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強迫観念に対する対処方法として「曝露法」がある。 これはとんでもなく大きな勇気を使ってさながら清水の舞台から飛び降りる感覚になる方法となる。 「本人が、これはやらなくてはならないと本気で感じていることを、本人があえてやらない」という方法。 周りの人が体を取り押さえるとかはしないで(必要ならそれもあり?)本人が内側で我慢してみるの。 本人が「手をもっと洗って私が菌をいろいろなところへ撒き散らすのを防がなければならない。今私がここでもう一度手を洗わなかったがために、未来に誰かが死ぬかもしれない」と本気で考える。 「もう一度」と思考しているが…それを何度も繰り返すことになる。 「私がここでこのタイミングで洗うのを忙しさや面倒くささを理由にあと一回を怠ったがばかりに…未来にどこかのだれかが…」というのを何度も繰り返す。 それが手洗いの強迫行為。 「洗うべきと考えているがあえて洗わない」というのが「曝露法」。
「やるべきだと本人が思っている行為をやらない」 (正確に書くと「本人がやるべきだと思っていてかつ他の人から見るとやりすぎである行為を本人がやらない」のが曝露法) ○ここで強迫観念について書きたい
強迫観念という言葉を、拡大解釈する場合
強くて迫ってくる観念はすべて強迫観念となる。 それが良いものであっても、悪いものであっても。 強迫観念という言葉を、限定解釈する場合 「いくつかの病的な行為に関する強迫観念」という意味になる。 勉強しなくてはならないとか人を殺してはならないとか、そういう強くて迫ってくる観念は 強迫観念に含めず… 手を何十回も洗わなくてはならない(一回はもう洗ったのに)とか 人を轢き殺したのではないか(轢き殺していないのに)とか 鍵を閉めないと泥棒が入ってくるからまた確認しなくてはならない(もう何回も確認したのに)とか… そういった特定の病的な観念に関してのみ、「強迫観念」という言葉を用いるという使い方がある。 拡大解釈と限定解釈とでは、だいぶ意味合いが違ってくる。 ときに、強迫性障碍者のなかには
「どうしてこれは病的で、これは病的ではないと決めつけられなければならないのか。 何をもってしてそう判断しているのか。 どうして2回はよくて20回はダメなのか。何回までならよくて何回までならダメなのか。」 という疑問を感じる。 強迫性障碍で強迫観念と強迫行為が出ている場合「物事の認識に関するゲシュタルト崩壊」が起きていることがある。
ものごとの程度に関して、よくわからなくなっていることがある。 つまり… 「どれが病的でどれが病的でないのか」が、感覚としてまったく判別できなくなっている状態になっていることがある。 強くて迫ってくる観念のことをすべて、強迫観念と呼ぶならば… 「〇〇でなければならない」「〇〇であるべきだ」という語尾の付くものをすべて強迫観念だとするならば… この世の中のルールはすべて、強迫観念であり治療の対象だという論理になる。 僕自身はまさにそこに至った。 お医者さんから、「〇〇でなければならない」「〇〇であるべきだ」とかが強迫観念なんだ と聞いて…だったらルールも正義も正常なものも異常なものも強迫観念だよね??? とほんとうに思った。 なぜ、健常者さんたちやお医者さんたちは「これはいい。これはダメ。」という風に好き勝手に仕分けしているんだ?
何を根拠に?…と。 ほんとうにほんとうにそのとおりである。
この認識の仕方だと、「強迫観念に対して曝露法を使おう」というのをやったときに 「人を殺してはならない…という名の強迫観念に対して、曝露法を使おう。それが自分の強迫性障碍への治療になるんだ。」 ということになる。 「人を殺してはならない」に対する曝露法はと言えば、「人を殺す」である。 それを実際にやったときに
お医者さんの言うとおりに「思ったような恐ろしいことにはならない」と言えるだろうか。 「不安感は下がっていくものだというものを実感できる」のだろうか。 そんなはずはない。 人を殺しても、何も恐ろしいことは起きない…はずがない。
人を殺したということそのものが恐ろしいことなのだから。 その他の犯罪やルール違反に関してもそのとおりだ。 「○○してはならないという強迫観念に対して曝露法しましょう」なんてやっていったら 患者さんは、犯罪者になってしまう。 ルール違反する人になってしまう。 それを「治った状態」「寛解した状態」と果たして呼べるのだろうか。 強迫性障碍者が、犯罪者になったという形でしかない。
非常にばかげている。
しかし、まったくもって真面目な話である。 それくらい曝露法は難しくて危ない。 曝露法は「範囲指定」しなくてはならないのだ。
強迫性障碍者本人には「何が治すべきで、何は治すべきでない行為か」の判別がつかない。 だから知識のある周りの人が「範囲」を「指定」する必要がある。 2回以上の手洗いと、自動車運転時の轢き殺し確認と、歩行時の振り返り確認と、
鍵の閉め忘れ確認と……について曝露法を行ってください。 他の事柄については曝露法を行わないでください。 という風に範囲を指定してあげる必要がある。
本人は「あなたの判断基準は間違っています」と全否定されていて 自分で自分を信じられない状態になっている場合。 筆者の場合はそうでした。
自分で自分を信じられなくなっている。 「○○がいい!」と感じても…「あぁでも、それそのものが僕の普通ではない感覚なのかもしれない。(他の人はどうしているのだろう)」 という風に周囲を観察する。 そのときに周囲に、悪いことをしている人達だらけの場合 「あぁそうかみんなこうしているのか。ではこうするのがいいんだな〜(僕はそう思わないけど。) みんながそう判断しているならばそれが正しいに違いない。 みんなは自分と違って強迫性障碍を持っていないのだから。 健常者に従おう。」 となって、周りに合わせて悪いことをなあなあとしてしまう。 だから、悪いことをしている人を周囲に置いてはならない。 強迫性障碍を持っている人本人も、明らかなルール破り、明らかな違法行為、命に係わるルール破り、命に係わる違法行為 をしている人について行ってはならない。 そういう人に囲まれてはならない。 そういうグループに入ってはならない。 自分の人生においてそういう人物を自分に近づけてはならない。 そういう人を暮らしの中で周囲に置いてはならない。 仕事上でどうしてもそういう人と関わらなくてはならない場合は
仕事上だけの関わりに留めておいて プライベートにおいて誘われても、断らなくてはならない。 「開かれた状態」では断るというのをしにくくなっていたり 友人関係や人間関係を作っていかなくては社会人としてダメなんだ…という観念に囚われていたりするだろうが しかし、悪いことをしている人と友人関係や人間関係を作る必要はない。 必要はない…じゃなくて、作ってはならない。 そういう人達と関わって
悪影響を受けて事件や事故を起こすのはむしろ自分なのだから。 ルール破りや違法行為をしている人達というのは―案外となんらかの自信を持ってやっているわけだ。 やはり破るだけの違法するだけのなんらかの「技術」「運動神経」「感覚」「知識」を持ってやっている。 (それ自体もべつにいいことではない) しかし、強迫性障碍者が「開かれた状態」になって、そういうルール破りやら違法行為やらを やってしまうと 覚悟もなければ それをやらなくてはならない事情さえそもそもないし やりたいとも思っていないし 技術も運動神経も感覚も知識も そのルール破りや違法行為に関して持っているわけじゃあない。 だから、大ごとの事故や事件になってしまう。 悪いことをしている人たちというのは、意外や意外となかなか大ごとになるようなヘボはしないものだ。
ヘボをするとしたら、影響されてやりたくもないのにやっている人のほうである。 やりたくもないことを「あぁ私の方がおかしいんだ。みんなこれを平気でやっているから、やるほうが普通なんだ。」と 思ってしまって 自分を疑ってしまって やってしまって。 当の本人たちはなにも大ごとの惨事を起こさないでいるのに 自分だけ大ごとの惨事を起こしてしまう。 損な話である。 おかしな話である。 だから、「開かれた状態」のときには 「意識がとっても高い人」「正義感の強い人」「悪いことに手を出さない人」 「心が安定している人」「自分をちゃんと理解できている人」 「精神障碍や強迫性障碍の知識を持っていて使えている人」 で周囲を固めなくてはならない。 「ヤバいことに手を出している人」 「なにかに溺れるように依存している人」 「なにか大きな心の闇を抱えている人」は 自分の近くにおいてはならない。 そのまんまその闇を自分が吸い込んでしまうから。 「開かれた状態」で周囲に悪いことをしている人が複数居るとき
強迫性障碍者は、「自分のほうがむしろおかしいんだ」と思ってしまって 「悪いこと」に手を伸ばしてやってしまう。 そして、責められる。
罰せられる。 罪をその心と体と魂にかぶることになるのだ。 やりたくてやったわけでもないのに。
「やってはいけない」とフツーに信じていたのに、「自分のほうがむしろおかしいのかもね」 と思ったがばかりに。 だから「強迫観念」を拡大解釈のほうで解釈する場合に曝露法を行う場合
「開かれた状態」になるから そのときに複数名がしているからと言ってそれをやってはならない。 悪そうなそれをやってはならない。 心に闇を抱える人を周囲に置いてはならない。
心に闇を抱える人についていってはならない。 爆露法はできる人とできない人とが居る。
もしも口暴露法ができる人の場合気を付けなければならない重要なことがある。 曝露法とは「不安感は徐々に下がるものであると知るため」 に行うが。 同時に「これまで自分が信じてきた、清潔感覚、危機管理感覚を疑って壊してゆく」という作業でもある。 強迫性障碍者が持っている、清潔感覚、危機管理感覚は、非常に高い。 とてもすばらしい。 高すぎてすばらしすぎていることが問題である だから、「すばらしすぎる」を「すばらしい」へ。 「高すぎる」を「高い」へ持ってゆく必要がある。 そうやって、下げてゆくのだが。 高すぎる
高い やや高い ふつう やや低い 低い 低すぎる という風にやり過ぎると「低すぎる」というところまで到達してしまうことがある。
それは「曝露しすぎ」であり「自分を疑いすぎ」である。 曝露法を行う場合、その人は「開かれた状態」になる。 強迫性障害を持つことになった人には、きっと様々なタイプがあるが…。 あまり自覚(これは問題なのだという自覚)はない人もいる。 そういう人から言わせると、「なぜ私は皆が菌で殺されないように皆を守っているのにそれを障害だなんて言われなくちゃならないんだ?」という人もいる。
そういう人の場合は診断と治療の過程で二度も全否定される。 本人はまずもって診断時に否定される。本人の感覚では「皆の命を守るためにしているのにどうしてやめなければならないのか」と感じる。 医者が人の命を救うことを誰も問題視しないのに、どうして私が人の命を守ろうとすると問題視されるのかというもんである。 「あなたのその行為は強迫行為というものです(治すべき対象です)」と診断されることは、つまり 「あなたがしているその行動は問題である」と言われていると等しい。 二度目の全否定は「曝露法」である。 自分の内側からは「もう一度手を洗いなさいそれが自分や他人を救うことになる」とメッセージが来ているのに、自分はそうすべきだと感じているのに、その自分からのメッセージを自分で否定しなければならないわけだ。 曝露法は、ガンの放射線治療に似ている。
治療のためにやわらげたい「強迫観念」(治療すべき観念)を壊すだけにとどまればいい。
が、「これについても暴露これについても暴露さらにこれについても思い切って暴露」という風にやっていくうちに、正常な観念まで壊れる。
歯を削る行為にも似ている。 あまり削り過ぎると神経さわって染みはじめる。 暴露法は自分を壊す行為だ。
必要な分(外側から見て、もしくは本人からしても問題と見える分)だけ壊すのは良いことだ。 しかし、問題が起きていない分の観念や信念まで手が及びはじめると、本来だれよりも高い善悪の意識や判断力がぶち壊れはじめる。
それが「開かれた状態」だ。 曝露法を上手に使えるようになりすぎると「開かれた状態」が出現する。
開かれた状態では、自分を疑う力が高い。
自分がもっているあらゆる見方考え方感覚観念信念を良い悪いに関わらず、自分自身で疑える。 相手の見方考え方観念信念を聞き入れられるようになる。 これはかなり素晴らしい能力だ。
仕事を柔軟に進められるだろう。 相手の持っている世界観(世界の見方)をそのまんま自分に取り込めやすくなり人間関係が上手になるだろう。 他人の支援も上手くなるかもしれない。
しかしながら、これら大きなメリットにあまりにも大きなデメリットがついてくる。 デメリットというか、危険。
誰かを殺してしまう可能性が十分にある。 【
「開かれた状態」では、悪い価値観もいとも簡単に入ってくる 】 これがあまりにも恐ろしすぎる危険だった。
つまりどうすればいいのか。
曝露法をやめればいいと言っているわけではない。
曝露法をやる場合は・悪い人を近づけてはならない
・自分がやりたくないことはやらない ・大好きなことや好きなことに目一杯エネルギーを注ぐ(複数好きなことがある場合全部やるのがいいし、一番好きなこと一番好きな人に集中するのがいい) 身の回りに「悪いもの」「悪い人」を置かないことがとんでもなく大事になる。
近くにある「世界観」
そうすることで悪い価値観が入り込むことを防げる。
口暴露法が上手くなるにしたがって、善悪の区別も徐々に無くなってくる。 自分自身では、善悪の判断ができなくなってゆくことを知っておく必要がある。 強迫性障害の人は、「おかしいのは自分だ。目の前の人の方が正しいんだ。」と思ってしまう(人によるが)。 つまり、目の前に殺人社者がいれば殺人者になる。 だから恐い。
「人を殺してはいけない」という強迫観念を暴露しなくちゃ…殺人はいけないこと思っている自分の方が神経が過剰なんだ…
と、こういう思考になるから。 殺人というのは最たるものだ。 しかしながら同じ思考構造で内容は違うことがいくらでも起きる。 だから近くにいる人が悪い人ではならない。 |
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