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安心と安全は違う。
安心は、お客側が「大丈夫ね」と感じていること。 安全は、事実として大丈夫であるということ。 前者は感情のことで、後者は事実のこと。 会社とか、サービス業において
安心と安全をどう考えればいいのか。 社会性とは何なのか。 社会性とは、「事実として安全であることを確保するとともに、見え方として安全そうに見えるように見せたり説明したりすること」
なのだと思う。 事実としてバッチリ安全であるだけでは足りないように感じる。 たとえば
99%の安全度合いで、80%の安心度合いと。 95%の安全度合いで、90%の安心度合いと。 ふたつの選択肢があるときに、どちらを選ぶのがより良いか。 どちらを選ぶのがより社会性が高いと言えるのか。 要は、内側と外側。 内実と表面。 どうであるかとどう見えるか。 機能かデザインかとも言い換えられる。 もの作りや食べ物のの業界においては、前者の選択が。
サービス業においては後者がより良い選択だと言えるのではないだろうか。 ものとか食べ物に関しては、どう見えるのかどうアピールするのかとかよりも
とにかく事実として安全であることを優先させることが重要であるように筆者には思えた。 それでも、アピール(印象の工夫)も大事だと思う。 サービス業においては、「行為」「動き」を与える仕事だから 事実としての安全はそこそこに、お客に安心感を与えることがより比重が大きいように筆者には感じられる。 事実だけでなく感覚が重要であると。 もちろん、安全度合いも安心度合いも両方99に近い方がいいだろうが。 もしも安全と安心がトレードオフの関係にあるときにはその割合を考えなければならなくなる。 事実としての安全性を高めることに集中すると、 見栄えとしてなんだか安全そうに見えなくなってしまう とかいうときに お客を安心させるために、少しだけ事実としての安全さへの注力をゆるめて 「安全そうに見える」工夫へ注力した方がかえってお客にとってはいいというケースもあると思う。 社会とは、社会性とは 「どう見えるか」という表面に関するところ、印象に関するところが、大きいのではなかろうかと遅ればせながら気付いた。 筆者は個人的には、内実が大事で「よく見せる」「取り繕う」というのが嫌いだった。
しかし、人間にはいろいろなタイプが居て…。 どう見えるかを重要視する人も居るのだ。 つまり、そういうお客様も居るということ。 そして印象(安心感)を重要視する人はきっと多い。 人間はロボットではないから、感性や感覚も使いながら生きるのだから。 見えない部分は見えないのだからどうにもならない。見える部分で判断するしかない。 ハラハラさせられるよりも安心していられる方を選ぶお客様の方が圧倒的に多いと思われる。 安全だけではなくて、
安心への気配りは大事だ。 安全度合いが99なのに、 ありのままをアピールすることをせずに良さを見せることができず、 安心度合いが20なんてことが起きていたらもったいなすぎる。 どんなに事実として安全でも、外側から見ての安心感が20だったらお客側は 「20くらいの安全さなのね」と感じてしまう。 内実だけに気を配るだけではうまくいくものもうまくいかなくなってしまう。 学校での生活や社会生活を経て僕は 内実だけに気を配ればいいはずだとは思わなくなった。 |
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起きてしまった結果、事実がどうであるかよりもその人の概念的居場所に注目したい。
周囲の人々が、周囲の制度が、周囲の人々の心がけが変わらない限り、何度でも同じことが起きると思う。 既に起きてしまったからと言って、過去を取り戻そうとすることを諦めない方がいいと思った。 過去と現在と未来を繋ぎたい。 ゆるしてと言っていた。
それがピントだと思う。 幽閉されて、「ゆるしてください」と願いながら死んでしまった子供の事件について。 何も言わないというのは、1人の大人としてそれこそネグレクトになってしまうなと気付いて 何か書こうと思いました。 僕が被害者や加害者の気持ちになって考えても 思いやっても、ハズレてしまったり、勘違いが入ってしまうかもしれないけれど。 だからと言って、何も言わないのは、虐待になってしまう。 まず、被害者の子が何を望まないかと言えばきっと
自分のお父さんとお母さんが責められることだろうなと予想しました。 どんなに酷いことされたって、親のことを嫌えない子がほとんどだから。 だからまずもって、大人の一人である僕は 加害者であるお父様もお母様も責めない。 その子が…彼女が書いていた「ゆるしてください」という言葉がヒントだと思った。 ゆるす?ゆるさない? なんのこと?と思ったけど。 お父様はなんで自分の子どもに酷い扱いをすることになったの?と思ったけど。 はずれる可能性も知りながらも予測してみるならば。 お父様は自分自身のことを、「ゆるせなかった」のではないかな?と僕は予想してみた。 なにをゆるせなかったのか…それはわからないけれど。 きっと周囲の人や、社会が お父様のことをゆるさなかったのだろうなと。 だから自分で自分をゆるせなくなって。 自分の化身である、自分の子どものこともゆるせなくなったのだろうなと。 …全部はずれかもしれないけど。 親が自分の子どもを、自分の化身だと感じてしまうという良くない落とし穴は
よく生まれる落とし穴。 自分の延長線上だと感じてしまうという落とし穴。 たとえ、自分の体の遺伝子を半分受け継いでいるからと言っても、 別の人物。 別の人物だっていうのを思い知るためのひとつの方法は、 占いだと思う。 生まれた年、生まれた月、生まれた日、生まれた時間で占ってみれば その子が、親とは全然違う運勢を身にまとっているとわかる。 占いの内容までわからなくても 内容を信じたって信じなくたってそれはどうでもよくて。 「自分と自分の子供は全然違う人なんだ」ってわかればそれだけでいい。 占いっていうのを、そういう使い方をするのは十分にアリだと思う。 [まとめ]
僕が予想した問題点はふたつ。 ・人々が厳しすぎる ・自分の子どもを自分の延長線上ではないんだと意識するための方法が現在の社会には 必須で通る仕組みとして用意されていない (兄弟姉妹が少なくて一人っ子が増えているから、自分の子どもを自分の延長線上として捉えてしまうという罠に引っかかってしまう親は増えているはず増えていくはず) 注意したい点は ・加害者である父親も母親も、これ以上責めないこと (この事件の以前から、既に大量に社会から責められて許されてこなかったはずだから) (被害者である子が、自分の母親や父親が責められることを望んでいるはずはないから) ※この記事内での予想、憶測、心理分析は知っている限りの情報でしたものであって 必ず当たっているわけではないです。 一人の大人として、一人の人としての、考えと意見を表したものです。 |
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占いってものを、どうやって扱えばいいのか。
他の二つの要素「現状や現実」と「本人の意志」と組み合わせるといいと考えた。 ・占いの結果…大自然や大宇宙がその人の心にまとわせてきた運命 ・現実や現状…目に見えて形として現れている事・物・体・現象 ・本人の意志…現実とか現状とか占いの結果とかとは、必ずしも一致していない本人が何をやりたいのかどうでありたいのかという心 占いの結果を、その人に対してただ伝えるだけ、ただ押し付けるだけでは その人は占いの結果をどのように実際の自分の生活に活かせばいいのかがわからない。 どのように活用すればいいのかわからないままに、ただ占いの結果をふむふむと聞くしかない。 どうすれば、占いを最もうまく活用できるのか。 ・その人が心の中で「何に悩んでいるのか、何をどうしたいのか」を明らかにすること。
(主観的なありのままの本人の意志) ・また「この時代には世界全体、国全体にはどのような事実や流れや決まりや事情や通念や慣習や文化があるのか。 そして、その人個人の近くでどのような現状が立ちはだかっているのか その人個人の近くでどのような問題が起きているのか。」も明らかにすること。 (客観的なありのまま現実や現状) ・いくつもの占術によって一つの魂にまとわりついているあらゆる運勢・目には見えない流れを調べ明らかにして (多角的占いの結果) 以上のそれら三つの側面を揃わせる必要がある。 占いの結果は三つの側面のひとつの側面にしか過ぎない。 でも、三つの側面をそれぞれに明らかにさせて、揃っただけでも、それでもまだ足りなくて… 三つの側面を上手につなぎ合わせてゆく必要がある。 そのときに注意したいのは、 「一般のイメージとしての現実世界の知識」というのと「その人の近くで起きている現状」には差があることもあるということ。 実際にやってみないとわからないこともあるから その本人が実際に生きてきてぶち当たってきて身に染みて、頭に染みて知っている「現実」も 頼りにすること。 実際にやってみた人にしかわからない、正確な現実・現状というものがある。 それら3つの側面を意識しながら、『じゃあどうすればいいのか』を作ってゆく。
そこまでできれば占いを最もうまく活用できたと言えるのだと思う。 占いの結果が宙に浮いたままでは、活用できたとは言えない。 現実を無視して占いの結果だけに従って突っ走っても
占いを無視して現実だけを見つめて突っ走っても 自分の意志を自分で知らぬままに生きていても 「うまくいく」ことはなかなかないはず。 |
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思い入れ・気持ち・思いやり。
そういうものって、人間に対してやっちゃうとときに危ない。 自分自身の思いや気持ちを
相手に入れたり(その人のものではないものを外側から注入する) 相手にやったり(その人のものではないものを外側から強制的に与える) するということだから。 生物である動物や、人形や物などの非生物などの 人間以外の何かに対して 思いを入れていたり、思いをやったりしているなら まだ収まりが良くて 付喪神やもったいないお化けなどの まぁ良質な怪異という形を取る。 だけど、人間に対して
思い入れをしたり思いやりをした場合の内 その思い入れや思いやりが 対象の人間にとって「迷惑」とか「ハズレ」とかの場合始末が悪い。 その人間の思いや気持ちではない思いや気持ちを 外側から無理やりに注入したり 背負わせたり、強制的に与えたりしているのだから。 血液が適合していない場合は、その人は死んでしまうように。
思いが適合していない場合は、その心は壊れてしまう。 親は子供のことを、自分の人形のように扱ってはならない。 親は子供のことを、自分とは違う一人の人物として扱い 「その」生体に必要な栄養とケアを与え 「その」心や魂が何を求めるのかを見極め、ソレを適切な量を適切なタイミングで 与える必要がある。 自分が与えたいものを与えるのではなく。 与えたくないものを与えないのではなく。 相手の心や相手の体が欲しがるもの(デマンド)や、 相手の心や相手の体が必要としているもの(ニーズ)を与える。 そして、デマンドに関してはたとえ本人が欲しがっていても
与えてはならないときがある。 相手に必要のないものや適合していないものを押し付けることは
その人のその人らしい成長を妨げてしまう。 |
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すごく好きな人のことを、 すごくキライとも思うときがある。 それはなんでかなって。 それは、すごく好きな人が自分の想いに沿うような形で
自分の想いが叶うような形で 返してくれないから。 でも、それはとってもわがままなこと。 欲しいと願って欲しいと願ったものを与えてくれないから 与えてくれない人を嫌うこと。 憎むこと。 「罪な人」って言葉は、わがままな言葉だ。
好きになったその相手の人が悪いわけじゃない。 その人がその人らしく、その人が持っている特徴を示すことは 悪いことじゃない。 その人はそういう人なのだ。 ぼくがその人の、「そういうところ」を好きになってしまうことの方が悪いのだ。
その人が悪いんじゃなくて、好きになってしまったぼくの方が悪い。 その人がその人らしくただ生きていて過ごしていて それを責め立てるのはオカシイ。 責めているぼくの方がオカシイ。 そんな優しくしたら…好きになってしまうではないか、やめてほしい と心で悲痛に思っていても それは自分が悪いのだ。 すぐに人のことを好きになってしまったり恋にすぐに落ちてしまう自分が悪い。 人のいいところを見つけてしまう自分が悪い。 その人は、優しくしたいから優しくしただけで、それは罪ではない。 もう、相手を責めるのはやめようと思った。 まず、自分が相手を「キライ」とか「罪な人だ」とか言う言葉で責めていることに気付いて そしてその意味を知って それをやめようと思った。 その順番で、そう思った。 好きという気持ちは好きだけれど。 メリットよりもデメリットが上回ってきた頃には もう本気で「この恋心を平常な状態にしたい」って切に願うようになった。 もちろん、その恋心が叶うんだったら叶ってそれでハッピーであって それでいいのだけれども。 別に平常にしたり、打ち消したりする必要もないのだけれども。 叶わない恋に関してはどうにか対処しなくっちゃ。
どうにかして平常で居たい。 完全に恋心を失くしたいわけじゃない。 持ったまますごく自然な形で、平常で居たい。 恋というものを、ダークなものをいっぱい積み重ねて取り囲んで 打ち消そうと試みていた時もあった。 だけれど、そもそも恋ってものはホワイトなものじゃなかったのだと思う。 ダークとホワイトが両方含まれている…もしくは 両方から無関係なものだと今では考えている。 そもそもホワイト的なものでないものを、ダークで打ち消せるわけもない。
打ち消そうという発想とか手法自体は悪くないものだったけれども そもそも「恋」というものの特性(属性・性質・タイプ)を見誤っていたんだろうと今では思える。 好きな人を好きでなくなれますように。
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