はむねまぼるのブログ

作詞作曲をしています。介護のことも書きます。強迫性障碍のことも。

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読めない文章

「福祉の思想」を読んで、14ページの一部を読めなかった。
「施設」だの「補完」だの書いてある行です。
答えを先に言ってしまうと、「施設=悪」の式を前提としているので、文章を読み取り難かったのでした。
 私は「施設=良い」を前提としているから。
筆者の糸賀一雄は、「施設=良くない」という式がこの世に存在することを、知っていた。
また、糸賀一雄自身もその「施設=良く無い」の式に或る程度納得していた。
だから、「施設=良く無い」を振り払う様な複雑な書き方に成ってある。

「施設=良い」とだけ考えている私が、糸賀一雄の「施設=良い無い、を振り払い、施設=良い、を肯定する文章」を読んだとき。
私が内容を理解出来なかったことは、当然なことだった。

私は短絡的な「表」の人であった。
糸賀一雄は「表」を一度裏返した、「裏」の人だった。糸賀一雄は、一歩進んだ裏の人達に向けて話を進めた。
糸賀一雄は、正しい導きによって「裏」を「表」に返そうとしている。
本「福祉の思想」の中で、それをしている。
私はもともとが、表の人なので、「裏を表に返す」という、文章による術式が、無反応だった。
私が今回のことがら得るべきことは、「世の中には、福祉において大事なのは人であり、施設は悪である」と感じ、考える人が居ること。
また、その様な人に対して「施設は補完的な意味合いとして使えば、なんら悪くは無いんだよ。」と優しく諭す方(糸賀一雄)が居るということ。
また、施設は福祉において妨げに成ることも有り得るということだ。
垣根は絶対に超えては成ら無い垣根では無く、必要に応じて飛び越えても良い垣根であるという事を、私は今回本「福祉の思想」p14から学ぶことができるみたいだ。
「垣根」とは、目に見える「施設」や目に見えない「制度」を喩えた言葉である。
「初めから飛び越えて良いならば、初めから作らなければ良い」と考えることが有り得る。
がしかし「垣根」は、「初めから作らない」よりも「飛び越えて良い一応の垣根」として設けた方が良いと私は考えている。「垣根」に沿うことで、上手くいく人も中には居るだろうから。
ただ、「垣根」を乗り越えるには意味不明な罪悪感が伴う。
その罪悪感が、無意味どころか有害であると、もしも見破ったとしても、見破ったからといって意味不明な害悪の有る幻の罪悪感はつきまとってしまう。どうしても。
薄っすらとは。その罪悪感を見破る行為や見破った上で、垣根を乗り越える行為は気力を必要とする。
気力が少ない人にとっては、垣根は初めっから無い方が良い。
いちいち、そんな謎の罪悪感に付き合っていては気力を取られて取られて仕方無いのだろうから。
気力の持ちが少ない人に対して、「制度や施設は絶対では無いのです。」と丁寧に強く訴えれば、気力の持ちが少ない人にも垣根は乗り越えられる。

(筆者:大塚将俊)


行…くだり

「ゼロ」を読んで

ゼロ

 書籍「ゼロ」(堀江貴文著)は、ダイアモンド社から出版された書物である。
筆者が懲役を終えた後に出版された。
誤解を招いてきた事を反省して、解り易く他人に誤解を解きながら筆者自信の事を説明する書物である。

これでいいや

 
 堀江様は「ここでいいや」と満足しては成ら無いと言うけれども、私は逆だと思います。
余り極め過ぎないで、少しでも行けるところまで行けた自分を評価して
一旦は「ここでいいや」と思って元居たゼロのところまで帰っちゃう。
そして、暫くは別のことをして知識を増やし気を貯める。
そして、以前行けたところ(セーブ地点)から更に進めていく…。
そういうやり方が、より無理しないやり方だと思います。
 ブツブツと中断して、五月雨式に事業を進めていく方法を私は採用しています。
何年越しに見た時に、結果的に「あらまぁあんなところまで行けちゃったのね」
というそういう評価を受けたいし、したいです。
 少なくとも私は「これでいいや」という気持ちを許さないのであれば、再び「強迫神経症」を発症する事に成ります。
堀江貴文様には、「これでいいやを許さない方式」が上手く機能する様です。
が私には「これでいいやを許さない方式」は上手く機能するのはほんの少しの期間であり、その方式を使い続けると私はバグります。
その方式は私にとっては、有害です。
世の中には様々な方式が有るから、自分に合った方式を採用するのが良いのだと考えます。
 

自立はして成ら無い

 
 「ゼロ」(堀江貴文著)page166「あなたはほんとうに「自立」できているか」については、本当に考えさせられました。
私が今一番考えたいことで、なかなか進められなかった思考です。未だ覚悟を持つことができてない部分でし
どういう覚悟かというと、自立はしないという覚悟です。
精神的・物理的・経済的に私が私の両親から自立しているかと言うと、
どれもしていない。
大学入学時に、精神的・物理的に自立をしようと思った。
しかし、私はそれは悪い事なのだと知った。
 私が自転車で登下校しようとか、電車で登下校しようとか考えている。
それなのに、母は行きも帰りも自転車だなんて体が疲れてしまうだとか、意見を出してくれてしまうのだ。
私の実家から私が通う大学へは1時間以上掛かる。
私が暫く行きも帰りも大学へ自転車で登下校して、疲れてきて「あぁこれでは駄目っぽいな」と思ったとき、その時に
自転車登下校を辞めれば良い。
それなのに、始めっから辞めた方が良いと言ってくる。
行きだけは自動車で送るだとか言うし。
 私は大学生にも成って母親に送って貰うのは、とっても嫌だった。
しかし、体を壊すということが何れ位恐ろしい事なのかを私は知っていたから。
そして、話していて母の「何らかの形で自分へ協力をしたい」という気持ちが伝わってきたから。
だから、私は行きは自転車を乗せたワゴン車で送って貰い、帰りは自転車で帰るという選択を選ぶ事を自分自身に許した。
つまりそれは、物理的に自立する事を諦めた。
 私は自立する事は、恐らくは悪い事なのだと考える様に成った。
母は私のとっては母だが、1人の女性…人なのだ。
その人が、私という人物の「大学へ通う」という1つの「事業」に協力したいと申し出ているのである。
「協力したい」という「願い」を私に掛けてきたのだ。
社会の為に何ができるか、他人が喜ぶ事業とは何なのかとか、福祉について考えていた私は思い当たった。
 私の母は日本の社会の1人の構成員である。
その1人の構成員の「願い」を叶える事を断ることはつまりは、日本の社会のニーズに応えないという行為なのだと。
そう頭の中で繋がった。
自分が今直ぐに効果的に行える社会福祉が「協力して貰う事」だと考えた。
それで、私の母親は「息子が取り組む事業に協力したい」という願いを叶える事ができる。
満足する。
 どうせ送って貰えると成ると、朝早く起きなくても良いと成る。
朝早く起きなくても良いならば、夜遅く寝なくても良いという事に成る。
という訳で私は朝に弱く成った。
それまでは強かったが、弱く成った。
弱く成る事を自分自身に許した。
 世の中の誰に言わせたって、自立する事は良い事で自立しない事は駄目な事と言う。
私だって言う。
しかしながら、私はそういう経験を経て自立する事は良くない事だと考える様に成った。
だらしない人が居なければそれを「もう、仕方が無いなぁ」と言ってお世話する人も居なく成る。
だらしない人が居なく成れば「お世話する」という仕事が1つこの世から減ってしまう。
私はとにかく、「する事」が減る事が良くない事であり、悪い事であのだと考える。
だから、お世話するという「する事」が減ることも即ち良くない事であり、悪い事だと考えた。
 「ゼロ」(堀江貴文著)では、自立するべき…自立しなければならないみたいな書かれっぷりである。
しかし、私はちゃんと自分で考えた末に独特の結論を出している。
自立するのは格好良い事。格好付けたいという気持ちは有るけれどもそれは自分の勝手な気持ち。
我が儘な気持ちであり、自分も他人も乱す行為。
人間から「熱」を奪う行為。
温かみを奪う行為。
関係を切るという行為。
自立したいという気持ちは、子供がおもちゃ売り場で駄々を捏ねる行為。
だから、我慢するべき欲望である。
という事だ。
 実家住まいの方が、暖房器具の共有ができてエコだし、食材をちょこちょこ買わないでドバっと買えるから金に余裕が出来易い。
その出来た余裕で、それぞれが好きな事をできる。
そういうエコロジーとかエコノミーの視点からしても自立は良くない事で、寧ろ悪い事である。
しかし、確かに自立は格好良い事では有る。
 私は格好良く成る事を諦めて、我慢して、格好悪い自分で居続ける覚悟をした。
耐え続ける事にした。
「自立している事は格好良くて、自立していない人は格好悪い」という命題は私の中では変化しない。
だから、私は苦しみ続ける。
 私は、もたれられ、もたれる様な状況が結局は好きだ。
でも自立できていない状況は嫌いなのだ。
もたれ・もたれられる事と自立できていない事は、やっぱり同一である事がある。
人がもたれ・もたれられる時にそこに「仕事」が生じるのだと私は思う。
繋がりが生まれるのだと思う。
 そんな訳で、私は自立をしない!
自律はするが自立はしない。
他律はせずに他立はし合う。
自分の制御は他人に任せて、他人の制御は自分が行う。
自分の姿は他人の方が良く見える。
他人の姿は自分の方が良く見える。
とかいうそういう側面も有る。
自分の事は自分がよく知っているという面も勿論有る。
 駄々を捏ねる事がさも幼稚でいつかは卒業すべき事の様に書かれてあるのが「ゼロ」だった。
しかしながら、私は小さな頃に駄々は捏ねなかった。
とても小さな頃から、「あぁ、ここで私が駄々を捏ねたところで私は両親が持つ金の量を把握していない訳だし、その未知の金の残量を所持する
両親に対して私がこれを欲しいという願望を主張したところで、もしも足りない時に私は欲しいという願望を抱いたにも関わらず手に入れられないというとっても残念で悲しく、
喉が疼き腫れる様な感覚を味わわなければ成らない訳だ。欲しい欲しいと言ったにも関わらず手に入れられないというとっても可哀想で残念な子に成ってしまう。
残高が足りないのに、私が欲しいと言っても両親は困ってしまうだけだろう。だから、ここでこれを欲しいとは言わないでおこう…。」
とか言う思考を行なっていた。
勿論当時は言語化は出来なかった。
言語化は出来なかったものの、思考だけならば本当にしていた。
両親に気を使っていた。
自分の欲望を我慢した。
欲望は、獣の様に暴れ狂う恐ろしいものだと感じていた。
その獣に余り会いたくないと思っていた。
 そんなもので、私はおもちゃ売り場で駄々を捏ねた事が無いから卒業も何もない。
「いつまでたっても」という表現は私には通用しない。
結構大きく成ってから、私は両親に甘えるとか駄々を捏ねるとかいう事をしてこなかったから、
意図的にでも甘えたり駄々を捏ねたりした方が良いのかも知れないと考える様に成った。
今現在、カラオケ料金とかお昼ご飯代を父親に出して貰う事を私が私自身に許せる理由はそこにも有る。
「もっと頼らなければ行けない。もっと甘えなければ成らない。そして、もっと頼られてもっと甘えられなければ成らない。」とそういう風に
私は考える。
厳しくするのでは無くって、甘える勇気を持ち、甘えられる勇気を持つ事が大事なのだと考えている。
寄りかかり、寄りかかられる関係を誰との間でも繋げる様にと私は心掛けている。
もしも、自分でできるかも知れなくってもできない振りをして任せるとか…そういう事までするべきだと考えている。
    厳しさを戒めて、甘さを見極めて大事にする。
自分に厳しくでは無くって、自分に甘く他人にも甘く。どうしても必要な時だけ、満を持してから厳しくする…。
そういう生き方をする事に私は決めている。
 堀江貴文様は、自立できていいるのかと問い掛ける事で、読者がちゃんと自立する事を求めているのだと思われる。
しかし私はそもそも自立はしない。
自立する気が無いのではない。
自立する気は有る。
だが、自立する気以上に「自立しない気」が高いのだ。
私は自立したい…格好付けたい…甘さを絶したいという欲望を我慢し続けながら生きるつもりである。
両親から自立するという行為は、他人との関係を2つ切るという事を意味している。
「その家族」という1つの社会を終わらせる事を意味する。
 でも、小さな社会を1つ終わらせて、大きな日本という社会の中で自立して生き始めるというのも1つの選択だと思われる。
というか、そっちの方が有名な選択だ。
そっちの方が一般には良いとされる。
 堀江貴文様と堀江貴文様の父親の関係は、1つそれはそれで素晴らしいのだと思った。
私と私の父との関係とは違うものである。
違うけれども、別に堀江貴文様の方の関係が悪いとは思わない。
泣き言を言わない関係。
親と子の関係に戻らないという関係…。
そういうのも有りなのだと思う。
 ただ、私は両親の子であるという事を辞めないつもりだ。
親と子の関係を終わらせて、社会で自立してもそれは1つ辞めて1つ新しく手に入れる行為で私には虚無的に思える。
1つ辞めて1つ始めたのだから、変わらないし成長もしていないと思える。
自分が居る場所から逃げて、新たな格好が付く場所へ行ったという行為が私には格好悪く見える。
立ち向かうべき場面で逃げて、耐えるべき場面で逃げている様に見える。
誰かからお手紙が来たら相手が親でも子でも友達でも恩師でも知らない人でも自分からでも礼儀としてちゃんとお返事を書くべきだと
私は考える。
 私は、私以外の人物に関して余り細分化をしない。
私か私ではないか。
それだけだ。
私の父も私にとっては1人の人物。
私にとって赤の他人も私にとっては1人の人物。
私だって1人の人物。
家族だとか家族ではないとか余り考えない。
考えはするが、特別に分けたりはしない。
家族の事は単純に長い間一緒に暮らしてきた、親しい友達もしくは人物だと考えている。
私の頭の中でも、どの人物も横の関係である。
だから、明らかに小さな子に対しても激突すれば「すみません」と丁寧に謝る。
相手から激突しても、「すみません」と謝る。
何しろ相手が子供でも、男でも女でも高齢者でも、それは私にとっては「私ではない」他人なのだ。
他人には基本的に礼儀正しくする。
インターネット上では別だが。
インターネットでは危険な形で心を傷付けられる可能性が有る為、全員相手を敵だと思う事にしている。
何しろインターネット上は人の心の「裏」が出易いのだ。
 だから、私は同性だから馴れ馴れしく話したりはしない。
異性だからと言って特別格好付けたりはしない。
同性でも異性でもそれは私にとって、「他人」であり勿論異性でも同性でも恋愛の対象には成る。
 そんな、上の人に対しても横の関係だと社会で成功はしない…。
儒教がそこそこ浸透している日本では成功できない…。
同性同士で馴れ馴れしくできないならば、成功できない…。
そういう事ならば、私はそのまんま成功できないのだろう。
そうならば、それはもう仕方の無い事だ。
私が成功する為に私の生き方を変えてしまっては、それは単に「誰かが成功した」だけであって「私が成功した」とは言えない。
私が私を辞めた上で成功しても、それは誰かが成功しただけだ。
私は、私を辞めるという事…記憶を無かった事にするという行為をしない様にしている。
小説「化物語」(西尾維新著)の「ひたぎクラブ」を読んでからというもの。
 
(筆者:大塚将俊)

記憶と性的不能

恐れ

 記憶というと、「こう」と決まり切った物であるという感覚・想像が私には有る。私は「こうと決まり切った物」が苦手なのだ。私は、「記憶」と「子孫繁栄」という2つの概念について絡めて考えた時にとても恐れを感じる。その感覚は小学生の頃から有った。余りにも恐いから考えない様にしていた。それ程に恐れていた。

繋がり


 記憶は決まり切った物。性の問題・子孫繁栄に関する事は、記憶と関連する。脳も性器も繋がっている。記憶に関する事で何か間違いを冒してしまえばそれはその人の子孫繁栄が絶対的に駄目に成った事を意味してしまう…。つまりは、物理的に去勢されたのも、記憶によって去勢されたのも同じ事だ…。物理的に考えれば、睾丸が切除されなければ去勢は行われない。しかしながら、記憶に関する事は、何がスイッチに成るか、分からない…。だから恐い…。
とそういう事を私は小学生の頃に、言語化こそ出来なかったもの感じて考えていた。人の記憶とは、子孫繁栄を完全に断ち得る、非常に恐ろしいものである…。そう考えていた。

恐ろしさを受け止められないから…


 その恐ろしさを解消する為には、「性に関する事は、性に関する事で、記憶とは無関係だ」と思い込む事です。私を含める日本人が「記憶は上半身の脳。性に関する事は下半身。記憶は人間的な事であり、性に関する事は本能。それぞれ別!」だと、考えたくなる理由は「記憶が性に関する去勢へ影響する力が恐いから。」だと考えられます。
恐いから、「性は下半身の事で本能。記憶やらは上半身の事で人間らしい制御が効く脳の事だ」と切り離したがるのだと私は推測します。

実際には


 しかしながら、実際には性に関する事は脳の中の視床下部辺りが司ります。性に関する事は上半身の脳が関係するのです。記憶は脳が司ります。どちらも脳が司ります。記憶は性に影響を与えてしまうのです。残念で深刻ながら。

絶望しないで良い


 しかしながら、性器の機能が正常で「記憶」に関する問題が有っても、それでもうお終いだ!(その人は不能)だと思うだけでなくても良いのだと私は今考えています。
「目には目を、歯には歯を」という慣用句を良い意味で使うのです。
脳に関する事が問題ならば脳に影響を新しく与えて問題を解決すれば良いのです。
記憶に関する問題が有るならば記憶に新しく影響を与えて問題を解決すれば良いのです。
簡単といえば簡単な話です。
脳の中に関する事は目には見えないから確かに「どうしようもない、解決の仕様もない事。内側に隠されてしまえば、もう駄目。」どそう思ってしまいがちです。私自身がそう感じていました。しかし、人間には言語が有ります。言語を使って脳の中を調べて、言語を使って脳の中に影響を与える事ができるのです。
確かに私が小学生の頃の言語では…、悟りでは、記憶が原因で結婚しない人や、結婚相手と肉体関係を持とうとして勃起した男性器を女性器に挿入しようとしたら勃起が萎えてしまったという人の問題を解決はできないでしょう。発達していない言語能力では不可能です。脳の中を調べて脳の中に目的を果たす為の影響を齎す事はできないでしょう。
目的を果たす為の影響を邪魔する概念を知らないから、何故自分が然るべき言葉を脳に与えているのに目的を果たせないのかが分からないでしょう。

どうにかできる


 しかし、経験を積み、陽なる心情と陰なる心情の両方の心情学び、言語能力や言語創造能力を付ければ脳の中の問題を自分が欲する状態へ解決できるのでしょう。
隠された内側の問題だって感情経験と高い言語能力でどうにか成り得るのです。恐れながらでも問題に真正面から向き合い、問題を真正面から受け止めて然るべき言語を使えばきっと問題を解決できるのでしょう。そうであって欲しいです。そういう仕事が、セックスカウンセラーなのでしょう。
(筆者:大塚将俊)

この文章は、以下の本を読んで書かれた文章です。
題名:性を病むニッポン
著者:奈良林祥
出版:主婦の友社

自分に何ができるか

 
社会起業家(町田洋次)page57を読んで
 自分に何が出来るかよりも、社会が何を求めているかを優先させなくては成ら無いという内容が印刷されて有った。私は、社会起業家に成りたいなぁと思いながら、「私にできる事をやろう」と思っていたので、心と意識に衝撃を受けた。私は、「私にできない事を求められている」としても、どうせ私にできない事はできないのだから、他人に迷惑を掛けるのだとしても自分にできる事をやろうと考える。また、今社会が求める事は「個人個人が、輝くこと」だと私は考えている。社会が求める事が「できる事を個人個人がすること」だと私は考えるから、私が「社会が求める事」を優先しようが、「自分にできる事をする事」を優先しようが、結果としてはどちらにしても「自分にできる事をする」ことに成る。

他人にとっての他人

 自分にとっての他人。その他人にとっての他人の中には、自分が含まれる。その考え方が私の考え方と行動に影響を与えている。他人が「他人の為に何かしたい」と考えているならば、私が私の為に何かをやって上げることが手っ取り早い。自分自身が何を求めているかは、内観するだけで分かる。私は内観をしょっちゅう…というかやり過ぎなくらいやるので内観上手にできる。
「社会」という言葉には自分も含まれているということを考えてもやはり、「自分が求める事」は即ち「社会が求める事」である。「社会が求める事」が即ち「自分が求める事」ではないが。自己中心さや自己満足を下級なものとし貶し、そういった人を虐める事は「個人」にとっても「その人が含まれる社会」にとっても悪い事だ。私はそんな風に考えている。

大人ごっこ

 最近感じることは、日本社会は「大人ごっこをしたがっている」だ。電車内で地味な服装をした人が多いことからそう感じた。「大人ごっこ」という言葉は、私が自分で考えた。初めは大人らしく成る事を憧れている人や、強迫的に大人に成ら無ければ成ら無いと思っている人を揶揄するために、私の心の中だけで使っていた。
 時に危険な未来を避け、「事情」を考慮した結果の行動が子供っぽい行動である事が有る。単なる子供っぽさがクソで、事情を踏まえた子供っぽさがミソである。クソとミソを見分けられない当事者以外の人にとってはミソはクソに見える。
 私は、大人らしさに憧れる人々を「クソとミソを見分けられない、下級な子どもだ」と、心の中で罵倒していた。何故ならば、私が子供っぽい行動をするしか生きる選択肢が今のところ無い人だからだ。子供っぽい行動のみが、私と家族と他人を致命的な破滅から守る方法なのだ。

揶揄している場合ではない


 そんな訳で、私は大人らしい大人を「大人ごっこ」をしている事情を踏まえない下級な人だと見下して、拒否してきた。がしかし、此処に来て見下したり拒否している場合では無いと思い始めて来た。人々の大人らしさに対する憧れの強さは、病的なまでに強い。人々の大人ごっこをしたいという欲求が病的なまでに強い。日本の人々の大人に成らなければ成らないという欲求が病的なまでに強い。とそう感じた。

強迫観念としての


 かく言う私自身も、大人に成ら無ければ成ら無いという強迫観念は強い。がしかし、私は強迫神経障碍者だ。碍を利益を生み出す魔法玉として扱える類の強迫神経障碍者だ。私は、「暴露反応妨害法」を知っている。例に漏れず「大人に成ら無ければ成ら無い」という強迫観念に暴露反応妨害法を適用した。そんな訳で、私は大人に成ら無ければ成ら無いという強迫観念は既に乗り越えている。しかし、強迫神経障碍者だと認定を受けていない人や、強迫神経障碍をよく知らない人や、強迫神経障碍者でも暴露反応妨害を使えない人や使わない人は、まだ「大人に成ら無ければ成ら無い」という強迫観念に行き詰まったままなのだ。私は、私が既に乗り越えているからといってその問題は既に解決したとみなしていた。しかし、既に解決した人は、私位な物だった。
 

対処法


 強迫観念は、私が行った様に何でもかんでも「暴露反応妨害法」を適用すれさえすれば良いという訳では無い。だから、私は私では無い他人に「暴露反応妨害法をすれば良いよ」とだけ勧めれば良い訳では無い。暴露反応妨害法を使う以外に「大人に成らなければ成らない」という強迫観念を叶えるという選択肢も有るのだ。そして、そちらの方が有名だ。

 私は、私を含める日本の人々が持つ「大人らしい事をしたい」という欲望を満足させる必要が有る。
社会起業家に憧れる私は、社会が何を求めているかを優先しなければ成ら無い。社会起業家を目指す人としては、私を含める日本の人々の「大人らしく振る舞いたい」「大人らしい事をしてみたい」という欲求を満足させる仕組みであるとか、そういう場を作ることを目標にすると良いのかも知れないな。そう考えた。

大人ごっことは具体的にどの様な遊びなのか

 あぁ、私ってオトナって思うときはどういう時なのでしょうか。
例えば、自分を押し殺して相手を立てた時。
例えば、他人のことを素直に称えられた時。
例えば、他人に親切にできた時。
例えば、受け止め難い人を受け止めた時。
例えば、複雑な事情をちゃんと踏まえた行動をできた時。
例えば、親に仕送りをできた時。
例えば、結婚した時。
例えば、子供ができた時。
例えば、「人柱」として役割を果たせた時。
例えば、裏方に回って表舞台の人を援助できた時。
例えば、慈善事業に携わった時。
例えば、福祉的な行動、仕事をした時。
今の日本人が求めている「場面」は、そういう「場面」なのだと思います。
そういう、大人らしい、自分自身は苦い思いをするけれど社会全体の為には成っていること…。
そういうことを今の日本人の多くはしたがっているのだと思います。
 精神に関する本を読めば「自分の中の子供」を恐がらせないことの重要さ。
自分の中の「悪魔」を喜ばせてあげることの重要さ。
そういった物の重要さを知ることに成ります。
私も知りました。
わがままの大切さ、自分勝手の大切さ。
自分の中の「子供」も大切ですが、同時に「自分の中の大人」も大事にする必要が有るんだなぁ。
そんな風に考えました。
 

後書き

 何故かとっても長い記事に成ってしまいました。
音源(mp3)化をいつかしたいと思います。
文章の特に後半では、「常に上から目線」での語りに成りました。
そういう人が嫌いな方は、是非筆者である私を嫌いに成っちゃってくださいね。
私自身それを望んでいますから。
(筆者:大塚将俊)

農協と農家の関係

「あまった食べ物」が農業を救う
を読んで
page 72,73を読んで

呪い合い?


 或る地域の農協が、半ば脅迫的に肥料を使わせているだなんて知らなかった。
悪い言い方をすれば、農家が農協に飼われている様な感じだなんて。
農家と農家の関係も、地域単位で括られて連帯責任有らしい。場所によって縛りの様子は違うのだろうけれど。

 そんな、雁字搦めな農業世界が2012年という去年の時点で有るだなんて驚きだった。
変な事をしたら…変な事とは、つまり農協からくる物ではない肥料を使ったら「裏切り」に値してしまう。
金が絡むと、「ビジネス!」という意識のスイッチが入って、人は自分や他人に厳しく成る。
農協の人は、裏切り行為をされたら、怒ってしまうだろう。
「裏切る」の対象物であるところの「繋がり」は確かに存在する事をまずは顕在意識で認識しなくては、「裏切られた」ときに怒りに収まりが付かないだろう。
有るのか無いのか微妙な物は取り敢えず「有る!」とハッキリ意識しておいた方が、対処し易い。

 私は農協がどんなものなのか分からなかったが、今回この本を読んで少し知れた。企業同士の取引は、時に呪い合いの様にガッチリし過ぎている様に思えて引いてしまう時が有る。今回読んだ文章で知った農協と農家の関係も、陰気な呪い合いの様に私には思えた。生活がかかっているのだから、ビジネスに向かない人だと思われたくない!という思いも掛かっているのだから、呪い合いみたいに成っても仕方の無い事だと私は考える。

「農家と、農協の関係ってよく分からなぁい」という私みたいな若い人が有機農業を目指すと、上手く始められる気がする。農協と農家の呪い合いに慣れている人は、有機農業への切り替えが難しいか、不可能に近いだろうと思う。
儲けよう!とか、儲けなくては成らないという念が必要以上に強いと呪い合いを辞められないだろう。

事情を知らない人


 余り儲け無くても良い、独身の人や子どもが居ない人々や金持ちの夫婦の娘息子は、沢山金を稼ぐ必要がない。私を含めたそういう人が、有機農業を積極的に行うと良いのだろう。金にガッ付かなくても良い人は暇ならば有機農業をやってみよう。私は家庭菜園を続けたいと思います。何らかの機会が有ったら、もっと大規模にしたいです。
(筆者:大塚将俊)

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