はむねまぼるのブログ

作詞作曲をしています。介護のことも書きます。強迫性障碍のことも。

私の考え

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私の主張文があります。
臆見ばかりです。又、侃侃諤諤です。
反論、ご意見も平気です。
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気功

 

初めての体験

 或る里山で、初めて気功を体験した。
最初の最初は馬鹿らしいと感じたし恥ずかしいと感じた。
そう感じるだろうと思っていたら、実際に感じた。
少しの間馬鹿正直に気功師の真似をしていたら、ふいに「解って」来た。私は東洋哲学一元論の「気」に関しては今までノータッチだったしよく解らなかった。自分には、東洋哲学二元論、三元論、四元論、五元論、七元論、十元論、十二元論の才能が有っても、一元論、六元論、八元論、九元論、十一元論の才能は無いと思っていた。
出来る人には出来るし、解る人には解るし、出来無い人には出来無いし、解ら無い人には解ら無いと考えていた。
割り切っていた。
私はどうやら東洋哲学一元論「気」を感じられる様だった。
「これを気と言うのか」と解った。
「これを気と言うのだとして、だとしたら普段ちょくちょく感じているぞ?」と思ったのだ。
私が感じた「これ」が「気」で正解か否かは判ら無いけれど。
正解なのだと、決め付けてしまわないならば、もう気なんてこの世に存在しないのだろう。
少なくとも私が認知できるものの中では。
そういうときには、決め付けるべきだ。
 

気とは

 
 「気」は普段から普通に感じていた。
私には「気」とは「力」と真逆の存在だと感じられた。
体が緊張している状態では気は感じられない。
今回の気功の取り組み始めに緊張していて気を感じられなかった。
 気は「無駄な動き」をすると出るし感じられるのだと考えた。何か意味や目的のの有る仕事としての動作で物体を動かすであるとか、働き掛けるだとかするときには気は出ないし感じられ無い。
「気」は「遊び」(余裕)から出るらしい。
「気」は「力(筋力)」とほぼ真逆の関係に有ると私は感じ考え思った。
筋力を収縮させながら(力を入れながら)でも気は多分出るには出る。
だから「ほぼ」だ。でも力を入れながらでは気が出ていても感じることは出来無い。
気功とは自分が客に成り制御機器を持たされて、自らの気をあっちへ行かせたりこっちへ行かせたりする行為だと思った。主体として自分が自分の体を動かすのを辞めて(休んで)気を「体の形と動き」によって「手玉に取り操ること」(支配して制御すること)(control)だと思った。
 

喩るならば

 
 「テレビゲーム」に喩えるならば、人々は普段は全国民皆が皆テレビゲーム制作会社に勤めていて、いつもいつもテレビゲームを作っているとする。それは実際には無いが、そうだとしてみる。
そういう社員がそういう作るばかりの生活を一旦休んで、テレビゲームで遊んでみる。
主体から客体へ回って力を抜いてコントローラーを持って使って遊ぶ…。
気功をするという行為はそういう行為だと感じ考えた。
因みに、気功をしたらその時だけではあったが頭痛が治った。それから「自分が体を強張らせている(筋肉を収縮させている)(力を入れている)(緊張している)」ということに気が付いた。
気が付いたから力を抜かせられた。
私以外の若い人達も気功の途中で屈伸していた人が居た。
気功を暫くしたら、脚の強張りを自覚出来て屈伸をしたく成ったのだ。私を含めて3人の若い人が屈伸をしていた。
何ヵ月か前に最近無自覚で奥歯を噛み締めている若者多いと聞いた。そこに居た私を含めた三人は奥歯では無く(もしくは奥歯と)脚に力を普段から入れて過ごしていたのだ。
私を含めた三人はそしてきっと皆気功をする迄は無自覚であった。
 

筋肉に応用できる


 …因みに、これらの発見から「マッチョに成る為にするべきこと」が見えて来た。マッチョに成る為には、筋肉の収縮と弛緩。筋肉の破壊と回復のそれぞれ両方が必要だ。
破壊してばかりではマッチョには成れない。破壊した後に回復し無ければ筋肉は太く成らない。固く成るか縮こまるだろう。
筋肉トレーニングで筋肉を破壊して、筋肉トレーニングをしていない間に、全身の力を抜かせられているならば、筋肉は回復するだろう。つまり太く成る。
筋肉トレーニング(筋肉収縮鍛練)をして筋肉を破壊して。筋肉収縮鍛練をしていない間に、社会的な重圧やら人間関係やらで精神的に緊張し、無自覚の無意識で筋肉を「やや収縮し続けている」ならば、筋肉は回復出来無いだろう。だから筋肉は太く成らない。
マッチョな人が「優しそう」でガリガリ痩せの人が「困難そう」な表情をしている理由は、今書いた上記の文章の事柄に有るのだろう。
 
 別にマッチョに成りたいからと言って、悩み事を全て無くさ無いと成ら無い訳では無いだろう。
悩み事、心の圧力、困難を抱え背負いながらだって、「一時的な緊張の緩め方」を身に付ければ成れる。
心では悩みも心の圧力も困難事も背負ったままで投げ出した訳では無い。
しかし、形上はマッチョ成る為に力を抜いておく…。
そういう術は可能だししても良い筈だ。
否、寧ろ、筋肉マッチョは関係無くした方が良い筈だ。
 

気を抜けない心の仕組み

 
 何故、若者は奥歯を噛み締めたり体を緊張させ続けてしまうのだろうか…。
気を抜け無い理由は、今の自分を受け入れたく無いからだ。気を抜くということは「自分を確定する」ということだ。
「今の自分が『自分』だということで確定する」ということが嫌だから、…拒否しているから
「今の自分が『自分』」で納得出来る自分に成ることを待つために、確定を先伸ばしにしているのだ。
自分が嫌いな自分に[今]、成ってしまっているとしても、嫌いな自分を好きに成る「心の中での努力」をして
嫌いな自分を認め受け入れられれば、体の緊張を解き、気を抜かせられる(その後今の自分が自分なのだと確定することに成る)。
筆者:大塚将俊

オトナごっこをしたい

いまだに

 わたしは、毎朝母に声を掛けてもらっている。
わたしは、母や父に起こして貰うのが、嫌だ。
わたしは、もう大学生だから。
他の同年代の人はきっと、皆自活している。
自分で生きている。
自分で起きている。
自分で起きられなかったら、その日は授業に参加出来ない。
きっと「授業に欠席する」は、「わたしは今日は起きられませんでした。」という告白を意味する。
しかし、一人暮らしをしていないわたしは、欠席をしない。
わたしは、母に起こして貰うから。
極たまに父に。
わたしは恥ずかしい。
そこでは、わたしは自己肯定力が低い。

違う見方


 だが、見方を変えると「母に頼っているという恥ずかしさに耐えながら生きている」という点に光を当てるならばわたしはわたしを評価できる。
また、わたしが「自分の母…というか1人の人物としての⚪⚪⚪⚪(母の氏名)が抱くわたしに協力をしたいという願いを、無碍にしない。」という点でも高評価可能だ。好評価可能だ。
確かに可能だ。

解決不足


 だが、そういう見方でわたしがわたしを高く好く評価したところで、わたしが完全に満足することはない。もう一方の「普通版」の願いを叶えたいという願いは、燻り続ける。わたしは何事も親の力を借り無いで行いたい。やはり自分で起きたい。やはり、公共機関を使って登校したい。わたしは1人暮らしをしたい。大人ごっこをしたいのだ。「大人らしく成りたい」「大人に成りたい」が幼稚な願いだとしても、それでもわたし言わなくては成らない、「わたしは大人ごっこをしたいです」と。わたしは「大人ごっこをしたがる幼稚な人」なのだ。格好を付けたいのだ。わたしは格好を付けたいコドモなのだ。見栄え良く、聞き映え良く成りたいのだ。勢を張りたいのだ。わたしが言う「オトナごっこ」とは、つまりは1人で自分自身のことを行うことだ。


わたしは、そう。その通り、そういう「大人らしく成りたい」という幼稚な願いを叶えられていない人なのだわ。


 人の願いという物は叶わないと意外とずっと燻る。そのままでは、時には悪い火事を引き起こす。燻りは「無い扱い」せずに「有る」扱いし無ければ成らないものなのだ。
わたしは、自立を「オトナごっこ」だとか言ってバカにしている。
がしかし、わたしがバカにしている対象をわたしは本気で、やりたがっている。
わたしはそこで素直なのだ。
わたしが何かをバカにしたとき。
わたしはバカにした対象を殆ど、有意識の深層心理で蔑ろにしてはいない。
バカにしているのに、蔑ろしないで、バカにした対象に一生懸命に取り組む。そういう、入り組んだ人だ。
でも、普通にバカにした上で蔑ろにしたりバカにした上でテキトーに取り組むことも有る。それは良く無いと思いながら。余裕が無いときには、普通にバカにした上蔑ろにしたり、バカにした上テキトーに取り組んでしまう。

まとめ

 結局なにを言いたいのかと言うと、いつでも良いから、いつかは一人暮らしをしたいなぁということです。
そして、ゆくゆくは優しくて額縁メガネの似合うムッチリとした男の人と一緒に暮らしたいなぁということです。
同性と同棲という訳です。
あ、最高に気持ちが悪いですね、済みません。
(筆者:大塚将俊)

不審者の気持ち

21歳にして

 不審者の気持ちが解った。
私が、めっちゃ珍しいヘルメット型の帽子を深く被っていたら「不審者やん!」と大学の同級生に言われた。
ギクっとしたし、心が傷付いた。

不審者と言われる人の心は傷付くのだ。
私はまた、他人の気持ちを知ることができた。
知らない領域に心を一歩踏み入れることができた。

成り行きが有って


 不審者は、そう成るべくしてそう成っている。
というか、不審者本人からすると自分自身の心の中は全て解っているので、審らかである。
周りから見たときに、審らかでないのだ。
それが、カテゴライズ不可能な新キャラであるから、「それ」は「それ」と出来ない。
心の内側を知らないから、経緯を知らないから、審らかでないと思う。
審らかでないということは、分からないということだ。
分かれる事がない。
どちらにも分類できない…そういう状態だ。
「審らかでない」という状態を一つの状態として、数える必要が有る。
その数え方が、「不審者」なのだろう。

自分が不審者に成ったときに…


 自らが不審者に成っている時には、必ず自覚が必要だ。
そして、「不審者だ!」と図星された時には心が傷付くのだが、その時に耐える必要が有る。
不審者にだって勿論「不審者に成りたくは無い」という気持ちが有る。
「私は不審者ではない」というプライドを打ち砕かれる。
打ち砕かれた時に、涙を流し、砕かれたまんま、泣きながら次の行動へ移る必要が有る。
泣いて良い。
否、泣くべきだ。
「自分は不審者に成りたく無い」というプライドを砕かれたのだから。
勿論、苦しいし辛い。
苦しい時や辛い時には泣くべきだ。
変に我慢しなくて良い。
下手に我慢すると良くない。

自分を辞めないで


 泣きながら、不審者である自分を続ける。
自分を辞めては成らない。
辿ってきた経緯を否定する行為はしては成らない。
次次と、「不審者だ!」と言われ、言われる度に傷付き苦しみ泣きながら、それでも生きるのだ。

説明をする


 そして、不審者は他人に説明をしなくては成らない。
自分の気持ちを。自分が辿ってきた物語を。
説明し、他人から見ても自分という人を審らかにしなくては成らない。
「分かるけれど、他人から見て不審者ではないと思われない様に努力はするべきなんじゃないの?」
と言われたときに、
「いいえ。その努力はしないべきなのです。しては成らないのです。」と言わなくては成らない。
そうやってまた、苦しみの生を続ける必要が有る。
自分を辞めては成らない。
他人から淘汰されても、社会から淘汰されても。
一人ぼっちに成ったとしても。
それでも、辞めては成らない。
譲歩はしても良い。

私はそう考える。
別に、自分を辞めることも大事だろう。
自分を貫き通す程の…傷付けられて我慢できる程の心の力が無いときには自分を貫き通すのはお休みした方が良いだろう。
(筆者:大塚将俊)

本を読んで

「男になれない息子たち」のpage158、line1、2を読んだ。
野生のエネルギーにふれず、戦闘と自己防衛能力に喜びを感じないようでは、
男ではない。
と印刷されて有った。
 

戦闘


 「戦闘」について…。
私は、思い出す事が有る。
私がブログのサブタイトルに、言葉の戦争ね相手に成りますと書いている理由は、物理戦争が嫌いだからだ。
3次元での、戦争が嫌いだから2次元で戦意を消費し、消費させようとしている。だから、戦いたくは無い。勝つ気よりも、負ける気が強い。目的は勝つ事ではなく、戦意や攻撃性を消費することで、現実世界での暴力やら戦争やらを減らすことだ。
つまりは、私は、「野生のエネルギーにふれず、戦闘と自己防衛能力に喜びを感じないようでは、男ではない。」
に沿って考えると、男では無い!
私は、男ではないし、成れ無いし。成るつもりも無い。成ら無いつもりが有るくらいだ。
だからと言って私は女でも無い。
私は、男でも女でも無くて人なのだ。
単に人。
しかも、捻くれた人なのだ。
使いものには成ら無い。
穀潰しであるし、穀を生産する人の頭を混乱させる、社会の害悪なのだ。
私はそういう立ち回りなのだ。
そういう役を負っている。
私にはそういう役を任されている。
社会の害悪という役くらいならば、ちゃんと演ろう。

自己防衛

 「自己防衛」について…。
私は、思い出す事が有る。
私はブログで、上から目線で俯瞰しながら助言してきた人に対して、自己弁護を行った事が有る。
私は、「自己弁護=格好悪い」「自己弁護=男らしく無い」という式を頭の中に持っていた。
それでも、言葉の盾を立てた理由は「インターネット上は、相手は基本的に敵扱いし、致命的なダメージを喰らわ無い様に、自殺の原因を喰らっては成らない。」という信念を持っていたからだ。だから、私は持てる限りの言葉と、経験を使って盾を立てた。
私はその言葉の盾を、自己弁護だと考えては居なかった。
が、相手はその盾を「自己弁護」だと見做して「自己弁護=格好悪い」「自己弁護=男らしく無い」の式を前提に「ほら、自己弁護が始まった」と言って、私の心を傷付けに回って来た。
私も、「自己弁護=格好悪い」「自己弁護=男らしく無い」を頭の中に持っていたので、勿論傷付いた。
というか、心が壊れた。
私は、自己防衛をして喜びは感じなかった。
単に苦しかった。
自己防衛したことを指摘されて、辛かった。
だから、私は男ではない。
自己防衛能力に喜びを感じないようでは、男ではないのだ。
そして、私は戦争が嫌いだ。
争いも嫌いだ。
乱暴も嫌いだ。

男に成らない

 私は、どうやったって頭が女性脳だ。
だから、とうてい男には成れない様だ。
私は、結婚しないつもりが有るし成る必要も無い。
別に結婚しなくたって良いのだ。
今の時代、誰も責め立てはしない。
 ただ、野生のエネルギーに触れることは辞めずにいようと思う。
それは、生きる力に成るだろうから。
でも、戦闘を好きには成れない。
自己防衛を肯定することは可能だけれども、自己防衛をして喜びを感じる程黒くは成れない。
私は肌の色が白いし、心が白いのだ。
黒く成る様に努力はしているけれど、もしも黒く成れたとしても、時間が掛かる。
白は中身が無い証拠で、黒は中身が詰まっている証拠…。
黒豆には、そういう黒くて健康的な感じ…が念として篭められる。
素人、玄人も書き方によっては、白人・黒人と書けるだろう。
私は、未だ白う人だ。
黒う人を目指している。
悪意を肯定するのが、その1つだ。
私にしてみれば、戦闘を好む気持ちも、自己防衛して快感を得る気持ちも「悪」である。
そういう気持ちを肯定していこうと思う。
好きには成れないけれど、肯定ならばできる。
嫌いなことだって、別にできない訳ではない。
嫌だ嫌だと言いながら、行うことはできるにはできるのだ。
(筆者:大塚将俊)

沈黙を破る

 禁断の感情に触れるべきなのだと思う。
私が私の中の(私が言うところの)「禁断の感情」に触れたとしても、私以外の人は「なんだそんなことか」と思うかも知れない。私自身だって「大した事は無い」と思うかも知れない。私がその感情に触れたら駄目な気が、書く前の今の私にはするので「触る」は、「障る」なのだ。私は私が感じている感情を悪いと思っているし、恐れている。
それば、「きゃりーぱみゅぱみゅ」を妬む気持ちだ。
裏疾しく思っている気持ちだ。

私の方が凄いのに!


 具体的にどの様に妬み、羨ましく思っているかというと…
私は作詞•作曲•歌•踊りを行っている。
きゃりーぱみゅぱみゅは、歌と踊りを行っている。
きゃりーぱみゅぱみゅは、歌と踊りを行っている。きゃりーぱみゅぱみゅの踊りは、誰か振付師から貰っているのかも知れない。
それは知らない。
私は3つも行っているのに、きゃりーぱみゅぱみゅは、歌と踊りの2つだ。
そして私は、きゃりーぱみゅぱみゅ程には、評価されていない。
 私の方が頑張っているのに、きゃりーぱみゅぱみゅの方が大勢から評価される。
それが悔しいのだ。
…否、以下の様なことも考えられる。
きゃりーぱみゅぱみゅよりも私の方が頑張っているかどうかなんて分からない。
 実際どうなのかは、分からない。
しかし、とにかく注目すべきであろう点は私が「きゃりーぱみゅぱみゅよりも頑張っている」と思っている点だ。
そう誤解(?)している点だ。
…誤解、というのも私はきゃりーぱみゅぱみゅの仕事の様子を全て観察している訳ではない。
どの程度、何を自分で行っているのかは知らない。
私の誤解なのかも知れないと、私自身理解しているのだ。
例え誤解だとしても、私が今そう思っているということ自体そのものは(真実でも事実でも現実でもない)夢実なのだ。
そう思ってしまっているのだから、それはそれで仕方が無い。
 私は無言で「何さ、私は作曲も作詞もしているんだぞ!できるんだぞ!
そしてきゃりーぱみゅぱみゅと同じ歌うこともしている。
踊りだって自分で考えるし、行いもする。
きゃりーぱみゅぱみゅは、歌って踊るだけじゃないか!」
と、私は実はきゃりーぱみゅぱみゅを責めているのだ。
私は口では言わないが、私の存在自体がそう言ってしまっているのである。
私は、事実(夢実)そう思っている。

相対的評価の差


 Youtubeの再生回数を見ればその違いは明らかだ。
私のオリジナル曲の再生回数は30〜40回。
きゃりーぱみゅぱみゅは、3000万から4000万だと聞く。
 私は以前Youtube上で、「きゃりーぱみゅぱみゅ」は楽器をしないのにアーティスト気取りでムカつく!
ギターをやれよ!という感じ(一言一句同じではない)のコメントを見受けた。
その感情は、種類分けをするならばそのコメントと私の感情とは同種なのだ。
 しかし、その人は言ってしまっている。
言ってしまう方が相手を傷付けてイケナイ!という意見も有る。
がしかし、言ってしまう方が明らかで良いという考え方も有る。
私は、言っていないしそれに、自覚に乏しいのだ。
私は、きゃりーぱみゅぱみゅを攻撃したくないし、きゃりーぱみゅぱみゅを攻撃する自分にも成りたくない。
だから、自覚しようとしない。
しかしながら、無言の攻撃は発動している…。
きゃりーぱみゅぱみゅは無言の攻撃よりも有言の攻撃をされた方が良いと思っているかも知れない。
もしも有言の攻撃の方が良いならば、私は自分のきゃりーぱみゅぱみゅへの攻撃に自覚をしなければ成らない。
私は「きゃりーぱみゅぱみゅをdisる、嫌な人。悪い人。」に成らなくてはならない。
きゃりーぱみゅぱみゅが無言の、私(はむねまぼる)からの責めを受信してしまっているとしたら、危険である。
彼女が押し潰されて自殺してしまうかも知れない。
突然死をしてしまうかも知れない。
実際に、私は無言の責めを送信しているのだ…!
してしまっているのだ。
送信をしているのに、まるで送信していない体で清ましている。
清まして彼女の姿を見るし、音楽を聴いている。
清まして彼女を絶賛している。
私は悪い人に成ることを拒んでいる。

書き終えて

 私は「大した事は無い」と、書き終わった後である今思っていない。
かなり重要なことだと考えている。
きゃりーぱみゅぱみゅは心が強い人だと思う。
がしかし、どの様な類の心の圧力にも『全て』耐えられるとは限らないと、私は考える。
考えておく。
そう見做しておく。
きゃりーぱみゅぱみゅは、完全無敵ではないと思っておく。
その方が安全だ。
そう思っておいて、予め策を講じておく方が安全だ。

恐い未来

 私が恐れているのは、きゃりーぱみゅぱみゅが押し潰されて、自殺したり自死することだ。
私のせいでそうなる未来がやって来てしまうのが恐い。
恐ろしい未来は避けたいのだ。
この文章は、彼女の自殺と自死を祓う為の文章である。
そして、私が「夢実(真実)の殺人者」に成る未来を追い祓う為の文章である。

あなたはどう思いましたか

 私ではない読み手の方は、この文章を読んで「なんだそんなことか」と思っただろうか。
それとも、「ヤバイな。この文章は重要だな。」と思っただろうか。
どちらも思っただろうか。
どちらも思わなかっただろうか。
それとも関わりたくないと思っただろうか。
(筆者:大塚将俊)


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