点を作る罪悪感オリジナルソングを作るという事はmp3を作るという事は、気の滞る点を作るという事だ。
気が滞る事は良く無い。少なくとも、私は気が滞る事は良く無いとする。
血が巡ら無いと、流れ無いと、細胞が死ぬ様に、気が流れ無いと、人が死ぬ。そう考えている。 mp3を作成することは、点を作る事であり、碍を作る事だ。 柱を作る事であり、即ち意識体を一つ目覚めさる事だ。 私からすると、オリジナルソング作る事やmp3を作る事は、悪い事なのだ。 だか、点を線で結べるならば悪くは無く成る。
私が今からするべき事は、独立した点を別の点と線で繋ぐ事だ。 さながら、Perfumeの「VOICE」の歌詞中で提唱し、勧め、誘っている様に。 ♪点と点を繋げてこ ♪点と線を繋げてこ Every thingを合わせてこ タイアップ タイアップという術は、点を線で他の点と結ぶ行為で有る。
mp3という点と、1つのドラマという点を線で結ぶ行為だ。
mo3を孤独から救う行為だ。
「up」は「救い上げる」の、「上げる」だと私は考えている。
「tie」は紐などで結わえるという意味が有るらしい(Yahoo!辞書)。
企業 企業というのも、言ってみれば「点」だ。
「気」が「止まる」点だ。
「企」という漢字の中に「止」が入って有る。
「企業」は、何らかの形で「材料」やら「気力」「体力」を取り込み
その企業らしい「作品」「製品」を作り
作った品物を、企業内か企業外の「点」へと「見せる」か「渡す」かし無くては成らない。
見せたり、渡したりしないと、気が止まったままに成ったり、製品が企業内に残ったままに成る。
そうする事で、東洋哲学の五行説で言うところの「生」を行える。
ただ、どこから「材料」やら「気力」「体力」を仕入れてくるかと
どこへ「見せ」「渡す」かは、選ばなくては成らない。
選び間違えれば「剋」に成ってしまう。
ちゃんと作品やら製品を作ったとしても、その作品や製品が素晴らしいのだとしても、
材料を貰う相手と、作品やら製品を渡す相手との相性が「剋」の関係だと駄目に成る。
「剋の関係」とは、「相手が相手であるという前提、定義を壊してしまう関係」の事だ。
「成り立っている存在」を「成り立っていられなくさせてしまう」関係の事だ。
まとめ 結局私は、この記事で何を伝えたいのかを短い文章でまとめます。
オリジナルソングを作ることには罪悪感が伴うけれど、後でちゃんと他の点と線で結べば「点」に滞った気はちゃんと流れる。
オリジナルソングを作ることは、後で滞らせた気を流すならば悪い事では無いからオリジナルソングを作っても良い。
罪悪感に押し潰される事無く、オリジナルソングを作ることを辞めずに、作っていこう。
私がこの文章で伝えたい事は以上の様な事です。
つまり、作曲をする自分への援助です。
作品作りには罪悪感が伴います。
がその罪悪感に押し潰されてしまっては、私は「行動をしない人」に成ってしまいます。
「行動をしない」という状況に自分が成ってしまうことを避ける為の文章です。 (筆者:大塚将俊)
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私の考え
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私の主張文があります。
臆見ばかりです。又、侃侃諤諤です。
反論、ご意見も平気です。
臆見ばかりです。又、侃侃諤諤です。
反論、ご意見も平気です。
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注意:この文章は東洋哲学を肯定した文章です。
東洋哲学に纏わる事で良く無い事が起きる方は、読むのを避ける様お願い申し上げます。
また、読んだとしても信じないでください。
東洋哲学に関わっても、良いことと悪いこと両方享受できる方はお読み戴きたく願います。
雷の気を持つ男雷の気を持つ男は、決断できない女や男にモテる。 雷の気が、一つの物を二つに分割するという特徴を持つからだ。
雷の気を持つ男は、即ち決断できる男だ。
雷の気を持つ女は決断できる女だ。
私は決めて選ぶ事が嫌いだ。 何方にするか迷うことが嫌いだ。
私は決断できない男だ。
私は決断できず、何処へも行けない人だ。
私が「自惚レボリューション」という楽曲を音楽関係者に聞いて頂いた時に、「何処へも行けて無い感じ」と言われた。その楽曲の通り、私自身も何処へも行けない人なのであろう。 そんな私が好きに成った男性が、雷の気が強そうな彼である。
私は、同性愛者である。
キレキレのダンス ダンスで、「キレキレのダンス」という言い方がある。
それは、「切れ切れのダンス」のことなのであろう。雷の気に満ちた動き。
振り付けは、いく通りも考えられる。
その中で「これ!」と決める訳だ。曖昧な、想像を幾つかに分割する。そして選ぶ。
この分割するという行動が雷の気に分類される理由だ。
ちゃんと分割して選ばないと曖昧な動きに成る。 「曖昧です!」という風に「曖昧さをはっきり示す」ならば、それはそれでキレていると言えるだろう。
雷が木に落ちて木が裂けてしまった図を思い浮かべて頂きたい。
一つの茎が二つに裂けてしまった図を。
その図が、雷が分割するとか、分けるという想像を纏う理由だ。
(筆者:大塚将俊)
絵:MAVOL
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「十二支」(吉野裕子)を読んで 五元論を、四季に当て嵌めると、何かしらの「異常」やら「事情」が起きそうである。
4は奇数で5は偶数だ。
やはり、起きるのだ。
四季の、春夏秋冬に五行の「木火土金水」を当て嵌めると順に「木火金水」だ。
「土」が抜けた。
土が抜けたことにより、「火の夏」と、「金の秋」が直接隣り合ってしまう。
そのことによって、「折角作った金物が、溶けてしまう」という連想が発生する。
専門用語では、「火剋金」だ。
その連想が「良く無い異常」だ。
対処法 その良く無い異常を良くする為に、「火の夏」と「金の秋」の間に、土の気を用いる。
別に、春と夏の間や、秋と冬の間や冬と春の間にも、「土用」は有る。
がしかし、が夏から秋の間の緩衝材としての土用は、有っても無くても良い物ではない。
無ければ成ら無い物だ。工場に於いて、火が金属を溶かすならば特に問題無いだろう。
がしかし、日常生活で金属で出来た金物が溶けては困る。未だ使える金物が溶けては困る。
火が金属を溶かしてしまわぬ様に、「土の気」で壁を作り隔てるのだ。
(筆者:大塚将俊)
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キモいとは 「キモい」とは、「気持ち悪い」の略である。
「気持ち良い」を略しても「キモい」に成るが、一般に「キモい」と言うと「気持ち悪い」を意味する。
主に、相手を卑下し、蔑み、傷付ける為に利用される言葉だ。
混沌のキモい 「キモい」とは、様々な種類の気が一人に集まっている様…であると、私には思える。
1人、一種類の気を持っているならば、「みんな違ってみんないい」と思える。
がしかし、1人の人物が幾つもの気を持っていたらそれは気持ち悪いのだ。
パレット上で、一箇所に何色も色を混ぜてしまった状態だ。
混沌の子東洋哲学十二支の一つの要素として、「子(ね)」が有る。「子」は「鼠」の事である。 ねずみ年の「ねずみ」である。この「子」が意味することは、混沌である(「五行大義」)。 混沌と言われてもピンと来ない人も多いだろう。私も中学生で初めて知った。 インターネット上で「カオス」という言葉が流行った。それかわ、私が「混沌」という言葉を知るきっかけだった。 同じくインターネットで調べたら、「カオス」の意味は「混沌」だった訳だ。混沌とは、私の言葉で説明すると、様々な物事等が入り混じって様である。 共通点 先に説明した私なりの解釈の「キモい」と、十二支の「子」は「混沌」という点で共通している。
「キモい」と言われれば、単純に傷付いてしまう。キモい自分をキモくない自分に変えようとし始めてしまう。 がしかし、「キモい」を「子」だと理解できれば、傷付くのみではなく済む。 「子」は、十二支の中で始まりだ。番号ならば1番だ。材料置き場みたいなものだ。材料無くしては、何も始まらない。
自分がそういう大事な概念を持っているとしたら、キモいと言われても何とか耐えられそうだ。 ただ、単純に「キモい」ままでは単にキモいだけだ。ただ、単純に「子」のままでは「子」のままだ。
認められないままだ。認められる為には材料置き場の中から材料を選び出し、作品を作り上げなければならない。 材料を使って作ろう材料を作品に組み立て上げなければ、材料置き場は単なるゴミ置き場だ。 キモいと言われたら、それは、自分には何か「作品」を作れるという合図だ。
「キモい」と言われたらそれは、自分が様々な種類の色々な気が綯い交ぜに成っているのだと理解していきたい。 材料を組み立て上げて、作品を作るという方法以外に、綯い交ぜに成っているのだから、分類するという方法で他人に認めさせるのも有りだ。 色が全部混ざったら嫌な色合いに成ってしまう。だから色を分けるのだ。 テレビの砂嵐 関連した話題として、テレビの砂嵐についても記述してみたい。
テレビの砂嵐は、様々な周波数の音と映像を全部受信している状態らしい。
言ってみれば混沌の状態だ。「ごちゃごちゃ」という一つの情報を受信しているのではない。 幾つもの情報が混ざった状態なのだ。このテレビの砂嵐も、「子」と似ていると、私は考える。 (筆者:大塚将俊)
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M君 或る人物M君が居るとする。
そのM君が、「認められたい」とか「注目されたい」と願っているとする。 そう考えて、輝こうと頑張る。 そして実際に輝く。 注目はされた。 そして次に認められる、褒められると思いきや、周りの人は何やらM君の方を見ようとしない。 M君の「認められたい」という欲求は満たされないまま…。 そして悪いことをして、他人に認めて貰おうとし始める…。 褒めなくても良い そんな状況の謎を解いてみる。
M君の周りの人々の感情に秘密が有るのだ。 M君の周りの人は、M君の輝き・活躍を見て、実は凄い!と思い、心の中ではM君に一目を置いている。 しかしながら、「M君の輝き、活躍が素晴らしい。それは自明の事実だ。だから敢えて口に出して言うまでもあるまい。」とM君の周りの人は考えているのだ。 これらの心理が有るから、「褒めても褒めなくても良い」という結論に至っている。 「褒めても褒めなくても良い」という結論ならば、機会さえ有ればM君を褒める。
がしかし、Mくんは誰からも褒められなかった。 それは何故だろうか。 実は、上記に示した心理以外にも、もう二つ心理が発生しているからである。 褒めたくない一つは、「もしも本人を直接褒める様なことをしたら、寧ろ失礼に値する。」という心理・考えである。 褒めたら怒られてしまうかもしれない…。 この恐怖から、周囲の人はM君を褒めない。 「認められたい」とか「注目されたい」と願う人は、不満な状態である。 不満な状態な人は、目付きが厳しかったり、常にやや怒っている様な雰囲気を醸し出している。 だから、そういうM君に怒られることを周囲は恐がっている。 嫉妬もう一つは、M君への嫉妬だ。 実はM君の周りの人達は、M君の余りの勘の良さや見てくれの良さや身体能力の高さに嫉妬しているのだ! 「M君は明らかに素晴らしい」と思って、自分の今の状態と比較して自分の惨めさを相対的に意識してしまっている。 すると、自分とM君の差が広まり過ぎない様にするために、「M君のしていることは大したことではない」と考え始める。 「M君のしている事は、大したことではない」という理論が相当に強引なものだとしても、なんとかしてその「M君否定論」を成り立たせようとする。 実際に成り立たなくても、少なくとも成り立たせようとはする。 「M君を下げる」以外にも「自分を上げる」という方法が有る。
がしかし、「自分を上げる」のには長い時間が掛かる。 刹那的に、瞬時的に自分とM君の距離を埋めるためには「M君を下げる」という方法しかないのだ。 または、「『自分と、M君の距離が離れること』を良しとしてしまう」という方法もある。 それは差を埋める方法では無い。 差を埋める必要さを無くすという術である。 方法というよりも、術である。 私はこの術を使うことを責めている訳ではない。 自分の碍を保つ為にも、そういう術は使うべきだと考えている。 言い換えると「『M君と自分を0距離にしておく』ということを諦める」だ。 更に言い換えると、「M君を雲の上の存在として、自分と比べることを辞める」である。 あぁ彼は別の世界の人 「雲の上の存在」とすると、M君の事を本人が居ない所や処で褒める事が有り得る。
しかしながら、M君の耳にはM君への褒め言葉が入らない。 本人が居ない所で喋っているのだから当たり前である。 M君はこの文章始まりに示した様に「認められたい」と願っている。 言い換えれば「褒められたい」のだ。 実際には「認められている」のだとしても、「認められているという事をM君が確認して認識」しなければM君はいつまで経っても満たされないのだ。 M君は頭が良いから、認められない事で人前で暴れたり「私を褒めて」とか「私を認めて」とかは言わない。 暴れたり、私を褒めて・私を認めてとか言うと周りの人が煙たがる事を知っているから。 M君は、自分が「認められたい」と願っている事を薄くしか自覚していない。 本人も自覚していないし、周りの人もそれほどまでにM君「認められたい」と願っている事に気付いていない。 自覚も、他覚も無い。 自覚も、他覚も無いという状況は非常に危険である。 欲望が暴れ出した時に原因も対処方法もわからない。 欲望の暴走の予防だって、勿論できない。 欲望の暴走の予測もできない。 眩しくてマトモに見れない 感覚的に、比喩的に言うと、「M君が眩し過ぎる」のである。
「過ぎる」の部分が有るが故にM君は褒められないのだ。 「過ぎる」が「自明さ」と「嫉妬」を誘ってしまう。 「M君を褒めると、自分とM君の差を感じてしまうから褒めたくない」という感情が、実はM君の周囲の友達は感じている。 だから、M君は周りの人々がら褒められないのである。 「褒めても褒めなくてもどちらでも良い」「褒めたくない」の2つの思いが有り、その結果としてM君は褒められないのだ。 なんで褒められないの? M君の感覚としては、褒められる筈の事をしたのに褒められないという「不明な肩透かし感」を覚える。
M君は、M君の周りの人の「自明の事実感」「自明の事実観」と「嫉妬」を理解する必要が有る。 そうすれば、M君が感じている「不明の肩透かし感」は「肩透かし感」へと変わる。 M君の家族ならば、M君を褒めてくれるだろう。
でも、家族から褒められても仕方ない…とM君は思っている。 それだけでは嫌だ…と思っている。 家族から褒められるのは簡単だ。 家族なのだから。 家族以外の人から褒められたい…。 そう思っている。 自分を満足させる術 M君が自分を満たす術として、「内側を外側化する」が有る。
家族は内側と考える。 家族とは言っても「自分では無い人物」だから「他人」だと考えてみる。 そう考えれば家族から褒められるだけでM君は満足できる。 M君がすると良い術のもう一つは、「自分」を「他人化」する事だ。 「自分は自分である。それはその通りで、それは否定しない。自分は自分であると同時に自分を俯瞰する他人でもある。」そう考える。 自分で自分を褒めれば、それは即ち同時に他人から褒められたことに成る。 そんな訳でM君はM君自身を満たす事ができる。 M君がやったことが、それ以上成長させる事が不可能な事だったりM君の精一杯の場合は上記の術を使うと良い。 M君が現状に満足せずにもっと自分を成長させたいと願っているならばM君は上記の術は使わない方が良い。 台風の目 感覚としては、台風の目みたいな物だ。
中央の死角みたいな物だ。 M君の周囲の人々は、「どうせ、幾らでもM君は誰かに褒められているんだろう。幾らでも良い思いをしているのだろう。」 と思い勝ちだ。 しかし、もしかすると「M君は、意外や意外全く褒められていないのかも知れない。」とそうも考えてあげることが必要だ。 もしも、余裕が有るならば。 褒めてあげないと、M君はもう頑張ることを辞めてしまうだろう。 良くない方向へと進むだろう。 M君の認められたい欲望は満たされないままだ。 褒められる人 M君を褒められる人はM君より上の人か、「嫉妬」を乗り越えた下の人か、M君より下の「M君の事を雲の上の存在」とした人のみだ。
嫉妬を乗り越えられない人は褒められない。 嫉妬を乗り越えられる人がいなかったり、誰も雲の上の存在だと割り切った人がいなかったりした時。 尚且つ上の人が褒めてくれなかったら、もう誰も褒めてくれる人はいない。 褒める褒められるの関係で、遣る気を引き出すという事は幼稚な仕組みだとする人がいる。
でも、その幼稚な方法しか使えない状況ではその方法を使う必要がある。 例え幼稚なのだとしても。 褒める褒められるの関係で遣る気を維持する方法は、幼稚ではある物の1つの有効な立派なやり方である。
(筆者:大塚将俊)
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