はむねまぼるのブログ

作詞作曲をしています。介護のことも書きます。強迫性障碍のことも。

私の考え

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私の主張文があります。
臆見ばかりです。又、侃侃諤諤です。
反論、ご意見も平気です。
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塞翁が馬

「○○は良くてバツバツがダメ」とか
「○○は大人的で社会的で、バツバツは子供的」とかを
今、僕がいっぱい他人から押し付けられているのはきっと、
僕が小学生中学生の頃にそういうことを周囲の人にも自分自身にもいっぱい押し付けてきたからなのだろうと思う。
それが廻り巡って自分に還ってきているんだろうな〜と思ってる。

現在の僕は、あらゆる前提や、あらゆる社会的な物差しを捨てた状態に居る。
良いも悪いも…わからないよねという姿勢で生きている。
塞翁が馬という思想を、大きい小さい構わずにほんとうにあらゆることがらにおいて使っている状態。
言ってみれば使いすぎている状態。

何が正解で何が間違いか。
何が常識で何が非常識かは、その場その場で変わるのに。
小学生、中学生当時の僕は
この世にはどこへ行っても通用する万能の知識、常識、マナー、ルール、考え方、やり方があると感じていて、そう信じていた。
社会性や常識や常識的に見られてオトナ的に見られることに必死だった。
あまりにも必死で、自分にだけではなくて周りの人にも押し付けていた。

そして今。
僕は、「この世には決まりきった常識やマナーやルールはない」という常識を他人に押し付けようとしているのだ。
結局はやっていることが同じ。進歩がない。
もしかしたら、この世には決まりきった常識があるのかも知れないのに。

結局のところわからない。
「そんなの常識でしょ」というその常識があるのかないのか。
わかるのは、「これが常識だ」と信じている人が居ることと「すべての場面に通用するやり方なんてないよ」と知っている人が居るということだ。

常識だ!という言葉を使う人は…きっと
誰に対してもどこでも当てはまる価値観があると信じている人なのか信じたい人なのかな?
と僕は個人的に予想している。
そういう、「確か」なものさしを手にして、自信満々に胸を張った状態で生きたい人なのかな?
と僕は予想している。
世間様に胸を張って生きたいのかな?と。

(ちなみに
僕は個人的に、「世間様」というものを、妖怪の一種だと認識していて
その妖怪のために何かをしたいとは、今では思っていない。
妖怪のことは妖怪だと認識している。)

「誰に対しても当てはまる価値観がある」と言う人も居れば、
「誰に対しても当てはまる価値観なんてないよ」と言う人も居る。
僕にはそこまでしかわからない。
誰に対しても当てはまる価値観が、実際にはあるのかないのか…それは僕にはわからない。






そこにリンゴがあるのが見えるとき、
リンゴが実際にそこにあるかどうかはわからない。
リンゴがあると見えていることは、そのままそのとおりだろうけど。
リンゴがあるように見えているだけかもしれない。
実際に触ってみて、触覚で感じても
それでもそこにリンゴがあるかどうかはわからない。
でもリンゴがあると感じたということは、そのままそのとおりなのだろう。
でも、「そこにリンゴがあるように見えた。そして触れたら重さを感じて手触りも感じた。」
という「そう見えた。そう感じた。」というだけで
ホントにあるかどうかは、やっぱりわからない。
もしも他の人がみんな同じように感じても…。
それでも、みんなが「そう見えた。そう感じた。」だけで
ホントにそこにあるかどうかは…やっぱりわからない。

そうやって僕は考えるから、僕は僕のことも誰のことも信じない。

いろんなことが、僕にはわからないし、僕はいろんなことを信じない。
安心と安全は違う。

安心は、お客側が「大丈夫ね」と感じていること。
安全は、事実として大丈夫であるということ。
前者は感情のことで、後者は事実のこと。

会社とか、サービス業において
安心と安全をどう考えればいいのか。
社会性とは何なのか。

社会性とは、「事実として安全であることを確保するとともに、見え方として安全そうに見えるように見せたり説明したりすること」
なのだと思う。
事実としてバッチリ安全であるだけでは足りないように感じる。

たとえば
99%の安全度合いで、80%の安心度合いと。
95%の安全度合いで、90%の安心度合いと。
ふたつの選択肢があるときに、どちらを選ぶのがより良いか。
どちらを選ぶのがより社会性が高いと言えるのか。


要は、内側と外側。
内実と表面。
どうであるかとどう見えるか。
機能かデザインかとも言い換えられる。

もの作りや食べ物のの業界においては、前者の選択が。
サービス業においては後者がより良い選択だと言えるのではないだろうか。

ものとか食べ物に関しては、どう見えるのかどうアピールするのかとかよりも
とにかく事実として安全であることを優先させることが重要であるように筆者には思えた。
それでも、アピール(印象の工夫)も大事だと思う。

サービス業においては、「行為」「動き」を与える仕事だから
事実としての安全はそこそこに、お客に安心感を与えることがより比重が大きいように筆者には感じられる。
事実だけでなく感覚が重要であると。

もちろん、安全度合いも安心度合いも両方99に近い方がいいだろうが。
もしも安全と安心がトレードオフの関係にあるときにはその割合を考えなければならなくなる。
事実としての安全性を高めることに集中すると、
見栄えとしてなんだか安全そうに見えなくなってしまう
とかいうときに
お客を安心させるために、少しだけ事実としての安全さへの注力をゆるめて
「安全そうに見える」工夫へ注力した方がかえってお客にとってはいいというケースもあると思う。

社会とは、社会性とは
「どう見えるか」という表面に関するところ、印象に関するところが、大きいのではなかろうかと遅ればせながら気付いた。

筆者は個人的には、内実が大事で「よく見せる」「取り繕う」というのが嫌いだった。

しかし、人間にはいろいろなタイプが居て…。
どう見えるかを重要視する人も居るのだ。
つまり、そういうお客様も居るということ。
そして印象(安心感)を重要視する人はきっと多い。
人間はロボットではないから、感性や感覚も使いながら生きるのだから。

見えない部分は見えないのだからどうにもならない。見える部分で判断するしかない。
ハラハラさせられるよりも安心していられる方を選ぶお客様の方が圧倒的に多いと思われる。

安全だけではなくて、
安心への気配りは大事だ。
安全度合いが99なのに、
ありのままをアピールすることをせずに良さを見せることができず、
安心度合いが20なんてことが起きていたらもったいなすぎる。

どんなに事実として安全でも、外側から見ての安心感が20だったらお客側は
「20くらいの安全さなのね」と感じてしまう。

内実だけに気を配るだけではうまくいくものもうまくいかなくなってしまう。

学校での生活や社会生活を経て僕は
内実だけに気を配ればいいはずだとは思わなくなった。
起きてしまった結果、事実がどうであるかよりもその人の概念的居場所に注目したい。
周囲の人々が、周囲の制度が、周囲の人々の心がけが変わらない限り、何度でも同じことが起きると思う。
既に起きてしまったからと言って、過去を取り戻そうとすることを諦めない方がいいと思った。
過去と現在と未来を繋ぎたい。

ゆるしてと言っていた。
それがピントだと思う。



幽閉されて、「ゆるしてください」と願いながら死んでしまった子供の事件について。
何も言わないというのは、1人の大人としてそれこそネグレクトになってしまうなと気付いて
何か書こうと思いました。
僕が被害者や加害者の気持ちになって考えても
思いやっても、ハズレてしまったり、勘違いが入ってしまうかもしれないけれど。
だからと言って、何も言わないのは、虐待になってしまう。

まず、被害者の子が何を望まないかと言えばきっと
自分のお父さんとお母さんが責められることだろうなと予想しました。
どんなに酷いことされたって、親のことを嫌えない子がほとんどだから。
だからまずもって、大人の一人である僕は
加害者であるお父様もお母様も責めない。

その子が…彼女が書いていた「ゆるしてください」という言葉がヒントだと思った。
ゆるす?ゆるさない?
なんのこと?と思ったけど。
お父様はなんで自分の子どもに酷い扱いをすることになったの?と思ったけど。

はずれる可能性も知りながらも予測してみるならば。
お父様は自分自身のことを、「ゆるせなかった」のではないかな?と僕は予想してみた。
なにをゆるせなかったのか…それはわからないけれど。

きっと周囲の人や、社会が
お父様のことをゆるさなかったのだろうなと。
だから自分で自分をゆるせなくなって。
自分の化身である、自分の子どものこともゆるせなくなったのだろうなと。

…全部はずれかもしれないけど。

親が自分の子どもを、自分の化身だと感じてしまうという良くない落とし穴は
よく生まれる落とし穴。
自分の延長線上だと感じてしまうという落とし穴。
たとえ、自分の体の遺伝子を半分受け継いでいるからと言っても、
別の人物。

別の人物だっていうのを思い知るためのひとつの方法は、
占いだと思う。
生まれた年、生まれた月、生まれた日、生まれた時間で占ってみれば
その子が、親とは全然違う運勢を身にまとっているとわかる。
占いの内容までわからなくても
内容を信じたって信じなくたってそれはどうでもよくて。
「自分と自分の子供は全然違う人なんだ」ってわかればそれだけでいい。

占いっていうのを、そういう使い方をするのは十分にアリだと思う。

[まとめ]

僕が予想した問題点はふたつ。
・人々が厳しすぎる
・自分の子どもを自分の延長線上ではないんだと意識するための方法が現在の社会には
 必須で通る仕組みとして用意されていない
 (兄弟姉妹が少なくて一人っ子が増えているから、自分の子どもを自分の延長線上として捉えてしまうという罠に引っかかってしまう親は増えているはず増えていくはず)

注意したい点は
・加害者である父親も母親も、これ以上責めないこと
 (この事件の以前から、既に大量に社会から責められて許されてこなかったはずだから)
 (被害者である子が、自分の母親や父親が責められることを望んでいるはずはないから)

※この記事内での予想、憶測、心理分析は知っている限りの情報でしたものであって
 必ず当たっているわけではないです。
 一人の大人として、一人の人としての、考えと意見を表したものです。

占いってものを、どうやって扱えばいいのか。
他の二つの要素「現状や現実」と「本人の意志」と組み合わせるといいと考えた。

・占いの結果…大自然や大宇宙がその人の心にまとわせてきた運命
・現実や現状…目に見えて形として現れている事・物・体・現象
・本人の意志…現実とか現状とか占いの結果とかとは、必ずしも一致していない本人が何をやりたいのかどうでありたいのかという心

占いの結果を、その人に対してただ伝えるだけ、ただ押し付けるだけでは
その人は占いの結果をどのように実際の自分の生活に活かせばいいのかがわからない。
どのように活用すればいいのかわからないままに、ただ占いの結果をふむふむと聞くしかない。


どうすれば、占いを最もうまく活用できるのか。
・その人が心の中で「何に悩んでいるのか、何をどうしたいのか」を明らかにすること。
(主観的なありのままの本人の意志)
・また「この時代には世界全体、国全体にはどのような事実や流れや決まりや事情や通念や慣習や文化があるのか。
そして、その人個人の近くでどのような現状が立ちはだかっているのか
その人個人の近くでどのような問題が起きているのか。」も明らかにすること。
(客観的なありのまま現実や現状)
・いくつもの占術によって一つの魂にまとわりついているあらゆる運勢・目には見えない流れを調べ明らかにして
(多角的占いの結果)

以上のそれら三つの側面を揃わせる必要がある。
占いの結果は三つの側面のひとつの側面にしか過ぎない。

でも、三つの側面をそれぞれに明らかにさせて、揃っただけでも、それでもまだ足りなくて…
三つの側面を上手につなぎ合わせてゆく必要がある。
そのときに注意したいのは、
「一般のイメージとしての現実世界の知識」というのと「その人の近くで起きている現状」には差があることもあるということ。
実際にやってみないとわからないこともあるから
その本人が実際に生きてきてぶち当たってきて身に染みて、頭に染みて知っている「現実」も
頼りにすること。
実際にやってみた人にしかわからない、正確な現実・現状というものがある。

それら3つの側面を意識しながら、『じゃあどうすればいいのか』を作ってゆく。
そこまでできれば占いを最もうまく活用できたと言えるのだと思う。
占いの結果が宙に浮いたままでは、活用できたとは言えない。

現実を無視して占いの結果だけに従って突っ走っても
占いを無視して現実だけを見つめて突っ走っても
自分の意志を自分で知らぬままに生きていても
「うまくいく」ことはなかなかないはず。

死因はすなわち、どの神様がその人を救ったのかだと思った。
今日仕事から帰っていたときのこと。
猫が道路に横たわって死んでいたのを見て
地球が丸いのを感じた。
月が綺麗な今夜桜が満開の今。
春が訪れて、また少しだけ冬に逆戻りした今日の夜。
たぶん、その猫は月の神様に
月の光で救ってもらってと思う。
この球体の地球で寝そべって、眠りついた。
月の黄色と、月夜の冷たさと、地球の温かさと、4月の暖かさのピンクの心地良い世界に救われたのだと感じた。

僕の勝手な感じ方だったのかもしれないけど。

どの神様も、ときにとっても救いたがるような気がする。
人を「誘いこもうとし過ぎる」。
「救いたい、救いたい」って気持ちが大きすぎる。
そういうときがそれぞれの神様にあるのだと思う。
人間がそれ(魅惑・魅了)に負けてしまうと
その神様に吸い込まれていってしまうのではないかと。

水の神様、雪(冷たさ)の神様、夏の神様。
あまりにも救いたがる気持ちが大きいとき
人間は負けてしまって、寿命よりも早く救われてしまう。
今日そんな仮説を感じ、思いついた。
死ぬってそういうことなんじゃないのかなと、
美しく救われることなんじゃないのかな。

水に溺れて死ぬときには水の神様が人を包み込む。
冷えて死ぬときは雪の神様や氷の神様や冬の神様とかが、人を包み込む。
そういうものなんじゃないのかと。

たとえば、冬の寒さに死んだのなら「冬の神様」に包み込まれて吸い込まれていって
死ぬのだと思う。
「春の神様」「夏の神様」「秋の神様」「冬の神様」は時間性を帯びていると思う。
同じ、寒さに死ぬでも、登山でなくなるならば
その山の寒さは時間性を帯びない「雪の神様」とか「山の神様」とかだと思う。
いろいろ細かくありそう。

逆に言ってみると、人は死ぬときにはそういう風に
なんらかの神様(そこにそうやっていることが当たり前すぎるほど当たり前で
概念や言葉として存在しているもの)に包まれて一体化してゆくのだ…と
思わなくっちゃやっていられない。
そういう思想を持たなくっちゃ(僕は)
そのときの苦しみに対抗できない。
耐えきれない。
そういうことにしておかなくちゃ、
そうやって死んでいった人自身も
残された人達や
その死を見聞きした人達は救われない。
そんな気がした。

そして、それでいいとできるのであるならば
そうであるのだとしていいんだよ…な、と思えた。

よくあるイメージは
空から光が差して雲に乗った何かたちが、死んでゆく人々の魂を誘ってゆく図だとか
天使が天国へ連れてゆく絵だとかがあるけど。
そういうことが、死ぬとき起きるんでないかと僕は自分の中から感じた。
ただそれらのこれまで言われてきたありきたりな現象のイメージと
僕が今回感じたので、違う部分はと言えば
その死に方の場合場合で、つまり死因によって
どの神様が包み込んでさらってゆくのかが違うということ。
そのときに何色のオーラが包んでゆくのかが違うということ。
とか。

花の神様に吸い込まれて死ぬ人も居るだろうし…。
数字の神様に吸い込まれて行って死ぬ人も居ると思う。
地面大地の神様に吸い込まれてゆくこともあると思うし。
どこへ行くかは、時と場面次第。
死んだあと、どこへ行くのかは人ぞれぞれなんじゃないのかなと思った。
次にどの世界に行くのか。

死ぬというか…、
救われるというか、包まれてゆくというか、吸い込まれてゆくというか、誘われてゆくというか。
同じことだと思う。
「死ぬ」をただ「死ぬ」と表現するのは不正確である気がした。
もしも人が美しく何かの色のオーラに包まれながら
何かの神様によって包まれて救いだされてゆくのが、すなわち
僕たち生きている人間が理解しえるところの「死」なのだとするならば。

たとえば、ある音楽に引きこまれるとか
ある絵に引き込まれるとかも同じ現象だと思える。
偶然にそれには「死」が伴わないけど。
「ある世界へ吸い込まれてゆき包まれてゆき誘われてゆき救われてゆく」という点では
同じ現象である。
その「その世界とつながる」ということをした結果として「死」が伴う場合もあれば
伴わない場合もあるよ…と。
そういう現象理解の分方法も有るなと考えた。

あと、多神教と一神教がこの世に両方ともあることへの理屈合わせとしては。
そういう「〇〇の神様」っていうのは「支部」なんじゃないのかなと。
「入口」はそれぞれ違うのだけれども全部「幹部」すなわちひとつの
属性を持たない「神」のところへつながるんでないかと、そう考えてみた。


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