はむねまぼるのブログ

作詞作曲をしています。介護のことも書きます。強迫性障碍のことも。

私の考え

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私の主張文があります。
臆見ばかりです。又、侃侃諤諤です。
反論、ご意見も平気です。
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羽旨まぼるの日記

焦っているっぽさ

 人は焦っている人には魅力を感じない。しかしながら、人はどんな時でも落ち着き払って、魅力的で居さえすれば良い訳では無い。作業を早く終わらせたい時。人は焦っているっぽくした方が良いと私は考えた。「焦っている感」が「早さ」を生み出す場合が有る。だからと言って、焦って間違えて怪我をするのはイケない。どういう事なのかと言うと、作業の仕事を行う時には、「過活動」(PTSD)っぽく見られる事を避けて、完全に落ち着き払いたく成る。だけれども、早く作業を終わらせる時には「急いでいるっぽく」した方が良い。し、そうしても良いという意味合いの事を私は言いたい。「急いでいるっぽい」というよりも「やや急いでいるっぽい」と言った方が良い気が私にはする。

小学生の頃に授業中落ち着いて座っていられない人を見て、あぁは成りたくないという感覚を持っていると、焦る事を過度に避けようとしてしまう。焦っているっぽさが作業の早さに繋がる事が有る。と、その様に私はインターンシップへ行って感じた。
 

自己プログラミング

序文

キーワードは「安堂ロイド」「ブログ」「段取りと作業」だ。
これら3つの事柄から、私は或る事柄を思い付いた。
先に、格好付けみたいな文章に成ってしまう事を謝りたい。
済みません。
 

ブログを書く

 どんな事を思い付いたのかと言うと、「自己プログラミング」だ。私(筆者)を「アンドロイド」だと考えてみる。
そうすると、必ず「プログラミング」が行われてある筈だ。
私は、大学生の間…つまりは今も「ブログ」を行っている。「こうすると良い」とか「こういう事が有るから、その様な時には、こうするのが良いだろう」とか。
中には単純に「こんな事が有った」だけの時も有る。

誰に向けて?


 私は誰かに向けて書いている様な表現をしている。
丁寧語を使う。完全に自分に対して書くならば丁寧語を使わない筈だ。確かに私は他人に対して書いている面も意識している。
がしかし、私がブログを書く主な理由は、「自分の考えを纏める為」だ。「書くことに意味が有る」という自己満足・マスターベーション行為として行っている。
 それが主で付け加えて、「気の停滞を防ぐ為」という側面も有る。
私が考えた事を私の中に留めていては「気の停滞」が発生する。「東洋哲学・東洋医学」では「気の停滞」を悪い事だとする。
「癌」の発生理由さえ「気の停滞」だとしてしまうのだ。
 

自己満足


 私が、ブログに誰でも閲覧可能な設定で文章(記事)を新規投稿するという行為は、私の中から一度外側へと気を放った事に成る。
その内容が特別な使用の仕方の漢字だらけだったり造語だらけで、他人には読めなかったとしても、一度私の外側に自分の気を出しておいた事には成っている。
自己満足は出来る。世間一般には「自己満足」は良くないてされる。
がしかし、私は、「自己満足」を重要だとする。
「自分の中で気を回す事は重要だ」とそう考えている。
 

更なる意義

 そういった訳で私は、ブログを継続している。
私がブログで主に自分に向けて文章を書いている事には、どうやら私が考えるよりも重要な意味合いが有るみたいなのだ。
私がそれまで意識していた意味合いは、「自分の考えを纏める」「自己満足」「もしも出来たならば他己満足」の3つだ。
派生的に、「心的圧力」を「文章」という形で、自分の外側に出し表現する事で、私自身が或る時突然心的圧力を爆発させてしまう事を防ぐという目的も有る。
犯罪防止だ。
私の造語で言うならば「自己犯罪防止」だ。
言い換えると、フラストレーションを無害な形で放出している…だ。
書き出すことで、自分の考えの矛盾点を見つけ出したり、表層意識には上がっていなかった自分でも気付いていなかった考えや気持ちに気付く事が出来たりする。

既に感じていた3つと、派生的意義以外に私は更に、この度、もう一つ意義を見つけ出した。
これだけの意義を既に気付いているのに、更にもう一つだ!驚くべき事である。
我ながら驚く。
 

段取り8分作業2分・アンドロイド

 
 ヒントに成った言葉は「段取り8分に作業2分」だ。
また、ヒントに成った発想はテレビドラマ「安堂ロイド」だ。
テレビドラマ「安堂ロイド」では、限り無く人間に近い姿のアンドロイドが登場する。
そして、そのどう見ても人間のアンドロイドを人間扱いする人も作中には登場する。

機械的に比喩


 ソフトを起動するには、環境設定ファイルが必要だ。
そして「exe」の拡張子が付いた実行プログラムが必要だ。
私は、仕事を行う上での「段取り」と「作業」をそれぞれ「環境設定ファイル」と「exe」に喩えて捉えた。
環境設定の時点が上手く行われなければば、ファイル実行中に不具合が生じる。
 

仕事的に比喩


「段取り」の段階で間違いを冒せば、「作業」中に不具合が生じる。
結果、作業効率が落ちたり、作業者が怪我をしたり、死亡したりする。
安全に効率良く作業ができる様に段取りをすれば、安全に効率良く作業をできる。
思いも寄らない要因が侵入して来ない限りは。
 

段取り8分に作業2分


 「段取り8分作業2分」の発想では、段取りをちゃんと行えば、作業は安全に直ぐに終了するものだから、段取りに時間を割けといった意味合いが含まれる。
段取りをしっかりとしないと、「作業」が「実行」が上手く行かない。
私はその事を無意識下で前々から知っていたのかも知れない。言葉を知らないだけで。
いや、私は以前に小学生の頃に既に「段取り8分作業2分」という言葉を聞いた事が有る様に思う。まるで、今回インターンシップへ行きそのインターンシップ先で初めてその概念と言葉を知ったみたいに感じているが。
そうではないのかも知れない。そうでは無い気がうっすらするのだ。
 

実は知っていた?


 ただ、もしも私がその概念と言葉を忘れたのかを説明すると、「上の方で働くインテリ系は一見凄くて偉そうだけれども実は自ら動きせず役立たずで、下の方で働くてやんでい的な実行者が本当に偉いんだ!」という、精神論的な思考傾向が私に強く強く影響して、「頭で考えるよりも作業実行をした方が良い」という風に考えが傾いたせいだろう。
また、私は一度「考え過ぎて、過度に心配をし、恐れて無行動状態」(強迫観念により無為)に成った経験を持っている。
その経験が更に「段取りよりも作業が大事」という思考を強め、「段取り8分作業2分」という思想を押し潰していったのだと考えられる。

さて、本題

 
 ここまでは、前段階の説明であった。
この文章で私が伝えたい事は、この先である。
私が新しく気付いた「私がブログを続ける意義」。
それは「大学卒業後に起業する為の段取り」である。
アンドロイド的に言い換えるならば「人間である私がアンドロイドである私にプログラミングをを行っている」である。

プログラミング中


 私は私自身へプログラムを打ち込んでいる。
大学生卒業までにプログラミングを終了し、卒業と共にコマンドを入力し(命令し)、事業を開始しようと、私はしているのである。
私は無意識下では、大学生の間に、文章を書きまくって、企画書を作り上げ、事業計画書を作り上げ準備(段取り・プログラミング)を済ませて。
そうして、大学在学中に試運転をし。
大学卒業後に実行(作業・exe)をする。
私は大学入学前から、顕在意識でも潜在意識でもどっちでも、そういう意識を持っていた。
しかし、言語化をしていなかった。
今回この文章で初めて表した。

きっかけの1つ


この文章を書く、動機の一つに私が先日したツイートが有る。
そのツイートとは
大学を卒業するまでに、悪魔の供養を済ませたい。
悪魔から許しを貰って、過去から許しを貰いたい。
悪気が強過ぎて、全部…ではないけれど、駄目にさせてしまう。
起業するなら、悪気は邪魔に成る。
 
というツイートである。
自分で行った、このツイートが何故か3,4人の方にお気に入り登録された。
「あら、このツイートってそんなに良かった?」と思ったのだ。
「大学卒業までに」とかいう、長期的な見通しでツイートしたこの文章がお気に入り登録を、私にとっては多い3,4人にされたことで、私は長期的な見通しでの自分自身の考えに興味を持った。
私が、私の考えに興味を持っただなんて不思議で変な表現ではある。
 
(筆者:大塚将俊)

12月6日
・MIDI[カヴァー](NIGHT FLIGHT,わたしの願い事,でもでもまだまだ,Listen!!,Zero Gravity,)
 
12月8日
・着替え
・先祖に挨拶
・散歩
・葉羽農園
・MIDI[カヴァー](NIGHT FLIGHT,Listen!!)

私の生き方

 私は、「効率は良くても悪くてもどちらでも良いから、とにかく「行う」「動く」」という考え方で生きていた。
その様な生き方をしてきた私にとって「効率良くできる様に段取りをして、効率良く作業する。」という遣り方は、拒絶感を感じた。
また、私が効率良くできないことを、馬鹿にされている様な気分に成って、不愉快な思いをした。
私が効率良くできないのは、私自身が意図的に「効率良くやろう」とする「考え」を行わない様にしているからだ。
基本が、考え過ぎてしまう私にとって、「考える」という行為は危険な行為だと私は判断している。
考えた結果、やらなくても良いとか、やらない方が良いという結果に行き当たることを恐れている。
私が学校に通えるのも、私がインターンシップへ行けているのも、私が余り先のことを考えない、心配しない様にしているからだ。
考え過ぎたら、恐くて行けないだろう。
悪く成っちゃっても良い!と考えるから、インターンシップ先へインターンシップへ行ける。

考えなさいと言われて

 「余り考えない様に」という自分自身への「制限」を外して、効率の良い遣り方を考えるのは、私が思っていた以上に難しいことだった。
私自身は、効率悪くやることが好きだ。
効率悪く、じっくり、コツコツ、しつこく、根気を持って、少しずつ、五月雨式で進めていくという遣り方を、普段の生活や自分自身の事業では採用している。
けれどもトレス環境システムでは違った。
トレス環境システムに限らず殆ど全ての企業はきっと「効率良くやろう」とするのだろう。
私は自分で考えるという癖を付けている。
そして、余り考えないでさっさと行動する様にしている。
自分で考えて行動するという点に於いては、インターンシップ先の遣り方も私の独自の遣り方も共通している。
何が違うのかというと、インターンシップ先で働く方々は、効率良くやろうと考える。
私は、効率悪くやろうと考える。
考えるには考えているのだが、考える方向が違った。
インターンシップ先へインターンシップへ行き、私は、効率良く段取りをして効率良く作業を進めることの快感を知った。
知ったというと、今まで一度も経験したことが無い様だが、私が小学生の頃には体験しているのだ。
その「効率良く進めることの快感」を私は思い出した。
確かに「効率悪く作業できる様に段取りをして作業を進める」という事も、遣り難さが有って面白いのは面白い。
味わいが有るからだ。
効率良くさっさと進めるのでは、発生しないはずの問題に当たる事ができるのだ。
その問題を、自分で考えて解決することはやり甲斐が有る。
しかし、「効率良く作業できる様に段取りをして作業を進める」という事は「どんどんと進む」という感覚を得られて快感だった。
これからは、私は「どうすれば効率悪く作業ができて自分を苦しめられるか。」と考えて
余りにも自分を虐める様に効率の悪い遣り方で事を進めるばかりではなく、
「どうすれば効率良く作業ができて自分に快感を覚えさせられるか。」と考えて爽快に作業を進めることも、してみたい。

諦める必要が有りそうだ

 今回インターンシップへ行って、感じたことは、恐らく私はどこの会社にも入れないし入っても役に立てないだろうということだ。
効率良く事を進めるという、とても前向きで素直な企業には、私みたいに自分をいかにして苦しめるかを考えている人は邪魔に成ってしまう。
だからと言って、私は私に対する悪意を手放したりはしたくない。
手放さないのならば、私は「通常なる厳しさを持つ会社」では到底働けない。
だから、就職はちゃんと諦めるべきなのだと私は思う。
私は、人間の甘さを大事にするし、悪意も大事にする。
そんな人は、きっとどこの会社も雇ってはくれない。
それに、私は自分一人で出勤する事もできない。
また台車を使う事さえもできない。
つまりは、私はどこの会社にとっても有用に働くことはできない。
お金をいただいて働くことなんてできない。
 私は、真面目に効率悪くやる事をしてしまう。
私にとっての真面目とは、「不真面目さを入れつつ行う」なのだ。
完全なる真面目は、事を悪くしていくと経験してしまっているから。
そして、何故効率悪くやろう
と、真面目に考えるのかというと、効率が悪い遣り方の方が、長い間作業をできるから。
効率悪い遣り方が自分にとって良い遣り方だと思うから。
 私は他人に好感を持たれる事が嫌いだから、他人に愛想良くする事もできない。
つまりは、他の企業と連絡を円滑に進められない。
作業もろくにできないし、快いコミュニケーションを取る事もできない。

事業を起業

 私は、起業したいと考えている。
もう既に、行動や作業だけならば行っている。
しかし、営利目的企業を起業する事は私には不可能だ。
だから、私が起業するのは企業ではなく会社ではなく、単なる事業にしたいと思う。
それで金を得る事はしない。

諦める

 そして、効率良く作業をしようとする会社に勤める事は不可能だから、私はしっかりと就職を諦めたい。
つまり、私の金を稼ぐ能力は、私が自分自身への悪意を持つことや、自分自身への甘さを許すこととトレードオフの関係に有る。
どちらも得る事はできないのだ。
私は決して、自分自身への悪意を取り外したく無い。
そして、自分の甘さを否定することもしない。
私は、金銭面でも生活面でも両親に頼り続けるしかできないのだと思う。
そういう駄目な自分を私は許すべきなのだと思う。
私に課せられた運命は、そういう運命なのだと思う。
私が引き寄せている運命はそういう運命なのだ。
私が引き寄せている運命は、自らの金を稼ぐ能力を潰す様な運命なのだ。
 金を稼ぐという行為は、甘さを使わない。
厳しさだけで行う。
効率の良さだけで行う。
金銭面では、両親に頼り続けることに成るのだろうけれども、行動面では活動的でありたい。
金銭面からして駄目人間であるということは、とっても苦しいことだと思う。
まるで、社会全体から、お前は駄目な人間なのだと言われている気分に成るだろう。
実際に、駄目なのだ。
私は自分自身をどうしても駄目にしたい。
私はその「自分は駄目人間である」という事実から生じる苦しさや悔しさに一生耐え続ける必要が有る。
そして、私には耐え続ける自信が有る。
 効率悪くやろうとしてしまう様な私でも雇ってくれる様な、コンビニやスーパーマーケットが有るかも知れない。
だから、コンビニのアルバイトやスーパーマーケットでのパートの募集には応募してみたい。
もしかしたら、続けさせてくれるかも知れない。

まとめ

 今回、インターンシップへ行って解った事は「私の金を稼ぐ能力は、中学3年生時に失われていること」「私は金を貰う仕事への就職が不可能であること」だ。
何と無く、就職できるかも知れないと思ってしまっている感が有ったがその幻想をちゃんと消す事ができた。
私が大事にしている、遣り方、生き方は余りにも会社のそれと違い過ぎる。
私が大事にしている、悪意や甘えは金を稼ぐ類の会社(営利目的会社)では一般的には障害と成る。
 しかし、私は仕事をしない訳ではない。
金を貰う類の仕事はできないが、金を払う類の仕事ならば私にはできる。
私は金を払って行う仕事をしていきたい。
金を払う類の仕事は、一般的には「仕事」とは言わない。
単純に「する事」とか「趣味」とか「遊び」だ。
それでも、何もしないよりは私にとっても家族にとっても良い事なので、積極的に「する事」をしていきたい。
もしかすると、もしかすると、ひょっとすると、自分で行っている事業で金を稼げる事が有るかも知れない。
小説「若芽の国」の出版やら、歌い手「はむねまぼる」の売り出しやら、で上手くいくかも知れない。
そういう、文章書き活動や、音楽作成活動は、両親に金銭的援助を受けながら今後も続けていきたい。
要するに私は親の脛を齧る事を、決意したという事だ。
そして、そういう駄目な自分を自分で許容する努力をしようと決めたという事だ。
 効率の悪い遣り方が絶対的に悪い訳ではない。
私は、その効率の悪い遣り方を採用しながら、家庭菜園や編み物活動や、塵芥収集分別活動や、文章書き活動や、音楽活動を続けてきた。
編み物活動は休止中だが。
続けてきたし、結果を或る程度得てきた。
金銭という形でも結果は、「ワカメの国サウンドトラック」の500円のみだけだが。
私の、効率の悪い遣り方でも、上手く行き得るのだ。
私にはその遣り方が合っている。
そして、その遣り方しか合っていない。
(筆者:大塚将俊)

企業か事業か

会社を創りたいなら

 会社に必要な施設は、建物・流し・トイレ・事務室・客間・作業場・従業員休憩所・倉庫。少なくとも、以上の8つは、必要だ。
そして、必要な道具は流し周り品、棚、机、椅子、トイレ周り品、筆記用具、パソコン、看板。これぐらいだ。
私は書き出してみて、特に多過ぎるとも、少な過ぎるとも思わなかった。
「あぁ、なるほど、これくらいか」と、思った。
数的には、それくらいかと思ったのだ。が、値段が高く付くなぁと私は考えた。
先ず建物の建築依頼で、高く付く。
建物の事に関して言えば、テナントを借りれば良い。
が、テナントを借りるのも、高そうだ。
会社を起業するのは、飛んでも無く金が掛かるみたいだ。
重要な事は、事業を起こすのと、会社を起こすのでは、大変さが異なる事だ。
私は、事業とか事業主という概念を20歳くらいまで知らなかった。
事業を起こし、事業主として赤字だらけで活動を続け、その内にもしも黒字に転じたら黒字分で道具や施設を整えていけば良い。

事業→会社 事業主→社長

 私の場合は事業→会社という流れを知らなかったものだから、私はいきなり会社起業を目指してしまった。
コーポレーションと名乗るには、条件が有る事を知らずに自分と自分が協力しているという意味で、「羽旨コーポレーション」を名乗ってしまっていた。
事業とか、事業主とかいう言葉やら概念を意識していなかったのだ。
金を儲ける人が偉くて、金を儲けていない人は甘えている駄目な人だという、随分と辛辣な厳しさしかない、誰かの価値観、社会の一般的な価値観に囚われてしまっていた。また、劣等感を感じて味わって楽しんだり悔しさを感じて味わったりする事に成れていなかった。
だから、事業主をすっ飛ばして社長に成らなければ成らないのだと考えてしまった。
私が、社長を名乗っていた時も私は社長が偉くて、従業員が偉くないとは、実は思っていなかった。
金を儲ける人が偉いとだけ考えていたから、社長も従業員も並列関係だと見做していた。
社長という立場が偉いと思うから、社長だと名乗っていたのではない。
「私から始める」のだから、つまりは、社長なのだろうと考えていた。運営長という役名も知ってはいたが、社長だと名乗った方が、頑張るぞ!と思えて、気負いをできるだろうから、態と重ったらしい役名を自分に付けた。
何かを与えられるだけではなくて、私の方から、創り出したい造り出さないと申し訳無い。
そういう意味合いだった。

金を稼ぐ側・払う側

 私が、大学生に成ったばかりの頃、私は大学生という立場を嫌がっていた。大学生が嫌なのではない。金を親に出して貰っている事が、恥ずかしかったのだ。大学には通ってみたい。同時に、早く金銭的に親から独立したかった。私は同時に二つの願いを叶えられなかった。
だから、大学生という金を払う側(しかも、自分からは出していない)から脱したかった。だから、何らかの金を儲ける側の名称を欲しがった。私にとってはアルバイトも、パートタイマーも、社員も、社長も、金を儲ける側の役名という意味で同一だった。それら、4つの中からパッと手に取ったのが、自分自身で始めた会社(会社では無く事業なのだが、当時は事業という概念を知らなかったので、会社)の社長だ。

熟語分解理解

 私は、大学に入ったあたりから漢字を1字ずつ理解する事を始めていた。
漢字を1字ずつ理解すると、問題が解決するという事を私は経験した。漢字を2つくっ付けて作った2字熟語は、人間を惑わし、人間を不幸にする事がある。
誰かにとっての、花が、別の誰かにとっては、剣に成ってしまう事が有る。
状況や感情を悪い意味で、こんがらがらせていってしまう。
2字熟語は、そう効果を持ってしまう事が有る。
 私は、「会社」を「会」と「社」だと分解して理解し直した。
2字熟語の「会社」のままでは、私には手が届かない。
それでは、何も始まらないから、自分に理解できる状態自分にも手が届く状態に漢字を分解した。
自分に引き寄せた。
自分から、歩み寄っていくことも可能である。
自分から、会社という遠い存在に少しずつ歩み寄っていくこともしていこうと考えていた。
が、しかし私の考えは「今を生きる」だ。
会社法を学び、コネクションを作っていき、知識を学びなんてしているのは、今と未来だ。
私は、自分の恥ずかしさが暴走しない様に、イチ早く自分自身を鎮める必要が有った。
だから、自分に何らかの金を儲ける側の役名を、嘘でも本当でもどっちでも良いから取り敢えず貼り付ける必要が有った。

自分を騙して落ち着ける

 そんな訳で自分に社長というレッテルを張ったのだ。
会社をその時直ぐに、その瞬間に立ち上げる必要が有った。
嘘でも本当でもどちらでも良いから。
だから、私は引き寄せた。
「起業する」を身近な存在に引き寄せた。
その為の具体的な手法が、「漢字を1字1字分解して理解する」だった。
今でも、漢字を1字1字分解して、更に篇と旁にまで分解して理解する事はしている。
だが、それをすると、現在一般的に意味する意味と、自分が理解している意味がズレる事が有る。

歌手


 私はオリジナルソングを作詞作曲して自分で歌い、Youtubeにアップロードしている。
最近は、完成度が高い作品を作ろうとしているので、滞っている。
私は、「私のオリジナルソングを歌ってくれる人を募集中!」という意味で「歌手を募集中」だと表記した。
そうしたら、「あなたの歌は、最強ではなく最弱だ」という罵詈雑言…というか辛辣な現実を突き付けてきた方が居らっしゃった。
私は、「有名な、金を稼いでいる有料歌手」という意味で「歌手」という2字熟語を使ったのではなく、
「無料歌手だろうと、有料歌手だろうと、一般人だろうと、私のオリジナルソングのメロディと歌詞を口ずさんでくれる方、カヴァーしてアップロードしてくれる方誰でも募集中!」
という意味で「歌手募集中」と表記したのだ。
「歌手」を「歌」と「手」に分けたのだ。
無料歌手がマイクを持つ手も、有料歌手がマイクを持つ手も、一般人がマイクを持つ手もいずれも「手」である。
そう考えて、そういう風に相対的な社会的価値を一切無視して、物理的に現象と漢字を捉えて「歌い手」「歌う人」という意味で「歌手」という2字熟語を使ったのだ。
がしかし、私の独自の解釈は、世間一般には通用しない。
世間一般には「歌手」というと、「歌が特別に上手い、歌う事で金を稼ぐ人」を指す。
「歌手」という2字熟語には、「金」も「上手い」もそんな意味を含んだ漢字やら部首は含まれては無いのにも関わらず。
一連の「歌手」の事件は、漢字1字1字で意味を捉えたら、悪いことが起きたという例だ。
私はその例の前に、漢字1字1字を分解して理解したら、なるほど!と思えた経験をしていたので良いことだと思ってその手法を使ってしまった。
使わなくても良い場面で。
「歌手」の事件は、悪い様に転じたが、「会社」の分解はその事件も前に行っていた。
「歌手事件」は、たしか私は大学3年生の頃だ。
ピアプロというサイトのメッセージ機能で、その残酷なメッセージは送られてきた。
が、しかし直ぐに削除されてあった。
メッセージが携帯に転送される機能を知っていたから、誰がそのメッセージを送ったのかを分からせない為にピアプロ上でのメッセージをサッと直ぐに消したのか。
それとも、私が極最近投稿している楽曲はそれなりに完成度が高く成っている事を知って、やっぱり最弱ではないと思ってメッセージを直ぐに取り消したのか…。
真相は判らず終いだ。

会社

 私は「会社」を「会」と「社」の2つに分解して単純に、簡単に理解して「会社を立ち上げるという行為を自分にとって判り易い手の届き易いものしよう」とした。
「会」は、「複数の人が集まって何らかをする」意味に。
「社」は、「入れ物・容れ物」という意味にそ、私はそれぞれ受け取った。
私は以前から、自分の人格が2つ以上有ると感じ取っていた。
私は表人格を、本名の「大塚将俊」とし裏人格を「羽旨魔歩流」だとした。
本名は、自分の親が、未だ物心が付いてない事をイイことに勝手に強引に付けてきた名前だとした。
本名の「大塚将俊」には、私自身の「意思」や「意志」や「意見」や「願い」が含まれてない事に気付いた。
私は、「自分にはこう成って欲しい」という願いを込めて芸名として、自分自身で自分自身に苗字と名前を与えた。
貼り付けた。
そんなことを、「会社」うんぬんを考える以前に、大学に入学する以前に既に行っていた。
つまり私は、私自身を「1名」とは数えず「2名」だと数えていた。
「1人」であり「2名」である。
そう考えていた。
肉体は、1つであるが自分という人は、「2名居る。2人居る。」そう考えていた。
私は、表人格の「大塚将俊」と裏人格の「羽旨魔歩流」を協力させて、事業を起こそうとしていた(当時は事業という言葉は意識していなかった)。
「会」の「複数の人が集まって何らかをする」の条件は揃えた。
次には、「社」だった。
「社」は、建物とかいう意味だ。
人が入る場所だと考えてみた。
連想した。
容れ物だと連想した。
私は、「人」を「意識体」に「社」を「人体」に置き換えて考えた。
私は「私の肉体という社の中には、意識体が2つ有り、その2つの意識体が協力して何か(特に楽曲)を創り出す。」と考えた。
もうその時点で、「会」も「社」もクリアしていた。
だから、私は私が行っている事を「会社」だと認定した。
「会」も「社」も両方の条件をクリアしたからだ。
だが、一般的な「会社の条件」は私が漢字1字1字を分解して設けた条件とは異なる。
それは知ってはいた。
が、世間一般で何を言っているのかよりも、私自身がどう思っているか、どう感じているか、どう考えているかを私は優先した。
私は、自分自身を騙すことをしたかったので有って、つまりは、自分のそわそわ感を落ち着ける為に、自分に社長(でも何でも金を稼ぐ側の立場名)を付けたかったのだ。
世間の定義がどうで有るかを気にして、従っていたら、私は、大学を辞めてしまうのだった。

とにかく続けて、とにかく動いて

 仕事だろうと学校だろうと、長く続ける事が大事。
学校も通えないのに、中退したのに仕事が続く訳が無い…終わりまでちゃんと続ける…。
そういう思念が有ったので、イチ早く稼ぐ側に回りたいから大学を辞めるという行為は避けたかった。
というか、普通に大学で遣りたい事が有ったのだ。
小説のネタを文献から探す事。
小説のネタを学問から、漉き出し、吸い上げる事。
言語能力を高めて、歌詞を書ける様に成る事。
机上の空論を楽しむ事。
そういう事を私はしたかった。
特に、机上の空論を楽しむという、哲学的で、概念的で、お堅いお洒落な嗜みには私は生れ付き興味が有った。
普通は机上の空論というと、罵倒される対象だが。
私は憧れていた。
遊びとして、趣味として、嗜んでみたかった。
そんな訳が有って大学に入りたいと思っていたのだ。
しかし、大学に入ってみたものの「自分は親から莫大な金を払わせている」という罪悪感が発生したのだ。
そして、私は「親から金を出して貰っている、ドラ息子」だと世間から言われている気がした。
言ってみれば、幻聴だ。
声が聞こえはしなかったが、概念的な幻聴だ。
そういう、男として人として、甘えた甘い甘甘な子どもみたいな立場を一刻も早く脱したかった。
でも同時に、机上の空論を楽しみたいという願いも有った。

社長じゃなくてアルバイトでいいじゃん

 アルバイトをすれば良いのだ。
大学に通いながら。
どうしてそれをしなかったかというと、自分の気持ちが安定しなくて登校手段も安定せず、気力を毎日莫大に使い果たし
アルバイトどころでは無かったからだ。
大学を辞めるか続けるかで迷っていて、大学に通いながらアルバイトをするという選択をする段階へなかなか進めなかったのだ。
そんな状態が2年生の半ばまで続いた。
2年生の半ばに成ったら、大学の図書館の司書さんに図書館でアルバイトをしないかと誘われた。
そうして、私はアルバイト員という「金を儲ける側の立場名」を得た訳だ。
それからは、私の心は安定した。
不安で、世間から「お前は親に金を出して貰っている、甘ちゃんだ。男として最低だ。格好悪い。」と言われている気がしたとしても、
「はい。私は親に金を出して貰っている、甘ちゃんです。男として最低で、格好悪い人です。」と幻聴(はっきり声が聞こえるのではない)に応答できる様に成った。
そこまで、はっきりと胸を張る様な態度で応えたら、もう、「世間」の方も反応のしようが無い。
つまりは、私は、自分が格好悪く成る事を許したのだ。
そして男としての格を上げる事を諦めたのだ。そして異性と結婚する事を諦めたのだ。
又、甘さが人間にとって大事だと気付いた。
そして、親は私に何らかの方法で協力したがっているからその気持ちお無碍にしては、親に…というよりも1人の人間に対して悪い、失礼だと考える様にしたのだ。
つまりは、自分のオリジナルの正義を作り上げたのだ。
オリジナル・ジャスティスを。
世間一般で言う、正しさ、理想像とは違う、オリジナルの正しさ、理想像を、自分独自の価値観を見出したのだ。
「世間」からの口撃の矢を、私は自分自身で開発した心のスライムで受け止めて、矢を無害化できる様に、
もう図書館のアルバイト員という「金を儲ける側の立ち位置」を得たときには習得していた。
そして、もう本気で一生異性と結婚はしないと決意した。
男として格好良く成る必要は、もう無かった。
人として格好良く成らなくて、周りから駄目な人だと見られる事、思われる事、言われる言われている様に感じる事に耐える覚悟をしていた。
もう、一刻も早く、「金を儲ける側の立場名」を得なくっても平気に成り始めていた頃に図書館のアルバイトを誘われた。
そして、大学3年生時の私は現在も図書館のアルバイトをしている。
結局、私は「羽旨コーポレーション(cooperation)」(羽旨まぼると大塚将俊が協力するという意味)から、「羽旨事業」と名称を変更した。
会社から事業へと名称を正しくした。
そもそも、協力するという「コーポレート」と「〜コーポレーション」の綴りは違くて、別々の言葉だったのだ。
それを知らずに、会社の「〜コーポレーション」は「協力する」という意味の「コーアポレイトだ!」と思った私は、勘違いをしていた。
会社の「コーポレーション」の綴りは「corporation」だ。
協力する「cooperation」の名詞系の「cooperation」とは別物なのだ。
そんな勘違いに気付けたのだから、一連の大学を辞めるか辞めないか社長なのか会社なのか起業するのかもうしてるのか…?という思念は無駄では無かったのだと思う。
少なくとも、1つ英単語の勉強には成った。
だからといって、別に私は事業を会社にする事を諦めた訳では無い。

言葉の問題

 私は事業と会社という言葉はやや、誤解を生み易くて悪い現象を生み易いと考えている。
私の頭の中で、事業という概念と会社という概念・言葉が、重複したり、部分的に重複したりでごちゃごちゃだった。
その事は良くない事だと思う。
そして、そんな風にゴチャゴチャしている人は私以外にも居ると思う。
というか、居て欲しい。
私だけ阿呆だなんて、滑稽で恥ずかしい。
…その恥ずかしさはちゃんと受け止めるつもりなのだが…。
そんな訳で、新しい言葉を生み出しつつ整理したいと思う。
事業・会社・企業・ボランティア・無料・有料・赤字・黒字。
これらの言葉を綺麗に纏め上げる事が出来たならば、害しか齎さない感情を抱かずに済むだろう。
事業は、赤字だらけである。
事業は、必ずしもも黒字で無くては成らない訳ではない。
事業は、黒字であることもある。
事業というと、無料事業(営利目的では無い)か有料事業(営利目的)のことを指す。
企業というと、普通は「有料企業」(営利目的である企業)のことを指す。
企業は、黒字を目指す。
企業は黒字で無ければ成らない。
ボランティアとは、本来はタダ働きのことではない。
ボランティアと言えば、無償で世の中が善く成る為に行動することを指すが、元々は違う。
無料か有料かとは関係無く、志願者という意味だ。
そして、事業活動も、企業活動も、ボランティア活動も全て「活動」であり「行動」はある。
どれも「すること」である。
「動くこと」であり、「働くこと」である。
その意味では、どれも同じだ。
…だが、企業活動だけは少し違う。
営利目的であるが故に、「活動をしない・やらない」という行動を取ることがある。
金が出て行く一方ならば、一度出た金が何らかの原理で舞い戻ってこないのであるならば、「しない」という選択を取ることも有る。
飽く迄も、営利目的なのだ。
トゲトゲしいのだ。
ツンツンしているのだ。
激しくって、恐ろしくって、戦争的で、攻撃的なのだ。
企業戦略だとかいう言葉から解る通りに、戦争なのだ。
強迫的に、本気なのだ。
それは何故かというと、金で食べ物と交換でき、金で土地を得られ、金で家を建てて貰えて、金で水を貰えて、金でガスを貰えて、金で電気と交換できるからだ。
つまりは、生活・命と繋がっているからだ。
だから、血相を変えて本気なのだ。
私は金が有れば命有り、金が無ければ命無しという世界観…そういう社会は、良くない社会…寧ろ悪い社会だと思っている。
金が命と絡むと、非常に危険なのだ。
金が無いから死ぬだなんて事に成りかねない。
金で何とでも交換可能にする事は、現代人が思っているよりも危険な事なのだ。
思わぬ、悪い幻想を抱き易い。
 一方事業やボランティアは、平和的だ。
赤字に成っても良いのだから。
ただ、赤字に成っても余裕で居られる何らかの理由が必要だ。
食べ物は困ってないからとか、収入は別の仕事から得ているとか。
スーパーマーケットで働き、報酬を金で貰いながら、自分では自分で立ち上げた事業を行っている人の場合は、
自分で立ち上げた事業で金を得なくても平気だ。
収入源が別に有るから。

まとめ

 会社には、最低限何が有ると会社らしく成るのか…。
それについて書いたら、随分と長い文章に成りました。
私と「会社」という概念の物語をつらつらと書き連ねてしまいました。
良い感じに自分の頭の中でまとまりが付きました。
 私は大学卒業後は、スーパーマーケットでアルバイトをしようと思います。
就職はそれです。
それをしながら、音楽活動、家庭菜園、小説活動、文章活動を続けようと思います。
私に必要なのは、金でも名誉でも格好良さでも人生の異性の伴侶でもなく、「動き」だけです。
動けていれば、強迫神経障害の無為状態が寛解状態ですからそれでもう私はO.K.です。
だから、就職活動はしません。
将来自分が行っている「事業」が「黒字事業」に成り、「会社」にできれば良いなと思っています。
私の予想では、不可能です。
ただ、目指すは目指します。
大学卒業後に税の法律、会社法を学びたいと思っています。
(筆者:大塚将俊)

或る男子大学生日記

平成25年12月1日日曜陰金丑

加害者意識を持つ

 私は、自分がした訳ではないことを「自分の意思でそれをした」という事にします。
悪い事が起きた時に、そうします。
私の身に何か悪い事が起きた時に、私は惨めな気分に成ります。
被害者意識を持ちます。
 しかし、その悪い現象を「私が起こした」としてしまえば、被害者であると同時に加害者に成れます。
いえ、実際には成れてなんかいません。
成れた気分に成れるだけです。
成れたと勘違いをできるだけです。
しかし、人間の脳や心にとっては事実はそれ程に重要なことでは有りません。
 被害者の儘では、惨めな気持ちに成り社会や他人が悪いのだと考えることに成ります。
実際に社会や他人に原因が有ったり、そうだと考えることで何らかの解決方法やら快方へ向かう方法を考えつければ良いのです。
が、実際には社会や他人には原因が無かったり、そうだと決め付けることで何も良い方法を思い付けなかったりするとき。
そういう時には、自分が意図的に行ったと加害者意識を持つと、強大な力を持つ加害者と成った気分に成れます。
無闇矢鱈と社会や他人のせいにしないで済みます。
 自分がしてはいないことに自意識を持つ…。
そういう「心の技」のことを考えていたら、平成23年3月11日に起きた東北沖大地震のことを考えました。
あの時、私は好きな同性に恋心を寄せていて告白できないまま卒業を控えていました。
告白をせずにそのまま離別しようと考えていました。
そのことを、私は心の底から嫌がっていました。
以下の文章は昨日の夜に書いたものに、新しく文章を加えたものです。
もう、この内容の文章は何度も書いたことが有ります。
以前とは違う言葉を使って再度文章にしました。

私の代わりに駄々を捏ねてくれた

 私は、私がしていない事にさえも自意識を持つ。
私がした訳ではないことにまで自意識を持つ。
東北沖大地震は、私が好きな人に告白し無かった、つまりは気を停滞させたから起きてしまったと感じている。私の魂の苦しみが震えと成り現れたと、そう感じている。
私が世界の一部である私に我慢をさせた、つまりは世界の一部を歪ませた事で歪みに対応する現象、つまりは地震が起きたと、そう感じている。
私の諦めが、怒りが苦しみが辛さが地面の下へ…地球へとスーっと落ちていって。
そして、地球が揺れた…。
地が揺れた。
そうやって私の代わりに「駄々を捏ね」てくれた。
そう感じている。
本当のことを言えば、私は駄々を捏ねたかった。
どうして、女に生まれられなかったの?
どうして、彼と離れなければ成らないの?
いやだ、いやだ!
離れたくない!
そうやって、物凄く嫌がっていた。
精神学の世界の言葉で言うと、「自分の中の子ども」が飛んでもない気持ちの量を使って「嫌だ!」と感じていた。

自分がした訳ではない事に、罪悪感を感じるという現象は、心の病らしい。
強迫神経障害の1つの症状であり、加害者妄想という名前だ。
人は、多く自分が良い人で有り続けたいと願っている。
私もそうだった。
だから、自分が加害者だと思うことが嫌だ。
加害者妄想が発生した時に、「私は加害者では居たくない」という気持ちと不具合が生じて、加害者妄想を嫌がったり恐がったりする。
 
しかし、私はそもそもの部分を変えることにした。
「私は加害者だ!」と自覚してしまうことに挑み始めた。
開き直るということではない。
自分が加害者だと自覚することは、これ以上なく不愉快であり、不快である。
辛いことだ。
その辛いことをすることにした。
綺麗で居ることを辞めて、汚く成ることを覚悟した。
それは、つまりは、生物を辞めることを辞めたということだ。
何の罪も無い生物なんていないだろう。
透明で真っ白でいる快適さを卒業して、黒く成ることを決意した。
人は、本来欲求があり、我が儘だ。
それを否定しては成らないのだ。
するべきは、他人の我が儘を受け入れる能力を高めることだ。
我が儘自体を消滅させるのではなく、人々それぞれの我が儘に対処する能力を上げることに努力をするべきだ。
他人に迷惑を掛けることを恐れて、「迷惑なんだよ!」と言われることを恐れて、自分の欲求を抑えたり自分の我が儘を抑えては成らない。
それは、生物でいることを辞めることであり、自分を辞める行為だ。
それは、透明に成ることで、命の営みをサボる行為だ。
それは、悪い意味で無に成ることだ。
それは、人間が…生物がしても良いことではない。
 
つまりは、強迫神経障害の加害者妄想を恐るということは、自分が存在するということを恐れていることだ。
自分が、「無」から「有」に成ることを恐ているということだ。
そういう人には、認めてくれる人が必要だ。
人は、他人ではなくても良い。
それは、私自身が感じたことだ。
私は、私が感じるブラックな感情を認めることを心掛けている。
認めるのは、他人でなくても自分でも良いのだ。
どんな悪い感情や願いも、どんな怠惰心も認めて、受け止めて、包んでしまう必要が有るのだ。
黒い思いを、白い優しさで包めば、その黒い思いは悪く作用することは無いのだ。
どんな悪い思いも、パッケージングしてしまえば、無害だ。
実行という形へ変換されないでパッケージングされてある間は、無害なのだ。
黒い思いそのものを消してしまうのではなく、パッケージすれば良いのだ。善いのだ。
私は、私が持ってしまっている黒い思いが他人に悪く影響することを恐れていた。
だから、私は私という存在そのものを無にしてしまおうとしていた。
パッケージという方法を知らなかったから…。
 
音楽において、パッケージングという概念は当て填る。
どんな恐ろしい願いや、悪い思いだってmp3という形に包み込んでしまえば無害だ。
聴いてしまった人が、嫌な気分に成ってしまったとしても、それで御終いだ。
耳の鼓膜が振動したからと言って、そのことが人を殺すだろうか。
他人に致命的なダメージを与えるだろうか。
殺さない。
与えない。
そもそもそのmp3を聴かなければ、影響が無い。
 
パッケージングという技を知らなかった私は、自分が持つ自分から湧いてくる悪を、無にするという方法でしか対応できなかった。
パッケージングという心の技を知っていれば、あんなに苦しまないで済んだのだ。
このパッケージングという技を多くの人に知って欲しい。
確かに有る言葉として、知って欲しい。
パッケージングという概念を知っていても、言葉を知らなければそれが確かに有るのか、それとも無いのか曖昧に成ってしまう。
ともすれば、その概念を忘れてしまう。
言葉として、締めていれば、思い出せる。
引き出せる。
曖昧に…概念が散ってしまうことを、名前という縛りで防げるのだ。
言葉は、そういう効果を持つ。

私は自分が、何人も多くの人を殺したと考えている。
私は殺人者だと考えている。
地震の後に自分が悪人だと自覚することを何度も行った。
だから、悪者だと自認し自覚する事にはもう慣れた。

私が私の好きな人に告白もしないまま別れる行為には、罪悪感が伴なった。
世界の一部を歪ませている感覚が明確にと言っていい程に有った。
物理法則を捻じ曲げてしまう様な感覚。
危険な行為をしている感覚。

私がその彼に寄せていた思いは、あの地震の揺れでは足りないくらいに強いものだったと思っている。
私がその彼から離れて暮らすくらいだったら、死んだ方がマシくらいに思っていた。
だから、どうしてあの地震は私を殺してくれなかったの?!と残念に思い、怒り怒った。
それくらい、彼が好きだった。
 
しかし、今よく考えてみると私みたいに好きな人に告白できずに離れることに成ってしまった人は、私以外にも大勢居ただろうと思う。
その度に大地震が起きていたのだろうか。
そんな訳は無いだろう。
私の「地面が私の代わりに駄々を捏ねてくれた。捏ねてしまった。」という考えは、やっぱり、科学的に考えても、被科学的に考えても、虚だ。
ただ、当時そうやって、自分の感情と地震という出来事を連携させて、地震という現象を捉えて…感じていたということ自体は事実だ。

今では、その彼とは違う人を好きに成った。
心と頭の全部を使って、「好き」と言えてしまう様な彼。
高校生の時に好きだった彼への情熱は休まっている。
人の心は不思議だ。
私の心は脳は不思議だ。
 
私が誰かを好きに成り、告白できないままに離別する度に、私の周りで悪いことが起きる様な気がしている。
その悪いことが私に関することだけならば、不安では無いのだ。
が、私とは全然関係の無い人が私のせいで悪い事を受けることに成ると思うと、そのランダムさに私は恐れを感じる。
 
七並べで私が「止め」を行ってしまう時に、一体誰が困っているのか、私には分からない。
それが私には恐い。
悪意を持っている相手に悪いことをするのは、爽快だ。
しかし、悪意を持っていない不特定多数の人に悪いことをしてしまうことは、恐ろしい。
私は、東洋哲学を勉強し始める以前から「気の流れを止めること」を考えることを恐れている。
七並べで、止めを行うことを恐れている。

檸檬

 大学の図書館で暇な時間に、漫画を読みました。
小説の「檸檬」を読んでおきたいなと常々思っておりました。
名作と言われる小説を日本人として内容を把握しておきたいと考えておりました。
大学の図書館に漫画で読める〜というシリーズが置いて在ります。
それを読みました。
以下の文章は、それを読んだ感想文です。
 

桜見会

 小説原作の漫画「檸檬」を読んで、桜に関して一つ新しく私の頭の中に想像が加わった。
桜の下の土には、死体が埋まって在り、精液の冷や汗を目から脇から、全身から出す男が裸で栄養を吸い取られている。
そういう、想像。
そういう、心象想像。

私は毛虫がいる、桜の下で桜の花を目で狩りながら食べ物を食べる人の気が分からなかった。
しかし、「檸檬」の想像ならば私にも、ようやっと花見の良さを理解できるみたいだ。
桜の木の下で、皆が皆、マスターベーションをしている様なものなのかも知れない。
心でマスターベーションをしている様を互いに感じ合うのだろう。
マスターベーションは、「自己完結」であり「絶界」だ。
人は、一個体では繁殖できない。
繁殖できないことは、生物として恥ずかしい。
そういう連想からマスターベーション的な行為は、恥ずかしいことだとされる。

1人で心のマスターベーションをするのは恥ずかしいし、辛いから、皆っ集まって心のマスターベーションをしようという行事なのかも知れない。
だとすると、花見は大人の…特に独身の大人のエロい行事だ。
日本人の、「ピンクはエロい」という印象は「桜がピンクだから」かもしれない。
(筆者:大塚将俊)


した事
11月29日
・MIDI打ち[カヴァー](でもでもまだまだ)
11月30日
・MIDI打ち[カヴァー](Point of view,でもでもまだまだ,わたしの願い事,Listen!!,NIGHT FLIGHT,Zero Gravity,ポリリズム,プラチナ,chocolate insomnia,)
11月31日
・整体を受ける
・いちごソフトクリームを食す
・坦々麺を食す
・録音()
・MIDI打ち(夢と妖精の再来)
12月1日
・歌声と演奏を混成(リニアモーターガール)
・日記を書く

60干支か120干支か

何故に60干支?

 「陰陽道の知恵」page45に「十干と十二支を合わせた、六0通りの組み合わせがある。」という文章は、数学Aの知識と合わせて考えると、明らかに変だ。
パターンの問題だから、10×12で、120パターンに成る筈なのだ。60であるとしてしまえば、数えられていないパターンが60も有ることに成る。
TV番組で説明された場面を偶々目撃したが、やはり60パターンだと説明されていた。
私は此の事に関して暫くの間、大いに異変を感じていた。
そこで、私なりにパターンを120書き出してみた。
すると、ちゃんと120パターン出たのだ。
 
[ココに画像を貼る]

問題発生

 出たには出たが、ちょっとした…否、大きな問題が生じた。
その問題とは、陰と陽が一か所、順番子には成ら無く成るのだ。
「陰と陽は、順番子に循環する」という考えから逸してしまうのだ。
此れは結構大きな問題だ。
恐らくは、この問題が有るから一応120パターン考えられるのだが60干支だけを採用しているのだろう。
一般には。

具体的に

 陰水亥と陰木子が隣り合ってしまう。
それでは「陰→陰」と成り「陰と陽は、順番子に起ち現れる」という原則が崩れてしまう。
…しかし、別にそんな原則破れても良いじゃん!とも思える。
そもそも、陰は太陽が当たらない部分やら夜を指し、陽は太陽が当たる部分や昼間を指す。
昼が来て、次に夜が来て…、その次に夜がまた夜が来るだなんてことは有るだろうか…。
…有る。
感覚としては、そういう気分を味わった事が私には有る。
一度昼間に成っただろうと思って起きたが、未だ夜だったという経験を私は持っている。
東洋哲学は、人間の勝手な思い込みや人間本位の感覚が大きく影響を与えられている哲学だ。
人間の感覚としてそんな感覚が有るのならば、「陰→陰」を認めたって良いのではないだろうか。
否、寧ろ積極的に取り入れるべきではないだろうか。
そして再び「陽水亥」から「陽木子」へ移行する時には「陽→陽」と成ってしまう。
昼が来てその次に復昼が来る…。
そういうことは有り得るだろうか。
私には、経験が無い。
「へ?!未だ昼?!」だとか、「また昼?」だとかは思った事が無い。
無いが、陰→陰が有るのならば、陽→陽が有ったって良いと私には思える。
体験した事が無くても、机上の空論として存在するのならば、取り入れても良いと私は考える。
私は机上の空論も大事にしたい類の人なのだ。
(筆者:大塚将俊)


復…また
成…な
無…な
類…たぐい
未だ…まだ

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