道端の出会い ①

このブログ「道端の出会い」を立ち上げて、10年が経ちました。感謝。

陛下 御陵 宮内庁

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索
第16代 仁徳天皇陵
大仙( だいせん )古墳
上から見たい、気球案浮上中
転載元 読売新聞
堺市 2011.6.
イメージ 1
仁徳天皇陵  
イメージ 2

昨年12月の更新した 仁徳天皇陵 百舌鳥耳原中陵

クフ王ピラミッド ( エジプト )    始皇帝陵 ( 中国陝西省 ) と並ぶ
イメージ 8

世界三大古墳の一つと いわれています   
イメージ 3

その 仁徳天皇陵を「 上から見たい 気球案 」という記事が

「 読売新聞 」 にありました 転載します 
イメージ 4

 上から見たい 気球案浮上中 

世界最大級の墳墓で、巨大過ぎて 地上からは一望できない

仁徳陵古墳(堺市堺区)の観覧のために、地元・堺市は、気球を浮かべたり、

上空からの眺望を 映すビデオ装置を周辺に 整備したりする案を検討している。

世界文化遺産登録に備え、

「 教科書で見た前方後円墳の < かぎ穴形 > が想像できない 」 という

観光客らの声に応えるためだ。

わかりやすく見てもらうため、市民や専門家の意見を聞き、今年度中に整備方針を

決める。

同古墳は、百舌鳥・古市古墳群の一つとして

昨(2010)年 11月、世界遺産国内暫定リスト入りした

市は最短で 2015年の登録を目指しており、そうなれば、国内外からの観光客が

増えると見込む。

しかし、墳丘の長さだけで 486m と大きく、周辺に樹木が生い茂り、

「 森にしか見えない 」 と いう人が少なくない。

市は「 もっと古墳を知ってほしい 」 と対策を検討。

気球案は、世界遺産近くに 大きな構造物を設けるのは 好ましくない

との配慮から浮上。

隣接する公園などから 百数十mの高さまで上昇して一望する。

カンボジアの、 世界文化遺産 アンコールワットで やっている観覧方法だ。

読売新聞  6月19日(日)13時12分 配信
イメージ 5

第16代 仁徳天皇 百舌鳥耳原中陵 ( もずの みみはらの なかの みささぎ )
 
所在地 : 大阪府堺市大仙町  

陵形 : 三重濠を巡らす 前方後円墳   面積約 46万4千平方m
 
   規模 : 総長 512m、 墳長 486m、 前方部 幅 300m、  長さ 225m、

        高さ 33m、  後円部 径 249m、  高さ 35m、  頂径 ?m。

イメージ 6

折しも  小笠原諸島 や  平泉 の 世界遺産の登録が 決定されました

○「 小笠原諸島 」(東京都小笠原村)  世界自然遺産に決定
 国内の自然遺産は、白神山地(青森、秋田)、屋久島(鹿児島)、知床(北海道)に次ぐ
4件目。

○「 平泉の文化遺産 」(岩手県平泉町) 世界文化遺産に決定
日本が推薦した遺跡で、世界文化遺産に登録されたのは、12件目。

仁徳天皇陵 百舌鳥耳原中陵 詳しくは ここを開いてご覧下さい

御陵巡礼索引は ここです
イメージ 7
過ぎゆく時を たいせつに・・・
第7代 孝霊天皇の皇女
倭迹迹日百襲媛命
やまととと ひももそ ひめのみこと
奈良県桜井市 2011.6.
イメージ 1
孝霊天皇の皇女 倭迹迹日百襲媛命の墓 箸墓 遠望
イメージ 11
箸墓 ・ 大市墓 ↑・↓
イメージ 2

飛鳥から 平城へいたる  古代の道  「 山の辺の道 」 で

東谷集落の 巻向( まきむく )川   かっては 「 水車 」 が  沢山かかって  

良質のコムギを 粉にして「 特産三輪ソウメン 」を 作っていた川で

その巻向川の すぐ西に 大きな 前方後円墳があって 

「 箸の墓 」「 箸塚 」と呼ばれています

箸墓古墳は  古墳時代前期で 最大規模を誇り  全長278mの 巨大な前方後円墳で
イメージ 3

箸中古墳 ( はしはかこふん ) 群の 盟主的存在という ( 画像は 国土交通省 )

桜井市箸中にあって  既に更新した 第7代 ・ 孝霊天皇 の皇女で  第10代 ・ 崇神天皇

叔母 倭迹々日百襲姫 ( やまととと ひももそ ひめのみこと ) を

葬ると伝えらていますが  卑弥呼の  墓だという人も 多いようです

通ってくる男が  三輪山 の蛇神と知って 自殺した姫の墓だという 神話を伝え

また  陵墓の築造にあたっては 昼間は人がつくり 夜は神がつくったという伝説を持ち  

その石材は 二上山 から  リレー式に 手運びされたという 
イメージ 10
箸墓から二上山を望む

とにかく  巫女政治時代に 功績を残したため  死後に あつく葬られたのでしょう
イメージ 6

箸中古墳( はしはかこふん )群の 盟主的存在 いわゆる  出現期古墳の中でも

最古級とみられて  西暦200〜350年頃だと 推測されている  大型前方後円墳で

奈良県下で第3位  全国第11位の大きさ  だそうです 

イメージ 4
霊峰・三輪山(左奥)と箸墓古墳(大市墓)

建造時期や 大きさなどから  卑弥呼 ( ひみこ ・ 175年頃? 〜 248年頃 ) の墓とする 

説がありますが いまだに その確証はないということで  地元 桜井市の教育委員会も 

慎重な判断で   誰の墓だ というようなことは  一切コメントしておりません

邪馬台国 ( やまたいこく ) 論争は  畿内説が圧倒的で  九州説をしのいでしているようです

この陵墓は  尊厳保持が優先の 宮内庁の管理下にあって 発掘調査は出来ないのです

それでいいのです  ロマンはそっとして おきましょう   

しかし  陵墓を  よくぞ調べて特定なさった 事だと つくづく感心します

昔は この辺りは 大和国 城上郡( しきじょうぐん ) 大市村 という 地名だったようで

地名から 「 大市墓 」 と 命名された のでしょうか   

現在は 奈良県桜井市箸中( はしなか )です 
イメージ 7

箸墓古墳 ・ 倭迹迹日百襲姫命大市墓  
イメージ 8

宮内庁では   孝霊天皇 の皇女  倭迹迹日百襲姫命

( やまとととひももそひめのみこと ・ 生没年不詳 ) の 墓とされています  

現在 歴史家の間では 初代 神武天皇 から   8代 ・ 開化天皇  までは

架空の人物であると  言われています

父親 :  孝霊天皇 ( 第7代天皇 )

母親 :  倭国香媛  ( やまとととひももそひめのみこと ・ 生没年不詳)

倭迹迹日百襲姫命 に 関しては 『 日本書紀 』 に 次のような話があるそうです 

★箸墓古墳の名の由来 : 倭迹迹日百襲姫命 は 大物主神 ( おおものぬしのかみ ) の妻となりましたが その姿が夜だけ見えて 昼間は見えないことから 倭迹迹日百襲姫命 が 
大物主神に 明るくなってからも とどまってもらうようにお願いしたところ  大物主神は次の日の朝、櫛笥の中を見るように言われて これを見たことろ  絹紐くらいの小蛇がいて これが人の形となり 恥ずかしがって 御諸山( みもろやま ・ 三輪山 ) に上ってしまいました
倭迹迹日百襲姫命は これにショックを受け 自分自身を箸で突いて 死んでしまいました
箸で自殺したことから 「 箸墓古墳( はしはかこふん ) 」 といわれている そうです・・・
イメージ 9
三輪山 と 箸墓

★卑弥呼の墓説 : 魏志倭人伝 ( ぎしわじんでん ) には  卑弥呼の墓の大きさや  死亡した時期が記されています
大きさや 作られた時期が ほぼ一致することから  箸墓古墳が 卑弥呼 ( ひみこ ) の 墓ではないかという説が あります
もしこれが正しければ 邪馬台国 「 ヤマト説 」 が正しいことになります

纒向遺跡 ( まきむくいせき )    桜井市巻向
イメージ 5
纒向遺跡の全体の写真(JR纒向駅の案内板から)。
                              右側上方森と池が 「箸墓・大市墓」 ↑ です
   
三輪山 の 北西麓一帯に 広がる   弥生時代末期から  古墳時代前期にかけての 

大集落遺跡で   建設された 主時期は3世紀で 前方後円墳発祥の地 とされています

この遺跡を  倭国連合の首都である  邪馬台国に 比定する説もあり

卑弥呼の墓  との説もある   箸墓古墳 ( 宮内庁管理・倭迹迹日百襲姫命大市墓 ) など  

6つの古墳があります 

路傍人・御陵巡礼索引は ここです
イメージ 12
過ぎゆく時を たいせつに・・・
第26代 継体天皇
皇后 手白香皇女
たしらかのひめみこ
衾田陵
ふすまだの みささぎ
天理市 2011.5.
イメージ 1
手白香皇女 衾田陵
イメージ 2
衾田陵 遠望

飛鳥から 平城( 奈良 )へ いたる 古代の道  「 山の辺の道 」 の

天理市の 古墳群の一つ  「 西殿塚古墳 」 で 一般には 「 衾田陵 ( ふすまだの みささぎ ) 」 

の名で 呼ばれています  

「 山の辺の道 」 の 道標識にしたがって

夜都岐神社  ( やとぎじんじゃ )  から 竹之内環濠集落へ 歩きます  

集落の中ほど  道の右側に 「 五社神社 」 という  小さな祠があって  
イメージ 4 イメージ 3

その入り口前に  衾田陵方面の 標識が立っていて  左折 
イメージ 5

山の手方向へ 上って  標識に従って 向かいましたが

長閑さが  癒してくれました  
イメージ 6

左手に こんもりとした森が 見えて来ました

宮内庁管轄の 陵墓なのに 粗末な参道  整備された 公道ではありません

粗末な参道といえば 第59代・宇多天皇 の 大内山陵参道も 粗末で 驚きを 思い出しました 

ここ衾田陵は  大和古墳群の中の 中山支群の  盟主的存在の円墳です
イメージ 10

明治9(1876)年  継体天皇 の皇后 ・ 手白香皇女 陵に 治定されていますが

考古学的知見と  時代が合わない 陵墓の  一つ だそうです

継体天皇から始まった 大和王朝後期は  崇峻天皇の代で 終わりを告げ

巨大古墳を 王朝の権威として 位置付けた場合   次の時代では  

前方後円墳に代わって  飛鳥寺 に  代表されるような本格的な

伽藍の建立が 始まる のです   ね
イメージ 7

手白香皇女  ( たしらかのひめみこ ) 『 古事記 』 の 表記は 手白髪郎女 
■生没年 :  
仁賢天皇2(489年)以前   没年不詳
■在位 :
継体天皇元(507)年2月4日(3月3日) 〜  継体天皇25(531)年2月7日(3月10日) の皇后
古墳時代の皇族 
■子  : 
天国排開広庭尊 ( 第29代・欽明天皇 )
■皇居 :
507年2月、 樟葉宮( くすばのみや、大阪府枚方市楠葉丘の交野天神社付近が伝承地 )即位。
511年10月、 筒城宮( つつきのみや、現在の京都府京田辺市多々羅都谷か? )に遷す。
518年3月、 弟国宮( おとくにのみや、現在の京都府長岡京市今里付近か? )に遷す。
526年9月、 磐余玉穂宮( いわれのたまほのみや、現在の奈良県桜井市池之内か? )に遷す。
ただし、この記録が事実とすると、 継体が 大和にいた のは最後の5年のみである。
■御父 :
仁賢天皇  の皇女
■御母 :
雄略天皇  の皇女である春日大娘皇女   欽明天皇 の母  同母弟に 武烈天皇  がいる
イメージ 8
■御陵名 :
手白香皇女 衾田陵  ( たしらかのひめみこ ふすまだのみささぎ )   「 西殿塚古墳 」

ここ 西殿塚古墳は  竜王山西麓の幅広い尾根の上に 南北方向を主軸にして築かれた

前方後円墳で  前方部を南に向けている  三味線のバチ状に開いている

前方後円墳 全長219m  後円部の径135m  前方部の幅118m

大和古墳群の中では 最大の規模をもち  この地域では 渋谷向山古墳 ( 景行天皇陵 )

行燈山古墳 ( 崇神天皇陵 )に  続く大きさです

平成4(1992)〜 平成6(1994)年にかけて  天理市教育委員会が 発掘調査を行なった
 
調査では  東側のくびれ部から  前方部に向かって徐々に深くなる 周濠状設備の

存在が確認されたが  後円部や前方部前面へは つながっていないようである

段築は認められるが  前方部の段築がくびれ部付近で 解消してしまい 

後円部には つながっていない  後円部墳頂は 広大な正円形の広場になっており  

その中央に  正方形の壇が設けられていた

方形壇は  前方部頂上にも設けられていて  墳丘頂上で古墳祭祀が行われた

ことを物語っている 

発掘調査では  古墳の周囲から葺石が見つかり 大型の円筒埴輪が大量に出土した

一方 昭和63( 1988 )の 宮内庁の報告によれば  特殊器台や 特殊壺が

発掘調査以前に 出土している ことが 明らかになっている

これらの 特殊器台や 特殊壺は  埴輪の 起源となるものである

したがって この古墳は 埴輪出現以前に 築造されたもの

古墳時代の 非常に初期の大規模で  箸墓古墳の後に 続々と大規模な古墳が

作られていることから  古墳時代の幕開けとなる  重要な古墳と  考えられています

その築造時期は 円筒埴輪だけを出土する 渋谷向山古墳 ( 景行天皇陵 ) 

行燈山古墳 ( 崇神天皇陵 ) より 古いとされている

埴輪の起源 
垂仁天皇32( 663 )年 人を墓に生き埋めにする殉死(じゅんし)を禁じ、そのかわりに人物埴輪を立てるようになったという物語が 『 日本書記 』 に伝えられています。しかし、実際には人物埴輪の出現より、 円筒埴輪の出現の方が古いということがわかっていることから、この物語はあくまでも神話としてとらえなければならないようです。
イメージ 12

■陵形 :
前方後円墳
全長 226m  ・ 前方部幅 147m  ・ 前方部長 117m  ・ 前方部高 19.8m 
後円部径 138m  ・ 後円部高 19.2m  ・  幅約28〜33m の周濠 
イメージ 9
■所在地 :
天理市中山町西殿塚

路傍人の 御陵巡礼索引は ここ
イメージ 11
衾田陵 遠望
過ぎゆく時を たいせつに・・・
真の 26代・継体天皇墓とされる
今城塚古墳が
史跡公園 いましろ大王の杜に
高槻市 2011.4.
イメージ 1
今城塚古代歴史館
イメージ 2

このページは 前ページからの続きです。
イメージ 3 イメージ 4

ここ  今城古墳は 埴輪工房跡と目される 生産遺跡新池遺跡 との 

深い関連が 指摘される古墳でもある 
イメージ 5
古墳北側で発見された 国内最大規模の  「 埴輪祭祀場 ・ はにはさいしじょう 」  は

5列の塀で 長方形に整然と区画された  例のない遺構で

家形埴輪をはじめ 盾や冑  武人  巫女(みこ)  鷹(たか)飼い人  力士   水鳥  馬 など

200点以上の  形象埴輪が出土した  という   

また 巨大な石棺は  大和と河内にまたがる 二上山の白石   

播磨・高砂の竜王山石  そして 九州の馬門石 ( まかどいし・宇土市 )の 

3種類の 巨大な石棺が 搬入されていた ことも判明


古墳一帯の約9.5 に開園した 「 いましろ 大王の杜 」  は 「 埴輪祭祀場 」 を

築造当初の姿で 再現して  墳丘を背景に189点もの 形象埴輪が居並ぶ 情景は圧巻


復元された内堤は 1周 1  墳丘には 人々が自由に 散策できるように

周囲には 複数の出入り口を設けてある

ウオーキングに  ジョキングに  散策に 

健康増進に役立つ  立派な大王の杜に 作り替えられました

イメージ 6 イメージ 7

古代歴史館は  調査結果を大型模型や イラスト  映像でわかりやすく  解説されている

出土した 多くの精巧な 埴輪を  前後から観察でる ように  斬新な仕掛けのほか

原産地の石材で復元した 三つの石棺があり じかに触れることもできます。

参考文
…日新聞 ( 大脇和明 )2011(平成23)年3月11日 夕刊3判  
朝日新聞 ( 大脇和明 )2011(平成23)年4月21日 夕刊3版

大久保晃氏の・HP「今城古墳・整備立ち入り禁止前」 ここをクリック お薦めします
イメージ 8
内堤断面と埴輪
史跡今城塚古墳第5、6、7次整備工事

高槻市では、『 歴史の息吹くまちづくり 』 に取り組む中で、今城塚古墳を歴史遺産のネット
ワークの中核になる史跡公園として公開しようと、平成16(2004)年から7年計画で整備工事が進められた。 
計画では、中央の墳丘はできるだけ現状の地形と緑を残し、内濠、内堤、外濠、外堤という
二重濠部分を復元的に整備するとともに、北側に展望施設や広場整備がされている。
遺構の保護
施工が完了した第5次、第6次工事では、通常の造成工事とは異なり、発掘調査により推定
された 復元遺構高( 古墳築造時の形状 ) の 約50兢紊濃転紊欧襪海箸基本となっている。
これは、貴重な古墳の遺構を盛土で保護しながら、古代の古墳の形状を復元、整備しようとする ためである。 
現在でも、内堤上をめぐる円筒埴輪列は 現況の 数m下に 残っています。
工事では、これらを風化や崩壊から守るため真砂土による保護盛土を施工し、転圧・整形しましたが、直接ダンプやバックホウを乗り入れることができない上に、既存樹木を保護しながらの 作業であったため、細心の注意を払うことが要求されました。
          鴻池 大阪本店 工事事務所 泉 恵介
転載もと 詳しくは ここ
イメージ 9

アクセス
JR東海道線(JR京都線)「摂津富田」駅下車 
北出口を出て駅前 数十メートル北側にある 高槻市営バス「JR富田駅」停留所
「萩谷」、「萩谷総合公園」、「関西大学」行きの いずれかの バスに乗車
バス停「氷室(ひむろ)」で下車
バスの通りに対し 斜めに北東の方向へ向かう細い道を数分進みます。

御陵巡礼索引 ここですご覧下さい
過ぎゆく時を たいせつに・・・
真の 26代・継体天皇墓とされる
今城塚古墳が
史跡公園 いましろ大王の杜に
高槻市 2011.4.
イメージ 1
今城塚古墳公園
イメージ 2
イメージ 3
発掘された埴輪

第26代 継体天皇 三島藍野陵 を 訪れて更新した 太田茶臼山古墳の 

1.3辧‥譴砲△ 「 今城塚古墳 」  一帯の  10年間にわたる 発掘調査と

7年間におよぶ 整備工事を終えて  広さ 9 の 古墳の実態に迫る

「 古墳公園 ・ いましろ 大王の杜 」 を 訪ねました

イメージ 4
ある日までの今城塚古墳 ↑ ・  古墳公園に ↓ 甦って
イメージ 5
古代テーマパーク とも いえる施設です
画像の右下クリックで拡大できます
[1] ・ 墳丘盛土を雨水からも護る工夫、 [2] ・ 後円部テラスの施設、 [3] ・ 重たい石室を支えた石組、 [4] ・ 地震で崩れた墳丘、 [5] ・ 築造当初の姿を残す南西隅部、 [6] ・ 儀式の場(北造出)、
[7] ・ 儀式の場(南造出)、 [8] ・ 墳丘をとりまく水濠、 [9] ・ 内濠をかこむ堤、 [10] ・ 埴輪祭りのステージ、 [11] ・ 聖域をあらわす垣根、 [12] ・ 内濠をかこむ堤、 [13] ・ 水をためない濠、
[14] ・ 地鎮のまつりと内堤の断面、 [15] ・ 大王の埴輪まつり、 [16] ・ 6世紀の大王墓・今城塚古墳。

「 今城塚古墳 」 は 墳丘の全長は 約 190叩 二重の濠 ( ほり ) がめぐる

巨大な前方後円墳で  総長さ350叩 〔明僂蓮〔 9如  

大小約500基の 古墳からなる 「 三島古墳群 」 の 代表格で

淀川流域で最大の  前方後円墳という 巨大な古墳 

6世紀前半に 築かれた古墳としては  日本最大級のもの  という
  

高槻市は  保存のため  2004( 平成16 )年度から  整備を進めて

公園と歴史館とを合わせた  整備事業費は 約40億円であったとか

安土桃山時代の  伏見地震  ( 1596年7月12月深夜から13日 ) で 崩れた墳丘を 

周濠とともに復元  発掘調査で確認された位置に 家形埴輪( はにわ )などを

展示する  古代テーマパーク ともいえる施設で

陵墓と 確実視される 巨大古墳が  本格発掘されたのは 全国的にもまれで

古くから 研究者のあいだでは 継体天皇陵とする 説が有力だった  

1997 ( 平成9 ) 年から 10年間にわたった  調査から

今城塚古墳が 「 真の継体天皇陵 」 である 可能性が高まった

宮内庁は 隣の茨木市にある 太田茶臼山古墳(227叩砲髻  継体天皇陵  に

治定している が

「 太田茶臼山古墳 」 は  宮内庁の 外堤補修工事で 見つかった

埴輪 ( はにわ )などから  5世紀( 西暦401〜500年 )中ごろに 築造された ようだ
イメージ 7 イメージ 8
画像皚 ・
イメージ 9 イメージ 10
画像皚 ・
イメージ 6
イメージ 11 イメージ 24
画像皚 ・
イメージ 13 イメージ 12
画像皚 ・
イメージ 14 イメージ 15
画像k ・
イメージ 16 イメージ 17
画像皚 ・
イメージ 21
墳丘に野の花群集が・・・ 名前知らず
イメージ 20 イメージ 18
画像皚 ・
イメージ 23 イメージ 19
画像皚 ・

今城塚古墳の 被葬者は  形状や埴輪等の 年代的特徴などから

『 古事記 』 『 日本書紀 』 『 延喜式 』  など 文献の検討から 

6世紀の ヤマト政権の 大王墓と推定され 6世紀前半に没した 

継体天皇( 450〜531・在位507〜531 ) とするのが 学界の定説になっている 

戦前 《 1935(昭和10)年 〜 1944(昭和19)年 》に設けられた 臨時陵墓調査委員会においてもこの古墳を「 陵墓参考地に編入すべし 」との答申が行われたという。
しかし宮内庁は「 今城塚古墳 」の陵墓参考地指定については難色を示し、大阪府茨木市の「 太田茶臼山古墳 」を継体天皇陵に治定している。 
「 太田茶臼山古墳 」の築造は 5世紀中葉と考えられており、継体天皇( 450〜531・在位507〜531 ) が没したとされる年代 (『古事記』527年『日本書紀』は531年 )よりも 古い時代の古墳と考えられて「 今城塚古墳 」を継体天皇陵とする見方を後押ししている。
    大王級の古墳ながら 宮内庁が 「 陵墓指定 」 や

「 陵墓参考地に編入されなかった 」 結果が 1997( 平成9 )年から  10年間に

わたった 「 今城塚古墳 」 の 調査ができて  内堤から日本最大の 「 家形埴輪 」 も 

出土して 「 真の継体天皇陵 」である  可能性が 一層高まった  という

全国で 唯一 天皇陵の発掘調査が  行われた ところかもしれない。

イメージ 22

文字制限のため 次更新に分割します。
過ぎゆく時を たいせつに・・・

.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事