神道×不潔恐怖
私は、現在大学生です。
大学の図書館で、或る2冊の本を同時期に借り引きました。
1つは、神道に関する本です。
もう一つは閉じこもりに関する本です。
私はこれら2つの本を同時期に読んだ事によって、或る思い付きをしました。
↑神道に関する本(左)、閉じこもりに関する本(右)
文章の目的
この記事の目的は、「考え方」「言葉」の面からの「不潔恐怖」「強迫神経障害」の治癒です。
神道に関する本には、
『空虚な宗教論(神学)をもてあそぶものではなく』
と、印刷されてある。
そして閉じこもりに関する本には、
崇高な論よりも、直接会いに行くことが大事
ということが書いてある。
私はそれらの文章が言わんとするところは、解る。
解るのだが、しかし空虚な宗教論や崇高な論が全くの無意味だとは思わない。
「実際に会いに行くこと」はとっても大事なのだとは、私だって思う。
実感として思っている訳でもないのだが…。
何しろ私はカウンセラーでも、精神病に関する医者でも無い。
片方だけが重要で、もう片方は全くもって重要では無いとは私は考えていない。
考えない様にしている。
多くの場合では、両方大事なのだ。
私は、「言葉」という側面から「感覚」という側面から不潔恐怖、強迫神経障害の治療を行いたい。
本論
2冊の本を読んで、「不潔恐怖・強迫神経障害」は「神道」と関係すると私は考え付いた。
神道では「気枯れ」を嫌うのだそうだ。
「けがれ」は、漢字にする時に3つの表し方が有る。
「気枯れ」と「穢れ」と「汚れ」
である。
私は、
これら3つを使い分けられる様に成る事
が、
不潔恐怖と、強迫行為を悪く作用させない為
に、
有効
であると考え付いた。
しっかりと3つを区別することが治療に成ると思い、信じ始めた。
2分
「気枯れ」と「穢れ」は同一視しても良いのだ。
しかし、「気枯れと汚れ」、「穢れと汚れ」は別物であり、寧ろ或る意味で逆だと捉え無ければ成らない。
そうしなければ、強迫行為が障害として発生してしまうだろう。
気枯れと穢れ
「気枯れ」や「穢れ」は「よごれ」とは読まない。
「気枯れ」や「穢れ」は、気が少なく成っている状態を表す。
どういう意味合いなのか…。
元々「気」を持つ主が「十分な気」を持っていた。そして、その主の持ち分の気が減った。「減った」が「枯れた」なのだ。「気減り」という言葉でも別に問題無いと、私は考える。寧ろ「気枯れ」より「気減り」の方がより正確で、学術的だ。「気枯れ」の方がより文学的だ。学術的ではないので、やや曖昧で余計な感覚が混じってある。「枯れる」は、普通は「木」対してしか使わない。
私達が 当たり前だと思っている言葉を、漢字一文字単位で、更に部首単位でよくよく考えてみたら余り状況に相応しいとは言えない言葉かも知れないのだ。例えとして使われて…意味がやや変わり、例え的にしか使わなく成り、その言葉を更に例え的に使うみたいな感じに使ったら、元々の意味からかけ離れてしまう。状況に最も適した言葉ではない言葉を使っていたら、避けられる現象を避けられなく成ってしまう。状況を良い方向や、悪い方向へ変えたい時に言葉で正確に表現、裏現(造語)するという方法が有効な人だって居る。例えば筆者(私)とか。
「汚れ」(けがれ)は、「よごれ」とも読む。
「汚れ」や「汚れ」は、気そのものだ。
ただし、単なる「気」ではない。
誰かから出た、色の付いた気だ。
違い
人の状態を示す言葉が「気枯れ」や「穢れ」である。
「汚れ」(けがれ)は、人の状態を示す言葉ではない。
人が落とした「気」を示す。
全然違うのだ。
こなせるか、こなせないか
菌の全てが、人に害を為す訳ではない。
人に害を為す菌だとしても、免疫が有れば平気なのだ。
「汚れ」(けがれ)や「汚れ」(よごれ)には、種類がある。
その人が、その種類の「汚れ」を熟せるならば特に害には成らない。
纏め
「気枯れ」と「穢れ」は、気が減っている「状態」のこと。
「汚れ」は、色が付いた「気」のこと。
私はその様に2分する。
(筆者:大塚将俊)
気枯れ…けがれ
熟せる…こなせる