羽旨マボルのブログ

強迫神経障碍者です。アマチュアのシンガーソングライターです。

実家住まいする若者たち

実家住まいする若者たち

昭和の時代は、「お父さん」だとか「お母さん」だとかの「役割」に依存していた時代なのかなぁなんて思った。
つまり、役割にこそアイデンティティを置いていた。
そこしか置くとこがなかった。
そこにこそ置くことを「時代」というものが迫った。
そういう時代だったのかなぁと。

なんでそんなことを思ったのかと言えば、対象として平成という時代を考えたから。
平成の時代において、実家暮らしの若者は多い。
わざわざ実家から出て独り暮らしをする人の方が珍しがられるケースさえあるのだという話を聞いて、そこまで時代は変わったのかと驚いた。

もしも神様が居るとして、その神様が「時代」を通してわれわれ人間の姿形を持った魂達にどんなメッセージを送っているのかと考えた。
どんなことを魂達にさせたがっているのか。
『介護』というキーワードも投入して考えてみたら、見えてきた。
―神様は、我々に「家族というものについてもう少し本腰を据えて考えてみなさい」と言っているのではないだろうか。

いろいろなことが社会化していった平成という時代。
介護は本来的には、家族が行うものとされてきたのが昭和以前の時代のやり方だったよう。
それが、「看護師」や「介護者」がそれで金をもらっている職業として興(おき)てきた。
高齢者に対する介護(自分の親の介護)が家庭の中から、家庭の外側へ移行していった。
ただ、国は現在(平成30年)の時点では介護を家庭の中へ戻そうとしたりしているが。

医療技術や新しい薬が開発されてゆき、人間の寿命が伸びた。
延びてしまったとも言える。
「私の役割は終わったわ…!それではさようなら!」と感動と涙のグッバイを言っても…
そっからが長い。
寿命が伸ばされてしまったがゆえに、自分に与えられた役割がもうないのにも関わらず
命だけは続くという期間が生まれてしまった。

自分にとっての「お母さん」は、実は「お母さん」という人物ではない。
「〇〇〇〇」という一人の人物である。
自分にとっての「お父さん」は、実は「お父さん」という名前の人物ではない。
「おやじ」という名前を持つ生物でもない。
おふくろだとかおやじだとか、母とか父とか、ママとかパパというのは
名前ではなくて役割名である。
役職名である。

―神様は、「役割名じゃなくて、1人の人としての名前としての両親というものを考えなさい」と言っているのではないか?と僕は感じた。

母、父、娘、息子だとかそういう役割でベタベタとくっついてしまっていては
或る時期はうまく行っていたとしても
とある時期から先はうまく行かなくなってしまうよ…というハードルがこの現代では設けられている。
これまでの時代においてももちろんそのハードルはあっただろうけれども。
医療技術と新しい薬などによって寿命が延びたこの時代においてそのハードルは
今までよりも多く現れているのではかろうか。
そして今までの時代よりもより、高くなっているのではなかろうか。


若者が実家住まいをしている―その行動の心の奥底に何があるだろうか。
生物として学者としての自分が何かに備えていると言えなかろうか。
未来に訪れる、自分の両親の介護をするという場面が現れたときに
娘としての自分が息子としての自分がより自分の両親のことを
役割名だけじゃなくて一人の個人として知っていれば、
遠すぎず近すぎない適切な距離を取れるはず。
もしくは遠すぎくても良い関係性を、近すぎても良い関係性を築くという
特殊技を「その時」が訪れる前の「まだ余裕のある時期」に習得できるはず。

適切な距離を置いて接することができたり、適切ではない距離だとしても
特殊技を使えたりすれば
自分の両親に介護が必要となった「その時」により円滑に介護を進めることができるはず。
そういう生き物としての戦略、学者としての読みを
若者はしているのではなかろうか。

そして国的な目線で言うならば
そうやって親との優れた関係性を結んでおくことは、ひいては
高齢者介護というものを、もしかするともしかすると社会ではなくて家庭内により留めることができることに繋がることとイコールなのかもしれない。
(社会でするのか家庭でするのかどちらがいいことでどちらがわるいことかわからない。)

これからの時代は、より働き手が少なくて
より高齢者の多い時代になっていってしまう。
1人の働き手で何人もの高齢者(親世代達)を支えなくてはならなくなったそのときに
今の若者は無意識に備えているのではなかろうか。

そんなことを僕は考えた。

自分の両親が介護が必要となるときを迎えるその前に
子供として自分が実家に住まいつづけることで「何か」を得られる可能性もあるという見方だ。
実家住まいを続けることは、デメリットばかりではないかもしれないという見方。
親側や子供側にお互いに縛りが多い中で苦しみながら生み出す「やり方」「あり方」は
距離が近すぎるままでもうまくやってゆけるという特殊な技であるはずだ。

距離を近くし続けることで得られる「技」もあるもの。
そのはず。

逆に、メリットばかりではないというのもやはり同じく真実であるはず。
実家住まいをすることで生まれる、縛りや苦しみやフラストレーションなどは
それはそのまま悪い何かを生み出すケースもあるはず。
実家から離れたからこそ、親との新しい距離の取り方、「やり方」「あり方」を
学べるもののはず。
実家を離れたからこそ生まれる「技」もあるもの。
そのはず。

昭和までの時代よりも、より一層これからの時代では
「介護が必要な期間」が伸びているはず。
その期間をどのように過ごせばいいのかについては、思っている以上に難航することが
多いのではなかろうか。
これまで隠れていたことが出てくる。
これまでとは違った関係性を新しく結ばなくてはならない。

「その時」が来る前のまだ余裕が多めの時期に
何が隠れているのか(役割としての親ではなくて個人としてのその人)を先んじて見抜いておいたり
これまでとは違った関係性を先んじて作っておけば
寿命から引き算することの健康寿命という「難しい期間の命」をより和やかにより楽しくよりより穏やかにより充実したものにできるのではなかろうか。
職業としての介護者も家族介護者もにとっても被介護者にとっても。

介護を考える上では、「どのように頼らないか」「どのように頼るか」が重要であるように感じる。
離れることで何かが得られるはず。
離れないことで何かが得られるはず。
離れることでも、離れないことでも、その両方ともで
「個人としての親」(その人物の物語と心のありよう)を見抜き
「個人としての親との新しい関係性」を作ることができるはず。
(大人になったあとで)離れてみることも、
(大人になったあとで)離れないでみることも、重要なはずだ。

昭和までの時代では、一元的に
「実家から離れないこと」に対してデメリットばかりが目立ってきたようであるが。
平成の時代を経て、その次の元号の時代へ移行してゆく中で
「実家から離れないこと」には、デメリットだけではなく「まだ未知であるメリット」がある可能性が出てきたように僕には感じられる。


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