道端の出会い ①

このブログ「道端の出会い」を立ち上げて、10年が経ちました。感謝。

陛下 御陵 宮内庁

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第110代 後光天皇
ご こうみょう てんのう
天皇家菩提寺・泉涌寺
月輪陵
つきのわの みささぎ
京都 東山区 2012.1.
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泉涌寺 月輪陵

泉涌寺  霊明殿の東に鎮まる 陵墓は月輪陵( つきのわみさぎ )と 呼ばれる
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泉涌寺 霊明殿

第87代・四条天皇を  はじめ   第108代・後水尾天皇から

第120代・仁孝天皇までの l25陵、5灰塚、9墓 参照 が営まれている

ここに鎮まるかたがの御葬儀は  泉涌寺・泉山長老が 御導師を勤められて

御陵もすべて  仏式の御石塔で お祀りされている

また月輪陵の背後の山腹には  南に 第121代・孝明天皇 の後月輪東山陵
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北には 孝明天皇の女御にして  明治天皇の嫡母(実母ではない)

旧名・九条 夙子(くじょう あさこ) の 英照皇太后の

後月輪東北陵が  孝明天皇 の 後月輪東山陵と 同陵で築かれています
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第110代 後光明天皇
( ご こうみょう てんのう )
 
■生没年:
寛永10(1633)年 〜 承応3(1654)年9月20日  ( 22歳 ) 江戸時代前期の天皇
天然痘を患い 下御所の仮皇居で崩御  25日夜入棺  10月15日 後光明院と追号された
火葬に見立てて 石柩に納め奉られた 
これまで火葬が主流であった歴代天皇が  この後光明天皇の大葬から土葬に改められた
■在位:
寛永20(1643)年 〜 承応3(1654)年
■別名:
紹仁 ( つぐひと )
■皇后・皇妃・皇子女
  ◎典侍 ・ 源(庭田)秀子( 小一条局 ・ ? 〜1685 ) − 庭田重秀の娘
‖莪豺捗 ・ 孝子内親王 ・ 礼成門院・1650〜1725 )
■皇居:
平安京 ( へいあんきょう・京都市 )
■御父:
第108代 後水尾天皇 の 第4皇子
■御母:
園光子 後水尾天皇(第108代)の後宮の一人。後光明天皇の生母。
院号は壬生院( みぶいん )。
父は権大納言園基任( 薨去後左大臣追贈 )。園家の本姓は藤原氏であるので、藤原光子
■御陵:
月輪陵 ( つきのわの みささぎ ) 
■陵形:
石造り九重塔 西北隅に御陵があり 高さ5.15mの九重石塔で
基壇は方6.12mの規模で 西面して石柵をめぐらし 中央に石門を設けて
石扉を付している  そうです
■所在地 :
京都市東山区今熊野泉山町 御寺・泉涌寺
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後光天皇 高さ5.15mの九重石塔

武芸を学ぶなど激烈で直情径行的な性格の持ち主であり、反幕府的な態度をとっていたともいわれるが、その反面で幼少から学問を好み、特に儒学や漢学を尊重して、これを奨励した。
初め明経家の伏原賢忠から『周易』の伝授を受け、後に程朱学派に傾倒すると、二条康道の推薦で民間から朝山素心を招き入れて進講を受けている。

慶安4(1651)年9月、儒者藤原惺窩の功績を称えてその文集に勅序を与えた。
天皇が庶民の書に序文を賜うことは、これが最初という。
また、漢詩文の詩作を好み、御集に『 鳳啼集 』がある。
このような経学への傾倒に対し、和歌や『 伊勢物語 』 ・ 『 源氏物語 』などの古典を柔弱として斥ける風もあったが、在位中は朝儀復興に心を砕いており、正保3年(1646年)に神宮例幣の儀を再興した。

釈奠や大学寮の復興、服制の改革をも意図していたというが、これらは崩御のために実現しなかった。
突然の崩御は、武家による毒殺説もある一方、前年から体調を崩し、末弟の高貴宮( のちの112代霊元天皇 )を養子に迎えようと、廷臣に相談していたとの記録もある。
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このページは ここの続きです
過ぎゆく時を たいせつに・・・
第87代 四條天皇
天皇家菩提寺・泉涌寺
月輪陵・後輪陵・灰塚・墓
つきのわの みささぎ
京都 東山区 2012.1.
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泉涌寺 仏殿

このページは ここを修正分割しました
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月輪陵  つきのわのみささぎ

第87代 四條 ( しじょう ) 天皇のは 貞永元( 1232 )年

2歳で即位  仁治3( 1242 )年 12歳で事故のため 崩御  されています

四條天皇のは  宮中の人達に対する  悪戯を試みて御所の廊下に

滑石を撒いたところ  誤って自らが転倒して  そのまま脳挫傷で

崩御されったと  伝えられています


ここ 天皇家菩提寺・泉涌寺境内の 月輪陵には  25陵、5灰塚、9墓 が祀られています
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月輪陵
 
ここ 泉涌寺と皇室との特殊の縁故は  月輪大 ( 安貞元・1227年 ) 寂後 4年を経た

第87代 ・ 四條天皇は  寛喜3( 1232 )年 即位されたが

開山月輪大師の  再来かと噂されながら 僅か12歳にして 崩御された

これよりさき 御父  第86代・後堀河天皇 は  泉涌寺山内の 観音寺陵に

奉葬されているが  四條天皇は  この御父の山陵と 深いゆかりの

泉涌寺を強く 心に止められ  月輪大師の 御廟( 開山堂 )の  近くに
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開山堂

御自身の御陵を  築くよう遺言されたとういう

こうした縁故に続いて  南北朝時代の文中3( 1374 )年  北朝第4代・後光厳院を

ここに火葬申し上げてから  前後 九代の  天皇の火葬所に当てられた

さらに第108・後水尾天皇から  明治天皇のお父様の  第121代・孝明天皇に

いたるまで  歴代天皇 ・ 皇后 ・ 皇族の廟所となり

皇室の 御香華院 ( 御菩堤所 ) と定められた
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霊明殿

当山のシンボル霊明殿( れいめいでん ) には  歴代の御尊牌を奉祀し

一山の僧侶によって  朝夕その御冥福と  国家の安泰が祈願される よいう

そして 祥月御命日には 皇室の代理として 宮内庁京都事務所からの 参拝が行われる

霊明殿は 正面に  後西天皇の勅額 「 霊明 」  が 掲げられ

格調の高い  雰囲気を醸し出している。
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拡大可 ↑
25陵
第87代・四條天皇、    追尊・陽光太上天皇、        第109代・明正天皇、
第110代・後光明天皇、 第108代・後水尾天皇、        後水尾天皇皇后和子、
第111代・後西天皇、  第112代・霊元天皇、          霊元天皇皇后房子、
第113代・東山天皇、  第114代・中御門天皇、        中御門天皇女御贈皇太后尚子、
第115代・桜町天皇、   桜町天皇女御尊称皇太后舎子、
第116代・桃園天皇、   桃園天皇女御尊称皇太后富子、  第117代・後桜町天皇、
第118代・後桃園天皇、 後桃園天皇女御尊称皇太后維子、  
第119代・光格天皇、   光格天皇皇后欣子内親王、
第120代・仁孝天皇、   仁孝天皇女御贈皇后繋子、      仁孝天皇女御尊称皇太后祺子。
5灰塚
後土御門天皇灰塚、 後柏原天皇灰塚、  後奈良天皇灰塚、  正親町天皇灰塚、
後陽成天皇灰塚。
9墓
正親町天皇皇子陽光太上天皇妃晴子、 後陽成天皇女御中和門院藤原前子、
後水尾天皇後宮壬生院藤原光子、   後水尾天皇後宮新広義門院藤原国子、
後水尾天皇後宮逢春門院藤原隆子、
光格天皇皇子温仁親王、  光格天皇皇子悦仁親王、
仁孝天皇皇子安仁親王、  仁孝天皇後宮新待賢門院藤原雅子。

ご参照 御寺泉涌寺・天皇関係雑感
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菊の御紋を形をとった手水場
第87代 四條天皇
( しじょう てんのう )
■別名称: 
秀仁 ( みつひと )
■生没年 :
寛喜3(1231)年 〜 仁治3(1242)年  ( 12歳 ) 鎌倉時代の天皇
■在位 : 
貞永元(1232)年 〜 仁治3(1242)年 
■皇妃 :
   ◎ 女御・藤原( 九条・彦子・宣仁門院・1227〜1262 ) − 九条教実女
■皇子女:
無し
■皇居:
平安京 ( へいあんきょう・京都市 )
■御父 :    
後堀河天皇 ( 86代 ) の 第1皇子
■御母 :    
藤原竴子( 竴は、立に尊 )九条道家の娘、藻壁門院
准母に同母姉利子内親王( 式乾門院 ) 
■皇居:
平安京 ( へいあんきょう・京都市 )
■陵形:
九重石塔
■所在地:
京都市東山区泉涌寺山内町27 御寺・泉涌寺
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本坊(左)と御座所(右)

在位12歳の若さで崩じた先帝、後堀河天皇(第86代)に代わり天皇となったのが、四條天皇である。 
だが2才で即位したこの天皇も、極めて短命で、わずか12歳で崩御した。

北条泰時 により 武家法 が制定されたその年の事である。
四条天皇(87代)は、若干12歳で亡くなっ たことにより、  後、幕府により 治天の君 に 立てられたのち 高倉院(80代)の系統は断絶した。

増鏡 ( ますかがみ )によれば、四條天皇( 第87代 )の死について、病気とも幼椎な遊びから体を害したとも、曖昧に表現されているが、  という書物では、四條天皇は人を滑らせて笑ってやろうと、ロウを石に塗っていたところ、自分が滑って転倒し、数日寝込んだあとに、逝ってしまったという。

12歳の子供の、無邪気な遊びが、その命を奪ってしまったようだ。

総本山 御寺 泉涌寺    075-561-1551
住所 : 京都市東山区泉涌寺山内町27
宗派 : 真言宗泉涌寺派総本山
創建年 : 伝・斉衡3(856)年
開基 : 伝・神修上人
参拝時間 : 9:00〜16:30  但し 12月1日〜2月末日までは 16:00まで
         毎月第4月曜日、『心照殿』(宝物館)は休館しております。
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泉涌寺 雲龍院 悟りの窓

路傍人 天皇陵墓巡礼索引はここ
過ぎゆく時を たいせつに・・・
光明皇后 陵
こうみょうこうごう
第45代 聖武天皇の后( きさき )
佐保山東陵
さほやまの ひがしのみささぎ
奈良市法蓮町 2012.1.
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光明皇后 陵

奈良市一条通りから  北にのびる参道を 佐保路と佐保川がクロスすると

正倉院の西側にある 転害門を挟んで  東大寺金堂と 相対する位置の
 
北側に 玉砂利を敷きつめた参道があり  正面に  聖武天皇陵 
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左・聖武天皇陵  右側の参道奥に光明皇后陵

その右奥に 明治12(1879)年に 比定された 光明皇后陵 ( 佐保山東陵 ) がある
 
天平文化 は 光明皇后の存在無しでは  あり得なかったと いわれている
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第45代 聖武天皇の后 光明皇后( こうみょう こうごう )佐保山東陵
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■生没年 :  
大宝元(701)年  〜 天平宝字4(760)年6月7日(7月27日)(60歳) 
■聖武天皇の在位 :
第45代天皇  奈良時代
神亀元(724)年2月4日(3月3日)〜 天平勝宝元(749)年7月2日(8月19日)
■名 :
藤原 安宿媛( あすかべ ひめ )。 
藤原 光明子( こうみょうし )、藤三娘( とうさんじょう )ともいう。
「 光明皇后 」というのは 諡号や追号の類ではなく通称
正式な尊号は「 天平応真仁正皇太后 」 という。
            ( てんぴょう おうしんにん しょうこうたいごう ) 
■皇妃・ 皇子女 :
基王( もといおう )を生んだ、夭折。
阿倍内親王の立太子、孝謙天皇( 第46代・女帝 )としての即位。
   在位:天平勝宝元(749)年7月2日(8月19日)〜天平宝字2(758)年8 月1日(9月7日)
■皇居 :
在位中の首都  平城京 ( 現・奈良市 )
在位中の皇居  平城宮 (  〃    )
■御父・御母 :
藤原不比等県犬養三千代 ( あがた(の)いぬかい の みちよ・ 橘三千代 )の娘であり、
聖武天皇の母である 藤原宮子 は異母姉。
初の皇族以外からの皇后である。
■御陵名 :
佐保山東陵 ( さほやまの ひがしのみささぎ) 
■陵形 :
山形
■所在地 :
奈良市法蓮町 
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光明皇后( こうみょうこうごう ) 
名は安宿媛( あすかべひめ )。
光明子( こうみょうし )、 藤三娘( とうさんじょう )ともいう。
「光明皇后」というのは、諡号や追号の類ではなく通称
正式な尊号は 「 天平応真仁正皇太后 」 という。初の皇族以外からの皇后である。

光明皇后は仏教に篤く帰依し、東大寺、国分寺の設立を夫( 聖武天皇・第45代 )に進言したと伝えられる。

貧しい人に施しをするための施設「 悲田院 」、医療施設である「 施薬院 」を設置して慈善を行った。

夫の死後四十九日に、遺品などを東大寺に寄進、その宝物を収めるために「 正倉院 」
が創設された。
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さらに、興福寺、法華寺、新薬師寺など多くの寺院の創建や整備に関わった。

聖武天皇(45代)の皇太子時代に結婚し、養老2(718)年、阿倍内親王を出産。
神亀元(724)年、夫の即位とともに、後宮の位階である夫人号を得る。
神亀4年(727年)、基王(もといおう)を生んだ 夭折。

神亀5(728)年、皇太子に立てられた 基王が夭折したため、後継を争って 
長屋王の変 が起こるなど紛糾した。

長屋王の変後、天平元(729)年に、皇后にするとの詔が発せられた。

これは、王族以外から立后された、初例である。
以後、藤原氏の子女が、皇后になる先例となった。

娘である、阿倍内親王の立太子、その後の第46代 孝謙天皇( 女帝 )としての即位。

天平勝宝元(749)年後、皇后宮職を紫微中台(しびちゅうだい)と改称し、甥の 藤原仲麻呂 を長官に任じて、さまざまな施策を行った。

天平勝宝8(756)年、聖武太上天皇(45代)が崩御。

その2年後には、皇太后号が贈られた。

出典  光明皇后 − Wikipedia  
光明皇后を偲び 1250年遠忌法要 ここを 開いてご覧ください。
第45代 聖武天皇 (しょうむ てんのう)のページ  ここを 開いてご覧ください。

路傍人・御陵巡礼索引は ここを 開いてご覧下さい。

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東大寺
過ぎゆく時を たいせつに・・・
第50代 桓武天皇
柏原陵 
京都 伏見区 2011.11.
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桓武天皇 柏原陵

このページは  第50代桓武天皇柏原陵 △らのつづきです  

柏原陵 ,琉貮修正のため、新規投稿更新となりました。

第50代 : 桓武天皇
奈良時代( 710〜784 )も終わりに近づいた宝亀元( 770 )年、日本を混乱の渦に巻き込んだ女帝
「 称徳天皇 ( しょうとくてんのう ・ 第48代 ・ 女帝 ) 」 は 53歳で病死 ( 暗殺説がある )。

次期天皇として  「 天智天皇 ( てんじてんのう ・ 第40代 ) 」 の孫にあたる
「 白壁王 ( しらかべのおう ) 」 が 選ばれ 「 光仁天皇 ( こうにんてんのう ・ 第49代 )  」 と
して宝亀元( 770 )年即位します。

光仁天皇( 第49代 )はこの時62歳、高齢でした。

光仁天皇は、称徳天皇( 第48代 ・ 女帝 ) によって、混乱した政治の、立て直しを図り
まず 混乱を引き起こした張本人である 道鏡 ( どうきょう ) を左遷し、次に称徳天皇
( 第48代 ) によって島流しにされた  和気清麻呂 ( わけのきよまろ )   和気広虫
( わけのひろむし ) を、都へ呼び戻して重く用いることにします。

同時に 「 井上内親王 ( いがみないしんのう ・ 聖武天皇の娘 ) 」 を、皇后に迎え、
息子の 「 他戸親王 ( おさべしんのう ) 」  を 皇太子に指名します。

また 東北地方を侵略し 蝦夷を服属させるため、 坂上田村麻呂を 征夷大将軍とする軍を送っります。

しかし、 晩年には平安京の造作と、東北への軍事遠征とがともに、百姓を苦しめて
いるとの、藤原緒嗣 ( 百川の長子 ) の建言を容れて、いずれも中断しています。
(  緒嗣と菅野真道との所謂徳政相論  )。

また、延歴3( 784 )年 長岡京に遷都するが、長岡京の造営長官だった 藤原種継  が
暗殺されるという事件が起き、桓武天皇弟の 早良親王 ( さわらしんのう )が、 関係ありとして、捕縛される。
 
早良親王は、無実を訴え断食をし、淡路国に配流の途中、河内国高瀬橋付近 ( 現・大阪府守口市の高瀬神社付近 )で、憤死された。

その後、 凶事が次々と続いたため、早良親王の たたり だと噂され、 不安にかられた
桓武天皇は、 6%B8%85%E9%BA%BB%E5%91%82 和気清麻呂 の進言もあって、延歴13(794)年 再び遷都を行った。 平安京である。

「 平安京 」は 唐の長安を手本にし、「 唐からの風水思想 」 を元に、都が設計されたと
いわれています。

国名も 「 山背 ・ やまうしろ 」 から 「 山城・ やましろ 」 に変更されて、
この時から、1200年におよぶ 平安時代が 始まったのです。 

桓武天皇には 少なくとも 23人の妃と、36人の皇子女が いたとされます
続日本紀 40巻の 編纂も行われました

遷都と言い、国史の編纂と言い、歴代天皇の中でも、まれにみる強力なリーダーシップを発揮された天皇ですfが、そんな天皇でも怨霊 は 怖かったのですね・・・ 
 無断転載もと ここ ここ
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今上天皇( 平成天皇 )の発言

平成13(2001)年12月18日、天皇誕生日前に恒例となっている 記者会見において、
今上天皇は 翌年に予定されていた、サッカーワールドカップ日韓共催に関する 
「 おことば 」 の中で、

「 私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に
記されていることに、韓国とのゆかりを感じています


武寧王は日本との関係が深く、この時以来、日本に 五経博士 が 代々招へい
されるようになりました
また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております。」

との 発言をなさっています。

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過ぎゆく時を たいせつに・・・
第113代 東山天皇皇孫 
追尊天皇 慶光天皇・典仁親王
廬山寺陵( ろざんじのみささぎ )
京都市上京区寺町通 2011.8.
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慶光天皇 廬山寺陵
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遠い 遠〜い  昔の古い話を 知るのは 楽しい

過去が あるから  今日がある


このページでは  歴代天皇表に  掲載されていない天皇 追尊天皇   

慶光天皇 ( きょうこうてんのう ) について 教わった


陵は  緑豊かな  京都御苑の 東側にあって 

紫式部 の 邸宅跡として知られる  廬山寺 (ろざんじ) の 境内にある


朝廷では   安永8(1779)年  第118代  後桃園天皇 が   男子を残さないままに

崩御してしまった為   典仁親王 ( すけひとしんのう、追尊・慶光天皇 ) の 

第六皇子として  生まれた 師仁( もろひと )親王 ( 幼名を祐宮・さちのみや )

のちに 兼仁( ともひと ) 親王に 改めた  が  急遽即位 第119代 光格天皇 となった
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朝廷では   父である 典仁親王( すけひとしんのう、追尊・慶光天皇 )  の 地位が

宮中での  大臣より 低い事から 「 尊号 ・ 太上天皇 」 を 贈ろうとしたが 

江戸幕府 老中・ 松平定信 などに 反対され 

贈る事が できなかった ( 尊号一件


典仁親王は  明治天皇( 第122代) の  高祖父に あたるという事で

没年 90年後の  明治17(1884)年  「 慶光天皇 」 の諡号と 「 太上天皇 」 の 尊号が贈られた

( 明治以後に「 太上天皇 」 制度が廃止された関係で二重の手続を要した )

以後は 閑院宮典仁親王ではなく  慶光天皇 または  慶光院と 称されている
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慶光天皇 ( 閑院宮典仁親王 ・ かんいんのみや すけひとしんのう)
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■生没年 :  
享保18(1733)年2月17日(4月1日)〜 寛政6(1794)年7月6日(8月1日)
満61歳没 
江戸時代の宮家当主で皇族。
古今伝授伝承者に名を連ねる和歌の名手で、能書家でもあり、短冊などの遺墨は、
たいへん貴重。
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慶光天皇 碑

■在位 :
追尊天皇  生きているうちに皇位に即かなかったが、没後に天皇号を贈られた皇族
第119代 光格天皇の父
■幼名 :
寿宮 ( ひさのみや )
■皇后・皇妃・皇子女 :
妃 ・ 成子内親王( 1729〜1771 )
女房 ・ 大中臣祐智女
   ‖莪豺鳥 ・ 致宮 のちに美仁親王( 第三代閑院宮 )( 1757〜1818 )
女房 ・ りて
   第二皇子 ・ 俊宮 のちに守典親王、仁和寺宮 深仁入道親王( 1759〜1807 )
   B荵姐鳥 ・ 方宮 のちに保和親王、輪王寺宮 公璋入道親王( 1760〜1777 )
女房 ・ 紫雲院
   ぢ荵郵鳥 ・ 良宮 のちに保業親王、輪王寺宮 公延入道親王( 1762〜1803 )
   ヂ莪豺捗 ・ 弥数宮(1765-1768)
   β萋鷙捗 ・ 孝宮 のちに宗恭女王( 1769〜1821 )
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女房 ・ おさ
   第五皇子 ・ 時宮 のちに周翰親王、妙法院宮 真仁法親王( 1768〜1805 )
女房 ・ 大江磐代(蓮上院)
   第六皇子 ・ 致宮 のちに師仁親王、
     兼仁親王第119代・光格天皇 )( 1771〜1840 )
   第七皇子 ・ 寛宮 のちに嘉種親王、聖護院宮 盈仁法親王( 1772〜1830 )
   第十皇子 ・ 建宮( 1778〜1780 )
女房 ・ 加久
   第八皇子 ・ 精宮( 1774〜1779 )
女房 ・ 交野
   第九皇子 ・ 鏗宮( 1776〜1777 )
■御父:
閑院宮直仁親王 の 第三王子 
(第113代 東山天皇の孫)
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内大臣従一位 櫛笥隆賀の娘・閑院宮直仁親王の母
藤原賀子(新崇賢門院)の碑
■御母:
養母は関白 近衛基熙 の娘、藤原脩子。
実母は家女房 : 左衛門佐讃岐( 伊藤一中の娘 )
■御陵:
廬山寺陵

少し離れた場所に
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仁孝天皇 皇子 ・ 鎔宮  と  孝明天皇 皇女 ・ 壽萬宮   お二方の お墓がある

閉ざされていて  碑を拝することはできない

追尊天皇の一覧
 帝位に就かなかった親王に、死後贈られる天皇の称号。歴代には数えない。

岡宮天皇 : 草壁皇子。 40代・天武天皇の皇太子で、42代・文武天皇・44代・元正天皇の父。
即位前に病没し、「 岡宮御宇天皇( おかみやにあめのしたしろしめすすめらみこと )」 を追尊。「 長岡天皇 」とも。

崇道尽敬皇帝 : 舎人親王。 47代・淳仁天皇の父。
子の即位により「 崇道尽敬皇帝 」を追尊。 単に「 尽敬天皇 」とも。

春日宮天皇 : 施基皇子。 49代・光仁天皇の父。
子の即位により  春日宮御宇天皇 を
( かすがのみやにあめのしたしろしめすすめらみこと )
追尊。 「 田原天皇 」とも。 
更新投稿 ここ

崇道天皇 : 早良親王。 50代・桓武天皇の弟で廃太子(785年没)。
800年、「 崇道天皇 」の尊号を受ける。

陽光院太上天皇 : 誠仁親王。 106代・正親町天皇の東宮。
即位前に没。 太上天皇、院号「 陽光院 」を追尊。 「 陽光天皇 」とも。

慶光天皇 : 閑院宮典仁親王。 119代・光格天皇の父。
1884年、贈太上天皇、諡号「 慶光天皇 」を追尊。 →尊号一件
出典:Wikipedia ||
路傍人の 御陵巡礼 索引はここ

■所在地 :
京都市上京区寺町通広小路上ル
京都市バス・京都バス 府立医大病院前バス停 徒歩5分
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過ぎゆく時を たいせつに・・・

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