道端の出会い ①

このブログ「道端の出会い」を立ち上げて、10年が経ちました。感謝。

陛下 御陵 宮内庁

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應神天皇陵
学者らが立ち入り調査
古代天皇陵で初
羽曳野市 2011.2.
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應神天皇陵  ↑ 共同通信撮影
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昨年12月 天皇陵巡礼で 更新した  

第15代・應応神天皇 恵我藻伏崗陵 (青文字をクリックで開いてご覧下さい。) を  

宮内庁が 日本考古学協会などへ  立ち入り調査を認め

去る24日( 2011年 ) 立ち入り調査をしたという  記事を転載します

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 日本考古学協会など考古学、歴史学の研究者団体は24日、

日本で2番目に大きく、宮内庁が応神天皇陵に指定する 大阪府羽曳野市の前方後円墳、

誉田御廟山古墳( こんだごびょうやまこふん ・ 5世紀前半 ) を立ち入り調査し、

内濠を取り囲む堤部分で、築造当初に設置したとみられる 埴輪の底部を

確認したことを明らかにした。

 皇族の墓である陵墓に対する 今回のような外部の研究者による立ち入りは、

陵墓を管理する宮内庁が 2008年、 奈良市の 神功皇后陵 ( 五社神古墳 ) を許可して以降、

毎年続いているが、天皇陵は初。
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 参加者16人は、前方部の拝所横から 堤部分に入り、約3時間、歩いて調査した。

 日本考古学協会の陵墓担当理事 山田邦和・同志社女子大教授(考古学)らによると、

埴輪の底部のほか、埴輪片も堤の数カ所で確認。

堤の両側に埴輪がずらりと並んでいたと推測される。

 宮内庁は 墳丘の立ち入りを認めなかったが、現場を訪れた考古学研究会陵墓問題委員の

大久保徹也・徳島文理大教授(考古学)は 「 5世紀代に最も巨大化した古墳を観察できた

ことは意義がある 」 と述べた。

 誉田御廟山古墳は 全長約425メートルで、 宮内庁が 仁徳天皇陵 に指定した

大山古墳がある 百舌鳥古墳群と合わせ 世界遺産の暫定リストに登録された

古市古墳群の一つ。
2011/02/24 19:56 【 共同通信 】
転載もと ここ

  路傍人の 御陵巡礼索引は ここをクリックで ご覧下さい。

過ぎゆく時を たいせつに・・・
転載
應神天皇陵 立ち入り調査
古代天皇陵で 初
羽曳野市 2011.2.
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應神天皇陵

天皇陵巡礼で  更新した   第15代・應応神天皇 恵我藻伏崗陵  を  宮内庁が 

日本考古学協会などへ 立ち入り調査を認めたと  朝日新聞に 掲載されていました

應神天皇 ( 誉田御廟山古墳 ・ こんだごびょうやまこふん ) 陵は  

應神天皇の 皇子  仁徳天皇 陵が わが国最大の御陵で  次いで  応神陵が二番目とされる 

大きな陵です  その陵の 立ち入り調査を  宮内庁が  日本考古学協会などへ 

認めたと  朝日新聞にありました 転載します

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空から見た 應神天皇陵
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応神陵へ 立ち入りへ  

宮内庁は 17日 第15代 応神天皇の陵墓に指定していいる 応神陵 ( 誉田御廟山古墳 )  

古墳( 大阪府羽曳野市 ) への立ち入り調査を、日本考古学会など考古 ・ 歴史16学会に

許可すると発表した。 24日に実施される。

学術調査の要望に応え、宮内庁では2008(平成20)年 五社神古墳 ( 神功皇后陵 ) から

年1回の調査を許可してきたが、古代天皇陵への立ち入りを認めたのは初めて。

(大脇和明)
更新の 神功皇后陵はここ

古代天皇陵で初
 今回、調査が許可されたのは、墳丘本体を巡る濠を取り囲む内堤部分。
立ち入り調査で発掘や採集はできないが、推定約2舛瞭眥蕕鯤發い動貅し、形状などを観察する。
墳丘本体の立ち入りは 「 濠を渡るための安全性が確保できていない 」 として認められなかった。
 応神陵古墳の推定築造は5世紀前半。 墳丘部は全長425叩◆々發36辰旅馥眤2位の前方後円墳。被葬者とされる応神天皇は実在が濃厚な大王とされる。
 宮内庁は陵墓指定された古墳について一般の立ち入りを禁止しており、学会側は05(平成17)年に学術的に重要な陵墓11基を指定して要望。
宮内庁は08(平成20)年から許可を出し、これまでに3回、計4基の陵墓 ・ 陵墓参考地への立ち入りが実施された。
 古代学研究会の今尾文昭 ・ 奈良県立橿原考古学研究所総括研究員は墳丘本体への立ち入りも「 粘り強く求めていきたい 」 と話している。
 宮内庁書陵部の福尾正彦 ・ 陵墓調査官は 「 安全の確保が確認できれば墳丘への許可も検討したい 」 としている。
      朝日新聞 2011(平成23)年 2月18日 14版

過ぎゆく時を たいせつに・・・
第47代 淳仁天皇の御母 山背の墓
山背 = 追尊天皇・崇道盡敬皇帝の妃
淡路墓
南あわじ市 2011.1.
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淳仁天皇の御母 山背 淡路墓

このページは 前ページからの 続きです
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淳仁天皇 淡路陵の すぐ南側 800mぐらいのところに ある

第40代・天武天皇 皇子 追尊天皇崇道盡敬皇帝 妃 大夫人山背 淡路墓に参拝しました

追尊天皇崇道盡敬皇帝 舎人親王(とねりしんのう)
天武天皇5年(676年)〜 天平7年11月14日(735年)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての皇族。
舎人皇子(とねりのみこ)とも記される。天武天皇の皇子。淳仁天皇の父で、諡号は崇道尽敬皇帝(すどうじんけいこうてい)。 官位は一品・知太政官事、贈太政大臣。
天武天皇の諸皇子の中で最後まで生き残り、奈良時代初期に長屋王とともに皇親勢力として権勢を振るう。
『日本書紀』の編集も総裁した。子孫の清原氏は高市皇子系列の高階氏と共に天武系後裔氏族として長く血脈が続いた。


田畑の真ん中に 森のごとく見えて あります

普通であれば 「 墓 ] ではなく  の 呼称で よいのでしょう が・・・

第49代 淳仁天皇は  藤原仲麻呂 の 推挙によって即位しましたが

仲麻呂が  吉備真備 ら  朝廷側によって 称徳元(764)年に 討たれたことから

廃帝となり 親王に遇されると 淡路に配流となりした

これにより 母・山背も 淡路に流されて 無念の死を遂げています   

『 続日本紀 』 の 淳仁天皇即位  前紀に

「 母当麻氏、名曰山背、上総守従五位上老之女、 帝受禅之日、授正三位、後尊曰大夫人 」

とある そうで  詳細は不明です 
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他の陵墓には 必ず据えてある 「 石標 」や「 燈籠 」 が 

供えて ありません  

宮内庁の 格付け呼称 「 陵 」 と 「 墓 」 の格差を見せつけられました  
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参道は  農道かと思ったほどに 粗末で 荒れていました 
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宮内庁の管理差別を見せつけられた 淳仁天皇 御母・山背 淡路墓  でした

合掌
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■所在地 :
兵庫県南あわじ市賀集
  JR三ノ宮駅(神戸市) 近くの神姫バス「三ノ宮バスターミナル」から
   淡路交通運行の 「洲本高速バスセンター」行きに乗車 
    淡路交通バス縦貫線「福良」行きに乗車 「御陵前」で下車 南へ2km
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第123代・大正天皇   第124代・昭和天皇の御陵を ( 御陵は 八王子市 ) 除いて
近畿圏に  御陵のない天皇様が  お三方 いらっしゃいます

〇蓋県下関の 壇ノ浦に沈んだ  安徳天皇・81代   

鳥羽上皇 によって  讃岐( 現坂出市 )へ流され た  崇徳天皇・75代 

そして  淡路島に流された 「 淳仁天皇・47代 」 で  

この 3方以外  119方の天皇は  全て近畿圏に 御陵があります

それも  滋賀県大津市の  弘文天皇・39代  以外は

全て  京都・大阪・奈良にあります

ここ 淳仁天皇陵と 御母・山背墓の参拝で 近畿圏の御陵をほとんど参拝させて頂きました

ちなみに 「 廃帝 」 と呼ばれるのは歴代の天皇の中で

ここ 淳仁天皇と  第85代・仲恭天皇 の お二方です。


路傍人・御陵巡礼索引は ここです

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春の来ない冬はない  灘黒岩水仙郷(入場・有料)南あわじ市
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過ぎゆく時を たいせつに・・・
第47代 淳仁天皇
じゅんにん てんのう
淡路陵 
あわじの みささぎ
南あわじ市 2011.1.
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淳仁天皇 淡路陵

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政策は、  で安禄山の乱が発生した為、九州の警備を強化したが、藤原仲麻呂が推進
した 新羅討伐計画を許可し、官位も唐風の名称に改めるなどした。

孝謙上皇(第46代)とは、彼女が 弓削道鏡 を重用しだしたことから、不和となっていく。

そして、淳仁天皇が孝謙上皇(46代)と弓削道鏡との関係について、かんげん( 諫言 )した
ことを契機にして、両者の関係は 対立するようになっていく。

天平宝字6(762)年、孝謙上皇(46代)は、再び天皇大権を掌握することを目的に、
「  今の帝は常の祀りと小事を行え、国家の大事と賞罰は朕が行う  」 と宣告した。

この宣告によって、政治権力が孝謙上皇(46代)のもとに移ったとする理解と、御璽 ( ぎょじ・ 御印( ぎょいん ) を保持しつづけていた淳仁天皇が、依然と権能を発揮していた。 とする
見解があり、まだ研究者間でも確定されていない。

追放
天平宝字8(764)年  恵美押勝の乱 が起きた後も、最大の後見人であるはずの  藤原仲麻呂と  行動をともにすることは無かった。

その原因については 既に上皇側に拘束されていたからだとも、 仲麻呂を見限って上皇側との 和解を探っていた からだとも 言われている。

( 仲麻呂は天皇を連れ出せなかった為、やむなく 塩焼王 を 新天皇に擁立することを企てた。)

乱の翌月、上皇の軍によって、居住していた 中宮院 を包囲され、そこで上皇(46代)より
「 仲麻呂と関係が深かったこと 」 を 理由に 廃位を宣告され、「 親王の待遇 」 を もって
淡路国に流される。

だが、淡路の淳仁天皇のもとに通う官人らも多くおり、 また都でも天皇の復帰をはかる勢力も
あって、このような政治動向に 危機感をもった上皇(第46代)は、翌天平神護元(765)年2月、
現地の国守である、佐伯助らに警戒の強化を命じている。

この年の10月、逃亡を図るが捕まり、翌日に院中で亡くなった。

公式には病死と伝えられているが、実際は逃亡の時に危害を加えられた、結果であった可能性が高い。

明治3(1870)年、 弘文天皇(第39代・大友皇子)、仲恭天皇 ](第85代)と共に、 明治天皇 (第122代) から 「 淳仁天皇 」 と 追号を賜られた。

明治6(1873)年、同様に配流先で歿した、崇徳天皇 (第752代)を祀る   白峯神宮( 京都市 )に合祀された。

  詳しくは 淳仁天皇 Wikipedia をご覧下さい  
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白峯神宮  京都市

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過ぎゆく時を たいせつに・・・
第47代 淳仁天皇
じゅんにん てんのう
淡路陵 
あわじの みささぎ
南あわじ市 2011.1.
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冷え込む朝の 明石海峡大橋

淡路島に 唯一存在する 天皇陵で

我が国の 天皇125代の中で   「 廃帝 」 と呼ばれる 帝が いらっしゃる

それは 第47代 ・ 淳仁(じゅんにん)天皇  ただ お一人です

万葉人が多くが 歌を残し  流れる潮流に 時間をかけて渡島の  明石海峡

今では  世界最長の吊り橋  海峡大橋を いっきに渡って  淡路島が始まり
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島の南にある 淳仁天皇淡路陵を 訪れました

奈良時代  淡路島は政争に敗れた  王侯貴族の 「 流刑の島 」 でも  あったようで

天平宝字 8(764)年   恵美押勝の乱 ( えみおしかつ の らん)に  連座したとして

帝位を剥奪された  第47代・淳仁天皇は  淡路島に配流の 身となりました

『 続日本紀 』  宝亀 9(778)年3月己巳( 23日 ) 条に

「  勅、淡路親王墓宜称山陵、其先妣当麻氏墓称御墓、充随近百姓一戸守之  」 と あり

第49代・光仁天皇 は 淡路廃帝の境遇を 

哀れに思い 宝亀 3(772)年  遺体を改葬させると  

宝亀 9(778)年 山稜に列するように  したと  されています
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第47代・淳仁天皇 淡路陵

淳仁天皇陵の 所在地は  いくつか伝えられて   

江戸時代に ここの地だとされた  平地にある小丘    

自然の丘と異なって  古墳に見えて 天王森 といわれています

陵の北 1.5 ぐらいのところに  西山北古墳という 

淡路島 最大の横穴式  石室を持つ円墳がある  そうで

その円墳に 先行する  首長墓では ないか  とか

古墳を  再利用して  淳仁天皇を  埋葬したのでしょうか・・・?
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ささやかな 周濠は涸れて
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かっては周濠に流れた ? 陵墓脇のため池

淳仁天皇陵の周りは  田畑で  季節季節に 農村のニオイが・・・
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淡路といえば玉ねぎ   img

籾殻の タマネギの などなどの  風が運んでくる ニオイを想像して 
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懐かしい 思いを味わっての 参拝でした
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第47代 ・ 淳仁天皇 ( じゅんにんてんのう )

■生没年 :  
天平5(733)年 ? 〜 天平神護元(765)年10月23日(11月10日)( 32?歳
■在位 :
天平宝字2(758)年8月1日(9月7日)〜 天平宝字8(764)年10月9日(11月6日)  奈良時代後期 
6年の在位ののち 皇位をめぐる争いに巻き込まれ 天平宝字8(764)年 淡路島に配流された。
■別名 :
諱は  大炊( おおい ) 、 践祚前は 大炊王( おおいおう )
古文書では 廃帝( はいたい )または 淡路廃帝( あわじはいたい ) と呼ばれる。
■皇后・皇妃・皇子女 :
     ◎ 粟田諸姉 ( あわたのもろね )
     他 不明 
■皇居 :
淡路国三原郡  ( 現在の南あわじ市 )
■御父 :
舎人親王  天武天皇の皇子  七男として誕生    
■御母 :
当麻真人山背 ( たぎまのやましろ )
■御陵名 :
淡路陵 ( あわじのみささぎ )
御陵は淡路国三原郡に造営された。 (現在の兵庫県南あわじ市の天王森丘とされる)
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宝亀3(772)年、第49代・光仁天皇 は 僧侶60人を派遣し、斎を設けて、その魂を鎮めた。
宝亀9(778)年、山陵扱いとされた。
しかし践祚していながら、 稱徳天皇 (第48代)の意向によって、 長らく天皇のひとりと認められず、
廃帝または「 淡路廃帝 」 と呼ばれていた。
■陵形 :
山形
■所在地 :
兵庫県南あわじ市賀集
   JR三ノ宮駅(神戸市) 近くの神姫バス「三ノ宮バスターミナル」から
    淡路交通運行の 「洲本高速バスセンター」行きに乗車 
     淡路交通バス縦貫線「福良」行きに乗車 「御陵前」で下車 南へ1km
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第47代 ・ 淳仁天皇( じゅんにんてんのう )   
天武天皇(第41代)の皇子・舎人親王の七男として誕生する。 母は当麻真人山背。
だが、3歳で父が没したこともあって、天皇の孫でありながら官位を受けることもなく、存在が注目されることもなかった。

天平宝字元(757)年、聖武天皇(第45代)の遺言によって立太子した 道祖王 に代わって、未婚の女帝・孝謙天皇(第46代)により立太子された。

この立太子は、藤原仲麻呂( 後に恵美押勝に改名 )の強い推挙によるものだった。

大炊王( 後の淳仁天皇・第47代 )は 仲麻呂の子 ・ 真従(まより)の未亡人である 粟田諸姉 を妻とし、仲麻呂の私邸に住むなど、仲麻呂と強い関係を持っていた。

天平宝字2(758)年、 孝謙天皇( 第46代・女帝 ) から譲位を受け践祚した。

だが皇位に就いたのは良かったが、政治の実権はほとんど 藤原仲麻呂 が握り、また仲麻呂の後見人である 光明皇后 ( 藤原光明子・第45代 聖武天皇の皇后 ) が強い影響力を持っていた。
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淡路島 玉ねぎ畑

5000文字制限ため分割。
過ぎゆく時を たいせつに・・・

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