はむねまぼるのブログ

作詞作曲をしています。介護のことも書きます。強迫性障碍のことも。

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]


[事件内容]
埼玉県で、1人の一歳の男の子が死にました。
20代の両親を逮捕されました。
その両親が衰弱死させた疑いが持たれた。
その両親は「子供が泣いていたらミルクをあげていた、泣かなかったら何も与えなかった」
などと供述しました。

参考リンク
・ニュース速報Japnan  →  https://breaking-news.jp/2018/05/16/040675


[本文]

「子どもが泣いていたらミルクをあげていた、泣かなかったら何も与えなかった」
って言葉を聞いて、僕も「あれ?赤ちゃんってどういう頻度でどういうタイミングで栄養を与えればいいんだろ?知らないや。」
と思った。

親としての責任がうんぬんの問題じゃなくて…
これは、知識の問題でしょ?と思った。
どんなに責任感を強く感じていても、どんなに愛が有っても知識がなければ死なせてしまう。

僕がバタフライ効果を期待して羽ばたいた
「本人のメッセージを信じて」という言葉が、良くない現象を引き起こしたのかもしれない。
赤ちゃんのメッセージを忠実に聞いていたら、赤ちゃんは死んでしまうことが
この事件を見てわかった。

自分の両親に、「泣いたときだけミルクをあげていたら赤ちゃんって死んじゃうの?」と訊いたら
「いっぱい泣く子だったら死なないけど、あんまり泣かなかったら死んじゃうね」とノーマルな感じで応えてくれた。
それを聞いて「そっか。なるほど。物体として見ればいいんだ。」とハッとした。
どんなに可愛くても、どんなに自分が責任を感じていても、どんなに愛情を感じても
やっぱり赤ちゃんも「物体」だ。
その体重分を…その臓器分を…その筋肉分を…その骨分を…その皮膚分を…保つために必要な分量の栄養が
体内へと入り込まなくては
その体(物)は、体を維持できなくなる(死亡する)。

なんでこんな簡単なことがわからなくなっていたんだろう僕は…と思った。
これは引っかけで…大切にし過ぎるから、人間として大切にし過ぎるから、愛情を持ちすぎるから、責任感に潰されてしまうほど
責任を感じてしまうから起きる「盲目」「とんちんかん」かなって思った。

この事件がどのような経緯で起きたかはわからない。
言えるのは少なくとも僕が何か月か前の時点で、一人ぼっちで知識を持たないままで親になっていたら
この事件と同じ現象の事件を起こしていたということ。

「メッセージ論」に「フィードバック説」に注意。
現象が起きてからの反応で、ほんとうにごめんなさい。
また、未来に起きる事件を予測できなかったです。
防げなかったです。
ほんとうに申し訳がありません。

僕の、「羽ばたき」(メッセージ論を広める活動)の良くない面について予防線を張れていなくて申し訳ありませんでした。
「メッセージ論」「フィードバック説」(あらゆることを、メッセージや啓示として受け取る考え方生き方)
は素晴らしい論であり説であるけれども、物事にはほとんど副作用があるわけで。
この事件での現象はもしかすると、その副作用の部分が起こしてしまった事件なのかもしれないと思いました。



 この埼玉県桶川市で起きた事件…どのタイミングでどの頻度で栄養を与えればいいのかがわからないからという理由のみで起きたとは思えない。
だけど、知識不足の側面がゼロだとも言えない。
僕が広めようとしてしてきた「メッセージ論」の影響がゼロだったとも言えない。
当事者たちには、なにかもっと他に経緯や気持ちがあったのだろうと思う。
僕が反省していることがらって、可能性としては薄いかもしれない。
以下の記事を読んでそう感じました。
http://www.jprime.jp/articles/print/12469

可能性だけを、外側から考えると色々と見えてくると思うのですが…。
その中のひとつの可能性でした。
僕の目には、この事件はこのように見えて、僕はこのような反省をして謝罪をしたという記事でした。
まったくもってハズレていたならば、両親や本人には申し訳ありません。
外側からありもしないことで、ゴチャゴチャと勝手に言ってしまってごめんなさい。

塞翁が馬

「○○は良くてバツバツがダメ」とか
「○○は大人的で社会的で、バツバツは子供的」とかを
今、僕がいっぱい他人から押し付けられているのはきっと、
僕が小学生中学生の頃にそういうことを周囲の人にも自分自身にもいっぱい押し付けてきたからなのだろうと思う。
それが廻り巡って自分に還ってきているんだろうな〜と思ってる。

現在の僕は、あらゆる前提や、あらゆる社会的な物差しを捨てた状態に居る。
良いも悪いも…わからないよねという姿勢で生きている。
塞翁が馬という思想を、大きい小さい構わずにほんとうにあらゆることがらにおいて使っている状態。
言ってみれば使いすぎている状態。

何が正解で何が間違いか。
何が常識で何が非常識かは、その場その場で変わるのに。
小学生、中学生当時の僕は
この世にはどこへ行っても通用する万能の知識、常識、マナー、ルール、考え方、やり方があると感じていて、そう信じていた。
社会性や常識や常識的に見られてオトナ的に見られることに必死だった。
あまりにも必死で、自分にだけではなくて周りの人にも押し付けていた。

そして今。
僕は、「この世には決まりきった常識やマナーやルールはない」という常識を他人に押し付けようとしているのだ。
結局はやっていることが同じ。進歩がない。
もしかしたら、この世には決まりきった常識があるのかも知れないのに。

結局のところわからない。
「そんなの常識でしょ」というその常識があるのかないのか。
わかるのは、「これが常識だ」と信じている人が居ることと「すべての場面に通用するやり方なんてないよ」と知っている人が居るということだ。

常識だ!という言葉を使う人は…きっと
誰に対してもどこでも当てはまる価値観があると信じている人なのか信じたい人なのかな?
と僕は個人的に予想している。
そういう、「確か」なものさしを手にして、自信満々に胸を張った状態で生きたい人なのかな?
と僕は予想している。
世間様に胸を張って生きたいのかな?と。

(ちなみに
僕は個人的に、「世間様」というものを、妖怪の一種だと認識していて
その妖怪のために何かをしたいとは、今では思っていない。
妖怪のことは妖怪だと認識している。)

「誰に対しても当てはまる価値観がある」と言う人も居れば、
「誰に対しても当てはまる価値観なんてないよ」と言う人も居る。
僕にはそこまでしかわからない。
誰に対しても当てはまる価値観が、実際にはあるのかないのか…それは僕にはわからない。






そこにリンゴがあるのが見えるとき、
リンゴが実際にそこにあるかどうかはわからない。
リンゴがあると見えていることは、そのままそのとおりだろうけど。
リンゴがあるように見えているだけかもしれない。
実際に触ってみて、触覚で感じても
それでもそこにリンゴがあるかどうかはわからない。
でもリンゴがあると感じたということは、そのままそのとおりなのだろう。
でも、「そこにリンゴがあるように見えた。そして触れたら重さを感じて手触りも感じた。」
という「そう見えた。そう感じた。」というだけで
ホントにあるかどうかは、やっぱりわからない。
もしも他の人がみんな同じように感じても…。
それでも、みんなが「そう見えた。そう感じた。」だけで
ホントにそこにあるかどうかは…やっぱりわからない。

そうやって僕は考えるから、僕は僕のことも誰のことも信じない。

いろんなことが、僕にはわからないし、僕はいろんなことを信じない。

全1ページ

[1]


.
はむねまぼる
はむねまぼる
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
検索 検索

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト≪さとふる≫
実質2000円で好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!
数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事