知っているけれど表せない 或る人が、自分の知らない新しい概念を得たとき…得てしまったとき。または、その或る人が、自分の知らない新しい感情を感じたとき。そして、その概念やらその感情やらを表す言葉を熟語を知らないとしたら。その人は、その新しい概念やら感情を恐れるだろう。言い表す言葉やら熟語を知らないということは、言い換えて「その概念やら感情の名前を知らない」ということに成る。名前を知らないということは、管理不能で制御不能だという事に繋がり得る。
表せないから無い扱い 言い表す熟語を知らないと、他人に伝える事が不可能だろうからその「有る概念」「有る感情」を無い事にするだろう。その新たな概念やら感情の名前を知るまでは、その概念やら感情を既に知っていたとしても「無い扱い」するだろう。もしくは、名前を知るまでの期間「恐れる」だろう。
病名の有る病気なんだ… 概念やら感情以外に、「病」も同様だ。自分の身に起きている現象が病なのか否か、病なのだとしたらどういう病なのかを知るまでは、不安で仕方ない。自分の「これら」は「病なのだ」と知って「ホッとした」という事例を、私はTVで観た事が有る。知ることで「分からない」ことが要因の「恐れ」という霧が晴れて、明らかに成りホッとするという現象だ。知ることが直接病の解決に成る訳ではないが、治るための始まりの一段階に成っていることや邪魔な恐れを排除することは、有る。知ることが間接的な解決に成っていることだ。
知っていても話さない話せない 現象の名前を知らないと、記憶を相手に伝えられない時が有りそうだ。現象の名前を知らない人は、その現象は、会話に出さない。自分だけが感じたこの世に有らざるものだと考えるから。自分だけオカシナ人だとされたく無いから。そもそも、言葉を知らないのだから他人との会話にその現象について上げようとしても、話に上らせられない。
そもそも言葉の方が存在しない「知らない」「知らない」という言い回しをしてきた。「知らない」という言い方だとまるで、誰かが対応する言葉を知っているみたいだ。そして、「期間」とか言って、いつかはその誰かに教わる事が前提みたいな話をしてきた。がしかし、国語辞典には載ってない可能性がある。また、その現象を表す言葉が誰も知らない言葉である可能性がある。そんな時には自分で言葉を作り出さ無ければ成ら無い。 あとがき いつも通り、もう既に頭の中では行われたことの有る、不思議で言語化為難い思考を言語化しました。
今回も、自分としては上手く言語化できたと思っております。
「思考を言語化しよう」「思考を言語化しなければならない」「思考を言語化するべき」と思っているならば、思考を言語化できない事象は無いだろうなぁと思います。
あっ!
今自分で気付きましたが、
この文章を書くまでの私にとっての21年間が、
「概念、感情、現象を知っているが名前を知らない期間」
でした。
「概念、感情、現象を知っているが名前を知らない期間」
という概念を言語化していない期間が、私の場合は21年間でした。
…物凄い不思議な文章を書きました。
合わせ鏡みたいな文章を。
こういう不思議な感じが私は好きです。
流石、申年生まれといった感じです。
思考を逐一言語化していると、更に次の段階へ思考を進められます。
しかし、思考を思考のままにしておくとそれより先に思考が進まないときが有ります。
そういう意味でも、思考を言語化することは意味の有る事だと私は、今日風呂の中で思いました。
「思考を言語化するぞ」という意気を持っているからこそ、以前した事の有る思考を以前よりも先に進める事ができました。
だから、こんなに記事の文章が長く成ってしまいました。
(筆者:大塚将俊)
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2013年11月14日
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シンセサイザー 大学の図書館でシンセサイザーに関する黒い厚い本を読みました。
「シンセサイザーがわかる本」(相原耕治)(出版:スタイルノート)でした。
初めの方の、基礎中の基礎だけ参考に成りました。
それより後の文章では、いよいよシンセサイザーの話に入ったので私は興味を失いました。
そもそも私はシンセサイザーを肉眼で見たことも無いし、持ってもいないので興味は持てませんでした。
でも、初まりの「シンセサイザー」という語句の意味とかいう「物凄い基本」は興味を持ちながら読めました。
シンセサイザーは、漢字で言うと「篇」とか「旁」を扱う機器の様です。
「漢字」その物を作る為の機械の様です。
私が作曲でやっていることは、所詮「既に有る漢字を、それも常用漢字だけを使って、熟語やら文章を作る」程度のことです。
篇旁 | 漢字 | 熟語
音波 | 音源 | 一曲
それ自体も十分に素晴らしいと思います。
そして、私はその表面的な段階のみで満足しています。
GM(general MIDI)の音が大好きです。
「有り物強請り」の精神を持ち、「有る物で何とかする」という姿勢していることが原因で、私は更に奥深い部分での「そもそもの音を自分で創る」という深層には興味が今は持てません。
同じ金属長椅子 先日、東京の台場へ行った時のことです。
大学に設置されて在る金属で出来た、スタイリッシュな長椅子が「ゆりかもめ」の駅にも設置されて在って、微妙に驚きました。
本日は、そのゆりかもめ内にも有った大学に設置されて在る長椅子を撮影してみました。
↑大学内に設置されてある金属長椅子
迷惑メール 下記の様なメールが届いてきました。本気で自分自身の不幸を願う私は、この文章を読んで、「ふむ!」と感じました。願いがちゃんと叶えられていることに対して嬉しく感じてしまいました。こと私には効き目が無いどころか逆効果の脅しの文章です。いや、考えようによっては私が永遠の幸せに背を意図的に向けていることをよくぞ見抜きおったな!と感心し興味を抱きました。だから、勧誘メールとしては成功しています。がしかし、偽物ぽいので勧誘される事が私にはできません。そもそも、東洋哲学を使ってならば或る程度ならば私自身で占いはできますから、他人に占って貰う気には成れません。
>┏━━━━━━━━━
>▼送信者▼ >占星術師 有村貴公名 > >┣━━━━━━━━━ >▼タイトル▼ >私からは最後の連絡にします。未来永劫続く幸福に貴方は背を向けてしまいました。残念ですが、 なんで謝るのか 大学の帰りに、寒過ぎて走っていました。
仲良く歩いていた女性2人を物理的に引き裂く様な形で擦れ違ってしまったので、
「スミマセン」と謝りました。
「仁義を切る」という行為をしてしまったからです。
物理的とは言え、一時的とは言え2人を引き裂いてしまった訳ですから、一応謝っておきました。
その謝りが、誤りだった様です。
私がスミマセンと謝った時に、「なんで謝るの?」と相手が言っているのが聞こえました。私は物凄くイラつきました。イラつきは私自身の腹の中に入れておきました。伊達に21歳ではありませんし、伊達に大学生では有りません。その呑み込みはできました。そして消化してこうしてブログで排泄しております。
理由を説明する程に仲良く無いから説明できなかったです。
それに、相手の発音を私の脳で理解した時には、もう既に3メートル程離れていました。
態々戻って理由を説明するという、奇行をする勇気やそれほどの気力を私はその時にはもう所持しておりませんでした。
1年前ならば、やっていた気がします。
そもそも謝った方が、何故謝ったのかを、怒りながら説明するなんてオカシナ話です。
別にオカシナことが有っても良いのですが…。
寧ろオカシナことは起きている方が面白いのですが…。
(筆者:大塚将俊)
したこと
11月11日
・MIDI[カヴァー](marshmallow justice,Zero Gravity,プラチナ,わたしの願い事,ポリリズム,MY COLOR,でもでもまだまだ,Listen!!,NIGHT FLIGHT,リニアモーターガール) [アレンジ](キミに100パーセント) [オリジナル](夢と妖精の再来) ・葉羽農園 11月12日
・Music Video(キューピッド キューピット) ・MIDI[カヴァー](Can I Have A Word,chocolate insomunia,わたしの願い事,MY COLOR,でもでもまだまだ,Listen!!,marshmallow justice,Zero Gravity,ポリリズム) [オリジナル](夢と妖精の再来) ・日記 ・Music Video(キューピッド キューピット) ・アナログ推敲(若芽の国) 11月13日
・MIDI[カヴァー](chocolate insomunia,わたしの願い事,リニアモーターガール) |

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自分に何ができるか社会起業家(町田洋次)page57を読んで
自分に何が出来るかよりも、社会が何を求めているかを優先させなくては成ら無いという内容が印刷されて有った。私は、社会起業家に成りたいなぁと思いながら、「私にできる事をやろう」と思っていたので、心と意識に衝撃を受けた。私は、「私にできない事を求められている」としても、どうせ私にできない事はできないのだから、他人に迷惑を掛けるのだとしても自分にできる事をやろうと考える。また、今社会が求める事は「個人個人が、輝くこと」だと私は考えている。社会が求める事が「できる事を個人個人がすること」だと私は考えるから、私が「社会が求める事」を優先しようが、「自分にできる事をする事」を優先しようが、結果としてはどちらにしても「自分にできる事をする」ことに成る。 他人にとっての他人 自分にとっての他人。その他人にとっての他人の中には、自分が含まれる。その考え方が私の考え方と行動に影響を与えている。他人が「他人の為に何かしたい」と考えているならば、私が私の為に何かをやって上げることが手っ取り早い。自分自身が何を求めているかは、内観するだけで分かる。私は内観をしょっちゅう…というかやり過ぎなくらいやるので内観上手にできる。
「社会」という言葉には自分も含まれているということを考えてもやはり、「自分が求める事」は即ち「社会が求める事」である。「社会が求める事」が即ち「自分が求める事」ではないが。自己中心さや自己満足を下級なものとし貶し、そういった人を虐める事は「個人」にとっても「その人が含まれる社会」にとっても悪い事だ。私はそんな風に考えている。 大人ごっこ 最近感じることは、日本社会は「大人ごっこをしたがっている」だ。電車内で地味な服装をした人が多いことからそう感じた。「大人ごっこ」という言葉は、私が自分で考えた。初めは大人らしく成る事を憧れている人や、強迫的に大人に成ら無ければ成ら無いと思っている人を揶揄するために、私の心の中だけで使っていた。
時に危険な未来を避け、「事情」を考慮した結果の行動が子供っぽい行動である事が有る。単なる子供っぽさがクソで、事情を踏まえた子供っぽさがミソである。クソとミソを見分けられない当事者以外の人にとってはミソはクソに見える。 私は、大人らしさに憧れる人々を「クソとミソを見分けられない、下級な子どもだ」と、心の中で罵倒していた。何故ならば、私が子供っぽい行動をするしか生きる選択肢が今のところ無い人だからだ。子供っぽい行動のみが、私と家族と他人を致命的な破滅から守る方法なのだ。 揶揄している場合ではないそんな訳で、私は大人らしい大人を「大人ごっこ」をしている事情を踏まえない下級な人だと見下して、拒否してきた。がしかし、此処に来て見下したり拒否している場合では無いと思い始めて来た。人々の大人らしさに対する憧れの強さは、病的なまでに強い。人々の大人ごっこをしたいという欲求が病的なまでに強い。日本の人々の大人に成らなければ成らないという欲求が病的なまでに強い。とそう感じた。 強迫観念としてのかく言う私自身も、大人に成ら無ければ成ら無いという強迫観念は強い。がしかし、私は強迫神経障碍者だ。碍を利益を生み出す魔法玉として扱える類の強迫神経障碍者だ。私は、「暴露反応妨害法」を知っている。例に漏れず「大人に成ら無ければ成ら無い」という強迫観念に暴露反応妨害法を適用した。そんな訳で、私は大人に成ら無ければ成ら無いという強迫観念は既に乗り越えている。しかし、強迫神経障碍者だと認定を受けていない人や、強迫神経障碍をよく知らない人や、強迫神経障碍者でも暴露反応妨害を使えない人や使わない人は、まだ「大人に成ら無ければ成ら無い」という強迫観念に行き詰まったままなのだ。私は、私が既に乗り越えているからといってその問題は既に解決したとみなしていた。しかし、既に解決した人は、私位な物だった。 対処法強迫観念は、私が行った様に何でもかんでも「暴露反応妨害法」を適用すれさえすれば良いという訳では無い。だから、私は私では無い他人に「暴露反応妨害法をすれば良いよ」とだけ勧めれば良い訳では無い。暴露反応妨害法を使う以外に「大人に成らなければ成らない」という強迫観念を叶えるという選択肢も有るのだ。そして、そちらの方が有名だ。 私は、私を含める日本の人々が持つ「大人らしい事をしたい」という欲望を満足させる必要が有る。 社会起業家に憧れる私は、社会が何を求めているかを優先しなければ成ら無い。社会起業家を目指す人としては、私を含める日本の人々の「大人らしく振る舞いたい」「大人らしい事をしてみたい」という欲求を満足させる仕組みであるとか、そういう場を作ることを目標にすると良いのかも知れないな。そう考えた。 大人ごっことは具体的にどの様な遊びなのか あぁ、私ってオトナって思うときはどういう時なのでしょうか。
例えば、自分を押し殺して相手を立てた時。
例えば、他人のことを素直に称えられた時。
例えば、他人に親切にできた時。
例えば、受け止め難い人を受け止めた時。
例えば、複雑な事情をちゃんと踏まえた行動をできた時。
例えば、親に仕送りをできた時。
例えば、結婚した時。
例えば、子供ができた時。
例えば、「人柱」として役割を果たせた時。
例えば、裏方に回って表舞台の人を援助できた時。
例えば、慈善事業に携わった時。
例えば、福祉的な行動、仕事をした時。
今の日本人が求めている「場面」は、そういう「場面」なのだと思います。
そういう、大人らしい、自分自身は苦い思いをするけれど社会全体の為には成っていること…。
そういうことを今の日本人の多くはしたがっているのだと思います。
精神に関する本を読めば「自分の中の子供」を恐がらせないことの重要さ。
自分の中の「悪魔」を喜ばせてあげることの重要さ。
そういった物の重要さを知ることに成ります。
私も知りました。
わがままの大切さ、自分勝手の大切さ。
自分の中の「子供」も大切ですが、同時に「自分の中の大人」も大事にする必要が有るんだなぁ。
そんな風に考えました。
後書き 何故かとっても長い記事に成ってしまいました。
音源(mp3)化をいつかしたいと思います。
文章の特に後半では、「常に上から目線」での語りに成りました。
そういう人が嫌いな方は、是非筆者である私を嫌いに成っちゃってくださいね。
私自身それを望んでいますから。
(筆者:大塚将俊)
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