はむねまぼるのブログ

作詞作曲をしています。介護のことも書きます。強迫性障碍のことも。

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「ゼロ」を読んで

ゼロ

 書籍「ゼロ」(堀江貴文著)は、ダイアモンド社から出版された書物である。
筆者が懲役を終えた後に出版された。
誤解を招いてきた事を反省して、解り易く他人に誤解を解きながら筆者自信の事を説明する書物である。

これでいいや

 
 堀江様は「ここでいいや」と満足しては成ら無いと言うけれども、私は逆だと思います。
余り極め過ぎないで、少しでも行けるところまで行けた自分を評価して
一旦は「ここでいいや」と思って元居たゼロのところまで帰っちゃう。
そして、暫くは別のことをして知識を増やし気を貯める。
そして、以前行けたところ(セーブ地点)から更に進めていく…。
そういうやり方が、より無理しないやり方だと思います。
 ブツブツと中断して、五月雨式に事業を進めていく方法を私は採用しています。
何年越しに見た時に、結果的に「あらまぁあんなところまで行けちゃったのね」
というそういう評価を受けたいし、したいです。
 少なくとも私は「これでいいや」という気持ちを許さないのであれば、再び「強迫神経症」を発症する事に成ります。
堀江貴文様には、「これでいいやを許さない方式」が上手く機能する様です。
が私には「これでいいやを許さない方式」は上手く機能するのはほんの少しの期間であり、その方式を使い続けると私はバグります。
その方式は私にとっては、有害です。
世の中には様々な方式が有るから、自分に合った方式を採用するのが良いのだと考えます。
 

自立はして成ら無い

 
 「ゼロ」(堀江貴文著)page166「あなたはほんとうに「自立」できているか」については、本当に考えさせられました。
私が今一番考えたいことで、なかなか進められなかった思考です。未だ覚悟を持つことができてない部分でし
どういう覚悟かというと、自立はしないという覚悟です。
精神的・物理的・経済的に私が私の両親から自立しているかと言うと、
どれもしていない。
大学入学時に、精神的・物理的に自立をしようと思った。
しかし、私はそれは悪い事なのだと知った。
 私が自転車で登下校しようとか、電車で登下校しようとか考えている。
それなのに、母は行きも帰りも自転車だなんて体が疲れてしまうだとか、意見を出してくれてしまうのだ。
私の実家から私が通う大学へは1時間以上掛かる。
私が暫く行きも帰りも大学へ自転車で登下校して、疲れてきて「あぁこれでは駄目っぽいな」と思ったとき、その時に
自転車登下校を辞めれば良い。
それなのに、始めっから辞めた方が良いと言ってくる。
行きだけは自動車で送るだとか言うし。
 私は大学生にも成って母親に送って貰うのは、とっても嫌だった。
しかし、体を壊すということが何れ位恐ろしい事なのかを私は知っていたから。
そして、話していて母の「何らかの形で自分へ協力をしたい」という気持ちが伝わってきたから。
だから、私は行きは自転車を乗せたワゴン車で送って貰い、帰りは自転車で帰るという選択を選ぶ事を自分自身に許した。
つまりそれは、物理的に自立する事を諦めた。
 私は自立する事は、恐らくは悪い事なのだと考える様に成った。
母は私のとっては母だが、1人の女性…人なのだ。
その人が、私という人物の「大学へ通う」という1つの「事業」に協力したいと申し出ているのである。
「協力したい」という「願い」を私に掛けてきたのだ。
社会の為に何ができるか、他人が喜ぶ事業とは何なのかとか、福祉について考えていた私は思い当たった。
 私の母は日本の社会の1人の構成員である。
その1人の構成員の「願い」を叶える事を断ることはつまりは、日本の社会のニーズに応えないという行為なのだと。
そう頭の中で繋がった。
自分が今直ぐに効果的に行える社会福祉が「協力して貰う事」だと考えた。
それで、私の母親は「息子が取り組む事業に協力したい」という願いを叶える事ができる。
満足する。
 どうせ送って貰えると成ると、朝早く起きなくても良いと成る。
朝早く起きなくても良いならば、夜遅く寝なくても良いという事に成る。
という訳で私は朝に弱く成った。
それまでは強かったが、弱く成った。
弱く成る事を自分自身に許した。
 世の中の誰に言わせたって、自立する事は良い事で自立しない事は駄目な事と言う。
私だって言う。
しかしながら、私はそういう経験を経て自立する事は良くない事だと考える様に成った。
だらしない人が居なければそれを「もう、仕方が無いなぁ」と言ってお世話する人も居なく成る。
だらしない人が居なく成れば「お世話する」という仕事が1つこの世から減ってしまう。
私はとにかく、「する事」が減る事が良くない事であり、悪い事であのだと考える。
だから、お世話するという「する事」が減ることも即ち良くない事であり、悪い事だと考えた。
 「ゼロ」(堀江貴文著)では、自立するべき…自立しなければならないみたいな書かれっぷりである。
しかし、私はちゃんと自分で考えた末に独特の結論を出している。
自立するのは格好良い事。格好付けたいという気持ちは有るけれどもそれは自分の勝手な気持ち。
我が儘な気持ちであり、自分も他人も乱す行為。
人間から「熱」を奪う行為。
温かみを奪う行為。
関係を切るという行為。
自立したいという気持ちは、子供がおもちゃ売り場で駄々を捏ねる行為。
だから、我慢するべき欲望である。
という事だ。
 実家住まいの方が、暖房器具の共有ができてエコだし、食材をちょこちょこ買わないでドバっと買えるから金に余裕が出来易い。
その出来た余裕で、それぞれが好きな事をできる。
そういうエコロジーとかエコノミーの視点からしても自立は良くない事で、寧ろ悪い事である。
しかし、確かに自立は格好良い事では有る。
 私は格好良く成る事を諦めて、我慢して、格好悪い自分で居続ける覚悟をした。
耐え続ける事にした。
「自立している事は格好良くて、自立していない人は格好悪い」という命題は私の中では変化しない。
だから、私は苦しみ続ける。
 私は、もたれられ、もたれる様な状況が結局は好きだ。
でも自立できていない状況は嫌いなのだ。
もたれ・もたれられる事と自立できていない事は、やっぱり同一である事がある。
人がもたれ・もたれられる時にそこに「仕事」が生じるのだと私は思う。
繋がりが生まれるのだと思う。
 そんな訳で、私は自立をしない!
自律はするが自立はしない。
他律はせずに他立はし合う。
自分の制御は他人に任せて、他人の制御は自分が行う。
自分の姿は他人の方が良く見える。
他人の姿は自分の方が良く見える。
とかいうそういう側面も有る。
自分の事は自分がよく知っているという面も勿論有る。
 駄々を捏ねる事がさも幼稚でいつかは卒業すべき事の様に書かれてあるのが「ゼロ」だった。
しかしながら、私は小さな頃に駄々は捏ねなかった。
とても小さな頃から、「あぁ、ここで私が駄々を捏ねたところで私は両親が持つ金の量を把握していない訳だし、その未知の金の残量を所持する
両親に対して私がこれを欲しいという願望を主張したところで、もしも足りない時に私は欲しいという願望を抱いたにも関わらず手に入れられないというとっても残念で悲しく、
喉が疼き腫れる様な感覚を味わわなければ成らない訳だ。欲しい欲しいと言ったにも関わらず手に入れられないというとっても可哀想で残念な子に成ってしまう。
残高が足りないのに、私が欲しいと言っても両親は困ってしまうだけだろう。だから、ここでこれを欲しいとは言わないでおこう…。」
とか言う思考を行なっていた。
勿論当時は言語化は出来なかった。
言語化は出来なかったものの、思考だけならば本当にしていた。
両親に気を使っていた。
自分の欲望を我慢した。
欲望は、獣の様に暴れ狂う恐ろしいものだと感じていた。
その獣に余り会いたくないと思っていた。
 そんなもので、私はおもちゃ売り場で駄々を捏ねた事が無いから卒業も何もない。
「いつまでたっても」という表現は私には通用しない。
結構大きく成ってから、私は両親に甘えるとか駄々を捏ねるとかいう事をしてこなかったから、
意図的にでも甘えたり駄々を捏ねたりした方が良いのかも知れないと考える様に成った。
今現在、カラオケ料金とかお昼ご飯代を父親に出して貰う事を私が私自身に許せる理由はそこにも有る。
「もっと頼らなければ行けない。もっと甘えなければ成らない。そして、もっと頼られてもっと甘えられなければ成らない。」とそういう風に
私は考える。
厳しくするのでは無くって、甘える勇気を持ち、甘えられる勇気を持つ事が大事なのだと考えている。
寄りかかり、寄りかかられる関係を誰との間でも繋げる様にと私は心掛けている。
もしも、自分でできるかも知れなくってもできない振りをして任せるとか…そういう事までするべきだと考えている。
    厳しさを戒めて、甘さを見極めて大事にする。
自分に厳しくでは無くって、自分に甘く他人にも甘く。どうしても必要な時だけ、満を持してから厳しくする…。
そういう生き方をする事に私は決めている。
 堀江貴文様は、自立できていいるのかと問い掛ける事で、読者がちゃんと自立する事を求めているのだと思われる。
しかし私はそもそも自立はしない。
自立する気が無いのではない。
自立する気は有る。
だが、自立する気以上に「自立しない気」が高いのだ。
私は自立したい…格好付けたい…甘さを絶したいという欲望を我慢し続けながら生きるつもりである。
両親から自立するという行為は、他人との関係を2つ切るという事を意味している。
「その家族」という1つの社会を終わらせる事を意味する。
 でも、小さな社会を1つ終わらせて、大きな日本という社会の中で自立して生き始めるというのも1つの選択だと思われる。
というか、そっちの方が有名な選択だ。
そっちの方が一般には良いとされる。
 堀江貴文様と堀江貴文様の父親の関係は、1つそれはそれで素晴らしいのだと思った。
私と私の父との関係とは違うものである。
違うけれども、別に堀江貴文様の方の関係が悪いとは思わない。
泣き言を言わない関係。
親と子の関係に戻らないという関係…。
そういうのも有りなのだと思う。
 ただ、私は両親の子であるという事を辞めないつもりだ。
親と子の関係を終わらせて、社会で自立してもそれは1つ辞めて1つ新しく手に入れる行為で私には虚無的に思える。
1つ辞めて1つ始めたのだから、変わらないし成長もしていないと思える。
自分が居る場所から逃げて、新たな格好が付く場所へ行ったという行為が私には格好悪く見える。
立ち向かうべき場面で逃げて、耐えるべき場面で逃げている様に見える。
誰かからお手紙が来たら相手が親でも子でも友達でも恩師でも知らない人でも自分からでも礼儀としてちゃんとお返事を書くべきだと
私は考える。
 私は、私以外の人物に関して余り細分化をしない。
私か私ではないか。
それだけだ。
私の父も私にとっては1人の人物。
私にとって赤の他人も私にとっては1人の人物。
私だって1人の人物。
家族だとか家族ではないとか余り考えない。
考えはするが、特別に分けたりはしない。
家族の事は単純に長い間一緒に暮らしてきた、親しい友達もしくは人物だと考えている。
私の頭の中でも、どの人物も横の関係である。
だから、明らかに小さな子に対しても激突すれば「すみません」と丁寧に謝る。
相手から激突しても、「すみません」と謝る。
何しろ相手が子供でも、男でも女でも高齢者でも、それは私にとっては「私ではない」他人なのだ。
他人には基本的に礼儀正しくする。
インターネット上では別だが。
インターネットでは危険な形で心を傷付けられる可能性が有る為、全員相手を敵だと思う事にしている。
何しろインターネット上は人の心の「裏」が出易いのだ。
 だから、私は同性だから馴れ馴れしく話したりはしない。
異性だからと言って特別格好付けたりはしない。
同性でも異性でもそれは私にとって、「他人」であり勿論異性でも同性でも恋愛の対象には成る。
 そんな、上の人に対しても横の関係だと社会で成功はしない…。
儒教がそこそこ浸透している日本では成功できない…。
同性同士で馴れ馴れしくできないならば、成功できない…。
そういう事ならば、私はそのまんま成功できないのだろう。
そうならば、それはもう仕方の無い事だ。
私が成功する為に私の生き方を変えてしまっては、それは単に「誰かが成功した」だけであって「私が成功した」とは言えない。
私が私を辞めた上で成功しても、それは誰かが成功しただけだ。
私は、私を辞めるという事…記憶を無かった事にするという行為をしない様にしている。
小説「化物語」(西尾維新著)の「ひたぎクラブ」を読んでからというもの。
 
(筆者:大塚将俊)

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