考え方のズレ 今日も職場でイライラ。
職場の人と思想の違いが有って、改めて考えることが有りました。 「介護には100%は無い」「やらさせてもらっているという精神で」 この2つについて、私は違和感を感じる。 介護には100%は無い 「介護には100%は無い」という言葉の意味は「介護がケースバイケースの度合が高い」ということ。
もしも何かの介助が100%完璧にできたときが有っても、それは ・その人を相手にして ・その日の ・その時に ・自分がその体調で ・相手がその体調である という状況下において、その介助が100%完璧に出来たということになる。 『限定的完璧』である。 介護において『限定的完璧』は有るが、介護において『非限定的完璧』は無い。 「介護には100%は無い」とか「介護には完璧は無い」という言葉の意味は、 「介護には非限定的完璧は無い」なのである。 相手が変われば、日が変われば、時が変われば、自分の体調が違えば、相手の体調が違えば 臨床的に、また別のやり方を生み出さなくてはならなくなるということ。 固定的ではなく、変動的なので、完全な油断はしてはならないということ。 その言葉の意味合いはちゃんと理解しているが、その上で私は「介護に100%は無い」という言葉は大嫌いだ。
だって、実際に「限定的な意味での100%」は有るから。 だってもしも『限定的完璧』さえも無いのだったら、もっと良くしようなんて全然思わないから。 その言葉は省略部分を持っているから。 正しく表現するならば「介護にはどんなときにおいてもの100%は無い」とか「介護には非限定的完璧は無い」とかだ。 そういう風に正確に表現してくれるならば、別に嫌いじゃないどころかイイ言葉だと感じる。 その言葉はどの様な効果を持っているのかについて…。 要は「私は介護が出来ます」「私は介護が出来ません」という文章は有り得ないということなのだ。 介護は臨床的に、その場所、その場面、その人、その人の体調、自分の体調に合わせて 最も安全で・確実で・健康的で・清潔で・簡単で、時間の掛かり過ぎない方法を研究し開発しなければならない。 そういうのは解るが…。 介護の技術を一生懸命に学んでいる途中私に対して、 勇気挫きする様な表現である「介護に100%は無い」という言葉が嫌いなだけである。 印象としてその言葉は、勇気挫き的である。 その表現よりも「介護ができるという表現はほぼ有り得ない」とかいう言い方の方が好きだ。
介護はあまりにもケースバイケースであるから一概の意味の「介護」が「できる」と言ったらそれはつまり 自分がどんな体調で相手がどんな体調でどんな場合でも対処が出来ますという意味になってしまう。 そんな神業は人類は誰も持てないだろうという話なのだそう。 …それにしても、きっと長く介護を続けていったらいつかは「介護ができる」と言えるところまで行けるだろうと私は思う。 人間が生じさせることのできるパターンは無限では無いから。 ・その人を相手にして
・その日の ・その時に ・自分がその体調で ・相手がその体調である 上記の5つの要素の掛け合わせによって生まれるパターンは無数では無いと思う。
未知の要素がやってきたとしても、それでも無限ではなく無数なのだと思う。 無数に有るパターンを1つ1つ経験していけば、100%に近くは徐々に成っていくだろうと思う。 だから私は無数にあるパターンを1つ1つ経験していっている。 始めっから100%は無いと言われて夢も希望も打ち砕かれるのが、気に食わない。 少なくとも、その瞬間自分に考え得るパターンの全てをクリアしたという状態は発生し得るだろうと考えている。 でも、その瞬間自分に考え得るパターンの全てが、この世の全てのパターンでは無い。 だからつまり、その「介護に100%は無い」という言葉は、その 「その瞬間自分に考え得るパターンの全てが、この世の全てのパターンでは無い」という部分を言わんとしているのだろう。 私が心掛けるべきは、何かができる様になったとしてもそれは「其れ」ができる様になったのであって
介護の全てができる様になった訳ではないと知っておくこと。 ただ、だとしても「其れ」において限定してできる様になったとならば、思ってもいいはずだ。 それさえもできる様になったと思っては駄目なんて言われたら、私は別に介護をする理由なんて無い。 こちらからごめんなさいである。 「やらさせてもらっているという精神で」というのについても、その意味内容に異論が有る訳では無い。
その精神は大事だと思うが…。 それのみを持ってことに当たるのは、おかしなことだし駄目だろうと考えるのだ。 「やってあげている」と「やらせてもらっている」の両方を持っていて、それが唯一の正解だと思う。 「やってあげている」だけだと、介護する側が上に立ってしまっている。 「やらせてもらっている」だけだと、介護されている側が上に立ってしまっている。 どちらかだけが上に立つ状態がアンバランスで悪い状態であると私は考える。 だからこそ、介護する側と介護される側がお互いに 「やってあげている&やらせてもらっている」「やらせてあげている&やってもらっている」 を持っているべきだと私は考える。 だから私は、やってあげているを50%、やらせてもらっているを50%持つ様にしている。 この姿勢は一生変えないつもりだ。 まとめ 私が心掛けるべきは、何かができる様になったとしてもそれは「其れ」ができる様になったのであって
介護の全てができる様になった訳ではないと知っておくこと。 自分に予測できる要素が全ての要素では無いと知っておくこと。 常に良い方法を考えていくこと。 やらせてもらっているという精神は、持っておくこと。 以上が介護者が心掛けるべきことだ。 …ただ、「やってあげている」という心を完全に捨てることは私は間違いだと考えている。
見捨てないで…期待しないで 何にしても、誰も私を貶しも褒めもしなければ良いのにと思う。
そうすれば、やる気を失うことも舞い上がることもつけあがることも無いのに。 私は他人から感謝されても、嬉しく無い。 嬉しいのだが、それは私にとっての本当の嬉しさでは無い。 「介護をすれば、感謝はされる(…から介護をやらせてもらっていると100%思っていてちょうどいい)」 と言われたが…。 私は他人から感謝されても、そんなの意味が無い。 喜びを感じる感謝 私は私に感謝されたときに真実の喜びを感じる。
「やってあげている」と考えることは、自分が自分に対して感謝すること。 「やらせてもらっている」と考えることは、自分が被介護者に対して感謝すること。 被介護者や利用者から、介護者である私に感謝の言葉を述べても私は真の意味では嬉しくは無い。 「やってあげている」と「やらせてもらっている」と両方思うことで 私は私自身と相手の両方に同時に感謝をしている。 |
私の考え
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私の主張文があります。
臆見ばかりです。又、侃侃諤諤です。
反論、ご意見も平気です。
臆見ばかりです。又、侃侃諤諤です。
反論、ご意見も平気です。
この現場での雰囲気園芸療法士として、園芸療法をするとはどういうことなのか。 園芸療法をデイサービス(通いと滞在)やサービス付き住宅(長期宿泊)において行おうと考えるとき、 具体的に何をどうどの順番ですれば良いのか。 私が卒業した大学では園芸療法として「リース作り」や「寄せ植え」(小さな鉢に植物を植える)といった具体例を教わった。 しかし、実際に私が就職したサービス付き住宅の現場でどうか。
その施設の雰囲気はそういうったことをする感じでは無いのである。 ゆったりとしていて「する」という行為を行える程の力が入らない様な雰囲気である。 例えば折り紙をして台紙に張り付ける等して「物」を定期的に作ったとしても
出来上がったそれを飾っておく場所はそんなには無い。 そうやって考えたときに初めからガツガツと何か「図工会」を開いて「する!」の前に 何か「フェードイン」(徐々に導入すること)に値することが必要であると考えた。 あれをしましょう、これをしましょうと、活動や企画をじゃんじゃんと実行することは良く無いだろう。
園芸療法士の私としても「私は園芸療法士なのだからと鼻息荒くやりたくなってしまう」という気持ちは実は有るのだが、 そのやる気は小出しにした方が良さそうだ。 無理無く行うこと、自然で居る事。 行ったことを振り返る期間を設けること(=次から次へと事を行わない)。 そういったことが重要なのだろうと思われる。 「楽しい」が当たり前になることは良くなさそうだ。 つまらない日々(ゆったりとした日々)の中で、たまに出来事が有るから楽しいのである。 イベント(出来事・何かの会)をガツンと或る日の或る時間に開催する前のフェードインとして、
また日頃の「緩い園芸療法」として「行う」ではなく「見る」が重要だろう。 「アウトプット」(出す)をする前に「インプット」(入れる)が必要なのである。 もしかすると、何かの会(寄せ植え会・リース作り会)なんてずぅっと無い方が良いのかもしれない。 脳に刺激を与えることが、認知症の予防になる。
脳への刺激は普通に暮らしていても確かに一定は有るだろうが それにプラスして刺激が有ると良いだろう。 でもその刺激は大きすぎない方がいい。 ・あの花の名前は何だろう→あれは○○と言うそうですよ
・庭の植物は何?→茄子とトウモロコシですよ そういう「植物の姿」「植物の名前」を目で見て頭に入れてみるということで十分そうである。 そういった緩い活動(緩い園芸療法)をちょこちょことすることが、 或る日或る時間に開催される大き目のイベントへの積極性や楽しさに繋がりそうである。 殆ど何もしない生活の中で突然大きなイベントが起きても、乗り難いかもしれないから。 緩い園芸療法で重要になってくるのは、相手から訊かせる(尋ねさせる)ことであると考える。
「職員の方からこれは○○というのですよ」と迫るのは成功率が低そうである。 ふいに知識を詰め込まされても困るだろう。 …ただし、余程退屈そうにしている人に対して職員からさり気なく優しく迫るのは人によっては大きく有効であろう。 花を飾る 他の緩い園芸療法としては、施設内に花を持ち込んで飾るであるとか。
それは確実に緩い園芸療法である。 私が勤務している施設の中の園芸療法士では無い職員の方が恐らくは園芸療法なんて言葉も全然知らないで行っていることである。 ただ持ってきて飾るだけでイイのである。 それより〜〜とか、更に〜〜とかは特に何もしないのが良さそうだ。 力を入れ過ぎないというのも大切になってきそうだ。 [七夕]
例えば七夕。
七夕の飾りを施す為の竹を入手するときにも、園芸療法士である私がサッサと利用者が知らぬところで取って来てしまっては ちょっとばかしつまらなくなりそうである。 園芸療法にしても何にしてもスポットライトが当たるべきなのは、職員と利用者の両方なのであろう。 どの様にしてその竹を得てきたのかの写真を撮影してきて、施設に飾るれば「○○さんが取ってきてくれたんだねぇ」と話題ができる。 利用者の方々の中には、職員の名前までちゃんと把握する方も居られる。 職員も利用者もどちらも施設の利用者であることをいつも薄く意識していたい。 ただ、考えられる問題として出来上がった作品に優越が付くと問題が発生しそうだ。
…が私が通う施設では優越で機嫌が悪くなる人は居なさそうである。 優越が気に成ってしまう方は、初めから参加しないことが良さそうである。 そこは直感で察しなければならない。 必ずしも全員が参加する必要は無い。 植物の掲示展示1緩い園芸療法としては他にこんなのも思い付いた。 ・職員が施設の外で植物の写真や絵を撮影・写生してきて飾る だとか。 Iメッセージ(他人にやらせる前に自分でやって相手に示すことで相手に自然とやらせること)である。 利用者の方々に何かを実行してもらう前に、職員の方が先に自ら楽しみながら行うのである。 利用者が行くことの無い施設の外の場所の光景(植物に限らず)を撮影して今の季節ここはこんな感じですと、 目で見てもらうことは脳に刺激を与えることである。 利用者も職員も当然ながら同じ人間だから、利用者のみが園芸療法を受けるのは実はおかしなことである。
きっと本来は必ず利用者と(利用者の家族と)職員が皆で行うのが自然なのであろう。 わたしたちは 金を渡す側(雇う側)渡される側(雇われる側)とか、老いている側若い側とか、動けない側動ける側などの差で 明確すぎる壁を作ってしまいがちだ。 たしかにそれは日頃の通常業務では或る程度必要となってくるだか 勿論どの人物も「1人の人」なのであるから、その見落としがちな重要なことを意識して園芸療法を行う必要が有る。 植物の掲示展示2他に思い付く緩い園芸療法としては、図鑑・新聞である。 植物の写真・絵とその情報を書き込んだ紙を作るのである。 その際にはきっとあまり難しいことは書かない方が良いかもしれない。 施設に置いてある訳のわからないサボテン植物。 その名前といつ咲くのかくらいのかくらいで良いだろう。 もしかすると、施設の地図を書いてその植物がどこに置いてあるのかを示しても良いかもしれない。 利用者さんが職員さんを慮るというのも、言ってみれば利用者さんにとっての楽しみの1つであるやもしれない。
職員:こんな植物を育てています。こんなところに注意して育てているのですよ→利用者:あらまぁ大変ですねぇ そういう相手への思いやりを行う(愛を与える)という行為は人にとって1つの快感であると言えそうだ。 園芸療法は利用者に対しても職員に対しても、強制であってはならないと私は考えている。
小さくて自然でささやかなことを優しく始めれば良さそうだ。 重要なのは、園芸療法士自身が職員が張り切りすぎないこと。 自然で居ること。 であると私は考えている。 園芸療法士が1つ1つ順番に無理無く確実にそこそこ丁寧に(丁寧になりすぎない)こなしていくこと。 また、1人で園芸療法士が1人で悩まずに園芸療法士ではない職員の皆様と相談をしながら連絡をしながら オプション的に(必ずしもやらなくてはイケない訳では無いということを意識しながら)行うことでありそうだ。 また何も、「園芸」や「植物」を通さなくても単に会話で脳への刺激を行えることは勿論のことである。
無理に『園芸』療法に拘る必要は無く『音楽』療法でも『踊り』療法でも『作業』療法でも『会話』でも『声掛け』でも 何でも良いことは勿論のことである。 |
過去のこと 以前に、「ブログの記事の文章は面白い。歌詞はつまらないけれどね。」と書かれてそれがずっと
心に突き刺さったままでズキズキ痛む。 きっとこの痛みは一生続く。 何故ならば私はその「つまらない歌詞」が好きだから止められないからだ。 感じ方の違い きっとその人が言う「面白い」というのは、「言い得て妙」だとか「複雑な心や真実を複雑な言葉で表現出来ている」とか
「表現のレベルが高い」とかなのだろう。 「形」の部分を見て、そのレベルが高いならば面白いと感じ。 低いならばつまらないと感じている。 籠る力の量 私は、レベルの低い表現もレベルの高い表現もどちらにも良さを感じることが出来る。
レベルの低い表現であればある程、単純な表現であればある程、幼稚であればある程、 籠る「力」が上がる。 形にするという行為は、言葉にするという行為は、「区切る」という行為である。 垣根を作り、或る心の領域と別の心の領域を別のものとする行為である。 単純な言葉は「垣根」を多くは作らず、心を大きく括り捉えることができる。 垣根が無い分、大きな領域を表現することができるし、心の力の心の域から心の域への行き来が自由で流れ良しである。 流れが良くて、詰まりが無い。 詰まり無しで、つまらない。 力を削ること 私は文章で複雑に「区切って」いくのも好きだし、
メロディーとの兼ね合いでそれが難しい歌詞の世界で行う、単純で詰まりの無い心の力の量が大きい言葉も好きだ。 両方を面白いと感じることが出来る。 片方のが面白いときに、片方がつまらないとはならない。 両方が面白いと、それぞれに良さを見出すことが出来る。 出来てしまう。 相対的な見方か絶対的な見方か 「ブログの記事の文章は面白い。歌詞はつまらないけれどね。」と言った方はきっと。
どちらかが高いとした場合には、もう片方は低いとしなければならない「相対論理」の世界観を強く持っている人なのだろう。 片方を褒めた場合、もう片方は貶さなければならない。 私は片方を高いとしても、もう片方も高いとできる「絶対論理」の世界観を強く持っている。 片方を褒めた場合、もう片方も褒めることを自分自身に許せる。 そういう世界観の違いから生まれた、怪我・負傷なのだったと思う。 世の中には、意思を持って意図的に他人を傷付けられる人は少ない。 その方も悪気は無かったのだと思う。 好きなことをする 私の今後作る歌詞は、複雑になったり単純になったり色々だろうと思う。
でも私はその全てに良さを見出すことが出来るからそれを無理やり変えることは無いと思う。 「作る」という行為をするときに、出てきた案を否定するとそこから創作は滞っていく。 出てきた案が優秀でも幼稚でもどちらも愛することで、流れ良く創作できるし自分自身の気持ちを流れ良く出すことができる。 つまらない単純な私の心を表現するには、つまらない単純な言葉が最もよく合う。 してもいいこととしてはいけないこと 私自身が、自分の歌詞を貶したり悪く言うことは赦される行為であるが。
基本的に世の中で、他人の作品や他人のことを悪く言うことは赦される行為では無い。 自虐は平和であるが、他虐は罪である。 私も他虐をすることは有るが、全部後から後悔している。 してはイケないことはしない方が良かったと思っている。 その人にも是非その様に思ってもらいたいものである。 本当のことを言うことが他人を傷付けることが有るということ。 自分で自分のことを悪く言うのが赦されても、他人を悪く言うのは赦されないこと。 |
VOCALOIDの調声が下手 わたしがしたVOCALOIDの調声に関して、悪口を言われた事件について。
「ただ、発表に値するところに達していないと思っただけ」という言葉を言われた。 そのときに、どれくらい私が怒ったか。
どれだけ、勇気挫きされたか。
知識を知らないのだから悪気が無い 恐らくその言葉を言った人には、悪気が無い。
そしてその言葉を言った人は、強迫神経障碍者の心理が判っていない。 そして、アドラー心理学も判っていない。 そういう知識無くして言っているのだから、悪意は恐らく皆無だったと思われる。 頑張ればだれでも達する・・・? 或る人が、最大限に精一杯頑張ってもそれでも「発表に値するところに達さない」ことさえあるのだ。
そのことをその人は恐らく判っていない。 誰しもが、頑張れば発表に値するところに達することが出来ると考えているのだろう。 自分の力量の最大値より下側に、「発表に値するところ」が有る人が言える言葉だ。 強迫神経障碍の特徴とそれに対する工夫 そもそも、「発表に値するか否か」なんて考えているからこそ私は強迫神経症を発症した訳だ。
「こんなんではまだだめだろうか。もっとすごくなくちゃだめだろうか。」なんて考えてしまって、 「発表に値するところ」をどんどん上げてしまう。 強迫神経障碍者である私は、どのくらいの完成度にするかの調整能力を持っていない。 加減能力を持っていない。 そもそも、人によって異なる「発表に値するところ」に合わせることは不可能である。 「発表に値するところに達しているだろうかいないだろうか」とそんなことを考えるからこそ、強迫的にやり直し作業を続けてしまうし。 永遠に作業を続けてしまう。 それが、強迫行為であり障害である。 頑張らない、完璧を目指さない、高みを目指さない、向上心を持たない、向下心を持つというのも、強迫神経障碍者が日々の行動をすんなりと熟したり、やり過ぎたりしないための工夫なのである。
ただ、それらの工夫は非障碍者は無条件に条件反射的に、見下し責め立てる。
だから、非障碍者と障碍者の間で問題が発生する。
障碍者と非障碍者との間での、「常識」が真逆なのである。
禁止事項を突き付けて来る非障碍者 だからこそ、私はその「発表に値するか否か」を考えることを止めた。
完成度が低かろうが高かろうが、それは「発表すること」とは無関係だと考えるようにした。 それが、強迫行為を行わないで済むための私の工夫である。 そういう工夫をしながら生きている私に向かって、
「ただ、発表に値するところに達していないと思っただけ」と、また私を強迫神経症を発症させる思想を持ち出してきたから私は 「この人、なぁに考えてんだ?それは禁止事項だぞ?」と思う。 でも、皆が皆強迫神経障碍者ではない。 非障碍者が持つ能力 強迫神経障碍者ではない人は、「これぐらいが発表に値するところだろう」と「見当」を付けられる。
そして、その「見当」どおりに自らに「ストップ」をかけられる。 その能力は誰しもが持っている能力ではない。 でも、ついつい誰しもが当たり前に必ず同じ様に持っている能力だと考えてしまうものだ。 だから、その人は非障碍者目線で物を言って、私(強迫神経障碍者)を怒らせたし呆れさせたし、勇気挫きを行ったのだ。 まとめ その人が言ったことが「強迫神経障碍者の工夫」や「アドラー心理学」について全く知らないで言ってしまった、悪気の無い言葉だったのだと私は今日気付いたから、怒りも少しは治まった。
未だに、「事実を言うことは悪いことじゃない」と思っている人が居るがその人もその気が少しは有ったのだろう。 その人は、 ・誰しもが頑張りさえすれば完成度を発表に値するところまで高められると信じて込んでいる ・強迫神経障碍者の工夫の仕方を知らない ・アドラー心理学を知らない ・事実を言うだけならば相手を傷付けることは無いと信じている そういう4つの要因が、偶然揃ってしまっていたからこそ発してしまったのだろう。 その人は非常識が無かったのだから、その発言をしてしまっても仕方が無いのだ。 だから、そういう点で私は赦さなければならない。 |
ほしがらなくてはいけない金も、勝ちも、彼女も…。 自分が欲しいと願っても願わなくてもどちらにしても、欲しいと願わなくてはイケない。 欲しくないだけじゃなくて、嫌いだとしても欲しがらなくてはイケない。 きっとそこに、意思変更のツマミは用意されていない。 そんな風に割り切って、義務なのだと考えてしまえば、とっても楽になれる。 自由を失うことで、楽に成れる。 すこしでもねがえば・すこしもねがわなくても欲しいと願ってしまったら、そう願う自由が嫌でももうそれが自分としなければならないのだ。 「勝ちたい勝ちたい」と願う自分が嫌いでも。 「金が欲しい」と願う自分が嫌いでも。 「彼女が欲しい」と願う自分が嫌いでも。 …それでも少しでも願ってしまったならば、それを自分だとしなければならない。 もしも全くそれらを欲しいと願わなかったのならば、意図的に無理して嘘でもそれらの欲を創造する必要が有る。 単に義務それが有性生殖で且つ大きな大脳を持った命(ヒト)として生まれた者(物)の義務なのである。 きっと。 そういうものなのだと、割り切って決め付けてしまえば楽。 悩まなくて済む。 悔しいことを単に悔しいと感じて…それでお仕舞に出来る。 「逃げた!逃げた!」と他人や自分に罵られないで済む。 虐められないで済む。 危害を加えられないで済む。 べつにちゃんとあるじぶん自分の本当の気持ちは本当の気持ちで、別に確かに「有る!」し。 義務としての気持ちも、有るならば有るとし、無くても創造して、持っておく。 一通り取り敢えず常に揃えておく。 そうすることで、一番救われるのは、きっと自分自身。 勝ちたいと願うことも、金が欲しいと願うことも、彼女が欲しいと願うことも、咲顔をすることも、挨拶することも
自分自身を自分自身の口で説明することも。 全て「仕事」なのだ。 単にそういう仕事。 そこには「自分の本当の気持ち」は入らなくて良い。 プライベート(自分の本当の気持ち=真心)は、また別に有る。 義務と自由のバランス自由がたぁくさん、奪われた気もするのだが…。 大丈夫。 自由は、また別に幾つも有るから。 勝欲・金欲・性欲・表情・言葉…。 こんなに重要な5つに関する自由を失ったところで。 それでも、私にはまだ自由が有る。 唄・家族・過去・真の心・恋心 私は自由を持ちすぎていたのだろう。 だから、半分手放す。 自由は不自由が有って輝くのだ。 LGBTにとっての救いの1つの答え上記の思想は、性同一性障碍に関する悩みの1つの答えなのだろうきっと。 性同一性障碍の乗り越え方は、きっと幾つか有るだろうから各々に自由に答えを手にすれば良いけれども。 幾つか有る答えの中の1つがこれだ。 「オシゴト」として、異性を欲しがる…ということ。 「オシゴト」として、子孫を残したがる…ということ。 それは、自分自身の意思でも心でも無くて良い。 「シゴト」と「ジブン」でくっきり分けて、自分の脳みそや心に収納しておけば良い。 従っても良い強迫観念「〜しなければならない」は即ち強迫観念だろう。 しかし、従っても良い強迫観念と従ってはならない強迫観念とが有る。 その見分けは出来る瞬間も有るし、出来無い瞬間も有る。 その見分けが、殆どいつでも出来無い人が「強迫神経障碍」に陥るのだろう。 私は、この瞬間奇跡的に「見分け」を出来た。 余談余談だが、「義務」の対義語は「権利」とされるが…。 それはそれで正解で。 義務と権利は同時に発生する。 そして「義務と権利」の反対は「自由」「混沌」「無秩序」なのだろうなと、気が付いた。 写真心が晴れたから、西(ものごとの末)の先の光という意味でこの写真を添えました。 |




