はむねまぼるのブログ

作詞作曲をしています。介護のことも書きます。強迫性障碍のことも。

化物語(著:羽旨まぼる)

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第実話



序章

 波音という怪異と私は今対峙しているのかもしれない。
あともう一つ、器または有限と闘っているのかもしれない。
化物語を読んでそう思った。
考えた。
世間一般の認識では娯楽小説とされるその小説のシリーズの一つ「終物語」(下)を読んでそう思った。
「仕事」と「遊び」を区切らないという思想を持っているわたしは、
或は無駄なことなんて1つも無いという思想を持っているわたしは、このシリーズを読み始めた頃から
この小説を非実用的な読み物として馬鹿にしていた訳では無い。
しかし、ここまでこの小説を現実味を帯びた実用書として意識したのは今回が始めてだった。
 様々なことに対して、区切りを設けないように心掛けている私が珍しくも
「学生」と「社会人」を区切っていたからこそ生まれた驚きだと言える。
社会人になってからこの小説を読んで、この小説に助けられることを私は心のどこかで信じていなかった。
フィクションはフィクション、現実は現実だと区切っていた。
オトナはオトナ、コドモはコドモと区切っていた。
今回の物語は、区切りに関する物語と言える。

 臥煙遠江が自らを自動的に戒める自分、他の言い方をすれば有意識では制御不能の無意識、表層意識では制御不能できない深層意識を怪異として決定付けた。
それを読んで私はその架空の物語を酷くリアルに感じた。
現実で実際に自分の身に起きた現象を想起させたからだった。


私が行き遭った怪異、というよりも私が生み出した怪異は蛙の怪異だった。
「家内無い無い蛙」。
内側と外側を無くす怪異。
家の外も、家の内も無くしてしまう怪異。
内も外も無いならば、出ることも帰ることもできない。
故に私は家に帰れなくなった。
自転車で5分程度の中学校から自宅まで、帰れなくなった。
私が、もっと自分に対して緩かったならば起こりえなかった。
臥煙遠江や羽川翼が自ら、自らを攻撃するタイプの怪異を生み出したのといやはやまったく同じ様に、私も自らを攻撃するタイプの怪異を生み出した。
そしてその行為は、生き物としての定義を一つ失うことにもなっていた。

ここからここまでが、己という存在であり。
そこから手前即ち内側が自分で、そこから向こう側が外側つまり『自分ではない存在』もしくは
『自分ではない非存在』だとする。
それが、生物が自分と言う個体を守るときに必要になってくる概念だ。
それを放棄しているのが私で、それをいつまでも放棄したがるのが私だ。
中学生当時も現在もその点は変わっていない。
変わりたいと…変わってみたいと…変わるべきだと心の隅で考え感じたが
それでも止められなかった。
内側と外側の区別を付けないこと、即ち味方と敵を作らないことはきもちがいいから。
平和を作れるから。
平和を作る存在はヒーローだから。
私はかつても今もヒーローに成りたがっている。
成りたがっていると認めたくないけれども、成りたがっている。
どうしようもなく、途切れることなく願い続けている。
 必ずしも自分がヒーローでなくても、誰かしらがなってくれればいいんだと
名誉は自分の元に来なくてもいいんだと、そういう優しさを示すことで、
『そういう優しいヒーロー』に成ることに成功しているのだろうから。
やはり常にヒーローに成りたがっていると言える。
言えてしまう。
実はほんとうに、無欲になってつまり自己中心になって不特定多数から英雄視されるという快感なんて要らない
と感じている瞬間が有るかもしれない。
でも、外側から見たときに
「名誉は自分の元に来なくてもいいんだ」という態度が賭け値無しで本当にその意味なのか、
それともそう言い切ることができる者=ヒーローに成れていると自己陶酔に浸れるから言っているという裏が有っての態度なのか、それを見極めることは周りの人からしたら不可能だろう。

 しかしそういう、自分自身の中のヒーロー願望の有無に関してどうのこうのという捉え方をしないでみるという見方も有る。
相手と自分の間に区切りを付けない行為は、ときには福祉において必要であるのかもしれない。
否、それさえ違うのかもしれない。
自分は自分相手は相手。
違いを理解した上で福祉を行う方が、真の福祉と言えるのかもしれない。
区切りを付けた上での福祉か、区切りを付けない上での福祉か。
その両方を場面場面で使い分けていく必要が有るのか。
今のところの私が持つ正解は、「その両方を場面場面で使い分けていく必要が有る」である。

 閑話休題。
波音という怪異と私は今対峙しているのかもしれない。
あともう一つ、器または有限と闘っているのかもしれない。
それらどちらも、わたしが行き遭うらしいと言えば行き遭うらしいと言える。
わたしらしいと言える。
 どちらの話からしよう。
まずは、音に関する怪異について。
波音について。



まさとしサウンド

001

 こちらの話は簡単だ。
わたしが就職してからの話。
就職は地元でしたのだが、職場には勿論職員が居る。
自分1人が職員で、他に会うのは全員客だという職場も存在するだろう。
しかし私の場合は御多分に漏れず、自分以外にも職員が居る職場だった。
 「仕事で大変なのは、仕事じゃない。人間関係だ。仕事はただやればいいから。」そう言い切ったのは母だった。
仕事に人間は付き物だ、そして人間には心が付き物だ、そして心には怪異が付き物だ。
現実世界の仕事場で起きている事柄に、怪異が関係してくるだなんて思っていなかった。
否、思っていたが意識のほんの1%程度だった。
薄皮程度だった。

 そして 「海に近い所に住んでいる人の口調はキツイよ」と教えてくれたのも、また母だった。
職場には色々な人が居る。
口調が優しい人も居るし、キツイ人も居る。
わたしは自分で思うよりも「キツイ口調の人に弱い人」なのだと就職して判った。

 言っている内容が道理に適っていようがいなかろうが、正しかろうが間違いだろうが、
内容が思いやりに満ちていようが満ちていなかろうが、優しかろうが厳しかろうが…。
その口調の方に、反射的に拒絶してしまう。
恐怖を感じてしまう。
違和を感じてしまう。
戦争を連想してしまう。
殺し合いを連想してしまう。
生き死にを連想してしまう。
つまり身を守ろうとしてしまう。
関わらない様にしようとしてしまう。
挨拶をしない様にしてしまう。
挨拶を欠いてしまう。

002

 職場で、口調がキツイ人に挨拶欠くことが多い。
その人を怖がらない様にするにはどうすればいいのか。
口調がキツイ彼女を、赦すにはどうすればいいのか。
さばさばしている、くっきりはっきりしている彼女を赦すにはどうすればいいのか。
 幾つか方法は有る。
その1つとして、「海の近くの生まれ育ちなのだろう」とすることだ。
母がその解決方法を教えてくれたのだであった。
そういうものなのだという「知識」を与えてくれた。
口調がキツイその彼女の、人格や性格を否定するのではなく、知識に落としどころを作ること。

 問題を目の当たりにしたときに、その問題が起きた原因を探れるか。
探り当てたその原因の原因は何か。
原因の原因の原因は…。
原因の原因の原因の原因は…。
背後に背後にという風に、遡っていくことができるか否か。
それが短絡的か、論理的かの違いだ。
頭がイイか頭が悪いかの違いだ。
 そうやって背後に背後にと遡って行く中で、どの原因、言い換えればどの点ならば変えられるのかを探し出し
その変えられる点を変える。
または、どこが変えられないのかを認識しその点に対して慈しみと許しを与える。
それが頭のイイ問題の解決方法。
 問題を解決するときに、どこを落としどころとするか。
原因と結果の流れを意識し、そしてまた結果とは次の何かの結果の原因と成り得ると意識すること。
影響し合い絡み合い連鎖している、あの世も含めたこの世の物体や精神や本当や嘘や言葉や行動の数数。
その流れの中のどこならば、変化可能か。
もしくは、どこが変化不可能なのか。
 今回の問題、即ち私が口調のキツイ人に恐怖を感じてしまうという問題と、どうして穏やかで優しい口調を常にできないのかという怒りとの2つだ。
恐怖と怒り。
恐怖は消極的な問題を発生させる。
怒りは積極的な問題を発生させる。
言い換えれば、
恐怖は守備的な問題を発生させ
怒りは攻撃的な問題を発生させる。
 既に、怒りの問題は解決している。
こちらの話は「脅迫の手紙事件」として別に文章化されているので、割愛。
今回の問題は「恐怖」の方だ。
 キツイ口調の人に対する、怒りの問題は解決できていても、恐怖の問題はまだ解決されていなかった。
それに今回気付いた。
そして恐怖の問題の落としどころも、母が提示してくれた様に「海の近くに住む人は口が悪くなりがち」という知識にすることができる。
 短絡的にその人の人格が悪いから、とっさに口調がきつくなるのだとするではなくて。
何が彼女をそうさせたのかという思想を持つ。
海がさせたのだ。
波がさせたのだ。
波の雑音がさせたのだ。

003

 船乗りが船乗り同士でコミュニケーションを取るときに、大声を出さなければならない。
波の音が煩いから、小さい声では掻き消されてしまう。
また、長ったらしく喋っても居れらない。
聴き取り難いから、短い言葉で喋る必要が有る。
 船乗りは、大声で短い喋り方をする癖が付く。
職業病だ。
これは1つの病だとも言える。
 その船乗りと関わる人も自然と、大声で短い喋り方をする。
そして、注目すべきなのは「悪意が無い」ということ。
また「自然に」身に付いたからつまり「無意識」だということ。
悪意無く、無意識程に、扱いが難しい事柄はそうそう無い。
 そこに悪意が有れば単純に敵対すればいい。
敵という存在には本気で攻撃してしまうという、自分の―生物の特徴と組み合わせて考えれば敵に攻撃しないで済む。
敵だと明確に認定できれば。
悪意が有れば明確に敵だと認定できる。
でも、悪意が無い人を敵には認定できない。
敵と断定できない限りは、こちらも自分に対して、「未来にしてしまうかもしれない相手にする攻撃意識の認定」もし難いし、意識の認定ができなかったらもちろんその抑制もできない。

  無意識にやっている人は、指摘されるまでその行為を意識できない。
無意識にやっている人の場合には、行為者に思い当たりが無いので周りの人が指摘して行為者が反省できたところで自分自身を抑制しにくい。
無意識にその行為を行っている人に指摘をせずに、どの様な罰を与えたところで、罰を受けさせられた側も訳がわからない。
反省のしようも無いし、変えようも無い。
無意識の人にはまず、指摘して意識させて、その点を変える様に願い出る必要が有る。

 口調がキツイ人に対して、それだけで無条件に恐怖を感じてしまい、挨拶をできなくなる。
それは問題である。
なんなら、私が私の意志で問題と「する」。

 もしかするとこの問題は始まりの全てが勘違いかもしれない。
というよりも、勘違いだろう。
その人が「挨拶もしないで、業務日誌を見ている」という言葉が聞こえたのだ。
聞こえてしまったのだ。
 自分に対する、「大塚くんが挨拶をしない」という悪口・噂話・愚痴が聞こえたのだ。
違う、「聞こえた」と断定ができない。
聞こえた気がする。
 でも、もしもそれが幻聴だとしても事実だとしてもどちらにしても、私は自分がその人に対して挨拶をできないという現在の現象を
問題だと「する」。

 実を言うと個人的には、挨拶をするのもされるのも嫌いだ。
挨拶を丁寧にしたのに、恋が叶わなかった過去が有るから、挨拶をすれば関係が良くなるということを信じられない。
わたしは本気で好きになった人との恋が叶わなかったことに怒り、絶望している。
挨拶をすれば人間関係は上手くいくと習ったのに、人間関係の始まりだと習ったのに大切だと習ったのに、駄目じゃないか!と。
わたしは「教え」に対して、怒り、絶望し、拒絶する様になった。
でも、細かく考えれば「挨拶をしさえすれば恋は100%実る」とは教わったことは無いのである。
つまり、挨拶は人間関係の始まりではあるが。
挨拶だけで終わってしまうことは有るし。
恋が実る為の初期段階では有っても、最終段階や決定段階では無いということだ。
だとしても恋が実らなかった怒りはどこかしらにぶつけなくては気が済まない。
挨拶を嫌うということで、わたしは未だに6年前の恋が実らなかったストレスを発散している。

 しかし、そこは割り切る。
統計を信じ、統計に頼る。
「」という統計的事実を信じ、頼る。
一旦、信じ切る。
(明確に「わたしは挨拶されるのが嫌いなのでしないでくれ」と言った方には別だ。)

 多くの人は挨拶をされるのが好き(だとした)から、わたしは恐怖を問題視する。
もちろん、介護は1人1人に合わせるのだが。
口調がキツイ人に対して恐怖を感じてしまうという現象を問題視し、それを解決しようと試みる。
その解決方法として、「人格を見ない」「人格を否定しない」。
これまで私がしてきた様に、人の背後にある過去・心・怪異・知識を見詰める。
その人を見ているようで、心の焦点はその背後に合わせる。
今回も同じ様にそうすることで、この問題は解決できる。

 その人が性格が悪いとする、即ち人を見るのではなく。
人の背後を見る。
原因を後ろ後ろに辿っていく。
海の近くに住んでいるから。
船乗りと話しながら育ったから。
波は煩いから。
そこだ。
 母が提示した知識は、1つ後ろ。
「海の近くに住んでいるから」だった
私が今回辿り着いたのは、3つ後ろ。
「波は煩いから」にすると上手く行く。

 1つ背後で、怒りには対処できても。
3つ背後でなければ、恐怖は消えなかった。
1つ前は状況のせいにすること。
2つ前は環境のせいにすること。
3つ前は物のせいにすること。
状況も環境も人に関連するが、物は人とは違うものだ。
波が音を立ててしまうのは仕方の無いことだ。

 結局私が行き遭っているのは、「口の悪いおばさん」ではない。
私が行き遭い、闘っているのは「音」だ、「雑音」だ、「波の雑音」だ。
わたしは職場で、波の雑音の怪異に行き遭っているのである!
そう考えると、気が楽になる。
恐怖が消える。
不安が失せる。
緊張を感じない。
嫌悪しない。
人が原因としないで、物が原因だとするならば怒らないで済む。
 私が目にしているのは、口調のキツイ恐いおばさんでは無い。
私が見ているのは、海の波である。
私が怒り、恐怖しているのは波の音そのものである。
その音そのものである。
「ザパーンッ」である。

 「ザパーンッ」という怪異に出遭ったことは、その怪異が気になるのは
音に関して敏感な私ならではと言える。
こじつけかもしれない。
でも運命とも言えるかもしれない。
ピアノを弾くのが好きで、作曲が生きている目的の主たる1つであるわたし。
目で得る情報よりも、耳で得る情報を重要視するわたし。
だからこそ、雑音は嫌いだ。
聴きたい音を聴けないというのが嫌いだ。
私が嫌っているのは、「口調のキツイおばさん」ではなくて雑音である。
起きている現象を辿れば、単に「わたしは煩い波の音が嫌い」ということに昇華される。
たしかに嫌いである。
煩い波の音。
思考の流れを断ち切る程に煩い音。
思考が好きで好きで仕方無いわたしにとっては天敵である。






まさとしライン


001

 はてさて、次は怪異その2「器」について。
もしくは「線」について。
こちらの方が込み入っている。
 器には限界が有る。
ここまでは溜められるが、ここからは溜められない。
限界を越えれば零れる。
―というのも少し嘘である。
水ならば表面張力が有るから、限界をちょっと超えてから暫くは持ち堪えられる。
その後零れる。
零れずに器の中に保つことができる量は有限である。
 人間に当て嵌めて考えてみれば。
ここまではできるが、ここからはできないという体力的・気力的・身体的・脳力的な限界が有る。
限界を越えれば壊れる。
―というのも少し嘘である。
限界を超えてから暫くは、持ち堪えられる。
…○○できる○○られるという言葉にはポジティブなイメージが伴うが…この場合の「持ち堪えられる」は
ネガティブなイメージを得た方が良いだろうこういう風に。
「持ち堪えられてしまう」。
その後、壊れる…もしくは死ぬ。
1人の人間が壊れずに、死なずに抱え込める仕事の量(体力的圧力・時間的圧力)やストレス(精神的圧力)は決まってい
る。
もちろん、器の大きい小さいは有るが、大きいにしても小さいにしても、等しく限界は有る。

 私自身が憑かれている訳では無いが、行き遭っている怪異が「器」なのだろう。
「有限」なのだろう。
言い換えれば、ここからこっちは自分でここから向こうは他人という区切りに関する怪異。
「区切り線」。
「グレーゾーン」。
「聖域」。
 ドッチボールをするときに、白い石灰で引かれた3cm程の線のちょうどその上は外側と見做すのか内側と見做すのか
について考えたことが有る。
そういう問題は、「以上」「以下」の「以」という漢字即ち概念で解決が可能だ。
○以上×以上と言う場合には〇や×は含める。
○未満は○は含めない。
そういうルールを…線引きを作ることで解決が可能だ。
 はたまたこういう話はどうだろう。
画家の中には、線を用いずに絵を描く人も居る。
現実世界には輪郭は存在しても、輪郭線は無いだろう。
現実世界をできるかぎり忠実に表現するならば線は書かない方が誠意有る書き方だと言えそうだ。
 或は、戸の桟のこと。
戸の桟は内側と外側を区切る聖域だから踏んではいけないというマナーが存在する。
それを知ったのは中学3年生で且つ高校受験生だった頃だ。
高校受験の面接試験において、教室内に這入るときに踏まずに跨ぐ様に注意深くなっていたことを未だに覚えている。
 つまりわたしは線という存在について考えたことが有る。
なんども、なんども。
幼い頃から青年期に差し掛かっても考えていた。
その不思議な世界についてそこそこの納得は得てきた。
でも、完全に「区切り」「器」「有限」について完全な整理術を身に付けている訳では、まだない。


002

 口調がキツイ人々はたまたま60歳70歳代で女性だ。
「介護の現場で大変なのは、入居者(お客様)とのコミュニケーションではなくて
60歳代のおばちゃん介護士からのパワハラである」
とそういうコメントをインターネット上で見掛けた。
私もその意見になんとなく感覚的に賛同した。
 たしかに60歳代辺りで女性の職員が、他の職員に威圧的に助言をすることが多いからだ。
そこに明確な悪意が有るならば、まだ理解ができるが。
「お客様の為」「会社の為」「命の為」「怪我しない為」「仕事だから」そういう、疑われ難い『正義』と、
単なる感情を基に発言しているから恐ろしい。
 「仕事の大変さもわからないだろうに、ごちゃごちゃ言われたくない」
とそういうコメントをインターネット上で見掛けた。
わたしはその意見には理解を示すが、共感はできない。
第三者にごちゃごちゃと意見してもらうことの、有益さは仕事場で働いていて身に沁みて感じているからだ。
当事者で無い者にも口を出す権利は有る。
 もしも60歳代辺りの玄人のおばちゃん介護士が、威圧的であるならば。
パワハラをしてくるならば。
それはどうしてなのだろうか。
わたしの職場には、幸いに非道なまでに、酷く威圧的であったりパワハラをする程までの人は居ないのだが。
それに近いことは行われている。
私にはしないが、他の人にはしている。
 されているその様を私は耳にし、目撃している。
されている方は、平気なのである。
少なくとも表層意識は平気だとしている。
深層意識までストレスが浸透してはいないようである。
深層意識まで浸みこませないことで、自分の心を守っている。
精神衛生を保っている。
私が職場で最も尊敬している人は、有能で経験豊富な職員ではない。
耐えているその人である。
 私は助けないべきなのだ。
本人がそれで平気なのだから。
本人は本人の独自のやり方で自分を守っているのだから。
わたしが英雄気取りで首を突っ込むべきではない。
そのことは「脅迫の手紙事件」では思い知った。
 だから、わたしはその人を助けようとしているのではない。
助けようとしてはイケない。
私が助けようとしているのは飽く迄も自分自身だ。
自分自身だけだ。
 不用意に他人を助けてはいけない。
相手が助けを求めていないのに、助けてはイケない。
相手をちゃんと理解していない内に助けてはイケない。
 相手の問題は相手の問題で、自分の問題は自分の問題だ。
誰かを救うことや、助けることは善い事であるとされ、正義であるとされ、綺麗であるとされるが。
自分が善い人になりたいとか、正義の人になりたいとか、綺麗でいたいとか、自分が他人から好かれたいという理由で
他人を救ったり助けたりするとき。
そこにはズレが生じ易い。
相手が喜ばない救いや助けを与えてしまう。
 自分と他人という区別をしなければならない。
生物である限り。
自分と他人の線引きをして、他人も自分も両方が幸せになる様に…その人にとっての幸せと、一般的なる幸せの
両方を与えなければならない。

003

 「脅迫の手紙事件」では、虐められそうな人に対して「コラッ」と言った人に対して私が内心でブチキレてしまって
絶交の内容と、脅迫の内容の置き手紙をその人に対して送ってしまった事件だ。
結局は私が守ろうとした虐められそうな人は、私が思うよりも心の強い人だったから、守る必要が無かった。
私がその人の本質を見抜けなかったことが原因だった。
 この職場内で誰かが自殺する様なことがあったときに、私は後悔してしまう。
どうして助けてあげられなかったのだろうかと。
だから虐めや虐めめいたことが起きたときに、虐められた方を短期的な意味で守りたい。
虐めた方に対しては長期的な意味で守る必要が有る。
 私はこれまでに、色々と弱い人を目撃してきたけれども。
中には強い人も居る。
また、弱い人も歳を取るにつれて強くなることが有る。
私が見てきた弱い人というのは、小学生や中学生の頃の彼ら彼女らである。
或る意味身体的にも精神的にも弱くて当然である。
そのときの記憶を元に、大人になった今思考と行動をするのは的外れでもある。
しかし心の中には子供も大人も、内なるこどもを持っているから大人ならば大丈夫だろうと
大人ならば誰でも見過ごすのはそれはそれで的外れである。
私が意識すべきであった点は、結局は人は歳を取るにつれて変化しえるということ。
そして、自分が弱くても相手は強い可能性が有るということ。
弱い人も強い人も居るということ。
弱い人と強い人の間には線が有るのだということ。
線の右側と左側では、対処の仕方は全くの別になってしまうということ。
 この場合は大は小を兼ね『ない』ということ。
弱い人用の対策が強い人用の対策を兼ねることは無いということ。
そういうことだと思う。
的外れな対策を講じた場合には、講じたしまったからこその悪い事が生じるということ。

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