徳川家を 天皇の外戚とするべく 皇子誕生の期待を持って 

和子を  宮中に送り込んだ意図が  あったと 考えられているが

出生した  2男5女のうち 2皇子はすべて 早世している 

そのため  東福門院 ・ 和子は

夫( 第108代後水尾天皇) と  別の女性 ( 園光子 ・ 後宮の一人 ) との

間に生まれた  紹仁 ( つぐひと ・ のちの 第110代・後光明天皇 ) を

養子として   実娘 明正天皇の 後継者とし  

夫 ( 第108代後水尾天皇) と  徳川家の 双方の面目を立てた

気が強い 夫・後水尾天皇と  天皇家を押さえつけようとする 幕府の間を

取り持つことに  奔走する気苦労の多い  東福門院・和子の 生涯であった 
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修学院離宮

修学院離宮 を建てられた費用 および

衰退した 光雲寺 を ご自分の菩提寺として 再興するに   

徳川秀忠公の 遺金をもってされて  寛文4( 1664 )年 
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光雲寺  東福門院・和子菩提寺

摂津国 ( 現 大阪府 ) 天王寺から  現在地に移転され  費用の大半が 
 
東福門院 ( 和子 ・ まさこ ) の要請により 

幕府から  捻出された  とされている 

第110代・後光明天皇の 崩御直後に

その弟の 第111代・後西天皇 の 即位を

渋る ( 後西天皇が仙台藩主伊達綱宗の従兄弟であったため ) 幕府を説得して

即位を 実現させたのも  東福門院・和子の  尽力によるとされる 


文字数制限の為分割 このページに続きます。

過ぎゆく時を たいせつに・・・
第108代 後水尾天皇の后( きさき )
東福門院・徳川和子 
とくがわ まさこ・かずこ
泉涌寺 月輪陵域
京都 東山区 2012.1.
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泉涌寺仏殿  重文

東福門院・徳川和子(かずこ) は  徳川二代将軍秀忠江与 との

第五女で  入内して108代・後水尾天皇 の 中宮となりました
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東福門院・徳川和子 泉涌寺塔頭戒光寺 蔵

入内の際に 濁音発音を嫌う 宮廷風習にならい 「 まさこ 」 と 読みを変えられ

公武融和のための  初の武家出身の国母で 嫁して  天皇との間に7人の子供を

もうけ  長女は 109代・明正天皇 ( めいしょう天皇・女帝 )になりました

母の江与( 江 ) は  秀忠二代将軍 徳川秀忠 との間に 

二男五女を もうけました

江与( 江 ) の長女の 千姫 は 大姫と呼ばれ  豊臣秀頼に嫁ぎましたが

豊臣氏滅亡の折  戦火の中を助けられ 江戸城に戻りました

五女の和子( かずこ ) は 江与にとっては珍しい 難産の末

ようやく誕生したという  

和子は  長女の大姫( 千姫 )と 区別するために

乙姫と呼ばれ  後に駿府の家康公より  和子の名を賜ったそうで

既に 家康には  朝廷に入内させる腹積りがあり  
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京都御所 建礼門と築地塀

和子は  将来入内することを 前提にして  大切に育てられました

わずか14歳で  入内した和子は  後水尾天皇との間に 二男五女をもうけました

つまり  母親の江与と同じく 多くの子に恵まれました

しかし  二人の親王は早世し  長女の興子 ( おきこ ) が 

後水尾天皇を継ぎ  第109代の女帝 明正天皇になりました

奈良時代の 第43代・元明女帝 から 明( めい )の字をいただき

また同じく  第44代・元正女帝から 正( しょう )の字をいただいた

大変由緒ある名前でした

ここに 徳川秀忠と江与は  天皇の外祖父母となりました

その後 紫衣事件 ( しえじけん ) で憤慨された 後水尾天皇は  譲位して上皇となり

和子も 後水尾上皇より「 東福門院 」の  御名を賜りました

後水尾上皇は 「 東より福来る、という意味じゃ 」 と 仰せられた とか
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御所 皇后宮常御殿 (こうごうぐう つねごてん)

以後  東福門院は 御所に住まわれましたが  

朝廷と武家  関東と京では  諸事にわたって 様式が異なり
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江戸城 伏見櫓

意に沿わないことが  数多あったにもかかわらず 

明るく穏やかな性格をもって 万事に対処されたということで

実家の  徳川将軍家の勢威が  非常に高い時期でもあり

陰に陽に  和子中宮への  援助も大きかった事でしょう
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泉涌寺 月輪陵域

かくして  69歳( 72歳 )の 天寿を全うされました 

↑ 参考出典 (宮尾登美子「東福門院 和子の涙」講談社)
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泉涌寺 月輪陵

第108代 後水尾天皇 后

東福門院( とうふくもんいん ) ・ 徳川和子 ( かずこ → まさこ)
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■生没年:
慶長12年10月4日(1607年11月23日)〜 延宝6年6月15日(1678年8月2日))
江戸時代前期の女性   崩御 72歳 (Wikipedia)。
■別名: 最初の名は 松姫( まつひめ )  和姫( かずひめ )とする説もある 。
■皇妃・皇子女
    第二皇女 : 興子内親王・( 第109代 明正天皇・1623〜1696)
      第三皇女 : 昭子内親王( 1625〜1651・秋月院妙澄大師 )−近衛尚嗣室
   第二皇子 : 高仁親王( 1626〜1628 )
   第三皇子 : 若宮( 1628 )
   第四皇女 : 顕子内親王( 1629〜1675 )
   第六皇女 : 賀子内親王( 1632〜1696 )−二条光平室
   第七皇女 : 菊宮( 1633〜1634 )
■皇居: 京都御所
■御父: 徳川秀忠  正室・藤原達子との間の7番目の子(5女)
■御母: 藤原達子 [ 崇源院、江(ごう)、小督 (おごう)、江与( えよ)として知られる。]
■御陵: 京都泉涌寺月輪陵域に葬られた
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■所在地 : 京都市東山区今熊野泉山町 御寺・泉涌寺

慶長17(1612年) 後水尾天皇が即位する
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即位礼 IMG

分割しました。
過ぎゆく時を たいせつに・・・
第106代 正親町天皇
深草十二帝陵
深草北陵
京都 伏見区 2012.1.
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寺院方式の方形堂
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応仁の乱 1467〜1477
  
戦いは日本を二分して 11年に渡ったため 京都は焼け野原となり

天皇をはじめ  貴族たちは戦乱を逃れて  あちこちに避難し続け

やがて  天皇家  将軍家ともに  疲弊しきって  財政的基盤を失い

世は大きく  戦国時代へと移行していきます

第103代 後土御門天皇の治世は  36年におよんだが

明応9(1500)年9月28日 帝が崩御されたとき  朝廷は葬式費用を捻出できず

帝の遺骸は 44日間御所内に 安置されていたと言う 

第104代  後柏原天皇の治世は  26年におよんだが  即位の礼をあげるまでに

21年待たなくてはならなかった  費用調達の為に 朝廷は儀式を中止する

など経費節約をし 室町幕府や 本願寺9世実如の献金をあわせることで

即位22年目の 大永元(1521)年3月22日 ようやく即位の礼を 執り行うことができた

第106代 正親町天皇 は 弘治3(1557)年 後奈良天皇の崩御に伴って

践祚したが  天皇や 公家達はすでに貧窮していた

戦国大名の 毛利元就の献上金があるまで 3年間即位の礼を挙げられなかった


正親町天皇は  毛利元就に褒美として  従五位下・右馬頭という位階を授け

皇室の紋章である 「 菊と桐の模様 」 を 毛利家の家紋に付け足す ことを

許可した  さらに 本願寺法主・顕如も莫大な献金を行っており

天皇から  門跡の称号を与えられ  これ以後  本願寺の権勢が増した 
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第106代 正親町天皇( おおぎまちてんのう )

■生没年: 永正14年5月29日(1517年6月18日)〜 文禄2年1月5日(1593年2月6日))
■在位: 弘治3年10月27日(1557年11月17日)〜 天正14年11月7日(1586年12月17日))
■別名: 方仁( みちひと )
■皇妃・皇子女
  ◎ 典侍:藤原房子(万里小路房子・清光院・ ?〜1580) − 万里小路秀房女
       第二皇女:永高女王・宝昌院・1540〜1551) − 大聖寺門跡
       第三皇女(1543〜 ?)
       第五皇子:誠仁親王・陽光院・1552〜1586) − 譲位を受ける前に薨去
       皇女(1562〜1567) − 母は推測
◎ 典侍:目々典侍 − 飛鳥井雅綱女
       皇女:春齢女王・1549〜1569)− 大聖寺門跡
       皇女:永尊女王・1563?〜1571) − 大聖寺門跡
◎ 典侍:大典侍(御伊茶) − 万里小路賢房女
       第一皇女(1539〜1543)
  ◎ 養子 和仁親王・第107代 後陽成天皇・1571〜1617)− 誠仁親王第一王子
■皇居: 平安京 ( へいあんきょう・京都市 )
■御父: 後奈良天皇の第二皇子
■御母: 参議万里小路賢房の娘、吉徳門院藤原栄子
■御陵: 深草北陵 ( ふかくさの きたのみささぎ )
■陵形: 方形堂
■所在地 : 京都市伏見区深草坊町 京阪電車本線・深草駅

 権威も地に落ちかけていた。
永禄11年(1568年)、戦国大名の織田信長は、正親町天皇をお護りするという大義名分により、京都を制圧した。
この上洛によって、皇室の危機的状況に変化が訪れた。
信長は、逼迫していた朝廷の財政を様々な政策や自身の援助により回復させたその一方で、天皇の権威を利用し、信長の敵対勢力に対する度重なる講和の勅命を実現させた

元亀元年(1570年)の朝倉義景・浅井長政との戦い、天正元年(1573年)の足利義昭との戦い、天正8年(1580年)の石山本願寺との戦いにおける講和は、いずれも正親町天皇の勅命によるものである(ただし、本願寺との和議は本願寺側からの依頼という説もある)。その間の天正5年(1577年)には信長の最高位となる右大臣を宣下した。

豊臣氏へ政権が移った後も、豊臣秀吉は御料地や黄金を献上し、正親町天皇を政権の後ろ楯とした

天正14年(1586年)、孫の和仁(かずひと)親王(後陽成天皇 107代)に譲位して仙洞御所に隠退した。

文禄2年(1593年)1月5日に崩御した。 正親町天皇Wikipedia
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過ぎゆく時を たいせつに・・・
修正のため再投稿です。
第93代 後伏見天皇
深草十二帝陵 
深草北陵 
京都 伏見区 2012.1.
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寺院方式方形堂
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このページは ここの続きです

この深草北陵以前には 大規模古墳の 天武天皇と持統天皇の檜隈大内陵 を除いて

一つの天皇陵に 複数の天皇を埋葬した例は 無かったようです

平安時代以降 仏教の影響で火葬が普及して 墳墓自体がコンパクトになり

寺院内に塔や 御堂を建立して 遺骨を納めるようになったことです

また  南北朝から 戦国時代と続く戦乱の中で  朝廷や大寺院も

各地の荘園を失って 経済的に疲弊し 新たに 天皇陵及びそれを守護する陵寺の

造営が不可能となったことが  大きな理由のようです

戦国時代には  有力大名の援助が無ければ  天皇の即位式も出来ず

また天皇の葬儀さえも  資金難から滞ったこともあった程でした

天下が平定された  秀吉時代の 第107代後陽成天皇 でも 

この深草北朝に  合葬されていることを考えると  この時代までに

天皇の合葬は  普通の事になっていたのでしょう  が

明治の天皇制以降  大規模な天皇陵が  整備されております

先祖がえりと  言うのでしょうか ・・・
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第93代 後伏見天皇 ( ごふしみ てんのう )
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■別名 : 胤仁( たねひと )
■生没年 : 弘安11(1288)年 〜 延元元(1336)年 (49歳
■在位 : 永仁6(1298)年〜 正安3(1301)年 鎌倉時代の天皇
■御父 : 伏見天皇(92代) 第1皇子
■御母 : 藤原(五辻)経子 − 参議・藤原経氏の娘)
■皇后・ 皇妃・ 皇子女 :
女御 ・ 西園寺寧子(広義門院・1292〜1357)− 西園寺公衡の娘
    ‖莪豺捗・┿卞眇堂Α平啓篠院)(1311〜1337)− 後醍醐天皇(96代)中宮
    第四皇子・量仁親王(光厳天皇・北朝1代・1313〜1364)
  B莽珊鳥辧Ψ平凌堂Α1315〜 ?)
     ぢ莇綛鳥辧λ仁親王(光明天皇・北朝2代・1321〜1380)
治部卿局 - 法印泰豪女
  ヂ莪豺鳥辧β紺法親王(1306〜1359)
高階邦子(堀河局) − 高階邦経女
    β萋鷙鳥辧λー號/堂Α1308〜1391) − 仁和寺御室
正親町守子(東御方) − 正親町実明女
 第七皇子・承胤法親王(1317〜1377)
    第八皇子・長助法親王(1318〜1361)
  第九皇子・亮性法親王(1318〜1363)
    第五皇女・璜子内親王(璜=王編に黄)(章徳門院)
対御方(1297〜1360) − 正親町実明女
     皇子・慈真法親王(1314〜 ?)
     皇子・尊道入道親王(1332〜1403)
     皇女(?‐?)  
■皇居 : 平安京(へいあんきょう:京都市)
■御陵名 : 深草北陵( ふかくさの きたのみささぎ )
■陵形 : 方形堂
■所在地 : 京都市伏見区深草坊町 京阪電車本線・深草駅・徒歩約15分

第93代 後伏見天皇
この頃、時明院・大覚寺両統の対立(抗争)は激化し、実質上の天子決定権を持つ
鎌倉幕府には、両統から特使が派遣され、猛烈な運動が展開された。

   南朝= 大覚寺統 = 亀山天皇・90代の血統派。
   北朝= 持明院統 = 後深草天皇・89代の血統)派。

業を煮やした幕府は、両統の皇太子を交互にたて、譲位は天皇の意志によるという
方針を出した。

後伏見帝(93代)もこうした流れのなかにあり、永仁6(1298)年、譲位を受け11歳で践祚。 
父伏見上皇(92代)が院政を行なった。

亀山法王(90代)の意向で、後伏見帝(93代)は在位2年6ヶ月で譲位させられた。
正安3(1301)年正月、邦治親王 践祚が実現した。 後伏見天皇(93代)は14歳だった。

邦治親王 = 後宇多天皇(91代)の 第一皇子邦治親王 ( 後二条天皇・94代 )

治世は久々に大覚寺統に移り、後二条天皇(94代)の後見として、父後宇多上皇(91代)
の院政が開始したがのちに、後伏見上皇(93代)が 院政を行なった。 
  \杵2(1313)年から5年間(95代・花園天皇の御代)
  元弘元(1331)年、後醍醐天皇(96代)の笠置脱出から、京都還幸まで約2年間
(北朝1代・光厳天皇の御代)
そして、元弘3(1333)年鎌倉幕府滅亡の時、六波羅探題 北条仲時 に擁せられ、
花園上皇(95代)、光厳天皇(北朝1代)とともに、東国に脱出をはかったが近江国
番場(ばんば)宿で、捕えられて帰京、その後46歳で出家。
3年後の、延元元(1336)年、後伏見上皇は 49歳で崩御した。   
 後伏見天皇−Wikipedia
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再投稿ですので、コメント欄は閉じています。
過ぎゆく時を たいせつに・・・

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