道端の出会い ①

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陛下 御陵 宮内庁

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追尊天皇
春日宮天皇 ・ 志貴皇子
田原西陵
奈良市矢田原町 2011.1.
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春日宮天皇 田原西陵
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近鉄 奈良駅より  水間 ( みま ) 方面行き バス路線の道 

奈良県道80号 奈良名張線 を  「 奈良奥山ドライブウェイ 」  へ 上る道を 通過して 

なおも続く ヘァピン カーブ  を  東へ進みます

バス停  「 須山 」 を 過ぎると  右(南)側の高台に 

「 奈良県ヘリポート 」  の 格納庫が見えて来ました 

バス停  「 須山 」 の  次のバス停が 「 田原御陵前 」 で 

志貴皇子( しき の みこ ) の  「 田原西陵 」 が あります

陵の入り口付近に  志貴皇子の 詠んだ万葉歌の碑が 建てられて あります
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  『 石ばしる垂水の上のさわらびの 萌え出づる春になりにけるかも 』||<#ffffff' width=560px'||
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志貴皇子は   霊亀(れいき) 2(716)年 に 亡くなられていますが

息子の「 六男・白壁王 」 が 第49代・光仁天皇に 即位して 

没後 50年以上の 宝亀元(770)年10月に 「 御春日宮天皇 」と

追尊されています

春日宮天皇 は  万葉歌人として 知られている  志貴皇子で
 
『 万葉集 』  に 6首収められている  そうです

バス停 「 田原御陵前 」 から  更に東へ下って 3つ目のバス停 「 田原横田 」 から

北へ 1キロほど行くと  志貴皇子の第六子 第49代・光仁天皇 ( 白壁王 ) 

奈良朝 最後の天皇陵の 「 田原東陵 」 があります     

第49代・光仁天皇田原陵はここです ご覧下さい。
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志貴皇子 ( しきのみこ )
飛鳥時代末期から奈良時代初期にかけての皇族 追尊天皇 春日宮天皇

■生没年 :  
天智天皇7(668)年) ? 〜 霊亀2(716)年8月11日(10月4日) (48 ?歳
■在位 :
追尊天皇  生きているうちに皇位に即かなかったが、没後に天皇号を贈られた皇族
飛鳥・奈良時代   
■別名 :
芝基皇子  または 施基皇子(施基親王)  志紀皇子とも記す
■皇后・皇妃・皇子女 :
     ◎ 妃 ・ 託基皇女( 多紀皇女・当耆内親王・ ?〜751 )  − 天武天皇皇女
        |忙辧春日王( ?〜745 )  − 子孫は春原氏
        男子・湯原王  − 子孫は美海氏
     ◎ 贈皇太后 ・ 紀橡姫  − 紀諸人女
        女子・難波女王・後に内親王・ ?〜773 )
        っ忙辧白壁王・光仁天皇・49代・ 709〜782
     ◎ 生母不詳の子女
        ッ忙辧Τぞ絏  − 光仁天皇即位前に薨去
        γ忙辧Ρ欅羃  − 光仁天皇即位前に薨去、子孫は長井氏・岡原氏
        男子・壱志王  − 光仁天皇即位前に薨去
        ┰子・坂合部女王・後に内親王・ ?〜778 ) − 文室大市室か
        女子・衣縫女王・後に内親王・ ?〜772 ) 
■御父 :
天智天皇 ( 第38代 )の 第七皇子 
■御母 :
越道君伊羅都売 ( こしのみちの きみいらつめ )
■御陵名 :
田原西陵
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奈良時代の律令制度では、都の中に墳墓の築造が禁じられて、
平城京から、遠く離れた田原の里辺りに貴族、官人らの墓が多く見られる。
■陵形 :
円丘
■所在地 :
奈良市矢田原町字西山
    近鉄奈良駅前から 下水間 (しもみま) 行バス 田原御陵前バス停下車 すぐ
     運行本数は少ないです
奈良交通・時刻運賃案内 ここをクリックでお調べください
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春日宮天皇 追尊天皇 
壬申の乱 ( じんしんのらん )により、皇統が天武天皇(40代)の系統に移ったため、天智天皇(38代)系皇族であった 志貴皇子は 皇位継承とは全く無縁だった。

政治よりも 和歌等文化の道に生きた人生だったが、薨去から50年以上後の宝亀元(770)年に、聖武天皇(45代)の娘 井上内親王を后とし、母系では天武系となる 他戸王 を儲けていた 六男の白壁王が、皇嗣に擁立され即位した( 49代光仁天皇 )ため、「 春日宮御宇天皇 」 の追尊を受けた。

かくして皇位に一切執着せず、清らかな人生を終えた 彼の系統が、現在まで長く続く事となった。

御陵所の「 田原西陵 ・ 奈良市矢田原町 」 にちなんで 「 田原天皇 」 とも称される。

清澄で自然鑑賞に優れた詠い手として、 『 万葉集 』 に 6首の歌を残している。
略歴
天武8(679)年 − 5月5日、 吉野の盟約に参加。
持統3(689)年 − 6月2日、 撰善言司。
大宝3(703)年 − 9月3日、 位階 四品。
和銅元(708)年 − 1月11日、 三品。
霊亀元(715)年 − 1月10日、 二品。
霊亀2(716)年 − 8月11日(9日とも)、 薨去。
宝亀元(770)年 − 11月6日、 追尊春日宮御宇天皇。55年後に息子の白壁王が天皇として
即位した為、 春日宮天皇と追号されて  田原天皇 とも称される。

延暦12(793)年 −  孫にあたる桓武天皇(50代)が平安京遷都直前に 山陵・田原西陵に
参拝。

御歌   志貴皇子の歌は 『 万葉集 』 に 6首収められているが、いずれも繊細な美しさに
満ち溢れる名歌である。
  「 石ばしる垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも 」
  「 神なびの石瀬の杜のほととぎす毛無の岡にいつか来鳴かむ 」
  「 大原のこのいち柴のいつしかと我が思ふ妹に今夜逢へるかも 」
  「 むささびは木末求むとあしひきの山の猟師に逢ひにけるかも 」
  「 采女の袖ふきかへす明日香風都を遠みいたづらに吹く 」
  「 葦辺ゆく鴨の羽交(はがひ)に霜降りて寒き夕へは大和し思ほゆ 」

    転載もと 春日宮天皇 ・ 志貴皇子 Wikipedia 
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御陵近辺の茶畑も白衣を装って
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過ぎゆく時を たいせつに・・・
朝日新聞から転載記事
第35代・皇極天皇
こうぎょく てんのう
重祚
第37代・斉明天皇
さいめい てんのう
斉明天皇の孫 建王
たけるのみこ
越智崗上陵 合葬陵
おちのおかのえの みささぎ
第40代・天武天皇の妃 大田皇女
おおたこうじょ
越智崗上 墓
おちのおかのえの はか
奈良県高取町 2011.12.

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越智崗上陵 円墳の車木 ( くるまぎ )ケンノウ古墳
 
朝日新聞  アサヒ・コムから転載記事です
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斉明天皇の墓、ほぼ確実 牽牛子塚古墳は八角形墳

大化改新で知られる 中大兄皇子( なかのおおえのおうじ=天智天皇 ) の母、斉明( さいめい )天皇(594〜661)の  墓との説がある 奈良県明日香村の 牽牛子塚( けんごしづか )
古墳( 国史跡 )が、当時の天皇家に特有の 八角形墳であることが確認された。

 明日香村教育委員会が9日( 2010年9月9日 )、発表した。

 墳丘全面が白い切り石で飾られ、内部の石室も 巨大な柱状の切り石で囲われた
例のない 構造だったことも判明。

 斉明天皇は巨石による 土木工事を好んだとされ、被葬者が同天皇であることがほぼ
確実になった。

 明日香村教委は、飛鳥地方の古墳群と 藤原宮跡の世界遺産登録に向け、牽牛子塚古墳
を 昨年(1009)9月から調査。
 墳丘( 高さ約4.5m ) のすそは 上からみると八角形状に削られており、北西
のすそから 3辺分の石敷き( 長さ約14m)が見つかった。

 縦40〜60センチ、横30〜40僂痢ゞ迭ゴ笋寮擇蠕个 石畳のように3列( 幅約1m )に すき間なく並べられており、八角形になるように 途中で約135度の角度で折れ曲がっていた。

 墳丘は対辺の長さが約22mで3段構成だったと推定され、石敷きの外側に敷かれた
砂利部分を含めると約32メートルに及ぶという。
 三角柱状に削った白い切り石やその破片が数百個以上出土し、村教委は、これらの石
約7200個をピラミッド状に積み上げて斜面を飾っていたとみている。

 また、墳丘内の石室 ( 幅5m、奥行き3.5m、高さ2.5m ) の側面が
柱状の巨大な16の安山岩の切り石( 高さ約2.8m、幅1.2m、厚さ70 )で
囲まれていたことも確認された。
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墳丘の周囲に敷かれた切り石の並んだ形状から、八角形墳とわかった牽牛子塚古墳
=奈良県明日香村、朝日新聞 − 渡 − 写す
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過去の調査では、石室が二つの空間に仕切られていたことが判明している。

斉明天皇と娘の、間人皇女( はしひとのひめみこ )を 合葬したと記された日本書紀の記述と 合致するほか、漆と布を交互に塗り固めて作る 最高級の棺 「 夾紵棺(きょうちょかん) 」 の 破片、間人皇女と 同年代の女性とみられる 歯などが出土していた。

 これまでの発掘成果と合わせ、 「  一般の豪族を超越した、天皇家の権威を確立するという 意思を感じる。斉明天皇陵と考えるほかない  」 ( 白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館長 )など、専門家らの意見はほぼ一致している。

 一方、宮内庁は 同古墳の西に約2.5厠イ譴拭円墳の車木 ( くるまぎ )ケンノウ古墳 ( 奈良県高取町、直径約45、m ) を、 文献や伝承などから 斉明天皇陵に指定。
「 墓誌など明らかな証拠が出ない限り、指定は変えない 」 ( 福尾正彦・陵墓調査官 )と 
している。

近鉄飛鳥駅から徒歩15分。
問い合わせは村教委文化財課(0744・54・5600)へ。

アサヒ・コム    アサヒ・コム     2010年9月9日  22時43分 渡義人
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見学の長蛇の列  

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過ぎゆく時を たいせつに・・・
第35代・皇極天皇
こうぎょく てんのう
重祚
第37代・斉明天皇
さいめい てんのう
斉明天皇の孫 建王
たけるのみこ
越智崗上陵 合葬陵
おちのおかのえの みささぎ
第40代・天武天皇の妃 大田皇女
おおたこうじょ
越智崗上 墓
おちのおかのえの はか
奈良県高取町 2011.12.
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越智崗上陵

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第35代 ・ 皇極天皇( こうぎょくてんのう ) 重祚

第37代 ・ 斉明天皇 ( さいめい てんのう )

敏達天皇(30代)の子 ・ 押坂彦人大兄皇子の子 ・ 茅渟王 ( ちぬのおおきみ ) の第一王女。

母は 吉備姫王 ( きびひめのおおきみ ) という。

はじめ、高向王( 用明天皇・31代・の孫、父は不詳 )と結婚して、漢皇子を産んだ。

後に舒明天皇(29代)の皇后として、中大兄皇子( 天智天皇・38代 ) ・ 間人皇女(孝徳天皇・
36代の皇后 ) ・ 大海人皇子( 天武天皇・40 ) を産んだ。

舒明天皇(29代)の後、継嗣(あとつぎ) となる皇子が定まらなかったので、第35代・皇極天皇として即位した。

『 日本書紀 』 によれば、 天皇は古の道( いにしえみち ) に従って行政を行なった。

在位中は、 蘇我蝦夷 ( そが の えみし ) が大臣として重んじられ、その子・入鹿が自ら国政を執った。

在位4年目(645年)に中大兄皇子( 天智天皇・38代 )が 蘇我蝦夷・入鹿親子を滅ぼす( 乙巳の変・大化の改新 ) と、皇極天皇は同母弟の軽皇子( 後の36代孝徳天皇 )に皇位を譲った ( 史上初の譲位 )。

孝徳天皇(36代) により、皇祖母尊( すめみおやのみこと ) の 称号を奉られた。
 
孝徳天皇(36代)の死後、 655年に再び皇位に就いた ( 史上初の重祚 )。

政治の実権は、皇太子の中大兄皇子( 天智天皇・38代 )が執った。

各地の土木工事を推進、東北の蝦夷侵攻なども積極的に行った。

『 日本書紀 』 によれば、しばしば工事を起こすことを好んだため、労役の重さを見た人々が批判した。

有間皇子の変に際して、蘇我赤兄 は 天皇の3つの失政を挙げた。
 大いに倉を建てて民の財を積み集めたのが一、
 長く溝を掘って公糧を損費したのが二、
 船に石を載せて運び積んで丘にしたのが三である。

対外的には、朝鮮半島の諸国と使者を交換し、唐にも使者を遣わした。

蝦夷に対し、三度にわたって 阿倍比羅夫 ( あべ の ひらふ )を 海路の遠征に送った。

在位5(660)年、百済が唐と新羅によって滅ぼされた。

百済の滅亡と遺民の抗戦を知ると、人質として日本に滞在していた百済王子豊璋を
百済に送った。

百済を援けるため、難波に遷って武器と船舶を作らせ、更に瀬戸内海を西に渡り、筑紫の
朝倉宮 居て戦争に備えた。

遠征の軍が発する前に 当地で 亡くなった。

( 岩波の古典文学大系の頭注に、「 宮趾は福岡県朝倉郡朝倉町山田。一説に同郡宮野村
須川 」 とある。 )

朝倉の地での葬儀にあたって、入鹿の怨霊が山の端から葬列を眺めていたとか、陣営で
鬼火が舞ったとかの、伝説が残されている。

福岡県朝倉郡恵蘇宿( えそのしゅく )に行くと、「 御陵山 」 と呼ばれる古墳が斉明天皇の
墓として残されており、恵蘇宮八幡宮が これを護っている。
しかし、勿論発掘はされていないので確証はない。

「 橘広庭宮 」跡についても、今まで九州の学者を中心として何度か調査が行われたが、
未だ判明していない。

地元には推定地に 「 橘広庭宮跡 」 の 石碑が建っている。

皇極・斉明天皇の年譜は Wikipedia をご覧ください  転載もとWikipedia 
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過ぎゆく時を たいせつに・・・
第35代・皇極天皇
こうぎょく てんのう
重祚
第37代・斉明天皇
さいめい てんのう
斉明天皇の孫 建王
たけるのみこ
越智崗上陵 合葬陵
おちのおかのえの みささぎ
第40代・天武天皇の妃 大田皇女
おおたこうじょ
越智崗上 墓
おちのおかのえの はか
奈良県高取町 2011.1.
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越智崗上陵

この陵は  第37代・斉明天皇と  第38代天智天皇の  皇子

建王 ( たけるのみこ・ 夭逝 ) を  埋葬した 越智岡上陵 と

第40代・天智天皇の皇女 大田皇女 越智崗上墓 があります 
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人家の尽きた ところの 広場から 5分程度  石段を登ります
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登りの途中に   天智天皇の皇女  大田皇女越智崗上(おかのえ)墓 があります
天武天皇妃 大田皇女
おおたこうじょ
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大田皇女( おたのひめみこ )

生年不詳ですが、天智天皇6年(667)2月頃とされます

菟野讃良皇女(第40代天武天皇皇后・第41代持統天皇)の同母姉にあたります
父は第38代天智天皇で、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・遠智娘
同母妹に鸕野讚良皇女、同母弟に建皇子がいます
天武天皇の妃となり、大伯皇女、大津皇子を生むが、夫の即位を見ずに若くして亡くなりました
当時大伯皇女は7歳、大津皇子は5歳で、母方の祖父である第38代天智天皇に引き取られたようです
祖母の第37代斉明天皇、叔母の間人皇女とともに葬られました
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左手に見ながら上ると  「 第37代・斉明( 皇極 )天皇陵 」 が 見えてきます
第35代・皇極天皇 第37代・斉明天皇
斉明天皇の孫 建王と 合葬
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大田皇女 は  天智天皇 (38代)の 娘で  持統天皇 (41代) の 姉 

天武天皇(40代) の皇子  大津皇子 ( 663〜686 ) の母です 

斉明 ( 皇極 ) 天皇 は  孫の建王( たけるのみこ ) と  合葬されています
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建王 ( たけるのみこ ) は  斉明天皇4(658)年の5月  8歳で薨じられて  

身体に不自由なことも  あってか  特にかわいがっていて  

孫の死に  天皇は号泣したと  『 日本書記 』 に 見えるそうで

自分が死んだら 必ず  建王と  一緒に葬るようにと 命じ

孫を偲んで歌を 詠み  時々その歌を 口ずさんでは  泣いていたと

書かれている  そうです
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推古天皇( 第33代 )から  一代おいて( 舒明天皇・35 ) 即位した女帝である
第35代 ・ 皇極天皇( こうぎょくてんのう ) 重祚して
第37代 ・ 斉明天皇( さいめいてんのう )

■生没年 :  
推古天皇2(594)年 〜 斉明天皇7(661)年7月24日(8月24日)   (68?歳
■在位 :
皇極天皇 皇極天皇元(642)年1月15日(2月19日) 〜 皇極天皇4(645)年6月14日(7月12日)
斉明天皇  斉明天皇元(655)年1月3日(2月14日) 〜 斉明天皇7(661)年7月24日(8月24日)
飛鳥時代   
■別名 :
諱は   寶女王 ( たからのひめみこ、たからのおおきみ )
諱の表記については  宝皇女( たからのひめみこ )  という表記が一般化しているが
これは 後世の尊称によるものと思われる。
和風諡号 天豊財重日足姫天皇 ( あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと )
■皇居 :
板蓋宮 ( いたぶきのみや ) 7世紀中葉に皇極天皇が営んだ皇居。
一般には飛鳥板蓋宮と呼称される。 奈良県明日香村岡にある飛鳥京跡にあったと伝えられる。
■御父 :
敏達天皇の子 ・ 押坂彦人大兄皇子の子 ・ 茅渟王( ちぬのおおきみ )の 第一皇子
■御母 :
吉備姫王 ( きびひめのおおきみ )
はじめ高向王 ( 用明天皇の孫、父は不詳 ) と結婚して、漢皇子を産んだ。
後に舒明天皇の皇后として、中大兄皇子( 天智天皇・第38代 ) ・ 間人皇女( 孝徳天皇・第36代の
皇后 ) ・ 大海人皇子( 天武天皇・第40代 ) を産んだ。
■御陵名 :
越智崗上陵 ( おちのおかのえのみささぎ ) に 葬られたとされる
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正確には、「 斉明天皇・孝徳天皇皇后間人皇女越智崗上陵 ( おちおかのへのみささぎ ) ・
天智天皇皇子健王墓 」。
■陵形 :
宮内庁により 車木ケンノウ古墳( 円墳、直径約45メートル )が皇極 ・ 斉明天皇陵に指定
されている。
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御陵の遠景
但し、研究者の間では 明日香村の牽牛子塚古墳( けんごしづかこふん )が陵墓として
有力視されており、そのほか同村の岩屋山古墳、橿原市の小谷古墳も候補として
あげられている。
■所在地 :
奈良県高市郡高取町大字車木      
  JR和歌山線「 掖上 」駅から  
    TAXIもしくは  歩いて20分程度で御陵に着くが
    御陵への道標がなくて 解りにくい 

  越智丘陵の麓は 「 車木 」 という集落で
  もとは 「 車来 」 と書いたそうで伝承によると、地名の起源は
  「 斉明天皇の葬送霊車が来て止まる所 」 から来ている という
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過ぎゆく時を たいせつに・・・
第18代 反正天皇
はんぜいてんのう
百舌鳥耳原北陵
もずの みみはらのきたの みささぎ
堺市 2010.12.
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反正天皇 百舌鳥耳原北陵
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百舌鳥古墳群の 北端にあって

仁徳天皇陵履中天皇陵  に  比べると 小さい 前方後円墳です

江戸時代以前の 伝承では  「 にさんざい古墳 」

( 堺市百舌鳥西之町 ・ 墳丘長290m ・ 5世紀末築造 ) が 

反正天皇陵だった そうですが   

被葬者不明の 「 陵墓参考地 」 として 宮内庁が管理されて  

発掘もされず  確証はないようです


ここ 反正天皇百舌鳥耳原北陵は 堺市一の繁華街  南海電鉄高野線 ・ 堺東から
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すぐ近くの  閑静な街並みに 囲まれています


多くの古墳は 天皇家の墓という理由で  宮内庁の管轄地とされ

学術調査を含む  立ち入りは一切禁止
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ここ  田出井古墳も  ジャングルのように 樹木で覆われ 

古墳の原型は 見えません
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大仙古墳 ( 仁徳陵 ) と 同じく  前方後円墳で  

樹木の下には  古墳が眠っている でしょう

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第18代 ・ 反正天皇( はんぜいてんのう )

■生没年 :  
仁徳天皇24(336)年 ? 〜 反正天皇5(410)年1月23日(2月12日)( 60歳
産宮神社 ( 兵庫県南あわじ市松帆 )
仁徳天皇が遊猟した折にお供された皇后磐之媛が、この地で反正天皇を出産さ、清水の湧く
瑞井( 産湯池 )のお水を 産湯としたということが 『 古事記 』 『 日本書紀 』  に記されている。
淡路島は、大和朝廷の御糧地として深い関わりがあり、この地域には鳥獣が多く棲んだため
大和朝廷の狩猟地とされて、淡路宮が置かれていた。
■在位 :
反正天皇元(406)年1月2日(2月3日) 〜  反正天皇5(410)年1月23日(2月12日) 古墳時代
■別名 :
多遅比瑞歯別尊( たじひのみずはわけのみこと ) ・ 水歯別命   『 古事記 』
『 宋書 』 ・ 『 梁書 』 に記される「 倭の五王 」 中の 倭王珍(彌) である 可能性が高い。
■皇后・ 皇妃・ 皇子女 :
     ◎ 皇夫人 ・ 津野媛 ( つのひめ。大宅臣の祖木事の娘)
         香火姫皇女 ( かいひめのひめみこ、甲斐郎女)
         円皇女 ( つぶらのひめみこ )
     ◎ 妃 ・ 弟媛 ( おとひめ。津野媛の妹)
         財皇女 ( たからのひめみこ ) 『 古事記 』 に 財王で男性
         高部皇子 ( たかべのみこ )  『 古事記 』 に 多訶弁郎女で女性 
■皇居 :
丹比柴籬宮 ( たじひのしばかきのみや ・
       大阪府松原市上田七丁目の柴籬神社が伝承地 )
■御父 :
仁徳天皇 ( 第16代 )の 第三皇子
履中天皇 ( 第17代 )の 同母弟  允恭天皇( 第19代 )の 同母兄に当たる 
■御母 :
磐之媛命  ( いわのひめのみこと )   葛城襲津彦の娘
■御陵名 :
百舌鳥耳原北陵 ( もずのみみはらのきたのみささぎ ) に葬られた
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田出井山古墳 ( 前方後円墳・全長148m ・ 大阪府堺市北三国ヶ丘町 ) に比定されている
■陵形 :
墳墓は 現在一重の堀を有しているが、完成当時二重堀であった事が 
発掘調査で判明している。
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前方後円墳 年代 5世紀後半
全長 148m  後円部径 76m   後円部高 14m  前方部幅 110m  前方部高  15m
■所在地 :
大阪府堺市北三国ヶ丘町二丁   
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↑ この駅から約10分です
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第18代 ・ 反正天皇( はんぜいてんのう )  
淡路宮(不詳、淡路島?)で生まれ、容姿美麗であった。
生まれながらにして、きれいな歯並であったので、瑞歯別 の名があるという。

また 産湯の井戸の中に、多遅の花があったことから「 多遅比瑞歯別命 」 と命名される。

父仁徳天皇(16代)の崩後、叛乱を起こした同母兄の住吉仲皇子( すみのえのなかつみこ )を誅殺した。

履中天皇2(401)年、立太子。
同6(405)年、履中天皇(第17代)が崩御、 翌年(405)年1月に即位。

兄弟継承は、この代から始まる。 

10月に 河内丹比( 現在の大阪・松原市上田七丁目 ?) を 都とする。

天下太平であり、何事もなく在位5年。

反正天皇5(410)年1月、崩御。
  『 古事記 』 『 水鏡 』 は 60歳。
  『 古事記 』 に従えば、崩御した 「 丁丑年七月 」 は 西暦437年に相当し、
   生年は逆算して、兄履中天皇より 9歳年下の 西暦378年に相当するが、 
   定かではない。
    転載もと 反正天皇 Wikipedia  
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過ぎゆく時を たいせつに・・・

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