道端の出会い ①

このブログ「道端の出会い」を立ち上げて、10年が経ちました。感謝。

陛下 御陵 宮内庁

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第26代 継体天皇
けいたいてんのう
三島藍野陵 
みしまの あいのの みささぎ
茨木市 2011.1.
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継体天皇 三島藍野陵

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円墳の杜と周濠
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第26代・継体天皇 ( けいたいてんのう )

■生没年 :  
允恭天皇39(450)年 ? 〜 継体天皇25(531)年2月7日(3月10日)(81 ?歳
■在位 :
継体天皇元(507)年2月4日(3月3日)〜 継体天皇25(531)年2月7日(3月10日) 古墳時代 
■別名 :
諱は オホド。
『 日本書紀 』= 男大迹王 ( おおどのおおきみ )と記される 
『 古事記 』 = 袁本杼命 ( おおどのみこと ) と記される 
■皇后・ 皇妃・ 皇子女 :
   ◎ 皇后・手白香皇女 ( たしらかのひめみこ ・ 仁賢天皇24代の皇女 )
         天国排開広庭尊 ( あめくにおしはらきひろにわのみこと・29代・欽明天皇
   ◎ 妃・目子媛 ( めのこひめ ) 尾張連草香の娘 )
         勾大兄皇子 ( まがりのおおえのみこ・27代・安閑天皇
         檜隈高田皇子 ( ひのくまのたかたのみこ・28代・宣化天皇
   ◎ 妃・稚子媛 ( わかこひめ ) 三尾角折君の妹
         大郎皇子 ( おおいらつこのみこ )
         出雲皇女 ( いずものひめみこ )
   ◎ 妃・広媛 ( ひろひめ・黒比売 ) 坂田大跨王の娘)
         神前皇女 ( かむさきのひめみこ )
         茨田皇女 ( まんたのひめみこ )
         馬来田皇女 ( うまぐたのひめみこ )
   ◎ 妃・麻績娘子 ( おみのいらつめ ) 息長真手王の娘
         荳角皇女 ( ささげのひめみこ ) 斎宮
   ◎ 妃・関媛 ( せきひめ ) 茨田連小望の娘)
         茨田大娘皇女 ( まんたのおおいらつめのひめみこ )
         白坂活日姫皇女 ( しらさかのいくひひめのひめみこ )
         小野稚娘皇女 ( おののわかいらつめのひめみこ・長石姫 )
   ◎ 以下 妃 3人 子 9人 省略
■皇居 :
507年2月、 樟葉宮( くすばのみや、大阪府枚方市楠葉丘の交野天神社付近が伝承地 )即位。
511年10月、 筒城宮( つつきのみや、現在の京都府京田辺市多々羅都谷か? )に遷す。
518年3月、 弟国宮( おとくにのみや、現在の京都府長岡京市今里付近か? )に遷す。
526年9月、 磐余玉穂宮( いわれのたまほのみや、現在の奈良県桜井市池之内か? )に遷す。
ただし、この記録が事実とすると、 継体が 大和にいた のは最後の5年のみである。
■御父 :
彦主人王 ( ひこうしおう ・ ひこうしのおおきみ )
■御母 :
振媛  ( ふるひめ )
■御陵名 :
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三島藍野陵 ( みしまのあいののみささぎ ) に 葬られた 
■陵形 :
前方後円墳
全長 226m 前方部幅 147m 前方部長 117m 前方部高 19.8m 
後円部径 138m 後円部高 19.2m 幅約28〜33mの周濠 
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宮内庁は同陵を、 「 太田茶臼山古墳 」 に比定しているが、築造時期は5世紀の中頃とみられており、近年、同府高槻市郡家新町の 「 今城塚古墳・前方後円墳・全長190m 」 から、兵馬俑の如き埴輪群が発見され、6世紀前半の築造と考えられる同古墳を、真の継体天皇陵とするのが定説になっている。
■所在地 :
大阪府茨木市太田三丁目
JR摂津富田駅下車 
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第26代・継体天皇 ( けいたいてんのう )    

『 古事記 』、『 日本書紀 』 によると継体天皇は応神天皇5世の子孫であり、父は 彦主人王 である。

近江国高嶋郷三尾野( 現在の滋賀県高島市あたり ) で誕生したが、幼い時に父を亡くした
ため、 母の故郷である越前国高向 ( たかむく・ 現在の福井県坂井市丸岡町高椋 )で育て
られて、男大迹王として5世紀末の越前地方 ( 近江地方説もある ) を統治していた。

『 日本書紀 』 によれば、506年に武烈天皇(第26代) が 後嗣定めずして崩御したため大連
( おおむらじ ) ・ 大伴金村らは越前に赴いて、武烈天皇とは血縁の薄い男大迹王をヤマト王権の大王に推戴した。
これを承諾した王は、翌年58歳にして河内国樟葉宮 ( くすばのみや ) において即位し、武烈天皇の姉 ( 妹との説もある )にあたる 手白香皇女( たしらかのひめみこ ) を皇后とした。

継体は、即位19年後の526年、ようやく大倭 ( 後の大和国 )に 都を定めることができたが、
その直後に、百済から請われて救援の軍を九州北部に送った。
しかし新羅と結んだ磐井によって、九州北部で 磐井の乱 が勃発して、その平定に苦心している( 磐井の乱については諸説ある )。

『 日本書紀 』 の記述では、 継体が507年に即位してから大和に都をおくまで約20年も
かかっており、天皇家 ( 実態はヤマト王権 ) 内部、もしくは地域国家間との大王位をめぐる混乱があったこと、また、継体( ヤマト王権 ) は九州北部の地域国家の、豪族を掌握できていなかったことを示唆している。

531年に、皇子の勾大兄 ( 安閑天皇・第27代 ) に譲位し、その即位と同日に崩御した。
( 記録上最初の譲位例 ) 

『 日本書紀 』 では、『 百済本記 』 ( 「 百濟本記爲文 其文云 大歳辛亥三月 軍進至于安羅 營乞乇城 是月 高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣 」 ) を引用して、天皇及び太子と皇子が同時に亡くなったとし、 政変で継体天皇以下が殺害された可能性( 辛亥の変説 ) を 示唆している。

死去年に関して、『 古事記 』では継体天皇の没年を527年としており、そうであれば都を立てた、翌年に死去したことになる。

『 古事記 』では 没年齢は約40歳だが、『 日本書紀 』 従うと約80歳の長寿であった。
     詳しくは  継体天皇 Wikipedia をご覧下さい。 
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継体天皇 倍塚

路傍人の 御陵巡礼索引は ここです
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過ぎゆく時を たいせつに・・・
第26代 継体天皇
けいたいてんのう
三島藍野陵 
みしまの あいのの みささぎ
茨木市 2011.1.
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継体天皇 三島藍野陵
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継体天皇藍野稜は  名神高速道路の 真横に位置し 旧西国街道に面して

ご多分に漏れず  御陵は 厳重に管理されており  入り口付近しか見られません  

ここも  宮内庁が据えつけた フエンスの限界まで 住宅開発の攻撃に遭って

円墳の繁るに任せた杜や  周濠も  ほとんど 見ることはできません

高槻市から 茨木市にかけての山際には  大小さまざまな 古墳が点在していて

その中の 最大のものが 高槻市にある 「 今城塚古墳 ・ 宮内庁無指定 」 で

2重の周濠に囲まれた 全長300m以上の 巨大前方後円墳 

歴史学者の間では  これこそ  ここが本当の 「 継体天皇陵 」  だと 

言われてきた そうです

現在 継体天皇陵 として  宮内庁が 公式に治定している 古墳は

茨木市大田の  藍野陵 ( あいのの みささぎ ) 「 大田茶臼山古墳 」 です

ところが  平成14(2002)年11月  この古墳 ( 藍野陵 ) の    

一部が 修理のため 宮内庁職員により 発掘調査され  

出土した土器の年式が 継体天皇の没年を 100年以上 さかのぼるものであり 

継体天皇陵である可能性は 事実上否定されました   < ↓に アサヒコムの記事転載 >


「 今城塚古墳 」 ( 大阪府高槻市郡家新町 ・ ぐんげしんまち ) は  

宮内庁の  陵墓参考地として  指定されていません  ので  

出入りが自由に 出来ますが  残念ながら現在は  高槻市が史跡公園にするための  
第七次整備工事が 行われており  立ち入り禁止になっています
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整備工事中の 今城塚古墳

真の継体天皇の墓とされる今城塚古墳が 史跡公園いましろ大王の杜に ご参照
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巨大な 古代大王墓として  一般人が自由に出入りできる 

全国唯一のもの と言われています

ここから出土した  多くの埴輪は  2つの古墳 ( 今城塚古墳 ・ 大田茶臼山古墳 )  の

中央北方向に  巨大な 埴輪工房が存在して これらの古墳や  

大和地方の古墳にも  埴輪を 供給していたものと  言われています
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現在  この工房跡は  新池ハニワ工場公園  として整備されて

いくつかの 施設が復元されています 
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継体天皇陵は、やっぱり別人の墓? 古すぎた埋葬の埴輪

宮内庁書陵部は22日、継体天皇陵に指定している 大阪府茨木市の太田茶臼山古墳
( 全長226m )の墳丘部で、護岸工事に伴って進めている 発掘調査現場を報道陣と
研究者に公開した。

6世紀前半に没した 継体天皇の時代より  約80年古い 5世紀中ごろの埴輪(はにわ)が、
埋葬された当時の、並んだ状態で確認できた。

継体天皇陵は 「 被葬者は別人 」 とするのが学界での定説だったが、本体の墳丘部で
継体天皇の没年より、 かなり古い埴輪が出たことで 「 別人説 」 を 裏付ける有力な
「 物証 」 になった。

 継体天皇陵は1986(昭和61)年にも護岸工事に伴い、周囲の濠( ほり )の外堤が研究者らに
公開され、5世紀中ごろの埴輪の破片が確認された。

 今回は古墳の本体である、墳丘が初めて部外者に公開された。

円筒形や上部がラッパ状の埴輪など、1986(昭和61)年に確認されたものと同時代の埴輪が
多数出土しており、並んだ埴輪もあった。

 1986(昭和61)年に堤から出土した埴輪は、形や刻まれた印などから 大阪府高槻市の
新池遺跡の窯で作られたものとわかった。

この窯は、科学的 な年代測定で450年ごろのものと判明。 
継体天皇の没年は  日本書紀では531年とされ、埴輪の年代と一致しないことが指摘され、
「 被葬者は別人 」 とする説が 有力になっていた。

 考古学者の間では、継体天皇の墓は、同古墳から東へ1.5キロ離れた 高槻市の今城塚古墳
( 全長190m )だという説が有力だ。

 同古墳は高槻市教委の調査で、6世紀前半の古墳であることが確実になっている。

 しかし、宮内庁は太田茶臼山古墳について「 継体天皇の墓ではないという決定的な
証拠はない 」 として、従来の見解を変えてこなかった。

 今後、陵墓の指定の再検討を求める声が 高まりそうだ。

明治以後、学問的な裏付けから 陵墓が指定変更されたのは、1881(明治14)年に天武(40代)
・ 持統(41代)陵が、見瀬丸山古墳( 奈良県橿原市 )から 野口王墓( 同県明日香村 )に変更されたケースだけ。
 天武・持統陵が、鎌倉時代に盗掘された時の 内部の実況見分記録が前年に京都の寺で
見つかったためだ。

1880 年(明治13年)に 『 阿不幾乃山陵記 』 が、京都栂尾の高山寺から発見され 高山寺文書の中に 鎌倉時代の盗堀の様子を詳しく記した 実検録である。
それをもとに、文武天皇陵であった 野口皇ノ墓古墳を、天武・持統天皇陵に 文武天皇陵を粟原塚古墳に変更、見瀬丸山古墳の後円部を「 陵墓参考地 」 として 現在に至っている(見瀬丸山古墳は、前方後円墳ではなく円墳とされていた。 

約240ある古代の陵墓古墳を非公開にしている宮内庁は、災害復旧工事や補修の際に一部を
研究者らに限り公開する 程度だ。

 太田茶臼山古墳の場合、来年度、墳丘が崩れないよう護岸工事をする予定で、その方法を検討するため、10月から墳丘のすそ部分の30カ所で発掘調査を実施。それに合わせて公開に
踏み切った。
平成14(2002)年 11月22日 − Asahi.com − 朝日新聞 (14:41)

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整備工事中の 今城塚古墳
すでに「 史跡公園 いましろ大王の杜 」として開園されています。

5000文字制限ため分割。  
過ぎゆく時を たいせつに・・・
第39代 弘文天皇
こうぶんてんのう
長等山前陵
ながらのやま さきの みささぎ
滋賀県大津市 2011.1.
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弘文天皇 長等山前陵
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京阪電車・石山坂本線「 別所 」 駅で下車  大津市役所を

ぐるりと回って北側  細い ゆるやかな坂道を 山手の方へ向かい  

最初の分岐路を 左へ折れて  約100m 進んだ左手が 弘文天皇陵で  
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御陵に近づけば 廻りの喧噪が かき消えてしまい  不思議な静けさです 

大津市市役所の ビルに囲まれた 御陵です
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天武天皇・持統天皇の檜隈大内陵磯長山田陵 そして 光仁天皇田原東陵   は

昔のままを感じる  素晴らしい場所で お休みだと つくづく思われます
 
一般的には  天智天皇(第38代) の 息子 大友皇子( 後の弘文天皇・第39代 ) と

天智天皇の弟である 大海人皇子( おおあまのみこ・後の天武天皇・第40代 ) が争う

壬申の乱 ( じんしんのらん ) で  大海人が勝って  天武天皇となったと されています

話はそう  単純なものでは ない ようです
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第39代 ・ 弘文天皇( こうぶんてんのう )

■生没年 :  
大化4(648)年 ?月日 〜 天武天皇元(672)年7月23日(8月21日)(25歳 ?
■在位 :
8ヶ月
天智天皇10(672)年12月5日(1月9日) 〜 天武天皇元(672)年7月23日(8月21日)  飛鳥時代
■別名 :
諱は  大友( おおとも ) また 伊賀( いが )
明治3(1870)年  諡号を贈られ天皇として認められたが、
天皇として 即位したかどうか定かではなく 「 大友皇子 」 が用いられることも多い。
■皇后・皇妃・皇子女 :
     ◎ 正妃 ・ 十市皇女( 第40代・天武天皇皇女 )
          葛野王 − 淡海真人・朝臣の祖(→淡海三船)
     ◎ 妃 ・ 藤原耳面刀自( 藤原鎌足の娘 )
          壱志姫王
     ◎ 侍妾
          与多王( よたのおおきみ ) − 園城寺を発願したとされる伝承的人物。                 大友氏 の祖ともされる。
■皇居 :
近江大津宮  大津市錦織の遺跡がある
■御父 :
天智天皇 ( 第38代 )の 第一皇子 
天智後継者として統治したが、 壬申の乱 ( じんしんのらん ) により
叔父 大海人皇子( おおあまのみこ・天武天皇・40代・即位前名) に敗死する。
■御母 :
伊賀采女宅子娘 ( いがのうねめ・やかこのいらつめ )
■御陵名 :
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長等山前陵 ( ながらのやまさきの みささぎ ) 大津市役所の真裏にある
日本古代最大の内乱 壬申の乱(じんしんのらん) で、天智天皇(第38代) の弟
大海人皇子( おおあまのみこ・のちの第40代・天武天皇 )に 敗れた大友皇子
( 天智の皇子・のちの第39代・弘文天皇 )は、「 山前( やまさき ) 」 の地で、
自殺したと記録にある。
■陵形 :
円丘
天皇として認められたのは  明治3(1870)年 明治政府によって
「 弘文天皇 」 と おくり名されて ここ長等山麓の塚が陵墓とされた。
■所在地 :
大津市御陵町      
   京阪電車・石坂線「 別所駅 」下車 徒歩5分、市役所西側
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第39代 ・ 弘文天皇( こうぶんてんのう )

『 日本書紀 』には、天智天皇は実弟・大海人皇子を東宮(皇太子)に任じていたが、第38代・
天智天皇は我が子可愛さの余り、 約束を破って大友皇子( 後の第39代・弘文天皇 )を
皇太子と定めたと記されている。

しかし漢詩集『 懐風藻 』  や  『 万葉集 』 には   「 父・天智が大友皇子を立太子
(正式な皇太子と定めること ) していた 」 とあり、 これを支持する学説もある。

父・天智が天智7(668)年に即位してから4年目、 天智10(671)年に太政大臣となり、その
政務を補佐した。

天智10(671)年11月の条に、 「 大友皇子は左大臣蘇我赤兄臣・右大臣中臣金連・蘇我果安臣・巨勢人臣・紀大人臣ら五人の高官と共に 宮殿の西殿の織物仏の前で「 天皇の詔 」 を守ることを誓った。 『 日本書紀 』

大友皇子が香炉(こーろ)を手にして立ち、「 六人心を同じくして、天皇の詔を奉じる。もし
違うことがあれば必ず天罰を被る 」 と誓った。

続いて5人が順に香炉を取って立ち、臣ら五人、殿下に従って天皇の詔を奉じる。
もし違うことがあれば四天王が打つ。 天神地祇もまた罰する。 三十三天、このことを証し
知れ。子孫が絶え、家門必ず滅びることを、などと泣きながら誓った。 」 とある。

ここでいう 「 天皇の詔 」( 詔勅 ) の内容は判然としないが、天智天皇の死後に、大友皇子を、践祚させることを指示していたものと、考えられている。

天智11(672) 年冬、天智天皇崩御から「 壬申の乱 」による、敗死までその治世は約半年と
短く、践祚に関連する儀式を行うことは出来なかった。

そのため、歴代天皇としては認められなかったが、 明治3(1870)年に「 弘文天皇 」の諡号を贈られて、天皇として認められ 死地とされた 「 長等山麓の塚 」 が陵墓とされた。

 転載もと 弘文天皇 Wikipedia 詳しくはここをおお開きください  
 

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路傍人の 御陵巡礼索引は ここです
過ぎゆく時を たいせつに・・・
第49代 光仁天皇
こうにん てんのう
田原東陵 
たはらの ひがしのみささぎ
奈良市日笠町 2011.1.年

  天皇皇后両陛下には 平成22(2010)年10月9日(土)お参りになりました。  
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田原東陵

このページは前ページからの 続きです

第49代 ・ 光仁天皇( こうにん てんのう )  

8歳で 父が死亡したためか、初叙( 天平9(737)年 従四位下 )が 29歳と大変遅かった。

その後天平16(744)年、聖武天皇( 第45代 )の皇女・井上内親王( 717?〜77 5)を、妃としたこと
から にわかに昇進を速め、天平宝字3(759)年従三位に叙せられ、天平宝字6(762)年に
中納言に任ぜられる。

天平宝字8(764)年には、 恵美押勝 の乱鎮圧に功績を挙げて、称徳天皇( 第48代 ・ 女帝 )
の信任を得て、天平神護2(766)年には 大納言に昇進した。

だが、度重なる政変で多くの親王・王が粛清されていく中、専ら酒を飲んで日々を過ごす事で
凡庸を装って難を逃れたといわれている。

神護景雲4(770)年、称徳天皇( 第48代 )が崩御する。

独身の女帝に後継者はなく、度重なる政変による粛清劇によって、
天武天皇(第40代)の嫡流に あたる皇族がいなかった。

ただ、井上内親王( 聖武天皇の第1皇女 )は 聖武天皇(第45代)の皇女であり、
白壁王( 天智天皇の第7皇子・施基親王・志貴皇子 )の 第6子との間に生まれた
他戸親王は、 女系ではあるものの、天武天皇( 第40代 )系嫡流の血を引く、男性皇族の最後の一人であった。

このことから、天皇の遺宣( 遺言 )に基づいて立太子が行われ、白壁王は62歳で即位する
こととなった。

なお、62歳での即位は  継体天皇( 第26代 )以降では 現在の今上天皇( 平成 )を
含め最高齢である


称徳天皇(第48代)崩御の際、左大臣 藤原永手 、右大臣 吉備真備、 参議 藤原宿奈麻呂、同 藤原縄麻呂、同 石上宅嗣、 近衛大将 藤原蔵下麻呂 らによる協議が行われたと 『 続日本紀 』 は伝えている。

「 百川伝 ・藤原百川 」 を引用する 『 日本紀略 』 などの記述は、この協議で天武天皇(40代)系の 長親王の子である 文室浄三、 次いでその弟大市を 推した真備と、 白壁王を
推す藤原永手 ・ 藤原宿奈麻呂らで、  対立があり 藤原百川  の暗躍によって、白壁王の
立太子が実現したと 伝えている。 

この「 百川伝 」 の 記述については、他戸親王 廃太子の事情が 誤って伝えられたとする、
河内祥輔の説が 広く支持されている。

即位後、井上内親王( 第45代聖武天皇の第1皇女 ) を皇后とし、他戸親王 (白壁王 )を
皇太子とするが、宝亀3(772)年、井上内親王を 呪詛( じゅーそ・呪い )による大逆を図った
として罪し、皇后を廃し皇太子の、他戸親王も廃した。

井上内親王は翌年、 天皇の同母姉 難波内親王 ( 志貴皇子の王女) を呪ったとして幽閉され、連座して王に落とされた他戸親王もともに、幽閉されてやがて二人とも変死した。

これによって  天武天皇( 第40代 )の皇統は 完全に絶えた。
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翌宝亀4年(773年) 高野新笠  から生まれた、山部親王( 後の第50代・桓武天皇 ) を
立てて 皇太子とした。
この背景には、山部親王とそれを擁立する、藤原百川ら の陰謀があったと目される。

70歳を超えても政務に精励したが、天応元(781)年2月、第一皇女能登内親王に先立たれてから、心身ともに俄かに衰え、同年4月、病を理由に皇太子に譲位 ( 桓武天皇 )。
同年12月23日、崩御。

和風諡号は「 天宗高紹天皇 」(  あめむねたかつぎのすめらみこと  )である

     転載もと 光仁天皇 Wikipedia
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宇治市莵道滋賀谷の  三室戸寺  は 

「 光仁天皇 」 の勅願 により 南都大安寺の僧行表が 創建されたとされています

古来より天皇・貴族の崇敬を集め  宝蔵庫には 平安時代を偲ぶ  五体の仏像(重文)が

安置されています
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三室戸寺

岩淵より出現された 「 千手観音菩薩 」 が 御本尊です

天智天皇(38代)の 孫にあたる  白壁王 ( 後の光仁天皇 ) は 

毎夜宮中に達する  金色の霊光の 正体を知りたいと願い 

右少弁( 右少史とも ) 藤原犬養なる者に命じて  その光の元を尋ねさせた

犬養が  その光を求めて 宇治川の支流  志津川の上流へたどり着くと

滝壺に  身の丈二丈( 一丈=3.030m )ばかりの 「 千手観音像 」  を見た

犬養が滝壺へ飛び込むと 1枚の蓮弁( ハスの花びら ) が流れてきて

それが一尺二寸( 36.3636 )の  二臂の 観音像に変じたという

光仁天皇が  その観音像を安置し  行表を開山として創建したのが

この 「 三室戸寺 」 の起こりと いいます

その後  桓武天皇(50代)が  二丈の 観音像を造立

その胎内に  先の一尺二寸の  観音像を 納められたと  聞きます
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奈良市日笠町の里  ハイキングにおすすめします

路傍人の 御陵巡礼索引は ここです
過ぎゆく時を たいせつに・・・
第49代 光仁天皇
こうにん てんのう
田原東陵 
たはらの ひがしのみささぎ
奈良市日笠町 2011.1.年

  天皇皇后両陛下には 平成22(2010)年10月9日(土)お参りになりました。  
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光仁天皇 田原東陵

このあたりは 大和茶の産地で 周りは茶畑のうねが

こんもりとした山の 山肌を覆っています

年末の寒波は ところどころで 白衣を 装っていました
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田圃の中に ポツンと存在した御陵は 遠くからでも よく見えて  

住宅開発が 押し寄せている  市中の 天皇陵も  

昔は 建物に囲まれず  この雰囲気があった  のでしょう   
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日本の原風景に  郷愁を  覚える景色です 

光仁天皇は 当初  広岡山陵 ( 奈良市広岡町 )に 葬られました が

延暦5(786) 年  ここ 田原陵に 改葬されたそうです 

息子の  桓武天皇 (第50代)  が 祖父の 志貴皇子 の眠る  

田原西陵の近くに  父親の陵を 移したのでしょうか 

桓武天皇を 生んだ 高野新笠媛 が  このあたりの 出身だったとかで

北浦定政 が  発掘調査の後

天皇陵だろう と いうことになった とも 聞かれます


いずれの御陵にも見られる  鳥居の奥の 一対の 燈籠とは別に

一段下がった所に  古ぼけた 燈籠が 一基建っています
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画像の左手前下

文久(1861〜1863年) この地の藩主 藤堂高猷    が 

光仁天皇陵を 修陵したとか  時の名残 なのでしょうか  

光仁天皇の歌は 万葉集には  表れませんが

光仁朝において  万葉集が 現在の形に 近いところまで  編纂整備された  

という説が 有力視されている  そうです


「  平城遷都1300年記念祝典 」 に ご出席の  天皇皇后両陛下には  

平成22(2010)年10月9日(土)  奈良時代の 節目の時期に 在位された

奈良時代の  初代天皇(在位・707〜715) 元明天皇陵 ( 奈保山東陵 ) に続いて

ここ 奈良時代 最後の天皇 光仁天皇 (在位・770〜781) 陵 ( 田原東陵 ) に
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降雨の中 お参りになりました。

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第49代 ・ 光仁天皇( こうにん てんのう )

■生没年 :  
和銅2(709)年10月13日(11月18日) 〜 天応元(782)年12月23日(1月11日)(73?歳
■在位 :
宝亀元(770)年10月1日(10月23日) 〜 天応元(781)年4月3日(4月30日) 奈良時代   
■別名 :
白壁王 天宗高紹  ( あめむねたかつぎ )
■皇后・皇妃・皇子女 :
    ◎ 皇后 ・ 井上内親王 ( 717-775 )  − 聖武天皇(45代)皇女
         酒人内親王 ( 754-829 )  − 桓武天皇(50代)妃
         他戸親王 ( ?-775・光仁天皇・49代・皇太子)
    ◎ 皇太夫人 ・ 高野新笠 ( ?-789 )  − 和乙継女
         能登内親王 ( 733-781 )  − 市原王室
         山部親王 ( 737-8061 ・ 50代・桓武天皇
         早良親王 ( 750-7851 )  − 桓武天皇皇太子
    ◎ 夫人 ・ 藤原産子 ( 761-8291 )  − 藤原百川の娘? または藤原楓麻呂の娘?
    ◎ 夫人 ・ 藤原曹司 ( ?-7931 )  − 藤原永手女
    ◎ 夫人 ・ 紀宮子 - 紀稲手女
    ◎ 宮人 ・ 尾張女王 ( ?-804?1 ) − 湯原王女
         薭田親王 ( 751-7811 )
    ◎ 宮人 ・ 県主島姫 - 県主毛人女
         弥努摩内親王 ( ?-8101 )  − 神王室
    ◎ 女嬬 ・ 県犬養勇耳 (または男+耳)
         広根諸勝
■皇居 :
平城京 ( 奈良県奈良市 )
■御父 :
天智天皇( 第38代 )第7皇子の 施基親王( 志貴皇子 )の 第6子 
■御母 :
紀橡姫 ( きのつるばみ ) 贈皇太后
■御陵名 :
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延暦1(782)年1月7日、広岡山陵(奈良市)に葬られ
5年、田原陵(奈良市)に改葬された
田原東陵 ( たはらのひがしのみささぎ )
■陵形 :
円丘
■所在地 :
奈良市日笠町  バス停「 田原横田 」から北へ1キロほど歩きます
         バス運行数は少ないです。
奈良交通・時刻運賃案内 ここをクリックでお調べください。       
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過ぎゆく時を たいせつに・・・

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