はむねまぼるのブログ

作詞作曲をしています。介護のことも書きます。強迫性障碍のことも。

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筋トレ


筋トレ


 なんだか、書きたいことがい〜っぱい。
気付けてうれしいことがいっぱいある。


そのなかの一つ筋トレのこと。



筋トレって頑張りすぎてもダメだし。
軽いのをいつまでもやっていても、筋肥大しないよね。

やりすぎもやらなすぎもダメ。


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いっぽう

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ちょうどいい


 そのときの自分の、筋肉の強さ太さに合った、もっともちょうどいい重さでやるのがいちばんだってこと。
他の人を横目で見るとサ、自分よりも歳が下でマッチョな人がいっぱい居て焦っちゃう。
だけど、その人達よりも筋肉が細くて筋肉の強さも弱い自分が、彼らと同じ重さと回数を目指しちゃうと無理になっちゃって、途中で怪我してしまって、余計に目標から遠ざかってしまう。

 軽すぎるんじゃ、ダメダメ。
重すぎるんじゃ、余計に遠回りになる。
自分にとってちょうどいいところが、いちばんの近道。
いちばん適している。

 じゃあそのいちばん適していることをするには?
効きやすい姿勢でやること(これは、コーチやトレーナーから教えてもらおう!)

 そしてイチバン適した重さは????
これは、僕が8年くらいいろいろ試したりいろいろ考えたりいろいろ感じ取ったんだけど…。

自分自身の体感覚を頼りにするのが、イチバン良さそう。
あと、角度とか軌跡とか考え過ぎない。
やる気とオリャアーっていう男性ホルモン&アドレナリンで、ダイナミックにやるのがいい!

角度とか軌跡は「考える」んじゃなくて、体の感覚で「あぁ、この感じでやると効く(入る)!」っていう感覚を頼りにやるとよいヨ。




日記


Yahoo!ブログに日常を書き込むこの雰囲気をまた味わいたくて…。

今日もお仕事に行ってきました。

今日が歯医者さんの日だと思ったら、一昨日が歯の掃除で昨日が矯正治療だった…。

もはや日付の認知ができていない。

いいわけをするならば、シフト表が変かすると、よけいに頭の中でわからなくなる。


ものごとに対して過敏なところを和らげるために、脳の力を落とすように心がけてきたけど、行き過ぎているみたい。
あとたんに、多岐にわたっていろんなことやっているから脳みそが疲れているね。

乳酸地HIGH!
コルチゾールHIGH!

疲れたって言葉を別の言葉に言い換えて、オリジナル曲作りたくって何年か前に「乳酸値High」って歌作ったけど。
コルチゾールHighはまだ作って無かった。



2019年は1月27日に、介護福祉士の試験があるから勉強がんばります。
あと十日間。

日本国の借金は一人当たり900万円

 テレビで、いま生まれた赤ちゃんは生まれた瞬間に借金が900万円あるのだと言っていました。
こわいね〜。こわいね〜。
すごいね〜。

 アベノミクスは結局、成功だったのかな?不成功だったのかな?
大企業に対して給料アップせよって言ったらしいけど、大企業の人って元々いい給料もらっているよね?
その人達の給料を更に上げて意味あるのかな?

上の層が満ちれば、下に降りてくるっていう論はもちろんあると思うから、僕は意味あるとも思うけど。
すでにいい給料をもらっている人が更にもらっても仕方ない…下まで来ないよとも、同時に思います。
ただ「給料上げてあげて」って言うのは、単純すぎて画期的ではないとも思う。

 自分が介護のお仕事をさせていただいているから、介護について考えてみたいです。
介護って仕事が忙しくて、やることが多様で、命を預かっている職業で、一部看護の業務を(指導と許可のもと)担っていたりするし、人間の精神(心の知識)と人間の病理(病気の知識)を知っていなくちゃならないし、人間としての感性がグッドじゃなくちゃならないし、自分の中でのストレス管理怒りの管理とか…大変な仕事のわりには給料がよくないって問題になってる。

 どうしたら、介護職の給料が上がるかなって考えたけど…。
介護職って、利用者さん本人のご家族からおカネをいただいている分と、国からの補助とでおカネをいただいている。
つまり…。
利用者さんのご家族の財布が満ち満ちたり、国が裕福にならないと、介護職の給料もアップしないかなって僕は考えが至りました。
すくなくとも今のままならば。
つまり、日本国の経済の景気がよくならない限りは介護職の給料も上がらないかなって。


 介護職の給料の問題を解決するために、日本国全体の景気を良くしないとなって考えました。
草の根からの努力が大事!
僕という一人の人も考えました。

 僕の強みは、介護にまつわる話やら知識やら何年か分の経験を持っていることと、占いの知識があること。
そして、概念の力があること、考えるのが得意な事。
それらを使って、考えました。

 たぶん、この閉鎖的な状況は、日本国にしかない強み(ストレングス)を使って、常識にとらわれない方法でしか打破できないかなって感じました。
日本国の強みは?
日本らしさは?
と考えたときに、日本独自の占術、日本で生まれた占術を思い浮かべました。
・六星占術 細木数子先生が産み出した
・九星占術 園田 真次郎先生がまとめた
日本らしい占いっていうとこのふたつがあるなって。


この世で、何かが上手く回っているっていうのは、つまり、人間の配置、人と人の組み合わせがGOODだからという考え方がある。
カネの流れについても、みんながみんな、自分にとって最も適した職に就けていれば、良い回りを生み出せるんだって考えをすることにしました。
一人一人の人達が、自分にとって不向きな職に就いていたら、その国が景気がいいわけないよなって思うんです。

占いも含み、1人1人の人が就職のときに転職のときに、迷い過ぎないで
自分に最も適した職業にゆければ、全体として見たときに景気も上向くはず!




就職についてどう考えればいいのかな

 僕は大学生のときとか高校生のときに、就職っていうものをどう捉(とら)えればいいのかわからなかったです。
いろんな捉え方があって、いろんな人がいろんなことを言っていて考えがまとまらなかった。
僕の場合は、大学を出て22歳で介護職に就職しました。
大学4年生のときに、いわゆる「就活」はやりませんでした。いわゆる就活っていうのはスーツを着て企業説明会に行くやつ。

スーツを着るという行為が怖くてできなかったから諦めました。

26歳になった今、「就職」というものは何なのかについてまとめてみたくなりました。
過去の迷っていた自分を時間を越えて救い出してあげたいなってきもちで作りました。
でも、もしかして他の人の役にも立つならばうれしいなとも思ってはいます。

最近は「占い」についての勉強を個人的にしているので、占いという観点も大真面目に含めた上で作りました。
基本的に「いい大学を出たら、高い給料の職業に就きやすいのだ」という前提で作ってみました。
なんか、話を聞くに、それは実際のことのようであると僕には感じられているからです。
(実際はどうなんだろー)


これまでの人生で僕が耳にしてきた、就職に関するさまざま観点を取り入れました。


・やりたいことを仕事にするか趣味にするか
・資格
・大学行って意味ある?
・人生において金が大事?愛が大事?
・占いの本に書いてある「適職」って当てになるのか信じるに値するのか
・やりたいことを仕事にする?
・向いていることを仕事にする?
・自分の子どものために、可能性を多く与えるためにとりあえず高学歴な方へ導くのはいいこと?
・親の借金
・なんのために働くの?
・おカネって大事?それほどでもない?






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 上のふたつの画像データを作成しました。
あとの方は、まだ未完成です。
九星占術のところのコメントが不足しているから。

 占いを組み込みつつ。
占いに依存せずに。
家庭環境や、自分自身の意思と、占いの結果とを、統合して考えられるようにと、この図を作りました。

 「〇〇?」となっているところは、自分の答えの方へマルをつけてみてください。
占いのところは、生年月日プラス生まれた時間(わからないなら、わからないでもOK)を自分で記入して
セルフサービスで占ってみてください。
自分が、六星占術では何星人なのか。
自分が、九星占術では何星人なのか。
自分が、十二星座では何座でエレメント(火か地か風か水か)なのか。


六星占術で調べる→https://www.rokusei.info/

どこのサイトも無料で調べられます!
うれしいですね。


占いっていうのは、基本は「ふつーに当たりまくるもの」なのだと思うんです。
ただ、いくつもの占いを組み合わせないと、はずれる。
なんとか占いのみだけやっていても、仕方ない。
そのことを、最近になってやっと思い至りました。



まだ、図を作っていく予定です。
次は、精神障碍者の就職についての網羅的な図を作りたいです。



イメージ 1




[強迫性障碍だと診断されてからの思考の組み立て方]

ぼくは中学生のときに、強迫行為が出て両親に連れられて
精神科に行って強迫性障碍だと診断を受けました。
しかし、どこまでが強迫行為でどこからはそうでないのかが当時から今に至るまで納得がいきません。
なぜそれを強迫行為と医者は呼びなぜソレは強迫行為ではないと医者は呼ぶのか。
彼らが何を基準にそこを判断しているのか謎です。
確認行為で例を取ると、なぜ電車の車掌さんが指さし確認で一度確認することを
強迫行為とは呼ばず
ぼくが手を一度に5回洗うことは強迫行為と呼ばれるのか。
ぼくからすると意味が不明であります。
一回ならいいのか。
では二回なら?
三回は?
四回は?
五回はダメなのか。
謎であります。


まぁ、そうやって、健常者やお医者さんの世界観では
なにやら「これくらいならば異常で、これくらいならばやるべき」だとかなんとか
仕事のときに3回チェックを入れるのはそれは決まりだからいいが
自宅で一回につき3回も繰り返し手を洗うのは異常なんだとか
ぼくからしたら意味不明な判断基準があるようです。

強迫性障碍を持っている人の中には、このように
なぜ10回はダメで仕事上での1回の確認は障碍者扱いされないのかと納得いかない人が
ぼく以外にも居るのやもしれません。

医者は何をもって、ぼくを強迫性障碍だと判断しているのか。
医者側には何かの基準があるようですが
コチラ側からすると、ようわからんので、医者も含めて自分の外部の人が
自分に対して
「それは強迫行為だ」だとか反対に
「もっとよく確認しなさい」だとか
ランダムに言ってくるすべてに対して混乱せずに困らずに冷静に対処できる思考法を10年以上かけて創れました。
それが図です。

〇図の説明
この図はさまざまな物の考え方が含まれています。
・ICF
・占い現実
・頭と胸と腹
・PDCA
・ジョハリの窓(数学Aでの組み合わせ)

この図では真ん中に本人(本人の思考)があります。
まず、強迫行為が出ている(と周囲の人が判断した)とき
見なくてはならないのは初めに両親かなとぼくは思っています。
両親のところで何らかの今までとは違うことが発生していて
それが本人の根底的不安を形成し、それが強迫行為として現れている場合。
その場合は根本の原因である両親のところで起きている問題のほうにむしろ注目すべきでしょう。

両親のみに関わらず
あらゆる(環境)要因が、根底的不安を形成している可能性があります。
強迫性障碍と向き合うときに「強迫性障碍」と向き合うというのもひとつの手ですが。
それは対症療法的な向き合い方だとも言えます。
根底的な不安から強迫行為が現れているという見方をすれば
その本人の強迫性障碍に対して根本的な向き合い方ができます。
ICFの視点を取り入れて図の矢印を双方向にしてみました。
あらゆる要素が双方向に影響しあうはずです。

また、お医者さんが言っていることというのも、その時点における精神医学に従って
診断しているにすぎないということも忘れずに。
時代の影響を受けています。
お医者さんの言っていることが必ずしも、自分にとって有効とは限りません。
曝露反応妨害法を勧められてもそれができない患者さんもいます。
曝露反応妨害法はあまりにも「勇気」を大量に使用する方法だから。
そんな莫大な量の「勇気」なんて持ち合わせている人はかえって少ないかもしれません。

また、強迫性障碍に対するひとつの重要な観点として
その人が持っているエネルギー総量(あるいは才能)に対する活動量(活動内容)です。
いわゆる役不足(役が不足していて本人が才能や力を持て余している)というときに
余ったエネルギーで根底的不安が膨らんで考え過ぎて強迫行為という形になる
ということもあります。
その人に合った仕事量を与え、その人に合った仕事内容を与えることも重要です。

この図の特徴は、夢と現の視点です。
科学的な視点だけでなく、非科学的な視点も含めています。
つまり占いでいうところの「目には見えない要素」も影響しているはずだという視点です。
強迫行為が出ているというのはその年が偶然に運勢が悪いだけかもしれません。
つまり、そこで考えるべきことは、一過性のこともあるわけだからあまり真剣になりすぎないべきということです。
ぼくの場合は母親が「これは大変だ!」と必死になりすぎていましたが
ぼく自身は「これって過ぎていくものだよな〜」と内心あまり焦っていませんでした。
何年も経てば症状は変化しえるものです。
本人の運気が悪いわけじゃなくても
父や母のどちらかがその年に運気が悪くてその影響で彼らに問題が生じているのかもしれません。
それによって子供である本人の根底的不安が形成された結果強迫行為が出ているのかもしれません。
家族全員を信頼のおける占い師に占ってもらうのも手であるはずです。
家族全員を占ってもらうのは値段が高いですが、せいぜい1万円程度です。
2万円以上は払わないようにしましょう。
詐欺に引っかからないで。

ちなみに、九星占術での八白土星は完璧主義的な要素を持っている可能性が高いです。
生まれつきそういう(強迫性人格っぽさ)性格を運勢として持っているのか
という理解は過度にこの障碍をどうにかしなくちゃという焦りを薄めてくれるかもしれません。


強迫性障碍だと診断された人の中には
自覚がない人も居る。
「え?別に私自身は困って無いけど…?」
「あなた達がそういう病名をわたしに付けたいならば付ければ?
でわたしはどうすればいいの?
どこかどのようにダメでどこをどのようにすればいいわけ?」
という感覚の患者さんも居る。
ぼくはそういう患者さんでした。

ぼく自身の中では『そうするべきだという判断』を行って
それ(強迫行為)を行っていたわけです。
それを強迫行為だと医者に言われてそれをどうにかする必要性を説明されたというのは
イコールで【全否定】でした。
両親からも医者からも全否定をされた気持ちになって
それ以降ずっとその気持ちです。
自分の内側での自分なりの判断を、障碍であり問題であると判断されたわけですから。

それはそうなのですが。
たしかに、外部の意見の取り入れが不十分(もしくは取り入れ方に何か問題があった)だったというのは
あったと思います。
だから、図の下の方の「反応調査」を差し入れる必要があるわけです。

その前にちょっとした観念が強くて迫ってくる観念へと変貌と遂げるときに
関わってくる要素について考えます。
ぼくが思いつけたのは、三つです。

その本人が持っている総エネルギーと活動量の割合です。
いっぱいエネルギーが有り余っているのに、暇をしていては
観念が強くなります。
暇もないほどの仕事を与えられて動き回っている人が
ひとつの観念に囚われすぎてしまうというのは考えににくいです。

周囲の人の危機意識が低い(と、本人が感じている)ときに
その本人はなぜ周囲の人がそんなに危機意識が低いままで居られるのか???
と不安に感じて根底的不安が膨らむことがあります。
いろんなことに気付けて未来予測を立てるのが得意な人は
周囲の人のなぁんにも気づかなくてなぁんにも対処していなくて
楽観的に生きている人々を見てとっても不安になるでしょう。
「自分がなんとかしなくちゃ!!!!!」と思って、危機意識がとんでもない値へと
跳ね上がる結果となります。
周囲の人のサポートの仕方のひとつに、過度な楽観を一旦やめて
その人が持つ危機意識に共感(同感でもよい)を示すというのも一つだと思います。


石鹸などの界面活性剤についての知識そのものが足りていないことが
強迫観念を強くさせていることもあります。
10秒以上泡を付けていても意味がないです。
泡は病原菌を殺すわけじゃなくて、くっつけるだけです。
水で洗い流すときに病原菌と泡が一緒に流れていくという仕組みで
手の雑菌を少なくしているわけです。
ぼくに手洗いの強迫行為が出ているとき、
ぼくは石鹸の泡は菌を殺す効果があるのだろうと誤解していました。
健常者よりもより詳しい知識を本人は得るようにして
周囲のサポートする人は与えるとよいはずです。

以上の三つの、観念を強くさせる要素などによって
観念が強くて迫る観念つまり強迫観念となったとき
そのまんまでは強迫行為として現れます。
そして、強迫行為として現れたとしても
それを強迫行為なのであると見做すか見做さないかの違いも出てきます。
ここで、数学Aでの組み合わせの考え方から4パターン出しました。
本人はその行為を強迫行為だと思っていなくて
家族や医者が「それは強迫行為だ」と判断しているとき(図の1番目)もあるよというところです。


ここからが、最も重要なところなのですが。
「反応調査」という言葉(概念)を新しく作りました。

本に載っている強迫性障碍に関する知識は、あくまでも学術的な医者側からの知識でしょうね。
患者を客観的に見て外側からどうすればいいのかという見方。
どのように患者に助言すればいいのかという考え方。
そういうベクトルの向き。
「反応調査」は、患者本人に強迫行為とそうでない行為の見分けや区別することができなくても行える
強迫観念への対応方法です(そのはずです…)。

患者本人が、「何が強迫観念なの?どれは普通の行為なの?わっかんないよ!みんな勝手なことを言って!電機会社のCMでは3回もチェックしてるんだって言ってたよ!!なんでわたしが3回鍵を確認するとそれは強迫行為だって問題視されちゃうの?!意味不明!!」
と思っていてもやっていける思考方法です。

本人からすると本人が持っている知識を使って本人なりの危機意識を持った上で未来予測を立てた上で
判断し選択し決断し行動しているわけです。
たとえそれが一度の手洗いが液を10回出して洗うを繰り返すというものだったとしても。
車を一度停止させて誰かを轢いていないのかを確認するというものだったとしても。
感染症になってはならないとか
誰かを轢いていたとしたら、すぐに救命処置して救急車を呼ばなくては…という
人間としてごく普通の観念によってその行為をしているわけです。
他の人よりも、観念と体の感覚(体の感覚によって見当を立てる能力)が乖離ぎみなだけであって
他の人よりも、危機意識が高いだけです。
他の人よりも、根底的不安が大きめなだけです。

オカシイ人じゃないのね。

本人からすれば
自分のことを、やれ障碍なのだと診断してくる医者のほうや
やれお前は気にし過ぎなんだと言ってくる職場の上司や同僚のほうが
かえってむしろ
危機意識が低くて考えがなさすぎるし、なぜだか意味不明な判断基準において私をを強迫性障碍だの気にしすぎだの完璧主義すぎるだのとと言ってくる
わけのわからないオカシイ人達だわという感覚なわけです。
(ぼくの場合はそうだったという話です)
なぜ一回の確認はやるべきだとされていて、10回の確認はダメのか?という話です。
どこが線引きなのか。
その線引き自体人によって違うじゃないかということです。

そうです。
人によって違うのです。
場面によって違うのです。
会社によって違うのです。
とある電気会社では、3回の確認は、禁止されているどころかむしろその逆で職務上の義務なのです。
やってもいいことでありやらなくてはならなことなのです。
3回も確認しているのに「それは強迫行為なので寛解を目指しましょう」と医者に言われないで済んでいるのです。
なぜ言われないで済むのか。
それは、『その』会社の中での職務だからです。
でも何百年も前だったらひとつのことに3回も確認するなんて異常的な行為だったかもね。
つまり、場所や時(時代)や場合や、人によって、好き勝手にやってるっちゅうことです。
それぞれに。
それぞれにバラバラの指針を持っていて
それぞれにバラバラの判断基準を持っていて
それぞれにバラバラの感覚を持っていて
それぞれにバラバラの線引きをしているというわけです。
つまり、みんな好き勝手やっていて、無責任だというわけです。

この図の中の「本人」に対して、様々な人が、それぞれにバラバラの…ときに真逆のことを言ってくるわけです。
〇〇をやれと言ってきたり
〇〇をやるなと言ってきたり。

だから、反応調査が必要になってくるわけです。
とある「その」人にその行為をしたら「その」人は、それの行為をどのように受け取って
どのように反応するのかを
対象ごとに調査して記憶してゆくということです。

そして、一般言うPDCAサイクルで当てはめれば
反応調査は、Doから始めることがミソです。
対象がどのような反応を示すのかの仮定を立てた時点で
その仮定はすなわち「決めつけ」「思い込み」としての働きを示しはじめてしまう。
だから、Planをわざと立てない。
その行為をしたときにその人(対象)がどのような反応をするのかについて敢えて考えない。
そしてやってみる。
すると、相手がなんらかの反応を示す。
その反応をもとに「あぁ。この人はこの行為をこういう風に受け取るんだなー。」とわかる。
相手がその行為をダメな行為だとか強迫行為だとかだとか判断して反応したならば
もうその行為をその人の前ではやらない。

たとえば。
医者が、自分が風呂で体を10分も洗うことを、それは強迫行為なんだよと優しく説明してきたとする。
でも本人としては、なぜ1分は強迫行為ではなくて10分は強迫行為なのか理解不能、共感不能、共鳴不能だとする。
説明されて「へぇそうなんだ。学術的には、医者的にはそうなんだ。」と理解できても
感覚として納得はできない。
でも、納得なんてできなくていい。
もしかするとその医者は感覚として納得しろ的にせまってくるかも。
でも納得なんてできなくていいの。
共感なんてできなくていいの。
だってわからないんだから。

ただ、「へぇそうなんだ。医者の立場からすると学術的には、医者的にはそうだと判断するんだ。ふぅん。だから?」
と思っていればいいのね。
「はいはい。そうやって、私がした判断を、全否定するのね。じゃああなたに合わせましょう。
ぼくはぼくのことを障碍者なのだとわからないし、
これが強迫行為であれが強迫行為じゃないってわからないけど。
あなたがそういうならばこの行為は強迫行為だと記憶しておきましょう。」
って。
記憶すればいいだけ。

精神科の医者の立場から言えば、10回も身体を洗うのは強迫行為に分類することになるかもね。
でも、無菌室のある職場とか、外科手術の前は、手洗いって執拗なほどやる。
やることの方を推奨される。
推奨どころか強制される。
場面によって違う。


自動車を運転していて、何度も振り返るのは…
それは誰かを殺したくないっていう思いやりの気持ちや優しいきもちから来ているのね。
別にオカシナ行為でもないのね。
オカシくない。
オカシクないんだけど、オカシクないその行為をオカシイと言ってくる分野の人も居る。
精神科の分野からするとそれは強迫行為となる。
オカシくないというのも一つの真実なのだけれども
真実一つだけ持って
他の見解からの意見を貰わずに行っちゃうと
「より外側の世界」(対象)からの意見を取り入れずに行動を取ることになる。
だから、DCAPのサイクルを一度回っておく必要がある。

自動車に乗っていてなんども振り返ったり一度停車して後ろを確認する行為は
優しさと思いやりと危機意識を持っていて己を信じないことのできる人にしかできない素敵なこと。
その素敵な行為についても、反応調査をしてみる。(話す、Do)
医者はその行為を、学術的に言えばそれは強迫行為ってことになるって言ってきた(反応、Check)
「そっか。これは異常な行為って見做されるんだね。」(学習、Action)
自分はこのことを異常とは思わないけど
医者とか学術的な立場から見ればそうなんだっていうならば
やめたほうがいいとされているならば
じゃあ、振り返ったり停止したりしないというのをやってみよう(行動選択、Plan)


以上がこの図の説明です。
筆者自身の主体感覚から作った図です。
さまざまな強迫性障碍者がいるわけで、一人一人周囲の人(医者も含めて)からの感じ方は
いろいろだろうと思います。
この図は基本的にぼくがぼく自身のために創り上げたもので
ぼくにとって役に立つものです。
もしもぼくに似た強迫性障碍者が居たらその方にもある程度は役に立つか参考になるだろうとは思っています。
以上です!





ALL-PART-NOTHING

ずっと小さな頃から、「この世界」のことと「あっち世界」のことについて、誰から何を聞いても
どんなカルトや宗教や占いや思想を聞いても
自分として納得できんなかった。

でも最近、現実世界・思想や感情・哲学や占いなどを併せて考えてみて
コトバやヒントやメッセージや概念やらを組み合わせていった結果
やっと自分なりに納得のいく「世界観」を見つけられました。

名前は「ALL-PART-NOTHING」。
日本人なのになぜか英語になっちゃったね(笑)
それを図式化しました。

図の中に、西洋占星術とかアーユルヴェーダとかも入れたいけど
いっぱい入れるとごちゃごちゃしすぎるからそれらは抜きました。
日本人として生きていて
・西洋占星術や西洋の考え方(天国か地獄)
・東洋占星術や東洋の考え方(この世は地獄、あの世は浄土)
とかを別々に整理されないままに聞かされる。
そして、占いとは別に現実があるんだみたいなことも聞かされる。

色んな思想・色んな哲学・色んな考え方・色んな捉え方・色んな占いを別々に聞かされて
統合された状態ではそういう話を聞けなかったから
ずっと僕は情緒的に精神的に情操的に不安定だった。

でも、誰も統合されて整理された、説、図を提示してくれなかったから
自分が生まれてから26年と3カ月もかけて創りました。
当たってなくてもいい。
ぼく自身がこれを完成させられてやっと納得できてやっと安心できたから、ぼくにとってはそれで十分。

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