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「ALL-PART-NOTHING」の世界の捉え方
最近、自分が生まれたときからずっと考えていた 「自分が納得いくこの世界の理解の仕方」についてやっと考えがまとまりました。 あくまで自論なのですが。 僕が僕に対して納得のいく世界の理解方法をやっと思い付けて、やっと気持ちに収まりがつきました。 ここからやっとスタートできるという思いで、ワクワクがいっぱいです。 この世界の捉え方は、哲学とか占いの知識を加えることでやっと整理できました。
ALLとPARTの考え方を説明したいです。
しちゃいます。(笑) あり過ぎるのはもはや無いのと一緒ってやつを このALLとPARTとNOTHINGでは説明できる。 駒は高速で回るときには、倒れないし一見回っているように見えない。 そういう形でそこに固定されているように見える。 でも実は高速で回っていて、ゆっくりになってくると 「あぁ、回っていたのか」と人間の目に見えて人間の頭で理解できるようになる。 ALLは、すべてがもっともありのままの姿でもっとも力を持ったままの状態で
安定して、有る状態。 概念や感情やエレメント(要素)や運勢などが集まっている。 ※ここで言うエレメントというのは、たとえば
十二支で言えば、子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥の十二個それぞれの要素のこと。 エレメントが全部そろっているというのは、その十二個がすべて揃っていること。 五行で言えば、木火土金水の五つそれぞれの要素のこと。 エレメントが全部そろっているというのは、その五つが五つとも揃っていること。 もしも
それらの揃っているエレメントが、肉体を伴ってしまったり物質を伴ってしまうと、 肉体と「結びつく」っていうのをやるためにエネルギーを削られる。 それに、ALL(みんなのところ)から離れちゃうから 他のエレメントからのエネルギーの運搬経路が長くなるしもしくは切断されちゃう。 もしも、パワフルにエネルギッシュでいるんだったら、肉体を持たない方がいい。 精神が精神のままで居る方が余計なエネルギーは使わないで済むだろうと、ここでは考える。 話を戻して、 ALL(霊界とか、まぁ空間とか)は目には見えないから、一見「無」に見える。 でも、大量の概念大量の感情大量のエレメントの集合体だから、実は「超有」である。 PARTの領域(現実世界)は、一見して「有」とわかる。
そして、ALL→PART→という順番で中央から外側へ離れていって…その先が、モノホンの「無」なのだと思われる。
だから、この考え方だと
ALL→PART→NOTHINGの順番で
「無」→「有」→「無」という風に一見すると見える。 だけど実際は 「超有」→「有」→「無」 「すべて有る」→「一部ずつ有る」→「無」 なのではないのかなぁと僕は今回考えました。 ちなみに、「時間」も併せやすい考え方だなぁと思いました。 「時間」はふつうの状態(ALLの領域)では、停止しているのが基本なんじゃないのかなと。 (まぁ実際には、とんでもなく速く進んでいて千早ぶっているわけだろうけど) エレメントが摘み食いみたいにされて、ALLから離れると、PARTになる。
そうして現実世界に現れる。 すると、「時間」が流れ出すんじゃないのかなぁと思える。 というのも、そもそも「時間」というものを考え直してみました。 「時間」=「動き」=「変化」なのではないのかなと考えました。 もしも、だけど。 時間じたいは経過しているのだけれども すべての物質がまったく動かなかったら(形状も変わらず、位置も変化しない) その景色に「時間が流れている」と、ヒトは認知できないと思う。 時間の流れを感じず、時間という概念も産まれさせられない。 でも、動きや変化があるから「時間」という概念を産まれさせられた。 パワー(エネルギー)ってやつは、ALLの中にとんでもない量いっぱいあって
加速度的に減るっていうことはなく 増えているか維持されている。 でも、なにかの拍子にALLからエレメントがはみ出して
現実世界の物質と結びついてしまって エレメントがパワーを持ったまま、ALLから出てしまう。 「時の流れ」というのは、動きや変化のこと。 「時」というのは、そもそも止まっている(この場合の止まっているっていうのは、止まっているという意味ではなくてALLの中で高速で動いている) (たとえば、AさんがBさんに100円支払い、BさんがAさんに100円支払うっていうのが同時に起きた場合 人はわざわざ100円高価をA→B→Aってやらない。そのまま100円高価の所有位置を変えないで、動きを相殺する。 でも相殺しただけで、無かったわけではなくて、同額の受け渡しが2つ行われたというのが事実) ものなのじゃないのかな。 ほんとは、「時」は、ピタッと止まっている(超高速で千早ぶっている)のに 部品部品にされちゃって、動きが見えてきてしまうんじゃないのかな、現実世界では。 流れているのが見えてきてしまう。 ほんとは、感情や概念や思考や物質も含めて動きっていうのは、速すぎて見えないし 認知もできないはずなのに この「現実世界」というALLの中心から遠い領域においては 「時」=「動き」=「変化」が見えてしまう。 人間が「時代」だとか考えたり、まじまじと見て学んじゃったり、だとか「変わったねぇ」だのと感じてしまう。
魂のレベルが低いと、動きの遅いもの(物質とか、時間の流れとか、変化とか、時代とか、出来事とか、物体の動き)とかがわかる。
魂のレベルが低いと、動きの速いもの(ALL=霊界)はわからない。 ってことなんじゃないのかなぁと。 占星術とか哲学(占星術は哲学と同じ)だと
「風」は、変化とか時間を表すみたい。 アニメとかドラマとかで心情の変化があるときに、風が吹くし。 風が崖の土を取っていっちゃうのから、「風化」って言葉があるし 「風化」は「時間とともに」っていう言葉が枕詞。 〇時間 時間っていう概念をどういう風に理解すればいいんだろうってずっとわからなかった。
時間について考えてみたい。 たとえば
アーユルヴェーダでのエレメントは、三元論で「火と水と風」 水はH2Oで、火は有機物の急速な酸化、風は…大気の動き。 水って言ったときに、動きは含まれない。
水の存在を示している。 停止している。 火って言ったときに、火っていう物質があるわけじゃないから、変化のこと。
形が変わっている。 場所の移動のことではない。 風って言ったときには、動きを示している。
動くためにはパワーが必要だから(位置エネルギーも含めて)、パワーと動きを示している。 時間っていうのは、形状の変化や位置の変化がなくちゃ認識できないから 「水と風と火」では火と風が、「時間」に関与していると思う。 ALLの世界では、それぞれのエレメントが、然るべき次のエレメントに寄りかかっていて 最終的に円を作っているから、乱れない。 エネルギー交換が高速で行われていて一瞬で行われていて、もはや「停止」しているように見える。 人が円になって、それぞれ自分の頭を後ろの人の膝に乗っけると 全員が楽にしたまま頭を地面から離せるみたいな状態。 でも、PARTの世界では、エレメントが必ずしも然るべき次のエレメントと隣り合えないから
地球の引力に引き寄せられて倒れるとか、落ちるとか、壊れる。 力を失う。 失うっていうか、受け渡しできずに、落っことすっていうこと。
回収しにくいところ「NOTHING」の領域へ、落っことしてしまう。 いろんな、形状をまといながら、「落っことす」ていう現象が起きるけど…。 たとえばわかりやすく言えば物質的に「落っことす」と地球の中心へエネルギーが行く。
それが何を意味するかと言えば、 感じ取ると「地球っていう現実世界のステージの存在力が増す」ってことだと思う。 エレメントを摘み取った、魂が、ALLで加速度的に生成されたパワーを携えて 現実世界へやってきて、落っことすと、どんどんどんどん、現実世界の存在力が増す。 ALLの対局であるNOTHINGの存在力が増していく。 だから、また、NOTHINGの方から、魂を引き寄せて、ALLから外れてしまい
生物がまた生まれてしまう。 (この考え方の中では、生まれるっていう現象は、むしろ悪い現象。 死ぬという現象の方が、良い現象という感じ方) 人々の魂のレベルが上がっていくと、人々は持っているパワーを
ALLの方へ戻す。 目に見えるものだけを信じている状態だと、PART同士のやりとり、行き違いなどで 落っことすことがどうしてもあるから、少しずつNOHTINGの方へ加担する。 「時」が(ホントの意味で)停止している、この現実世界へとパワー落っことして加担して
この現実世界が更に長く長く続いていってしまう。 現実世界が更に確固たる現実世界に。 地球というステージが更に確固たる地球というステージに、存在力を増す。 とある文明におけるその人々の魂のレベルが上がっていくと、人々は持っているパワーを ALLへ直接返還してゆく。 そうすると、その文明の人口は減っていくと思われる。 その人々の文明における人々が、その文明空間(ステージ)(現実)(物質世界)に 分け落とす分のパワーが減るから。 「生きている」(なんらかの理由でALLから離れてPARTとなりNOTHINGへと引き寄せられ、移動している期間のこと) 人々は、生きている人々同士(PART同士)で、少ないパワーをあっちへやったりこっちへやったりしている。 この地球や目に見える宇宙の中には、ALLからハズレてやってきたパワー、持ち寄った分のパワーが
蓄積されている。 持ち越し分繰り越し分で成り立っている。 とある世代が、すべてパワーをNOTHINGからALLへ返還しちゃうと
その(現実世界の、現実文明の)場における繰り越し分がゼロになり 次の世代がその場で暮らせなくなる。 産まれてもすぐに死なざるを得ない。 死ぬっていうのは、魂が摘み取ったエレメントを持ち続けられなくなってALLへ強制的に戻って エレメント(運勢とか)を返さざるを得なくなること。 アセンションすれば(魂のレベルが上がれば)、人口は減っていく。
まぁ、人類は滅亡する。 (でも実際には別に滅亡しない。 人が「目的もなく意味もなく散歩するために外出」ができるように。 なんの意味もなく、わざわざ魂のレベルを下げれば、滅亡はしない。) ALLから外れて、限られたパワーだけを弁当に持ったPARTがNOTHINGへと
ALLの環のちはやふる遠心力で、ぶん飛ばされていくときにのみ、「時間」は流れるのだと思う。 「時間は流れる」っていうのはつまり、年を取るっていうことでもある。 人間が言う、社会とか流通とかカネとかはつまり、PARTからPARTへの受け渡しで
少ない持ち分をちょこちょこと流している。 内部経済である状態ならば、落っこちないけど。
外部経済になると、落っこちていき、NOTHINGへこれから先の現実世界の存在力として繰り越し分として 蓄積されていってしまう。 そう考えると、鬱病の方はきっと、ALLに背を向けて PARTを見ていたり PARTとPARTの間の空間であるNOTHING(正真正銘の無)の空間へ顔を向けたりしていて 自分が持っているエネルギーを PARTとNOTHINGへと注ぎまくっているんだろうなぁ〜と思えます。 この理論の中では 我々、命を持つ者はみんなALLから、エレメントを盗み集めて、パワーも盗んで、ここに来ている。
だから、どっちにしろいつかは、NOTHING(ちはやぶっていない遅い時間の流れの行き着く先)に向かっていて すべての力と現実世界に居るための存在力(肉体と言う器の機能)も失って 盗んでわいわいキャッキャと楽しんだ旅を終わらせなくてはならない。 もしくは 偶然ALLからハズレてしまって望んでもいないオカシナ空間(PARTが物質を身にまとって集まっているの世界)に来ちゃった イヤ〜な時間が終わってくれる。 積極的に産まれた魂にとって 生きるっていうのは、いたずらをする行為だと思う。 ALLから盗んできて、限られた量の弁当を持っていけるところまでいって、ぶっ倒れる。 そうすると、ALLが回収しに来るんだと思う、盗まれた分のエレメントとパワーを。 消極的に産まれてしまった魂にとって
生きるっていうのは、偶然やってきた罰ゲームだと思う。 ALLに居たのに、偶然振り飛ばされてしまって、外側にぶん投げられちゃった。 ぶん投げられるときに、いろいろと記憶を失うんじゃないのかな…?? だって、ALLでは加速度的に、パワーが増えているんだもの。
そんな強い遠心力じゃぁ、記憶を失うだろうが(笑)。 偶然にパワーを多めに弁当箱に入れてこれた魂(命、ヒト)ならば
そのたくさんの弁当箱の内容をフルに使って 頭もフルに使ってALLの仕組みやALLでの記憶を、消去法的な方法や演繹的方法で導き出せるだろうけど。 パワーが多いっていうのは、ALLと似ている。 ALLに近い。 パワーが少ないっていうのは、NOTHINGに近いこと。
ちなみに、性欲やら肉欲は、NOTHING側からの引き寄せなのでしょうね。 ヒトのオチンチンが大きいとか、セックスを快感を楽しむためにしたりするのは NOTHINGへパワーを多めに蓄積している生物だからなのかもしれません。 いっぱいALLから盗んできて、いっぱい、現実世界(肉体も含める、肉体の五感も含める)へと
パワーを注いで 次の世代への肉体の記憶(遺伝)への注力をしたのでしょうね。 PART同士での、心のやりとりは、弁当箱の中の限られたパワーを
落っことさずに交換し合うことであり 上手く行けば感が動して、パワーが産まれることになったりするから 心地よいのでしょうね。 でも、PARTから直接ALLとやりとりできる僕は、PART同士でのコミュニケーションの気持ち良さよりも
ALLという巨大なエネルギとの直接のやりとりの方が気持ち良く感じる。 そういうことなのだろうなと、いま考えています。 以下はもはやひとり言です。
となると、雷による芽吹きである三碧木星の雷ってやつは
ALLからNOTHINGへの直接的な道なのかな。 自然界(目に見える物質)での始まりは、生命の始まりとか言われる一白水星なのだろうけど
生命の始まりはむしろ、三碧木星だと思う。 肉体が一白水星で生まれるとしても、精神を伴う命の始まりは…意識の芽生えは三碧木星だと思う。
また、現世と霊界の道がツナガルと言えば、お盆。 ハロウィーンは、霊界との道がツナガルんじゃなくて、現世での繰り越し分のエネルギー体やら 現世に残っている霊達との道ツナガルんじゃないのかな。 超有(無)・有・無の順番で…。
ALL PART NOTHING。 五感を使ってPARTに暮らしている僕らはALLの方面もNOTHINGの方面も、おんなじ無に見える。
おんなじ「あの世」って言葉にしちゃうし。 おんなじ「スピリチュアル」って言葉にしちゃう。 自然界ってコトバは、物質をまだ伴っている。 大自然っていうコトバだと、物質の意味合いが減ってきて。 宇宙的ってコトバだと、物質の意味合いがかなりなくなる。 霊界ってコトバだと、もはや完全に物質の意味合いが無い。 (物質→エレメントが完全なる時間停止した状態) (この理論の中では、概念やらエレメントやら運勢の一部分やらが持っているパワーの、受け渡し速度が減ってきて、最後に完全に停止すると、物質という動かない状態になるって考えるのかも) |
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通っているところで、筋トレをしています。
そのときに、いろんな人を見ている自分が居ます。
なんでこんなに他の人を見ているんだろうと思っていました。
実際、聞こえてきた他の人の会話に「〇色の服着ているあの人、いつも見てくる」「あぁ、いつも見てくるよ」っていうのが聞こえました。
それを聞いて「あぁあ、なんで僕は他の人をじろじろと見ているんだろうか」と、思いました。
なんとかできないのかなぁと。
自分で考えていた理由は、
・あ〜あの人筋肉すごいな〜、あんな風になりたいな〜って思って見ちゃう
・あ〜あの人僕と同じ学校の出身なんだ〜。この人のこういう人生が自分にもありえたのかもな〜と想像して見ちゃう
・へ〜あんなトレーニング方法もあるんだ、いろいろ見て覚えておきたいな
とかでした。
それだけでけっこう多いのですが。
でも、それだけじゃないんだと最近気付きました。
実は職業病として、他の人を見ているようでした。
・音がした方を見る
・大きな声を出している人を見る
・危険そうな行為をしている人を見る
・部屋に誰が居て、誰が部屋から出ようとしているのかを常に確認する
それらは、自分が就いている職の仕事の間、相手の体と命を守るために常に気を張っていることでした。
仕事場でやっていることを、筋トレをしているときにもやっちゃっているんだと、やっと気付けました。
それ以降、かなり他人のことを見るのをやめられたのですが…。
今日、「ん〜。あの人、もうあの種目終わったのかな。終わったなら、そこ使いたいんんだよな〜」と思って
首を振ってサッと見たら、
またそこに居た人が
「ほらね、見てくるでしょ」って言っているのが聞こえた(空耳かもね)。
もう、人は見ていなくて空間を見ているんだけど、
これが職業病なんだって気付くまでの間に他の人のことをいっぱい見てしまっていたから
もう僕がどの方向に首を向けても
「あ、また、あの人こっち見てる」って思われちゃうみたい。
大きな音を出して、トレーニングをする人って限られている。
頭の中で「大きな音を出している=危険行為をしている可能性がある」って思って音がするたびに大きな声が聞こえるたびに見てしまっていた。
いつも大体同じ人を見てしまっていた。
だから、その人からすれば、たぶん、これ以降僕がほんの少しでも見てしまえば
「また、こっちを見ている」って思ってしまうんだろうなって、思う。
もう、「人」を見てはいないのに、ただ
「あそこ、使いたいな〜」って思っただけで勘違いされてしまう。
なんかツラいな〜って思った。
あと、僕の仕草や行動が常に、なんとなく独特っていうのも手伝っていて、そうやってすぐに誤解させてしまうのだと思う。
でも、もう、いろんな場面でいろんな人に誤解されるのは、すごく多くていつものことだから
あんまり感情的にならずにすんだ。
ツラさとか、焦りとか、怒りとか、悲しみとかそういうのにあんまり巻き込まれなかった。
これはひとつの成長なのだろうと思う。
あぁ、いくらでも僕は誤解されるんだな、こうやって何重にも誤解されてゆくんだなって思って悲しくなったけど。
それは、もうある程度仕方のないことだからなって思った。
僕は他人に誤解をさせやすいという特徴を持っているのだ。
でも、今回のことで、自分にも職業病があるんだとわかったからそれが得たものだった。
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自分が目指している世間というもの在るべき姿と
周囲の人達がこうなんだと思い込んでいる世間の姿に差があると 10年以上常々感じていたけれども。 やっともっとはっきりとそれがわかったみたい。 僕が目指しているのは、1人1人が最大限にワガママになり、 そして1人1人が他人の様々なワガママを受け入れ上手にこなしてゆく能力も同時に身に付けてゆくこと。 個人主義の世界。 でも、それとは違う世間像がある。
1人1人のワガママを出来る限りなくして 1人1人の他人のワガママに対応する能力も大して上げないという世間像。 全体主義の世界。 「団体生活なのだから…」って言葉を聞くたびに、僕は違和感を感じる。 団体生活なのだからワガママは許されない…??? ほんとうに? 団体の中で、一人一人がみんな、他人の好き勝手に対応できるだけの能力と時間とお金と余裕が有れば 団体生活をしながらにして全員がけっこうわがままに暮らせて行ける。 団体生活だからワガママが許されないわけじゃない。 他人の好き勝手に対応できるだけの 能力や時間やお金や体力や精神力や決まりがない状態であるから ワガママを許せない。 そう思う。 個人主義にしても全体主義にしても、どっちにしたってそれぞれ、うまく行く。
どっちがダメでどっちがイイというわけじゃない。 だけどそれぞれをヨクナイ感じで中途半端に混ぜるとイヤな事が起きる。 二人が協力してお湯を混ぜて 五十度のお湯を作るという目的があるとき。 五十度のお湯と五十度をお湯を用意して混合させることと。 百度のお湯とゼロ度の水を用意して混合した結果は、同じ量の同じ温度のお湯ができるかもしれない。 だけれども、 百度のお湯と五十度のお湯を混合させては、 五十度のお湯ができない。 七十五度くらいになっちゃう。 百度のお湯を用意した側は、「もっと温度下げて0度にして持ってこいよ。あなたがゼロ度の水を持ってくると思ったからこっちは百度のお湯を用意したんだよ!」と相手に思うし、 五十度のお湯を用意した側は、「五十度のお湯を最終的に作るのに、何極まった温度のお湯を持ってきてんの?常識で考えなさいよ。あんたグレーゾーンというのも覚えなさいよ。0か百かじゃなくて中間を覚えなさいよ。お互いに五十度のお湯を持ってくれば、それで五十度のお湯ができるでしょう。」と相手に対して思う。 極まったやり方の生き方をしている人と
中庸のやり方の生き方をしている人とでは折り合いがつきにくいと思う。 どちらにしても自分勝手だと僕は思う。 自分を抑えて、相手に合わせても、それで別に自分勝手でなくなったわけではない。 自我を抑えて、何かの常識やマナーに合わせたところで、 その人は自分勝手ではなくなれるわけではない。 自分勝手な自分を抑えて、誰かの思想に乗り換えたからと言って自分勝手でなくなったわけではないと思う。 生きている限り優しくても厳しくても 譲っていても求めていても 自分の意見で生きていても、他人の意見で生きていても やっぱりみんな自分勝手だと思う。 自分勝手がいいと思う。 自分勝手であるという点は責めるべき点ではないと思う。 何かに合わせたところで、それもやっぱり神様から見ればひとつのひとりの人間の勝手なのだから。 何かをするというのも、
何かをしないというのも、どちらにしても自分勝手だと思う。 常識を踏まえ、マナーを守り、ルールを守り自分を制御できる人も、 その人はそういう「自分勝手ではない」という名の自分勝手さを持っている1人の生物なのだと思う。 何勝手に、常識踏まえちゃってんの?マナー守っちゃってんの?ルール守っちゃってんの?自分を制御できちゃってんの? それらができない人のこと考えているの? という話だ。 自分勝手さを責めるのではなくて、
自分の自分勝手さや他人の自分勝手さを許容してゆければそれでいいんだと思う。 なんでも許せばいいというわけじゃないけど。 非常識的な人も勝手だけど 常識的な人も勝手だって話。 みんな勝手に生きているし、みんな勝手でいいのよって話でした。 みんなが自分勝手に生き生きと自分らしく生きていられるのが、一番素敵で一番おもしろいと思う。 もちろん合わせなくちゃならない、合わせた方がいい、部分とか、決まりとか、そういう場面はあるけれど。 |
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[事件内容]
埼玉県で、1人の一歳の男の子が死にました。
20代の両親を逮捕されました。 その両親が衰弱死させた疑いが持たれた。 その両親は「子供が泣いていたらミルクをあげていた、泣かなかったら何も与えなかった」 などと供述しました。 参考リンク
・ニュース速報Japnan → https://breaking-news.jp/2018/05/16/040675
[本文]
「子どもが泣いていたらミルクをあげていた、泣かなかったら何も与えなかった」
って言葉を聞いて、僕も「あれ?赤ちゃんってどういう頻度でどういうタイミングで栄養を与えればいいんだろ?知らないや。」 と思った。 親としての責任がうんぬんの問題じゃなくて… これは、知識の問題でしょ?と思った。 どんなに責任感を強く感じていても、どんなに愛が有っても知識がなければ死なせてしまう。 僕がバタフライ効果を期待して羽ばたいた
「本人のメッセージを信じて」という言葉が、良くない現象を引き起こしたのかもしれない。 赤ちゃんのメッセージを忠実に聞いていたら、赤ちゃんは死んでしまうことが この事件を見てわかった。 自分の両親に、「泣いたときだけミルクをあげていたら赤ちゃんって死んじゃうの?」と訊いたら
「いっぱい泣く子だったら死なないけど、あんまり泣かなかったら死んじゃうね」とノーマルな感じで応えてくれた。 それを聞いて「そっか。なるほど。物体として見ればいいんだ。」とハッとした。 どんなに可愛くても、どんなに自分が責任を感じていても、どんなに愛情を感じても
やっぱり赤ちゃんも「物体」だ。 その体重分を…その臓器分を…その筋肉分を…その骨分を…その皮膚分を…保つために必要な分量の栄養が 体内へと入り込まなくては その体(物)は、体を維持できなくなる(死亡する)。 なんでこんな簡単なことがわからなくなっていたんだろう僕は…と思った。 これは引っかけで…大切にし過ぎるから、人間として大切にし過ぎるから、愛情を持ちすぎるから、責任感に潰されてしまうほど 責任を感じてしまうから起きる「盲目」「とんちんかん」かなって思った。 この事件がどのような経緯で起きたかはわからない。 言えるのは少なくとも僕が何か月か前の時点で、一人ぼっちで知識を持たないままで親になっていたら この事件と同じ現象の事件を起こしていたということ。 「メッセージ論」に「フィードバック説」に注意。
現象が起きてからの反応で、ほんとうにごめんなさい。 また、未来に起きる事件を予測できなかったです。 防げなかったです。 ほんとうに申し訳がありません。 僕の、「羽ばたき」(メッセージ論を広める活動)の良くない面について予防線を張れていなくて申し訳ありませんでした。
「メッセージ論」「フィードバック説」(あらゆることを、メッセージや啓示として受け取る考え方生き方) は素晴らしい論であり説であるけれども、物事にはほとんど副作用があるわけで。 この事件での現象はもしかすると、その副作用の部分が起こしてしまった事件なのかもしれないと思いました。 この埼玉県桶川市で起きた事件…どのタイミングでどの頻度で栄養を与えればいいのかがわからないからという理由のみで起きたとは思えない。
だけど、知識不足の側面がゼロだとも言えない。 僕が広めようとしてしてきた「メッセージ論」の影響がゼロだったとも言えない。 当事者たちには、なにかもっと他に経緯や気持ちがあったのだろうと思う。
僕が反省していることがらって、可能性としては薄いかもしれない。
以下の記事を読んでそう感じました。
http://www.jprime.jp/articles/print/12469 可能性だけを、外側から考えると色々と見えてくると思うのですが…。
その中のひとつの可能性でした。
僕の目には、この事件はこのように見えて、僕はこのような反省をして謝罪をしたという記事でした。
まったくもってハズレていたならば、両親や本人には申し訳ありません。
外側からありもしないことで、ゴチャゴチャと勝手に言ってしまってごめんなさい。
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「○○は良くてバツバツがダメ」とか
「○○は大人的で社会的で、バツバツは子供的」とかを 今、僕がいっぱい他人から押し付けられているのはきっと、 僕が小学生中学生の頃にそういうことを周囲の人にも自分自身にもいっぱい押し付けてきたからなのだろうと思う。 それが廻り巡って自分に還ってきているんだろうな〜と思ってる。 現在の僕は、あらゆる前提や、あらゆる社会的な物差しを捨てた状態に居る。
良いも悪いも…わからないよねという姿勢で生きている。 塞翁が馬という思想を、大きい小さい構わずにほんとうにあらゆることがらにおいて使っている状態。 言ってみれば使いすぎている状態。 何が正解で何が間違いか。
何が常識で何が非常識かは、その場その場で変わるのに。 小学生、中学生当時の僕は この世にはどこへ行っても通用する万能の知識、常識、マナー、ルール、考え方、やり方があると感じていて、そう信じていた。 社会性や常識や常識的に見られてオトナ的に見られることに必死だった。 あまりにも必死で、自分にだけではなくて周りの人にも押し付けていた。 そして今。
僕は、「この世には決まりきった常識やマナーやルールはない」という常識を他人に押し付けようとしているのだ。 結局はやっていることが同じ。進歩がない。 もしかしたら、この世には決まりきった常識があるのかも知れないのに。 結局のところわからない。 「そんなの常識でしょ」というその常識があるのかないのか。 わかるのは、「これが常識だ」と信じている人が居ることと「すべての場面に通用するやり方なんてないよ」と知っている人が居るということだ。 常識だ!という言葉を使う人は…きっと
誰に対してもどこでも当てはまる価値観があると信じている人なのか信じたい人なのかな? と僕は個人的に予想している。 そういう、「確か」なものさしを手にして、自信満々に胸を張った状態で生きたい人なのかな? と僕は予想している。 世間様に胸を張って生きたいのかな?と。 (ちなみに 僕は個人的に、「世間様」というものを、妖怪の一種だと認識していて その妖怪のために何かをしたいとは、今では思っていない。 妖怪のことは妖怪だと認識している。) 「誰に対しても当てはまる価値観がある」と言う人も居れば、 「誰に対しても当てはまる価値観なんてないよ」と言う人も居る。 僕にはそこまでしかわからない。 誰に対しても当てはまる価値観が、実際にはあるのかないのか…それは僕にはわからない。 そこにリンゴがあるのが見えるとき、 リンゴが実際にそこにあるかどうかはわからない。 リンゴがあると見えていることは、そのままそのとおりだろうけど。 リンゴがあるように見えているだけかもしれない。 実際に触ってみて、触覚で感じても
それでもそこにリンゴがあるかどうかはわからない。 でもリンゴがあると感じたということは、そのままそのとおりなのだろう。 でも、「そこにリンゴがあるように見えた。そして触れたら重さを感じて手触りも感じた。」 という「そう見えた。そう感じた。」というだけで ホントにあるかどうかは、やっぱりわからない。 もしも他の人がみんな同じように感じても…。
それでも、みんなが「そう見えた。そう感じた。」だけで ホントにそこにあるかどうかは…やっぱりわからない。 そうやって僕は考えるから、僕は僕のことも誰のことも信じない。 いろんなことが、僕にはわからないし、僕はいろんなことを信じない。 |


