あたらしい用語いっぱい、強迫性障碍に関する新しい知識を生み出してしまって世の中の人には申し訳ないと思う。
でも、とある当事者である僕の内側から出てくる強迫性障碍に関する、新しい用語や知識は
少なくとも僕にとっては必要なもの。 以前の僕にとって欲しかった言葉。 だから記しておく。
過去の自分に向けて。 これがもしも同じように強迫性障碍で悩む人の役に立つのならば、これ以上嬉しいことはない。 範囲指定と反応調査。
最近はこの言葉を多く使っている。 あと、強迫観念に対して、強迫観念で打ち消すというやり方は、最近の僕は肯定派に回っている。 強迫観念に真逆の強迫観念で打ち消すというやり方は、結局は「強迫観念のある状態」からは出ていないから
ナンセンスだという見方がある。 僕自身そう思ってきたが…。 いいんでないのか?と最近は思っている。 血で血を洗うのは、争いの循環から出ることになっていない。
っていうはあるが。 しかし 『範囲指定』! 強迫観念のことに関しては、強迫観念で強迫観念を洗うのは…OKだと今のぼくは強く感じている。
こんな風に「範囲指定」は、強迫性障碍を持ちながら、思考しながら生きていく人にとって
頼もしい仲間となってくれる言葉になりえると僕は感じている。 ゲシュタルト崩壊しやすい強迫性障碍とは、いったいなんなのか。
それについて最近思うことがある。 僕は個人的に、強迫性障碍とは
・見当を立てる能力の欠損 だという仮説を立ててきた。 それに加えたい。
強迫性障碍とは ・ゲシュタルト崩壊 ・範囲指定障碍 ・見当を立てる能力の欠損 ・ゲシュタルト崩壊 ・範囲指定障碍 もどれもすべて同じことを言っている(笑)
強迫性障碍者がしばしば、数字というもの、1が1であるということそのこと自体を上手く理解できない というのがあるらしい。 (僕自身、心の奥底でたしかにそれは思ってきていた。) ふつうの人だったら、こっからここまでを区切ってそれを「1」と数えるというのができる。 それはつまり
だいたい(見当を立てる能力)こっからここまでが○○だと決めつける力(範囲指定能力)であり、 その判断を保つわけだ(ゲシュタルト崩壊しない力)。 強迫性障碍者というのはつまるところ注意深く観察してよくよく考えてよくよく考えている。
ふつうの人よりもその力が高いわけだ。 言葉が何から何までを示しているのかだとか細かい意味合い
ルールの細かい意味合いだとか ルールの抜け穴とか矛盾だとかを見つけるのも上手だと思われる。 そういった能力は結局は、ふつうよりも優れているというわけだから 『治してはならない』。 厳密さ。
緻密さ。 矛盾に気付ける。 抜け穴を見つけられる。 ルールを順守できる(大幅に無視したりせずに、ルールの細かい意味合いを見抜けるからこそ、どこならば肩の力を抜けるのかもわかる)。 そういった能力を、強迫性障碍者はふつうの人よりも優れて持っている。
ふつうの人はそれらの部分に関して 「考えすぎるな」「考えない練習をしよう」「もっと楽に考えて」「気が小さいな」「ビビりだな」「ヒヨってんじゃねえよ」などと言ってくる。 しかし彼らの『ふつうの人』の言うことを聞いてはならない。 強迫性障碍者が言うことを聞いていいのは、
自分 理解してくれている人 強迫性障碍の知識の深い人 精神科の医者 家族 ルールを守ろうとする人(守る努力をする人) 厳密な人 細かい人 に限られる。
他の「ふつうの人」(常識を大事にする人も含めて、曖昧さやグレーゾーンの好きな人も含めて)の言うことは聞いていはいけない。 と僕は強く判断している。
キーワードは『混ぜるな危険』である。 まぁある程度「彼ら」の曖昧な思想ややり方を、僕自身取り入れているが。
取り入れすぎに注意。
僕は取り入れすぎて、人を殺しそうになった(自動車を運転していてメガネをわざとハズして人をひき殺しそうになった)。
ふつうの人が言うことや
酔っ払いの言うことは、あんまり聞き入れてはならない。
自分の判断を信じよう。
力のぬきどころ強迫性障碍などの、厳密に注目して、細かく言葉やルールや効果などを見抜く人は
それらの人なりのやり方で「力の抜きどころ」を見抜けている。 ずっと肩の力を入れて生きるのはもちろん強迫性障碍者だって不可能なわけだから
よくよく状況を判断してルールを端から端まで把握して 細かい言葉のニュアンス読み落とさずに ――どこに力を入れてどこは抜く―― というのを、結局は周囲の人と協力しながら見つけられる。 しかしながら世の中にはそうでない人も居るわけだ。 ふつうっぽさ 人間らしさ 曖昧さ グレーゾーン 常識人らしさ 大人らしさ そんなのを重要視していている人がいる。 言葉をイメージで取っていたり
世のなかの雰囲気に迎合していたり。 そういう人達は、一見、大人らしくてものごとの落としどころをつくるのがうまくて
人間らしく伸びやかに生きていて常識も備えているまっとうな人に見える。 というか実際まっとうだ。
しかしそういうまっとうさを持っているということであって
そのまっとうさを強迫性障碍者が真似できるかと言えば答はノーだ。 どちらのやり方も「正しい」のだが。
『混ぜるな危険』である。 曖昧好きな彼らには彼らなりのなんらかの「ここで力を入れてここで抜く」という判断がある。
しかし厳密さから意識を離せない強迫性障碍者には私たちなりの「ここで力を入れてここで抜く」という判断がある。 どちらもうまく行く。
オカシクならない。 両方正しい。 しかし、混ぜると危険。 そして互いに互いのやり方を「イヤなやり方だな」と感じる。 というだけのことだ。
と僕は考えるようになった。 閑話休題。
強迫性障碍とは、ゲシュタルト崩壊である。
強迫性障碍とは、範囲指定能力の欠損(低下)である。 強迫性障碍とは、見当を立てる能力の欠損(低下)である。 ものごとをよくよく観察し厳密に見抜いてゆくことは基本的にメリットとして作用する。 しかし強迫性「障碍」…障碍としてデメリットとして作用することは、ものごとの根幹部分や規定部分やもともと曖昧なものについて。 1が1であるという算数と数学においける基底部分を、厳密に感じ考えるとゲシュタルト崩壊する。観念的に哲学的になってゆく。(ここで重要なのは、別に観念的に哲学的になってもいいということ。素早い計算が求められる職業に就かなければいいだけのこと。) その文字をじっと見つめ続けるとその文字がわからなくなる…これはふつうの人でもそう。 愛というものはもともと曖昧なもので明確にならないものだが それを明確にしようとしても、いろいろと「ハズし」てしまう。 こんな風に大抵の場合 ものごとをよくよく観察し厳密に見抜いてゆくという能力はメリットとして作用するはずなのだが 単純計算やらもともと曖昧さから成り立っている事柄とか 曖昧さがむしろ必要な事柄に取り組む場合…デメリットが際立ってくる――っていうだけのことだ。 ふつうっぽさ 人間らしさ 曖昧さ グレーゾーン 常識人らしさ 大人らしさ などが大好きな人達は彼らのやり方を押し付けてくることがあるが。
強迫性障碍者は、自分が持っている「特徴」を押し殺さないで
彼らの言うことを最大限に聞き入れないでやってゆく方がよいと僕は今、感じている。 社会人になってからむしろそう感じている。 社会人らしさだの大人らしさだの…そういうのにこだわっていられる人は結局のところ余裕のある人。
強迫性障碍に向き合わなくちゃならないという課題を持っていない余裕のある人たちなのだ。 彼らの富裕層の言うことを聞き入れていてはならない。 強迫性障碍者はそんなに楽に生きてゆけるわけじゃないのだから。
というか強迫性障碍者にとって楽なやり方をやっていれば、楽なのだから 彼ら富裕層のやり方をわざわざ取り入れて混乱させられることはない。 ――混ぜるな危険――
彼ら、ふつう好きで常識好きで曖昧好きで大人らしさ好きで社会人らしさ好きなやつらのことを
(もちろんそれが正しいと思い込んでいて良かれと思ってアドバイスしてくれてはいるのだ) 聞き入れて自分の中に中途半端に取り入れれば その結果として 誰かを死なせてしまう ことはもちろんある。 彼らに合ったやり方を彼らがやっているから、それは安全なのであって。
彼らのやり方を僕らがやったら、それは危険なことである。 彼らの言うとおりに力を抜いて、曖昧に、考えずに生きていたらもちろんミスをするし
人を死なせてしまうような大きな事故を起こす。 そういう意味でも「治してはならない」障碍である。(と僕は今思っている) 原因は外側にある強迫性障碍に関して、もう一つ。
介護福祉士の勉強をしたのだが…強迫性障碍はストレス障碍に分類されるようだ。
ストレスによって一時的に出ている障碍だという見做し方(分類の仕方、考え方)があるよう。 たしかに他のいかにも『障碍』らしい『障碍』ではないと僕も思う。 (いかにもっぽくなくて中間的だからこそ、対処法がまだ語られきっていないのかもと思う)
僕自身のことについても…強迫性障碍が出てきた時期、父のうつ病、母は支援で大変というのがあった。 僕に現れた「強迫性障碍」というものは、僕自身の内側から出てきたもの…という側面もあるのだろうが 全然そうじゃない側面もあると思える。 当人の外側で、当人には原因のない何かしらが起きて、それが当人にとっての環境要因として
当人に大きく影響した結果として、当人に強迫性障碍というものが現れているという部分があると思う。 だからこそ、この障碍は「症状が現れているから、すなわち治せばいい治めればいい寛解させればいい」 というものでもないと僕は漠然と感じている。 原因が自分の中にあるのではなくて、周囲にある部分については 原因のことをよく考えてそこを解決してゆくほうが根本的な問題解決になるはず。 自分自身に現れている「強迫性障碍」という症状だけを一生懸命にどうにかしようとしても、仕方ナッシングというものだ。 そういう意味でも「治してはならない」障碍である。(と僕は今思っている) ※反応調査という言葉については別の記事で
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