はむねまぼるのブログ

作詞作曲をしています。介護のことも書きます。強迫性障碍のことも。

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ゼロネス

子供のころに、親戚の家に行くと
妙な安心感があった。
旧家的な家の作りがあったからかもしれないし。
そうではなくて、自分の血筋の元の場所だからだったかもしれなかった。
その感覚は、きっとワンネスであって
もしくはそれを超えたゼロネスだったのかもしれない。

魔法の在り処が分かった気がする。
九星占術を知ったからそう感じているのだと思う。
九星占術は方位に関することを占える。
方向…場所。
他の占術よりも
この現実世界により噛み合わせられる占術であるように考えられる。

この街はこういう街、この街はこういう街。
その場所は、あぁいう街とそういう街のつなぎ目の場所…とか。
だから霊的に心理的に○○なものが集まりやすいだとか。
「場所」「方位」に関することを
イメージしてそのイメージが現実世界の実際の「場所」と
噛み合わせられているこの感覚を今感じている。
これもひとつのワンネスと言えそうだ。

宇宙と直接的に繋がっている感覚。
それをワンネスよりも強烈なゼロネスという造語で表してみたい。
そう思った。

自分自身は九星占術では、八白土星なのだけれども。
山のイメージだそう。
山の頂きに立っているうちはまだ足が地面に着いているからいいけど。
そこからもっともっと「その山における極み」へ登っていくと
足が地面から離れて、頂よりさらに上の上空へ行ってしまうような気がしている。
次第に行き過ぎれば宇宙へ行き。
まだ地球から近い宇宙空間ならばいいけど、それを超えると地球から離れすぎてしまう感じ。
もはや、この地球上での現世と距離がありすぎて
自分の心と、この現世との擦り合わせがしにくくなってくる感じ。
あんまり高みへ行き過ぎても、困るもののようだ。

以前、オリジナルの小説として「ワカメの国」という小説を書いたが。
動機とテーマは安心感のは居所だった。
それより以前の幼い頃に感じていたワンネスやゼロネスを感じにくくなってしまった時期
(中学生・高校生・大学生)に書いていた。
そして現在、再び、ワンネスやゼロネスを感じ取れている。
以前はそれがそれと知らずに感じ取っていた感があったが。
現在は、それがどういう名前であって
どのような条件が揃うと味わえるのかを知りながら感じ取っている感じがある。

「道」と書いて「とう」と呼ぶ場合は、
エネルギーの太い通り道みたいな意味合いとなるそうだが。
その大きな「道」と繋がれたときに
ワンネスやゼロネスを感じ取れると、今は理解している。
12支で言えば、自分のひとつ手前の12支と繋がれたとき(隣り合えたとき・出会えているとき)。
五行で言えば、自分のひとつ手前の行と繋がれたとき。
血筋で言えば、自分のひとつorふたつ手前の先祖と繋がれたとき。
そういうときに世界と繋がれている安心感覚(ワンネス)や宇宙と繋がれている安心感覚(ゼロネス)を
感じとれるのであろうと現在では確信している。

小説「ワカメの国」で求めていた回答を、僕は今得られたようだ。

マルゴト

マルゴト

きみのこころをマルゴト欲しい
きみの愛情をマルゴト欲しい
どこに売ってる? 誰から買える?

きみのコーヒーをマルゴト欲しい
きみのポテチをマルゴト欲しい
きみが持ってる オイシイところ
ゼンブ ゼンブ 奪ってしまいたい

雑草のように 次から次へと
生えてくる欲しい を刈り込んで

「欲しい」がそのまま ぼくの愛情で
「欲しい」はそのまま ぼくの恋情で
それは 至って ぼくの感情
それは 至って ただの幸福

「欲しい」がそのまま いまの自分で
「欲しい」はそのまま 日々の力で
叶わなくたって ぜんぜん平気
叶わなくたって 至って健康!

きみがぜんぶ くれるから
きみがは「あい」とやらを くれているから

愛情 感情 純情 要らない
愛情 感情 純情 に満ちて
愛情 感情 純情 に生きる
恋は満たされて フリーダムに成る

束縛しないから 束縛されない
束縛されないから 束縛しない
ぼくはフリーで きみもフリーだ
現実も 真実も もうぼくは要らない
いい人で居たい。
社会的に適合者で居たい。

そうやって願っている。

だけど、それらは強迫観念なのだと思う。
イイ人で居なければならない。
社会的に適合者で居なければならない。
強迫観念としても、持っている。

だから、それに対して曝露してゆくことになる。
だから、イヤな人だと思われるような言動をわざとする。
社会的に不適合的な方向へわざと向かってみる。

たしかにそうやってやってゆけば、
神経質さは薄まってゆく。
強迫的なところは薄まってゆく。
強迫性障碍への対処法としては、たしかに効果があるのだけれども。

まぁ、フツーにつらいよね。
相手からイヤなやつだと思われるって。
そうしたいからそうしてるわけじゃなくて、治療としてそれをやっているわけだけど。
相手はそんなの知らないから、ただのイヤなやつって思うだけだ。

治療として、オトナらしく振舞わなかったり
社会的に不適合な方向の言動を選んだり
しているわけだけれども。
あえて。
でも相手はそんなの知らないから、「なんて子供っぽいんだ。オトナのくせに。そんなこともできないのか、知らないのか。」
ってイライラするだけなんだよね。

そういうイライラを僕は受け取ることになる。
やっぱり、当たり前だけど、それはつらいこと。
つらいけど…、それらは「治療の副作用」だから、我慢してゆく。

曝露法をすることによって、確かに過剰な神経質さというのは薄まっているのだから。
主作用はちゃんと得られている。
副作用も我慢して受け取らなくてはならない。

相手がイヤな気持ちになることも、自分がイヤな気持ちになることも。
副作用。
主作用は、僕が異常なまで神経質ではなくなって
とりあえずはなんとか生活とか仕事とか社会活動を行うことができるということ。
行えてはいても相手を不快にさせたり
自分もそれでつらかったりしているけど…でも、「なんとか」できてるかできてないかと言えば
たしかにできてはいる。
主作用はちゃんと得られているんだ。

世の中には、様々な思い込みがある。
○○でなければならないというもの。
大人はオトナらしくふるまわなくてはならないとか。
社会人は社会人らしくなくてはならないとか。

子供らしい子供が、オトナらしい大人へと成長してゆくという
わかりやすい物語の中に僕も入りたくなることがある。

でも、僕が子供らしい子供だったことなんてはなからないし。
オトナらしい大人で居ることも、禁じられているわけだし。
そんなわかりやすい物語には僕は居ることを許されていない。
その路線の運命の上には残念ながら居ない。

オトナらしいも、コドモらしいも、そういう言葉に僕がカチンと来ようが来まいが関係なく
僕はそれらの言葉のある物語の上には、はなから居られていない。
それを受け入れていくことしかきっと道はないのだと思う。
それが定められた運命。
この命に与えられた役割であり、そういう星の座りの下に生まれた。
座り直しをしたいならば、一度死ぬしかない。

イイ人で居ることも、オトナらしく居ることも、社会適合的であることも
許されてはいない。
そういう条件の下で生きなくてはならない。

他の人がそんなことを何も知らずに
僕のことをあぁだこうだと言っていたり、嫌っていたり、していても
僕はそれらを「別の物語の中の人から見ると、そういう風に見えるんだ。」と
単純に認識して進んでゆくしかない。

「イイ人で居たいならば、いい人になる努力をしろ。
好かれたいならば、好かれる努力をしろ。
社会適合的になりたいならば、そう努力をすればいいじゃないか。
きみの○○なところが問題なんだ。」と
そう言われたとしても、
その○○の問題を修正すること自体が禁じられているから、修正したくても、できない。
強迫観念に対して曝露することに忠実になれば
努力をするってこと自体が、やんわりほとんど禁止。
努力したくても、できない。
努力ってやつをするには、どうしても、強迫的な観念をエネルギー源として持つことが必須だから(僕にとっては)。

努力をすることも許されていない。

そういうのを全部自分一人で飲み込んで。
相手が、何を言っていても、何を注意してきていても、何に怒っていても。
僕自身がそれらに応えられないことをつらいと思っていても。
それでも、耐えるしかない。

良くなることも、悪くなることも
良くならないことも、悪くならないことも、禁止なのだから。
弱い念しか使えないというのは、ほとんどそういうことだと思う。

そういうのを、何年も続けているけど。
これからも続けていくけど。
ただ、ときどき、どうしようもなくすごくつらくなることがあるなって思った。
つらいのをつらいって言いたいなって思った。
もちろん初めから耐えるつもりで居るけど、ただ、つらいなって。
耐えるんだけど、たぶん耐えられるんだけど、つらいなって。

イイ人になりたいって強く思ってしまったが最後
行動としてはその逆をやる必要が出るという、この仕組み。
イヤになる。
興味深いし、或る意味面白いのはたしかだけど。
ときどきイヤになる。

僕はやっぱりいい人だって思われたい人。
イイ人だっていう自己イメージを持っていたい人。
だからつらい。

たぶん、誰も悪くない。
僕が異常なまでに神経質であることも、それに対する治療法をしなければならないことも
それによって相手がイヤな気分になることも、それを見てそれを感じて僕自身の方もイヤな気分になったりつらくなることもどれもこれも、
誰かが悪いんじゃない。
そして、おそらくだけど、僕自身が悪いんでもないと思う。

根っこは僕が異常なまでに神経質(強迫性障碍)であるというところから始まっていて
そしてそれと
僕自身の性格とかマインドとかココロとかが未熟なままに(ほとんど成長することは許されていない)
絡んでいることが原因なのだけれども。

未熟な自分のココロとか感情を発達させたいと願うけど。
そのこと自体が強迫観念だと思われるから、それをできない。
強制的なブレーキ。
唯一の進める道を、協力に真っ向から壁を立てる必要性も、同時に常にあるというジレンマ。

だから…つまり…、僕は成長してはならない人なのだろう。
大人になってはならない人なのだろう。
そうだとわかれば、それはそれで、決心して生きてゆけるものだとなと思う。
そうだとちゃんとわかったから、それはそれで、決心して生きてゆける。
それならばそういう種類の生き方で生きてゆこうと。

スタンダードな物語の中の、スタンダードな考え方での、スタンダードな生き方じゃなくても。
スタンダードではない生き方の中でしか、自分という生物は生きられないのならば
それで生きてゆくしかない。

詩「すきらい」


花占い みたいにね
ぼくは心をすり減らしてゆく
花びらを一枚一枚落としていかなくちゃ
このきもちに整理はつかない

だけど そんな整理をしてても
最後に 回答なんて 得られない

すき きらい すき きらい
すき きらい すき きらい

―すきらい―。

「好き」って言葉で取りこぼした想いを
「キライ」って言葉で掬い取った

「キライ」って言葉でガン無視した想い
「好き」って言葉で帳尻合わせといた

―すきらい―
―すきらい―

わかったよ これは病だって
治らない病もあるんだって

恋っていうのが なにか知らなくて
なぜかソレに惹き込まれてた
青春の日々 心の哲学で探る
必死に探った キラキラの在り処

恋っていうのが なにかを知って
もうソレからは離れていようと
踏ん切りを付けて 飛び立とうとした
だけど 惑星には引力がある

恋ってものはポジティブじゃなくて
恋ってものはネガティブでもある
そう知ったときに 僕はどうする?
「どうしよう!どうしよう!」

やっと出てきたそのコトバ
「そうだよ、どうしよう!、なんだよ…」
これは病 恋患い
不治の病なんですよって

好きって気持ちが
なくなりますよう
これほど心願かけたのに
ぼくの病は治らない

好きとかキライとか
そんな低次元から離れようって
だけど できなかったから
どちらでも居ようって

少年の日々に夢見ていた
そういうキラキラポップなだけじゃない
そういう恋に成りました
実家住まいする若者たち

昭和の時代は、「お父さん」だとか「お母さん」だとかの「役割」に依存していた時代なのかなぁなんて思った。
つまり、役割にこそアイデンティティを置いていた。
そこしか置くとこがなかった。
そこにこそ置くことを「時代」というものが迫った。
そういう時代だったのかなぁと。

なんでそんなことを思ったのかと言えば、対象として平成という時代を考えたから。
平成の時代において、実家暮らしの若者は多い。
わざわざ実家から出て独り暮らしをする人の方が珍しがられるケースさえあるのだという話を聞いて、そこまで時代は変わったのかと驚いた。

もしも神様が居るとして、その神様が「時代」を通してわれわれ人間の姿形を持った魂達にどんなメッセージを送っているのかと考えた。
どんなことを魂達にさせたがっているのか。
『介護』というキーワードも投入して考えてみたら、見えてきた。
―神様は、我々に「家族というものについてもう少し本腰を据えて考えてみなさい」と言っているのではないだろうか。

いろいろなことが社会化していった平成という時代。
介護は本来的には、家族が行うものとされてきたのが昭和以前の時代のやり方だったよう。
それが、「看護師」や「介護者」がそれで金をもらっている職業として興(おき)てきた。
高齢者に対する介護(自分の親の介護)が家庭の中から、家庭の外側へ移行していった。
ただ、国は現在(平成30年)の時点では介護を家庭の中へ戻そうとしたりしているが。

医療技術や新しい薬が開発されてゆき、人間の寿命が伸びた。
延びてしまったとも言える。
「私の役割は終わったわ…!それではさようなら!」と感動と涙のグッバイを言っても…
そっからが長い。
寿命が伸ばされてしまったがゆえに、自分に与えられた役割がもうないのにも関わらず
命だけは続くという期間が生まれてしまった。

自分にとっての「お母さん」は、実は「お母さん」という人物ではない。
「〇〇〇〇」という一人の人物である。
自分にとっての「お父さん」は、実は「お父さん」という名前の人物ではない。
「おやじ」という名前を持つ生物でもない。
おふくろだとかおやじだとか、母とか父とか、ママとかパパというのは
名前ではなくて役割名である。
役職名である。

―神様は、「役割名じゃなくて、1人の人としての名前としての両親というものを考えなさい」と言っているのではないか?と僕は感じた。

母、父、娘、息子だとかそういう役割でベタベタとくっついてしまっていては
或る時期はうまく行っていたとしても
とある時期から先はうまく行かなくなってしまうよ…というハードルがこの現代では設けられている。
これまでの時代においてももちろんそのハードルはあっただろうけれども。
医療技術と新しい薬などによって寿命が延びたこの時代においてそのハードルは
今までよりも多く現れているのではかろうか。
そして今までの時代よりもより、高くなっているのではなかろうか。


若者が実家住まいをしている―その行動の心の奥底に何があるだろうか。
生物として学者としての自分が何かに備えていると言えなかろうか。
未来に訪れる、自分の両親の介護をするという場面が現れたときに
娘としての自分が息子としての自分がより自分の両親のことを
役割名だけじゃなくて一人の個人として知っていれば、
遠すぎず近すぎない適切な距離を取れるはず。
もしくは遠すぎくても良い関係性を、近すぎても良い関係性を築くという
特殊技を「その時」が訪れる前の「まだ余裕のある時期」に習得できるはず。

適切な距離を置いて接することができたり、適切ではない距離だとしても
特殊技を使えたりすれば
自分の両親に介護が必要となった「その時」により円滑に介護を進めることができるはず。
そういう生き物としての戦略、学者としての読みを
若者はしているのではなかろうか。

そして国的な目線で言うならば
そうやって親との優れた関係性を結んでおくことは、ひいては
高齢者介護というものを、もしかするともしかすると社会ではなくて家庭内により留めることができることに繋がることとイコールなのかもしれない。
(社会でするのか家庭でするのかどちらがいいことでどちらがわるいことかわからない。)

これからの時代は、より働き手が少なくて
より高齢者の多い時代になっていってしまう。
1人の働き手で何人もの高齢者(親世代達)を支えなくてはならなくなったそのときに
今の若者は無意識に備えているのではなかろうか。

そんなことを僕は考えた。

自分の両親が介護が必要となるときを迎えるその前に
子供として自分が実家に住まいつづけることで「何か」を得られる可能性もあるという見方だ。
実家住まいを続けることは、デメリットばかりではないかもしれないという見方。
親側や子供側にお互いに縛りが多い中で苦しみながら生み出す「やり方」「あり方」は
距離が近すぎるままでもうまくやってゆけるという特殊な技であるはずだ。

距離を近くし続けることで得られる「技」もあるもの。
そのはず。

逆に、メリットばかりではないというのもやはり同じく真実であるはず。
実家住まいをすることで生まれる、縛りや苦しみやフラストレーションなどは
それはそのまま悪い何かを生み出すケースもあるはず。
実家から離れたからこそ、親との新しい距離の取り方、「やり方」「あり方」を
学べるもののはず。
実家を離れたからこそ生まれる「技」もあるもの。
そのはず。

昭和までの時代よりも、より一層これからの時代では
「介護が必要な期間」が伸びているはず。
その期間をどのように過ごせばいいのかについては、思っている以上に難航することが
多いのではなかろうか。
これまで隠れていたことが出てくる。
これまでとは違った関係性を新しく結ばなくてはならない。

「その時」が来る前のまだ余裕が多めの時期に
何が隠れているのか(役割としての親ではなくて個人としてのその人)を先んじて見抜いておいたり
これまでとは違った関係性を先んじて作っておけば
寿命から引き算することの健康寿命という「難しい期間の命」をより和やかにより楽しくよりより穏やかにより充実したものにできるのではなかろうか。
職業としての介護者も家族介護者もにとっても被介護者にとっても。

介護を考える上では、「どのように頼らないか」「どのように頼るか」が重要であるように感じる。
離れることで何かが得られるはず。
離れないことで何かが得られるはず。
離れることでも、離れないことでも、その両方ともで
「個人としての親」(その人物の物語と心のありよう)を見抜き
「個人としての親との新しい関係性」を作ることができるはず。
(大人になったあとで)離れてみることも、
(大人になったあとで)離れないでみることも、重要なはずだ。

昭和までの時代では、一元的に
「実家から離れないこと」に対してデメリットばかりが目立ってきたようであるが。
平成の時代を経て、その次の元号の時代へ移行してゆく中で
「実家から離れないこと」には、デメリットだけではなく「まだ未知であるメリット」がある可能性が出てきたように僕には感じられる。


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