はむねまぼるのブログ

作詞作曲をしています。介護のことも書きます。強迫性障碍のことも。

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]

 行き過ぎた、偽の「良」が「善」だと考える事が出来る。
「良」に「自己犠牲」と言う、自らを「無」にする行為で、「良」は「善」と成る。
行き過ぎた「良」は最早(もはや)、「無い物」なのだ。
生物は、「有る物」だろう。
だとすると、「善」を行う者は、「無き者」なのだ。
人間では無い存在なのだ。
人間よりも上級の存在なのだ。
 しかしながら、上級だからと言って「善」の者を必ずしも尊敬出来るだろうか。
出来無い事も有るだろう。
悪、大きな悪、とても大きな悪を未経験で「善」を行う人を、「通常なる人」は尊敬出来無い。
「通常なる人」「有なる人」は、自分と同じ状況に成った事が有る人に共感し、尊敬する。
共感と言う段階無しには尊敬は不可能だ。
 偽善者と言う言葉がある。
「偽善者」と言う言葉は、「悪なる人」や「良なる人」が、
ちやほやされる、快感を味わう、「悪、大きな悪、とても大きな悪」を経験した事が無い「善を行う人」
を軽蔑する為の言葉だ。
が、「善」には、初めから「偽」と言う概念が含まれると私は考える。
すると、「偽善」は、「偽」と言う意味が重複する。
「偽の良」=「善」だと私は考える。
 侮辱の意味が含まれて仕舞いそうな表現をすると、「善」も「聖」も「行き過ぎの悪」「とても行き過ぎの悪」も「怪異」だ。
「通常では無い概念」なのだ。
図の様に、悪と良の間には、仕切りが無いと私は考える。
相互に変換が可能だと私は考える。
戦争に成る要因と言う意味で、「とても大き過ぎる悪」は、悪い存在だ。
が、同じ程に、同じ絶対値で「聖」も戦争に成る要因で、同じ程に悪い存在なのだと私は考える。
守ると言う概念が、攻撃すると言う概念の対象と成る事と同じ感じで。
しかしながら、「大きな悪vs善」「とても大きな悪vs聖」の関係と「衛守、攻撃」の関係を考える時に誤解が生じると考える。
少なくとも私は誤解して居(い)た。
「攻守」では、「攻」が初めに現れて、次に「守」が現れる。
しかしながら、「大きな悪vs善」では、「善」が先に発生する事も有るのだ。
「良い方へ、善い方へ、聖の方へ」と、「悪」を未経験の侭進むと、対抗勢力として、存在しない「悪」「大きな悪」「とても大きな悪」を勝手に頭の中で生み出し始める。
実存するか否かとは、時には無関係に。
悪が危険で有る事は、勿論の事、善、聖も危険なのだ。
「大きな悪」も「大き過ぎる悪」も「善」も「聖」も、どちらも通常なる概念では無い。
 付け足しとして、語る。
「悪者」と「悪役」は、異なる。
アニメ「偽物語」かれんビーの一つの場面に「高速道路の下で語る兄と妹」と言う場面が有る。
其(そ)の場面では、兄と妹が互いの意見をぶつけ合う。
其の兄が「御前等が闘う相手は何時だって悪者では無く悪役じゃ無いのか」と言うのだ。
私は、其れをきっかけとして「悪者」と「悪役」を区別し始めた。
「悪者」とは、「悪」だ。
「悪役」は、「善い人が、勝手に生み出した妄想としての悪」なのだ。
イメージ 1
 
(筆者:羽旨魔歩流)

友を祓う

 
 「友が居ると、社会的に上位。友が居無いと、社会的に下級」と言(い「)う考え方が有る。
其(そ)の考え方を脳内採用していて、なおかつ、社会的に上級者に成りたいと考える人は、友を作りたがる。
「友が居ると、社会的に上位。友が居無いと、社会的に下級」と言う方を脳内採用した上で、
「下級に成りたい」と考える人は、友を作ら無い。
 「祓(はら)う」と言う漢字の旁(つくり)は「友」に見える。
「友に示す」と言う意味を「祓」から読み取れる。
「友に示す」=「はらう」とは…一体全体どの様な思考回路をした人が作った当て字、漢字なのだろうか。
基本として、人は、
「友が居ると、社会的に上位。友が居無いと、社会的に下級」と考えた上で「上級に成りたい」と考えるとする。
其の方が人数が多いと私は予測する。
此の仮定、組合せの上では人は、社会的上級者に上り詰める為に他人に寄り付きたがる。
友達に成る為に。
友に成った後では、社会的上級者に成りたいと言う欲求が満たされた後だから、
もしも「今は近寄ら無いで」と「はらわれて」も素直に応じる事が出来る。
「祓う」事は、「あなたとは友達。だけれども今は、近寄ら無いで」と示す事なのだろう。
「友」と言う前提を踏んだ上での「はらい」なのだ。
「祓」は、「友に成る」と言う段階を踏まずして使う事は出来無いと私は考えた。
「人祓いをする」と言う事は、「あなたとは既に友達」と言う意味を含むと考えると、「人祓い」と言う言葉の酷さが薄れる。
薄れる処(どころ)か、愛情に満ちた言葉だと捉える事が出来ると私は感じる。
 「人祓い」と「人避け・人払い」は異なるのだ。
「人払い」をされたら、「未だあなたとは友では無いです」と言う意味だと捉える事が正しいと私は考え着(つ)いた。
口で発音すると何方(どちら)も「ひとばらい」で同じで紛らわしいのだが違いが有るのだ。
 此の事から私は以下の様な商品を思い付いた。
「人祓い中」ステッカーと「人払い中」ステッカーだ。
「人払い中」ステッカーを見せたら、「貴方(あなた)には、未(ま)だ気を許しては居無い。」
と言う合図。「人祓い中」と言うステッカーを見せたら、「あなたとはもう仲間」と言う合図。
百円ショップで売れそうだ。
が、「人を払い除けるだなんて、残酷っ!」と、批難を浴びそうだ。
其の時は、此の文章へと避難すれば良い。
(筆者:羽旨魔歩流)
 東洋哲学には、5元論が有る。
5元論には、二種類有る。自然的5元論の「五行説」と、
人工的5元論の「五行説」だ。
前事(ぜんじ)の要素は、「木火土金水」。
後事(こうじ)の要素は、「仁信智礼義」だ。
「木=仁」「土=信」「水=智」「火=礼」「金=義」と言う様に相当させる。
此の相当は、此の文章ではずらさ無いで置(お)く。
一般的には(東洋哲学「五行説」自体が現在は一般的な存在では無い。が、其の非一般的な存在の中での一般には)、木、仁をnumber 1 とする。
 しかしながら、歌手「綾香」は異なる。
「信じることですべてが始まる気がするの」と楽曲「believe」の中で歌って居らっしゃる。
「気がする」と言うのだから、「気」は有るのだ。
本人が、歌にして発表すると言う覚悟をして迄(まで)「気」は「する」のだろう。
「信」が起点だと考えると言う考えは一般とは異なる考え方で珍しいのだ。
1.信2.智3.礼4.義5.仁と言う流れに成る。
一般では、1.仁2.信3.智4.礼5.義なのだが。
綾香が言う通(とお)りに、人間の頭の中では、番号として、「信」が一番なのかも知れない。
若しくは、人に寄って順番が異なるのだろう。
 火の気を持つ人は、「礼」から始まる。
金の気を持つ人は、「義」から始まる。
木の気を持つ人は、「仁」から始まる。
土の気を持つ人は、「信」から始まる。
水の気を持つ人は、「智」から始まる。
 目安として、運命として、産まれた日に割り振られた五行を自分の気だと考えると、「自分は何の気から始めれば良いのか」が
判明すると私は考える。
自分の行動の参考に成るだろう。
カレンダーに「きのえね」とか「ひのえうま」とか書いて有る物が有る。
五行の割り振りを調べる為には、「き」「ひ」「つち」「か」「みず」を見る必要が有(あ)る。
「き」は「木」で「ひ」は「火」で「つち」は「つち」で、「か」は「金」、「みず」は「水」だ。
間違え易い事は、「か」を「火」だと認識する事だ。「金」は「きん」と発音するが、「き」がカ行だと言う事で
訛(なま)ったと私は考える。
イメージ 1
(筆者:羽旨魔歩流)

東洋哲学から考えるキリスト教

「キリスト教」も「東洋哲学」も宗教に含まれると私は感じ、考える。
「東洋哲学から考えたキリスト教」はどの様に表現出来るだろうか。
「火剋金」か「木生火」だ。
キリスト教は、「善vs悪」「聖vs悪」「無vs有」の図式で進行する。
「悪なる意思」を「善なる意思」で無き物にすると言う図式だ。
「意思」は、硬い考えと考える。
「硬い」物は、東洋哲学五行説(木火土金水の5つの要素が順番に流れるという説)では「金」
か「木」に分類出来る。
悪なる意思を「金」だとする。
悪なる意思は、キリスト教の良くしようと言う強迫観念に因って崩される事が有る。
此(こ)れが、「火剋金」だ。
 悪なる意思を「木」だとする。
と、薪で火を焚く想像を出来る。
この想像を具体的に表すと、「悪を退治しましょう」と言う共通の目標を持って、
協会に集まり、クリスマスパーティや御祈りと言う行事を行う場面だ。
「共通の目標」が「薪」で、iventが「火」だ。

キリスト教から考える東洋哲学

 一方、キリスト教から「東洋哲学」を考えるとどの様に表現が可能だろうか。
「キリスト教にとっての異教」だ。「邪教」では無いだろう。
東洋哲学は、キリスト教を邪魔する哲学では無い。
キリスト教にとっての邪教は、偶像崇拝とイスラム教だ。
異教と邪教には違いが有(あ)る。
異教は、単純に「異なる」というだけだ。
邪教は、「邪魔する」というだけだ。
(筆者:羽旨魔歩流)

内々無々蛙と生殖

此の記事は、怪異「内々無々蛙」の基礎知識が有る事が前提の記事です。
知ら無い方は、此方[ ]を御覧下さい。

  内々無々蛙に行き遭うと、伴侶を得る事を仕様と為る感覚を私は持つ。何故だろうか。
「内側、外側」と言う概念が実行される処(ところ)には、生き物が居る有る。
「内も外も無い」と考える事は自分が居る事は、確かだと言う感覚を失う事だ。
不安に成ると言う事だ。不安に成ると、安心を欲しがる。
特に、自分が居るのか居無いのか判ら無く成る類の不安感覚は、
性的本能と関連が有りそうだと私は感じる。
(筆者:羽旨魔歩流)

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]


.
はむねまぼる
はむねまぼる
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
検索 検索

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!
ふるさと納税サイト≪さとふる≫
実質2000円で好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事