鬱病
ここ何年か、鬱病が流行っている。精神科に罹りやすく成り、認知件数が上がったからだろう。鬱病は社会問題にまで発展している様だ。西洋医学的な治療方法は、充実している。しかし、それだけで良いのだろうか。誰もが西洋医学に親しみを持っている訳では無い。東洋哲学的な理解をしても良いと私は思う。鬱を東洋哲学で、捉えたい。
気0
鬱病を経験した私の父に依ると、気力が根刮ぎ無く成り、死ぬ気力も無く成るのだそうだ。完全なる気力の喪失だ。メーターゼロだ。その事から考えるに、鬱病は気が無く成る病気だ。
言葉の綾
ここでちょっとした、可笑しな事が起きた。「気が無く成る病気だ」という文章は、可笑しい。気が無いのに病気だと言っている。病気という熟語の後半は「気」だ。つまり、「気が無く成る気」だと言ってしまっている。
気が無いのか有るのか分からない。
つまり、鬱病は「病」ではあるが「病気」では無い。
言うならば気の異常、気の病だから、「気病」だ。
閑話休題。
話が横道に逸れてしまったので話を元に戻す。
十二支を使って説明
鬱を東洋哲学で、捉えたい。と言った。が東洋哲学の中でもどの元論の観点から捉えるのか。
一口に東洋哲学と言っても
「気」
「陰陽」
「風火水」
「木火金水」
「木火土金水」
「木火土金水冥」
「月火水木金土日」
「乾兌離震巽坎艮坤」
「一白二黒三碧四緑五黄六白七赤八白九紫」
「陽木陽火陽土陽金陽水陰木陰火陰土陰金陰水」
「子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥」
のどれを使って説明しようと言うのか。
どれを使うのかと言うと私は
「子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥」の「十二支」の観点から鬱病を捉え解決方法を探りたい。
十二支
私は「十二支」(吉野裕子)という、極々単純にして純粋な題名の解りやすい詳しい本を読んだ。
十二支は、物語みたいに成ってある。
これの次はこれ!と、決まってある。
私はその干支を人に当てはめて考えたのだ。気が順番に、人を移り渡っていく。
その際に、或る人が気を受け取る事を辞めてしまった。
そうすれば、その人は気を得られなく成ってしまう。
また、或る人が次の人に気を渡す事を辞めた。
さすれば、次の人は気を得られなく成ってしまう。
つまりは、何らかの理由で気を入手できなく成った人が鬱病に成る。そう私は考えた。
私は、鬱病に東洋哲学的な観点からの理解による名前を付けたい。
気を入手する経路が断絶してしまうから「気断」だ。
それって大事な線だった?
無意識に、或る経路から気を入手していた人が、これは切っても良いだろうと思い、切った気の経路が実は大切な経路だった。
そういう、誤って経路を断絶したという過去が、「気断」の人には有るのでは有るまいかと、私は考えた。
例えると、地下に埋まる電話線を
穴掘りクレーン車が穴を掘っていたら切ってしまった。
そうしたら、或る御宅の電話が使えなく成った。
そんな感じだ。
解法
東洋哲学で鬱病を理解してきた。
が、それだけでは「ふぅん」「そうとも言えるねぇ」で終わってしまう。
だからどうすれば良いのかの話に移りたい。
では、自分が気断に成ってしまったときにどうすれば良いのか。
気断に成った人に何をしてやれば良いのか。
自分にとって一つ前の、要素から気を得れば良いのだ。
木を育てる為には、水を遣れば良い。
一つ前の段階をちゃんと踏めば良いのだ。そうする事で一つ前の段階にとって次の段階に気が進む。
例えば、卯年生まれの人が気断に成ってしまったら。卯の一つ前の「寅」の人から気を貰えば良い。
申年生まれの人が気断に成ったら、一つ前の未から気を貰えば良い。未は平和さを意味するから、少し平和さに身を沈めてみれば良い。
「卯」年生まれの人が気断に成ったら。「寅」は「動き」を表してあるから、動けば良い。
解放の段階
鬱病に成ったら、鬱病を「気断」だと見做してみる。
次にその人の生まれ年の干支を調べてみる。
その干支の前の干支を調べてみる。
その干支が何を表してあるのかを調べてみる。
その表す事を周りで整えてやる。または、気断に成った人本人に「自分より一つ前の干支の特徴を実行して貰う」。自ら自らが必要とする気を生産してしまう。
上記の段階を全て経れば、暗示の力で鬱病が開放へ向かいかも知れない
こういった東洋哲学を基にした治療の仕方を私は提唱する。
東洋哲学的な治療に関して分かり易く説明してみる。
環境から変える
本好きな人の周りに本が無いならば、その人は動かない。
しかし、周りに本を用意すればその人は動き出す。
環境から変える方法だ。
もしくは、本を本人が書く。
そして自分が書いた本を自分で読んで貰う。
「本を読む」が出来ているから、もう鬱病ではない。
東洋哲学的な理解での鬱病の原因は、本好きな人の近くに本が無いこと。
その人にとっての栄養源が近くに無いことだ。
本好きな人に、ゲームを与えても元気を出してくれない。
ゲーム好きな人に、本を用意しても元気を出してくれない。
「卯」は、「寅」か「亥」からしか気を貰い受けられ無い。
世の中に、幾ら大量の「子丑辰巳午未申酉戌」の気が溢れて有っても、「卯」不元気なままだ。
気には種類が有る。
まとめ
鬱病に成ったら、周りの人が鬱病に成ったら、西洋科学の病院へ行くことが推奨されている。
それはそれで、1つ良いと思う。
西洋科学を全くもって信じず全くもって嫌う人はなかなか居ないだろうから。
ただ、何か本人の為にしてやりたいと思ったら、上記に示した東洋哲学的な解釈と解法を実行したって悪い事は無いと思う。
もしかしたら、余計な行動で悪い事が起きてしまうかも知れない…。
だが、気の為には成ると思う。
気持ちだけ…。
鬱病に成った人が、以前から東洋哲学好きだったら暗示が良く効くだろうから効果が高いと思われる。
反対に東洋哲学を、非科学的だ!とか言って嫌っている人に東洋哲学的なアプローチをしても効果は無いかもしくは少ないと思われる。
東洋哲学に関わるという事は、東洋哲学に関する悪い事と良いことの両方に関わるということだ。
そこのところは、注意したい。
東洋哲学に関わろうとしない人と、東洋哲学で助けようとしても無駄に終わる。
だから、東洋哲学を信じなさい…とかでは無くって。
それならば、西洋科学の方で助ければ良いだけのことです。
終わりに
何故か上から目線に成ってしまって申し訳有りません。
全ては、私が実経験も無く頭で考えただけのことです。
私自身の父親が鬱病に成ったことが有ったので、その時に東洋哲学からのアプローチができたのでは?
と思ったことがこの文章を書いたきっかけです。
理論上だけでも、解法を思い付くところまで思考を進められて私は満足です。
この記事の文章は、「藁にも縋る気持ち」の「藁」に値すると思います。
信じ難い内容だと思われてしまうでしょうが、それでも記事にしました。
内容を、言い換えると「人が元気に成る為には人が栄養を得る必要が有る」です。
その言い換えだと単純に食べ物を食べれば元気に成る…。
という文章に成ります。
そっちの意味だと、現実味が増しますね。
食べ物の面から鬱病を治すという方法は西洋科学の方で認められているそうです。
(筆者:大塚将俊)