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行き過ぎた、偽の「良」が「善」だと考える事が出来る。
「良」に「自己犠牲」と言う、自らを「無」にする行為で、「良」は「善」と成る。 行き過ぎた「良」は最早(もはや)、「無い物」なのだ。 生物は、「有る物」だろう。 だとすると、「善」を行う者は、「無き者」なのだ。 人間では無い存在なのだ。 人間よりも上級の存在なのだ。 しかしながら、上級だからと言って「善」の者を必ずしも尊敬出来るだろうか。 出来無い事も有るだろう。 悪、大きな悪、とても大きな悪を未経験で「善」を行う人を、「通常なる人」は尊敬出来無い。 「通常なる人」「有なる人」は、自分と同じ状況に成った事が有る人に共感し、尊敬する。 共感と言う段階無しには尊敬は不可能だ。 偽善者と言う言葉がある。 「偽善者」と言う言葉は、「悪なる人」や「良なる人」が、 ちやほやされる、快感を味わう、「悪、大きな悪、とても大きな悪」を経験した事が無い「善を行う人」 を軽蔑する為の言葉だ。 が、「善」には、初めから「偽」と言う概念が含まれると私は考える。 すると、「偽善」は、「偽」と言う意味が重複する。 「偽の良」=「善」だと私は考える。 侮辱の意味が含まれて仕舞いそうな表現をすると、「善」も「聖」も「行き過ぎの悪」「とても行き過ぎの悪」も「怪異」だ。 「通常では無い概念」なのだ。 図の様に、悪と良の間には、仕切りが無いと私は考える。 相互に変換が可能だと私は考える。 戦争に成る要因と言う意味で、「とても大き過ぎる悪」は、悪い存在だ。 が、同じ程に、同じ絶対値で「聖」も戦争に成る要因で、同じ程に悪い存在なのだと私は考える。 守ると言う概念が、攻撃すると言う概念の対象と成る事と同じ感じで。 しかしながら、「大きな悪vs善」「とても大きな悪vs聖」の関係と「衛守、攻撃」の関係を考える時に誤解が生じると考える。 少なくとも私は誤解して居(い)た。 「攻守」では、「攻」が初めに現れて、次に「守」が現れる。 しかしながら、「大きな悪vs善」では、「善」が先に発生する事も有るのだ。 「良い方へ、善い方へ、聖の方へ」と、「悪」を未経験の侭進むと、対抗勢力として、存在しない「悪」「大きな悪」「とても大きな悪」を勝手に頭の中で生み出し始める。 実存するか否かとは、時には無関係に。 悪が危険で有る事は、勿論の事、善、聖も危険なのだ。 「大きな悪」も「大き過ぎる悪」も「善」も「聖」も、どちらも通常なる概念では無い。 付け足しとして、語る。 「悪者」と「悪役」は、異なる。 アニメ「偽物語」かれんビーの一つの場面に「高速道路の下で語る兄と妹」と言う場面が有る。 其(そ)の場面では、兄と妹が互いの意見をぶつけ合う。 其の兄が「御前等が闘う相手は何時だって悪者では無く悪役じゃ無いのか」と言うのだ。 私は、其れをきっかけとして「悪者」と「悪役」を区別し始めた。 「悪者」とは、「悪」だ。 「悪役」は、「善い人が、勝手に生み出した妄想としての悪」なのだ。 (筆者:羽旨魔歩流)
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