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[社会研究] 「やくわり」
介護の職場で、4年間働いてキャッチしたことをまとめています。
この世というものこの社会というもの人間関係というものを。 ひとつ思ったことは 「人にはそれぞれ役割があるんだな」 ということでした。 いえ、あなたはキッチンなので○○を、あなたはフロアなので××を…とかじゃなくて。 「どこの職場に行くのだとしても、その人はその役割を担うことになりやすい」という生まれつき的な役割が。 体感したのは図の6種類でした。 誰しもがこの中のどれかの役割を負っているのかなと思えます。 そして、その役割をその人が負っているからこそ、全体としてうまく回るのだなぁと。 欠けるとけっこう大変なことになりそう。 まぁ大変なら大変で、それはそれとしてやってゆけばいい。 と信じています。 [システムで解決 or 個人の力量で解決] 4年間、介護の職場で働いて思ったことは、
なにか問題が起きたときに、
・システムを改善することで解決しようとする動き ・個人に注意して個人の技術や力量をアップすることで解決しようとする動き の2種類があるな〜 と思ったことでした。 ぼく個人はだんぜん「システムで解決」派なので、システム構築に必死でした。
うん。 あと、個人の力量を上げるにしても、個人の力量をあげることができるようなシステム作りが重要。 まぁ、システムで改善するのも、個人の力量のアップも、両方ともやるのがいいのだと思います。
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私の考え
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私の主張文があります。
臆見ばかりです。又、侃侃諤諤です。
反論、ご意見も平気です。
臆見ばかりです。又、侃侃諤諤です。
反論、ご意見も平気です。
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〇自分が持っている障碍 強迫性障碍を抱えている僕はあらゆる強迫的な観念をゆるめていた。
「開かれた状態」。 ○○はイケない、○○はしてはならない…そういったあらゆる観念をゆるめていた。 治療のために。 神経質になりすぎないために。 でも それは自分の頭の中が混乱している状態でもある。 それまで持っていた自分の中の確固たる、判断基準、善悪の観念を緩めた状態。 自分で自分を半ば信じない状態。 自分の認識を半ば信じない状態。 意図的に、意識的に 意志薄弱の状態を作っている。 そうすることで、「完璧にキレイでなければならない」「鍵は絶対にしめられていないとならない」 などの強迫観念も緩めて薄くして弱くしている。 (しかし、対象の観念をゆるめたくって意志薄弱の状態を作り上げると 正常で健全な観念までもゆるまってしまうという副作用がある) (しかし、障碍者本人はどれが病的でどれが健全なのかの判断はつきにくい) そういう中で、僕はとある人にお酒を飲むことに誘われていた。 今から思えばそれを断れば良かった。 お人好しで楽観的だった僕は、「もちろん、すべての局面で違法なことはしないはずだ」と 勝手に信じ込んでしまった。 それもそのはず「こうではないのか、ああではないのか」と未来に怯えることはまさに強迫的だから。 楽観して安心してついていった。 〇自転車での飲酒運転も犯罪
その人も飲む、自分も飲むとなればその人に送ってもらえるわけがない。
自分は自転車で行き来することにした。 自動車はそもそもそのとき僕は持っていなかったし、自動車運転免許もそもそも持っていなかったから。 でも自転車でも飲酒運転は違法だった。
そのとき僕はそれを知らなかった。 知らなかったから赦されるわけではない。許されるわけではない。 知らなかったでは済まされない。 だからそれは僕の落ち度だった。 運転免許証の勉強をまだしていなかったから知れるよしもないわけだったけれど…。 ネットか何かで調べるべきだったんだ。 自分の頭のなかで、自動車での運転を避ければそれでなんとかOKなんだと なんとかして自転車での交通手段を避ければそれでいいんだと思ってしまった自分が、油断していた。 (油断をするというのが治療のひとつであり意識してそうしていたわけだが…) 自動車の運転免許証を持っていない僕は、自転車でも飲酒運転は違法だと知っていなかった。
20歳を越えればお酒を飲める。 しかし、20歳を越えた人のすべてが運転免許証の勉強を済ませているわけではないく…。 ・19歳未満で運転免許証を取得済み
・19歳未満で運転免許証を取得していない ・20歳以上で運転免許証を取得済み ・20歳以上で運転免許証を取得していない の4つのパターンで、知らず知らずのうちに、自転車での飲酒運転をしてしまい違法なことをしてしまうパターンは
ひとつだけ。 ・20歳以上で運転免許証を取得していない だ。 僕はそのときこのパターンの中に入ってしまっていた。 それに気付けずにいたのがバカだった。 が、強迫観念に対して…自分の神経質な部分をゆるめようゆるめようと意識していたから 気付けるはずもない。 そこまで頭を回せるわけはなく、そこまで頭を回すことが許されているわけでもなかった。 ものごとに対して恐れすぎるのが強迫性障碍のひとつの特徴である。 だから、その「恐れ」を緩めるのがひとつの治す方法である。 緩めたことがアダとなった。 「もしも自分が違法なことをしようとすれば、その人が教えてくれるはず」と僕は楽観していた。 でも、その人は教えてはくれなかった。 (それに結果から言えばその先輩は自動車での飲酒運転をする人だった。 そういう人だと見抜けなかった自分が悪かったし、そういう人を引き寄せた僕のタマシイが悪い。) タクシーはおカネがかかり過ぎる。 歩きだと遠すぎる。 だから僕は、自転車でその飲み屋さんへ行くことにした。 (結果から言えば自動車じゃなくて自転車にしたところで、それは飲酒運転だった。) そうして僕は、犯罪者になった。 〇誰のせいだったのか 何が悪かったのか 他人(ひと)のせいにしたくない。
その先輩のせいにもしたくない。 自分のせいなのだ。 自転車でも飲酒運転は違法だと知らなかった自分が悪い。
飲みに誘われて、好きでもない飲酒(自分の両親が酒と煙草とギャンブルを嫌っていたから僕も影響されて嫌っていた) の席に興味本位で行ってしまった自分が悪い。 違法なことは決してしないだろう、自分が知らず知らずのうちに違法なことをしようとするもんならば 誘ってくれたその人はもちろん「それはダメだよ」と言ってくれるに違いないと思ってしまった自分が悪い。 飲みの席では違法なことは行われるはずがないみんな自制心があるのだからさ…と思ってしまった自分が悪い。 お酒というのはひとつの罠であり魔術である。
たとえ自制心というのを万人が持っているとしても…それぞれが抱えている人生での負荷が大きいだとか ストレスが大きすぎるとか 自制心がゆるめだとかだったら、違法なことに流れ込んでいってしまうものだ。 自制心があるとしてもそれでも流れ込んでいってしまう。 もしくは自分は飲酒運転をやっていなくても、するつもりがなくっても、巻き込まれていってしまう。 自分自身が「飲酒運転は絶対にいけないことだ」と知っていればそれで 自分が犯罪に手を染めることもないわけだ…と思ってしまっていた自分が悪かった。 お酒はマジックである。 流れ込まされるし、巻き込まれるものだった。 よほど気を付けていてもそれでも。 それを知らなかった自分が悪かった。 飲酒運転をするような…「それは違法だよ。」と教えてくれないような人(タマシイ)を
自分のタマシイが引き寄せてしまった、自分が悪い。 そう考えることにする。
僕は今、罪悪感でかなり苦しんでいる。
こういうことがもう二度と起きないように、僕はお酒の席に誘われても行かないことにした。 〇再発防止のために
僕が、酒と煙草とギャンブルを嫌っている両親の下に生まれたにも関わらず
こういう状況に入り込んでしまっているのには、理由があると思う。 自分は自動車での飲酒運転を決してしないぞと意気込んでいても…結果的に 自転車での飲酒運転はしてしまったし 他人の自動車での飲酒運転を見て見ぬふりをしてしまった。 注意できなかった。 決してこういうことが二度と起きないように努力・工夫をすることが神様から
僕に課せられている仕事なのだと考えることにした。 こういう人がもう二度と現れないで済むようにしたい。 もう飲酒運転はしないでくれとその先輩や他の知り合いにもお願いする連絡をした。 そして自転車での飲酒運転も違法なのだとSNSを使って拡散することにした。 (自動車の運転免許証の勉強をしていない人は知らない可能性があるから) 強迫性障碍の曝露法においては、その過程で「開かれた状態」(自分で自分を疑う状態・善悪の判断が鈍くなる状態・判断がうまくできなくなる状態) になることがあり、その状態では良いものもそうだが悪いものもどんどん吸い込んでしまうということを強迫性障碍の知識として新しく発表した。 再発防止をすることが僕にするべきことだと思う。 〇飲酒運転をする人への手の差しのべ方
そのあと、その人は明らかな飲酒運転をするようになった。
その時点で僕は注意をするべきだったができなかった。 「なぜこの人は飲酒運転をするんだ?さっき飲んでいたじゃん…。え?あれは酒ではなかったの? この人は飲酒運転をするつもりでしているの??なになの???なになの????」 とわけのわからない思いだった。 怖かった。 それと「自分のほうがおかしんだ。自分のほうがものごとをかたく考え過ぎなんだ。」と
思ってしまっていた。(開かれた状態だったから) それらにプラスして… 僕はその人をどうにか救い出したくて、その人の気持ちが満たされるようにすることで 結果的に飲酒運転をしないで済むようにしてあげたかった。 飲酒運転をしました→それはイケません!→オワリ
それでは意味がないと思った。 それでは根本の解決になっていない。 飲酒運転をしたくなるような、ストレス状態、精神状態、環境、状況を改善しない限りは 注意したところで、やめさせたところで、通報したところで 必ず再び飲酒運転をするはずだ…。 根本のほうから解決しないと! 僕はそう考えた。
飲酒運転を見かけました→注意します
飲酒運転を見かけました→通報します それは簡単な事。 でもそれでは根本の解決になっていないじゃないか! 僕はそう考えた。 でも…今からしてみれば、 飲酒運転を見かけました→注意します 飲酒運転を見かけました→通報します それでよかった。 それが正解だった。 なぜならば、自分が犯罪になるから。 見かけたのにやめさせなかった、見かけたのに通報しなかったという時点でもう自分が犯罪者なのだ。 たとえばお酒を飲んだ人を見ていて
その人が駐車場のほうへ消えていって 車がブーンと動き出した… それを見ただけでも「見て見ぬふりをした」ということになってしまう。 その飲酒した人が、ハンドルを握ったところまでは確認していなくっても。
駐車場のほうへ行って車が動き出したってだけで、もう「見た」という扱いになってしまう。 それと思わしき行動や状況を見ただけでも、「見て見ぬふりをした」という扱いになってしまう。 …だから! そもそも飲み屋には行かないほうがいい。 自分が飲酒運転をしなくっても、そういう状況をなんとなく見ただけで見たのを注意しなかっただけで もう犯罪者になるのだから。 「ん?あれ…。どうなんだろ。いや…当然飲んでいない人が必ず居てその人が運転してるだろ…。」
と頭の中で自分が思うことにしたところで やはり「見て見ぬふりをした」が成立してしまうのだから。 なんにも犯罪をしたくなくっても、すぐに犯罪した扱いになってしまう。 それが、飲みに誘われて、飲みに行くということだ。 飲酒運転を見かけました→注意します
飲酒運転を見かけました→通報します それは簡単な事。 でもそれでは根本の解決になっていないじゃないか! 僕はそう考えた。 だから、その人のストレスが少しでも減るように いろんなところへ出かけるのに誘われたときに一緒に行くようにした。 こうしていろんなところへ行くことで、その人のストレスが少しでも減って… その結果飲酒運転もしないようになるはずだ…と。 でも結果から言えば僕のそうした努力は無意味だった。
その人が抱えている「問題」を、「自分が一緒に遊んであげる」ことで解決できるはずがなかった。 「すこしでも力になりたい」という自分の判断ミスだった。 (そしてそもそもその人の家族でもなく、正式に依頼を受けたカウンセラーやコーチでもない人が、いち友人いち知り合いでしかないい自分が、問題となっている環境要因を根本の要因をどうにかできるはずがない。 できるはずがない。) 飲酒運転はイケない!とビシっと言えばそれでよかった。
飲酒運転をする人とは、遊びに行きません!と関係を切ればそれでよかった。 すこしでも力になってあげて救い出してあげたいだなんて思った自分がイケなかった(このケースの場合は)。 〇まとめ
・自転車での飲酒運転も違法!
・強迫性障碍であらゆることに対して曝露法を行う場合、「意志薄弱」にならざるを得ないので 犯罪をする人を自分の周りに置かない! ・「自分は飲酒運転をしない」という意志を持っていても、「意志薄弱」の状態になっている強迫性障碍の人は 押し通されてしまうので、そもそも飲酒の場へ行かない! ・飲酒運転をする人に対して「救ってあげよう」と思うならば直接注意をすることだけがベスト その人のストレスを軽減させてあげて…環境要因から変えてあげて…なんて考えてはいけない まず辞めさせる! そして、まだ運転免許証を取っていない20歳以上の人が飲みの席に居たら必ず教えてあげてほしい。
教えてあげたい。 ただ単に知らないから。 「自転車での飲酒運転も違法」だと。 もう、こうやって罪悪感で苦しむ人が現れませんように、祈っています。 強迫性障碍者の人は、「あなたは強迫性障碍者だ」と診断を受けていて或る意味、自分の判断基準を否定されている。
曝露法を使う場合、自分で自分を否定することで自分の判断基準を否定されている。 「自分で自分を疑うくせ」がつきすぎていることがあるので、
強迫性障碍を持つ人はそもそも飲みの席には行かないことをオススメする。 仕事場での行事として強制参加とか半強制参加の場合は仕方ないにしても。 プライベート内とか、一対一での飲みの席は、そもそも参加しないほうがいい。 曝露法を使っていて意志薄弱の状態「開かれた状態」を作り出している場合は、行ってはいけない(※この行ってはいけないという強迫観念は、従ってよいタイプの強迫観念である)。
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強迫観念に対する対処方法として「曝露法」がある。 これはとんでもなく大きな勇気を使ってさながら清水の舞台から飛び降りる感覚になる方法となる。 「本人が、これはやらなくてはならないと本気で感じていることを、本人があえてやらない」という方法。 周りの人が体を取り押さえるとかはしないで(必要ならそれもあり?)本人が内側で我慢してみるの。 本人が「手をもっと洗って私が菌をいろいろなところへ撒き散らすのを防がなければならない。今私がここでもう一度手を洗わなかったがために、未来に誰かが死ぬかもしれない」と本気で考える。 「もう一度」と思考しているが…それを何度も繰り返すことになる。 「私がここでこのタイミングで洗うのを忙しさや面倒くささを理由にあと一回を怠ったがばかりに…未来にどこかのだれかが…」というのを何度も繰り返す。 それが手洗いの強迫行為。 「洗うべきと考えているがあえて洗わない」というのが「曝露法」。
「やるべきだと本人が思っている行為をやらない」 (正確に書くと「本人がやるべきだと思っていてかつ他の人から見るとやりすぎである行為を本人がやらない」のが曝露法) ○ここで強迫観念について書きたい
強迫観念という言葉を、拡大解釈する場合
強くて迫ってくる観念はすべて強迫観念となる。 それが良いものであっても、悪いものであっても。 強迫観念という言葉を、限定解釈する場合 「いくつかの病的な行為に関する強迫観念」という意味になる。 勉強しなくてはならないとか人を殺してはならないとか、そういう強くて迫ってくる観念は 強迫観念に含めず… 手を何十回も洗わなくてはならない(一回はもう洗ったのに)とか 人を轢き殺したのではないか(轢き殺していないのに)とか 鍵を閉めないと泥棒が入ってくるからまた確認しなくてはならない(もう何回も確認したのに)とか… そういった特定の病的な観念に関してのみ、「強迫観念」という言葉を用いるという使い方がある。 拡大解釈と限定解釈とでは、だいぶ意味合いが違ってくる。 ときに、強迫性障碍者のなかには
「どうしてこれは病的で、これは病的ではないと決めつけられなければならないのか。 何をもってしてそう判断しているのか。 どうして2回はよくて20回はダメなのか。何回までならよくて何回までならダメなのか。」 という疑問を感じる。 強迫性障碍で強迫観念と強迫行為が出ている場合「物事の認識に関するゲシュタルト崩壊」が起きていることがある。
ものごとの程度に関して、よくわからなくなっていることがある。 つまり… 「どれが病的でどれが病的でないのか」が、感覚としてまったく判別できなくなっている状態になっていることがある。 強くて迫ってくる観念のことをすべて、強迫観念と呼ぶならば… 「〇〇でなければならない」「〇〇であるべきだ」という語尾の付くものをすべて強迫観念だとするならば… この世の中のルールはすべて、強迫観念であり治療の対象だという論理になる。 僕自身はまさにそこに至った。 お医者さんから、「〇〇でなければならない」「〇〇であるべきだ」とかが強迫観念なんだ と聞いて…だったらルールも正義も正常なものも異常なものも強迫観念だよね??? とほんとうに思った。 なぜ、健常者さんたちやお医者さんたちは「これはいい。これはダメ。」という風に好き勝手に仕分けしているんだ?
何を根拠に?…と。 ほんとうにほんとうにそのとおりである。
この認識の仕方だと、「強迫観念に対して曝露法を使おう」というのをやったときに 「人を殺してはならない…という名の強迫観念に対して、曝露法を使おう。それが自分の強迫性障碍への治療になるんだ。」 ということになる。 「人を殺してはならない」に対する曝露法はと言えば、「人を殺す」である。 それを実際にやったときに
お医者さんの言うとおりに「思ったような恐ろしいことにはならない」と言えるだろうか。 「不安感は下がっていくものだというものを実感できる」のだろうか。 そんなはずはない。 人を殺しても、何も恐ろしいことは起きない…はずがない。
人を殺したということそのものが恐ろしいことなのだから。 その他の犯罪やルール違反に関してもそのとおりだ。 「○○してはならないという強迫観念に対して曝露法しましょう」なんてやっていったら 患者さんは、犯罪者になってしまう。 ルール違反する人になってしまう。 それを「治った状態」「寛解した状態」と果たして呼べるのだろうか。 強迫性障碍者が、犯罪者になったという形でしかない。
非常にばかげている。
しかし、まったくもって真面目な話である。 それくらい曝露法は難しくて危ない。 曝露法は「範囲指定」しなくてはならないのだ。
強迫性障碍者本人には「何が治すべきで、何は治すべきでない行為か」の判別がつかない。 だから知識のある周りの人が「範囲」を「指定」する必要がある。 2回以上の手洗いと、自動車運転時の轢き殺し確認と、歩行時の振り返り確認と、
鍵の閉め忘れ確認と……について曝露法を行ってください。 他の事柄については曝露法を行わないでください。 という風に範囲を指定してあげる必要がある。
本人は「あなたの判断基準は間違っています」と全否定されていて 自分で自分を信じられない状態になっている場合。 筆者の場合はそうでした。
自分で自分を信じられなくなっている。 「○○がいい!」と感じても…「あぁでも、それそのものが僕の普通ではない感覚なのかもしれない。(他の人はどうしているのだろう)」 という風に周囲を観察する。 そのときに周囲に、悪いことをしている人達だらけの場合 「あぁそうかみんなこうしているのか。ではこうするのがいいんだな〜(僕はそう思わないけど。) みんながそう判断しているならばそれが正しいに違いない。 みんなは自分と違って強迫性障碍を持っていないのだから。 健常者に従おう。」 となって、周りに合わせて悪いことをなあなあとしてしまう。 だから、悪いことをしている人を周囲に置いてはならない。 強迫性障碍を持っている人本人も、明らかなルール破り、明らかな違法行為、命に係わるルール破り、命に係わる違法行為 をしている人について行ってはならない。 そういう人に囲まれてはならない。 そういうグループに入ってはならない。 自分の人生においてそういう人物を自分に近づけてはならない。 そういう人を暮らしの中で周囲に置いてはならない。 仕事上でどうしてもそういう人と関わらなくてはならない場合は
仕事上だけの関わりに留めておいて プライベートにおいて誘われても、断らなくてはならない。 「開かれた状態」では断るというのをしにくくなっていたり 友人関係や人間関係を作っていかなくては社会人としてダメなんだ…という観念に囚われていたりするだろうが しかし、悪いことをしている人と友人関係や人間関係を作る必要はない。 必要はない…じゃなくて、作ってはならない。 そういう人達と関わって
悪影響を受けて事件や事故を起こすのはむしろ自分なのだから。 ルール破りや違法行為をしている人達というのは―案外となんらかの自信を持ってやっているわけだ。 やはり破るだけの違法するだけのなんらかの「技術」「運動神経」「感覚」「知識」を持ってやっている。 (それ自体もべつにいいことではない) しかし、強迫性障碍者が「開かれた状態」になって、そういうルール破りやら違法行為やらを やってしまうと 覚悟もなければ それをやらなくてはならない事情さえそもそもないし やりたいとも思っていないし 技術も運動神経も感覚も知識も そのルール破りや違法行為に関して持っているわけじゃあない。 だから、大ごとの事故や事件になってしまう。 悪いことをしている人たちというのは、意外や意外となかなか大ごとになるようなヘボはしないものだ。
ヘボをするとしたら、影響されてやりたくもないのにやっている人のほうである。 やりたくもないことを「あぁ私の方がおかしいんだ。みんなこれを平気でやっているから、やるほうが普通なんだ。」と 思ってしまって 自分を疑ってしまって やってしまって。 当の本人たちはなにも大ごとの惨事を起こさないでいるのに 自分だけ大ごとの惨事を起こしてしまう。 損な話である。 おかしな話である。 だから、「開かれた状態」のときには 「意識がとっても高い人」「正義感の強い人」「悪いことに手を出さない人」 「心が安定している人」「自分をちゃんと理解できている人」 「精神障碍や強迫性障碍の知識を持っていて使えている人」 で周囲を固めなくてはならない。 「ヤバいことに手を出している人」 「なにかに溺れるように依存している人」 「なにか大きな心の闇を抱えている人」は 自分の近くにおいてはならない。 そのまんまその闇を自分が吸い込んでしまうから。 「開かれた状態」で周囲に悪いことをしている人が複数居るとき
強迫性障碍者は、「自分のほうがむしろおかしいんだ」と思ってしまって 「悪いこと」に手を伸ばしてやってしまう。 そして、責められる。
罰せられる。 罪をその心と体と魂にかぶることになるのだ。 やりたくてやったわけでもないのに。
「やってはいけない」とフツーに信じていたのに、「自分のほうがむしろおかしいのかもね」 と思ったがばかりに。 だから「強迫観念」を拡大解釈のほうで解釈する場合に曝露法を行う場合
「開かれた状態」になるから そのときに複数名がしているからと言ってそれをやってはならない。 悪そうなそれをやってはならない。 心に闇を抱える人を周囲に置いてはならない。
心に闇を抱える人についていってはならない。 爆露法はできる人とできない人とが居る。
もしも口暴露法ができる人の場合気を付けなければならない重要なことがある。 曝露法とは「不安感は徐々に下がるものであると知るため」 に行うが。 同時に「これまで自分が信じてきた、清潔感覚、危機管理感覚を疑って壊してゆく」という作業でもある。 強迫性障碍者が持っている、清潔感覚、危機管理感覚は、非常に高い。 とてもすばらしい。 高すぎてすばらしすぎていることが問題である だから、「すばらしすぎる」を「すばらしい」へ。 「高すぎる」を「高い」へ持ってゆく必要がある。 そうやって、下げてゆくのだが。 高すぎる
高い やや高い ふつう やや低い 低い 低すぎる という風にやり過ぎると「低すぎる」というところまで到達してしまうことがある。
それは「曝露しすぎ」であり「自分を疑いすぎ」である。 曝露法を行う場合、その人は「開かれた状態」になる。 強迫性障害を持つことになった人には、きっと様々なタイプがあるが…。 あまり自覚(これは問題なのだという自覚)はない人もいる。 そういう人から言わせると、「なぜ私は皆が菌で殺されないように皆を守っているのにそれを障害だなんて言われなくちゃならないんだ?」という人もいる。
そういう人の場合は診断と治療の過程で二度も全否定される。 本人はまずもって診断時に否定される。本人の感覚では「皆の命を守るためにしているのにどうしてやめなければならないのか」と感じる。 医者が人の命を救うことを誰も問題視しないのに、どうして私が人の命を守ろうとすると問題視されるのかというもんである。 「あなたのその行為は強迫行為というものです(治すべき対象です)」と診断されることは、つまり 「あなたがしているその行動は問題である」と言われていると等しい。 二度目の全否定は「曝露法」である。 自分の内側からは「もう一度手を洗いなさいそれが自分や他人を救うことになる」とメッセージが来ているのに、自分はそうすべきだと感じているのに、その自分からのメッセージを自分で否定しなければならないわけだ。 曝露法は、ガンの放射線治療に似ている。
治療のためにやわらげたい「強迫観念」(治療すべき観念)を壊すだけにとどまればいい。
が、「これについても暴露これについても暴露さらにこれについても思い切って暴露」という風にやっていくうちに、正常な観念まで壊れる。
歯を削る行為にも似ている。 あまり削り過ぎると神経さわって染みはじめる。 暴露法は自分を壊す行為だ。
必要な分(外側から見て、もしくは本人からしても問題と見える分)だけ壊すのは良いことだ。 しかし、問題が起きていない分の観念や信念まで手が及びはじめると、本来だれよりも高い善悪の意識や判断力がぶち壊れはじめる。
それが「開かれた状態」だ。 曝露法を上手に使えるようになりすぎると「開かれた状態」が出現する。
開かれた状態では、自分を疑う力が高い。
自分がもっているあらゆる見方考え方感覚観念信念を良い悪いに関わらず、自分自身で疑える。 相手の見方考え方観念信念を聞き入れられるようになる。 これはかなり素晴らしい能力だ。
仕事を柔軟に進められるだろう。 相手の持っている世界観(世界の見方)をそのまんま自分に取り込めやすくなり人間関係が上手になるだろう。 他人の支援も上手くなるかもしれない。
しかしながら、これら大きなメリットにあまりにも大きなデメリットがついてくる。 デメリットというか、危険。
誰かを殺してしまう可能性が十分にある。 【
「開かれた状態」では、悪い価値観もいとも簡単に入ってくる 】 これがあまりにも恐ろしすぎる危険だった。
つまりどうすればいいのか。
曝露法をやめればいいと言っているわけではない。
曝露法をやる場合は・悪い人を近づけてはならない
・自分がやりたくないことはやらない ・大好きなことや好きなことに目一杯エネルギーを注ぐ(複数好きなことがある場合全部やるのがいいし、一番好きなこと一番好きな人に集中するのがいい) 身の回りに「悪いもの」「悪い人」を置かないことがとんでもなく大事になる。
近くにある「世界観」
そうすることで悪い価値観が入り込むことを防げる。
口暴露法が上手くなるにしたがって、善悪の区別も徐々に無くなってくる。 自分自身では、善悪の判断ができなくなってゆくことを知っておく必要がある。 強迫性障害の人は、「おかしいのは自分だ。目の前の人の方が正しいんだ。」と思ってしまう(人によるが)。 つまり、目の前に殺人社者がいれば殺人者になる。 だから恐い。
「人を殺してはいけない」という強迫観念を暴露しなくちゃ…殺人はいけないこと思っている自分の方が神経が過剰なんだ…
と、こういう思考になるから。 殺人というのは最たるものだ。 しかしながら同じ思考構造で内容は違うことがいくらでも起きる。 だから近くにいる人が悪い人ではならない。 |
あたらしい用語いっぱい、強迫性障碍に関する新しい知識を生み出してしまって世の中の人には申し訳ないと思う。
でも、とある当事者である僕の内側から出てくる強迫性障碍に関する、新しい用語や知識は
少なくとも僕にとっては必要なもの。 以前の僕にとって欲しかった言葉。 だから記しておく。
過去の自分に向けて。 これがもしも同じように強迫性障碍で悩む人の役に立つのならば、これ以上嬉しいことはない。 範囲指定と反応調査。
最近はこの言葉を多く使っている。 あと、強迫観念に対して、強迫観念で打ち消すというやり方は、最近の僕は肯定派に回っている。 強迫観念に真逆の強迫観念で打ち消すというやり方は、結局は「強迫観念のある状態」からは出ていないから
ナンセンスだという見方がある。 僕自身そう思ってきたが…。 いいんでないのか?と最近は思っている。 血で血を洗うのは、争いの循環から出ることになっていない。
っていうはあるが。 しかし 『範囲指定』! 強迫観念のことに関しては、強迫観念で強迫観念を洗うのは…OKだと今のぼくは強く感じている。
こんな風に「範囲指定」は、強迫性障碍を持ちながら、思考しながら生きていく人にとって
頼もしい仲間となってくれる言葉になりえると僕は感じている。 ゲシュタルト崩壊しやすい強迫性障碍とは、いったいなんなのか。
それについて最近思うことがある。 僕は個人的に、強迫性障碍とは
・見当を立てる能力の欠損 だという仮説を立ててきた。 それに加えたい。
強迫性障碍とは ・ゲシュタルト崩壊 ・範囲指定障碍 ・見当を立てる能力の欠損 ・ゲシュタルト崩壊 ・範囲指定障碍 もどれもすべて同じことを言っている(笑)
強迫性障碍者がしばしば、数字というもの、1が1であるということそのこと自体を上手く理解できない というのがあるらしい。 (僕自身、心の奥底でたしかにそれは思ってきていた。) ふつうの人だったら、こっからここまでを区切ってそれを「1」と数えるというのができる。 それはつまり
だいたい(見当を立てる能力)こっからここまでが○○だと決めつける力(範囲指定能力)であり、 その判断を保つわけだ(ゲシュタルト崩壊しない力)。 強迫性障碍者というのはつまるところ注意深く観察してよくよく考えてよくよく考えている。
ふつうの人よりもその力が高いわけだ。 言葉が何から何までを示しているのかだとか細かい意味合い
ルールの細かい意味合いだとか ルールの抜け穴とか矛盾だとかを見つけるのも上手だと思われる。 そういった能力は結局は、ふつうよりも優れているというわけだから 『治してはならない』。 厳密さ。
緻密さ。 矛盾に気付ける。 抜け穴を見つけられる。 ルールを順守できる(大幅に無視したりせずに、ルールの細かい意味合いを見抜けるからこそ、どこならば肩の力を抜けるのかもわかる)。 そういった能力を、強迫性障碍者はふつうの人よりも優れて持っている。
ふつうの人はそれらの部分に関して 「考えすぎるな」「考えない練習をしよう」「もっと楽に考えて」「気が小さいな」「ビビりだな」「ヒヨってんじゃねえよ」などと言ってくる。 しかし彼らの『ふつうの人』の言うことを聞いてはならない。 強迫性障碍者が言うことを聞いていいのは、
自分 理解してくれている人 強迫性障碍の知識の深い人 精神科の医者 家族 ルールを守ろうとする人(守る努力をする人) 厳密な人 細かい人 に限られる。
他の「ふつうの人」(常識を大事にする人も含めて、曖昧さやグレーゾーンの好きな人も含めて)の言うことは聞いていはいけない。 と僕は強く判断している。
キーワードは『混ぜるな危険』である。 まぁある程度「彼ら」の曖昧な思想ややり方を、僕自身取り入れているが。
取り入れすぎに注意。
僕は取り入れすぎて、人を殺しそうになった(自動車を運転していてメガネをわざとハズして人をひき殺しそうになった)。
ふつうの人が言うことや
酔っ払いの言うことは、あんまり聞き入れてはならない。
自分の判断を信じよう。
力のぬきどころ強迫性障碍などの、厳密に注目して、細かく言葉やルールや効果などを見抜く人は
それらの人なりのやり方で「力の抜きどころ」を見抜けている。 ずっと肩の力を入れて生きるのはもちろん強迫性障碍者だって不可能なわけだから
よくよく状況を判断してルールを端から端まで把握して 細かい言葉のニュアンス読み落とさずに ――どこに力を入れてどこは抜く―― というのを、結局は周囲の人と協力しながら見つけられる。 しかしながら世の中にはそうでない人も居るわけだ。 ふつうっぽさ 人間らしさ 曖昧さ グレーゾーン 常識人らしさ 大人らしさ そんなのを重要視していている人がいる。 言葉をイメージで取っていたり
世のなかの雰囲気に迎合していたり。 そういう人達は、一見、大人らしくてものごとの落としどころをつくるのがうまくて
人間らしく伸びやかに生きていて常識も備えているまっとうな人に見える。 というか実際まっとうだ。
しかしそういうまっとうさを持っているということであって
そのまっとうさを強迫性障碍者が真似できるかと言えば答はノーだ。 どちらのやり方も「正しい」のだが。
『混ぜるな危険』である。 曖昧好きな彼らには彼らなりのなんらかの「ここで力を入れてここで抜く」という判断がある。
しかし厳密さから意識を離せない強迫性障碍者には私たちなりの「ここで力を入れてここで抜く」という判断がある。 どちらもうまく行く。
オカシクならない。 両方正しい。 しかし、混ぜると危険。 そして互いに互いのやり方を「イヤなやり方だな」と感じる。 というだけのことだ。
と僕は考えるようになった。 閑話休題。
強迫性障碍とは、ゲシュタルト崩壊である。
強迫性障碍とは、範囲指定能力の欠損(低下)である。 強迫性障碍とは、見当を立てる能力の欠損(低下)である。 ものごとをよくよく観察し厳密に見抜いてゆくことは基本的にメリットとして作用する。 しかし強迫性「障碍」…障碍としてデメリットとして作用することは、ものごとの根幹部分や規定部分やもともと曖昧なものについて。 1が1であるという算数と数学においける基底部分を、厳密に感じ考えるとゲシュタルト崩壊する。観念的に哲学的になってゆく。(ここで重要なのは、別に観念的に哲学的になってもいいということ。素早い計算が求められる職業に就かなければいいだけのこと。) その文字をじっと見つめ続けるとその文字がわからなくなる…これはふつうの人でもそう。 愛というものはもともと曖昧なもので明確にならないものだが それを明確にしようとしても、いろいろと「ハズし」てしまう。 こんな風に大抵の場合 ものごとをよくよく観察し厳密に見抜いてゆくという能力はメリットとして作用するはずなのだが 単純計算やらもともと曖昧さから成り立っている事柄とか 曖昧さがむしろ必要な事柄に取り組む場合…デメリットが際立ってくる――っていうだけのことだ。 ふつうっぽさ 人間らしさ 曖昧さ グレーゾーン 常識人らしさ 大人らしさ などが大好きな人達は彼らのやり方を押し付けてくることがあるが。
強迫性障碍者は、自分が持っている「特徴」を押し殺さないで
彼らの言うことを最大限に聞き入れないでやってゆく方がよいと僕は今、感じている。 社会人になってからむしろそう感じている。 社会人らしさだの大人らしさだの…そういうのにこだわっていられる人は結局のところ余裕のある人。
強迫性障碍に向き合わなくちゃならないという課題を持っていない余裕のある人たちなのだ。 彼らの富裕層の言うことを聞き入れていてはならない。 強迫性障碍者はそんなに楽に生きてゆけるわけじゃないのだから。
というか強迫性障碍者にとって楽なやり方をやっていれば、楽なのだから 彼ら富裕層のやり方をわざわざ取り入れて混乱させられることはない。 ――混ぜるな危険――
彼ら、ふつう好きで常識好きで曖昧好きで大人らしさ好きで社会人らしさ好きなやつらのことを
(もちろんそれが正しいと思い込んでいて良かれと思ってアドバイスしてくれてはいるのだ) 聞き入れて自分の中に中途半端に取り入れれば その結果として 誰かを死なせてしまう ことはもちろんある。 彼らに合ったやり方を彼らがやっているから、それは安全なのであって。
彼らのやり方を僕らがやったら、それは危険なことである。 彼らの言うとおりに力を抜いて、曖昧に、考えずに生きていたらもちろんミスをするし
人を死なせてしまうような大きな事故を起こす。 そういう意味でも「治してはならない」障碍である。(と僕は今思っている) 原因は外側にある強迫性障碍に関して、もう一つ。
介護福祉士の勉強をしたのだが…強迫性障碍はストレス障碍に分類されるようだ。
ストレスによって一時的に出ている障碍だという見做し方(分類の仕方、考え方)があるよう。 たしかに他のいかにも『障碍』らしい『障碍』ではないと僕も思う。 (いかにもっぽくなくて中間的だからこそ、対処法がまだ語られきっていないのかもと思う)
僕自身のことについても…強迫性障碍が出てきた時期、父のうつ病、母は支援で大変というのがあった。 僕に現れた「強迫性障碍」というものは、僕自身の内側から出てきたもの…という側面もあるのだろうが 全然そうじゃない側面もあると思える。 当人の外側で、当人には原因のない何かしらが起きて、それが当人にとっての環境要因として
当人に大きく影響した結果として、当人に強迫性障碍というものが現れているという部分があると思う。 だからこそ、この障碍は「症状が現れているから、すなわち治せばいい治めればいい寛解させればいい」 というものでもないと僕は漠然と感じている。 原因が自分の中にあるのではなくて、周囲にある部分については 原因のことをよく考えてそこを解決してゆくほうが根本的な問題解決になるはず。 自分自身に現れている「強迫性障碍」という症状だけを一生懸命にどうにかしようとしても、仕方ナッシングというものだ。 そういう意味でも「治してはならない」障碍である。(と僕は今思っている) ※反応調査という言葉については別の記事で
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介護なんだか、書きたいことがい〜っぱい。 気付けてうれしいことがいっぱいある。 そのなかの一つ介護のこと。 介護って過剰にやりすぎても、やらなすぎて本人に無理をさせてもダメ。
やりすぎちゃうと本人の残存能力が落ちていって今よりももっと介護度が上がってしまうよね。
だから、本人ができることは本人にやっていただくって大事。 そうするとむやみやたらと本人の能力が落ちないで済む。 でもだからって、本人に無理をさせちゃうのもよくない。
ただの介護怠慢ってことになっちゃうだろうし、怪我のもと。 やりすぎもやらなすぎもダメ。 いっぽう ちょうどいいがいちばんイイ。
本人がどのくらいできるのかを、(色んな場面での本人の行動を、色んな角度から、色んな人の目線から観察して)正確に見極めて その「できる度合い」にピッタリのことを本人にしていただく。 その他は介護者が介助する。 それが大事。
(そんな理想をやっていられないほど、忙しかったり、色々と問題を抱えてしまっている職場が多いのだろうけれども。イチオ理想としては…。) |




