はむねまぼるのブログ

作詞作曲をしています。介護のことも書きます。強迫性障碍のことも。

日記

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日記


Yahoo!ブログに日常を書き込むこの雰囲気をまた味わいたくて…。

今日もお仕事に行ってきました。

今日が歯医者さんの日だと思ったら、一昨日が歯の掃除で昨日が矯正治療だった…。

もはや日付の認知ができていない。

いいわけをするならば、シフト表が変かすると、よけいに頭の中でわからなくなる。


ものごとに対して過敏なところを和らげるために、脳の力を落とすように心がけてきたけど、行き過ぎているみたい。
あとたんに、多岐にわたっていろんなことやっているから脳みそが疲れているね。

乳酸地HIGH!
コルチゾールHIGH!

疲れたって言葉を別の言葉に言い換えて、オリジナル曲作りたくって何年か前に「乳酸値High」って歌作ったけど。
コルチゾールHighはまだ作って無かった。



2019年は1月27日に、介護福祉士の試験があるから勉強がんばります。
あと十日間。
 通っているところで、筋トレをしています。
そのときに、いろんな人を見ている自分が居ます。
なんでこんなに他の人を見ているんだろうと思っていました。


実際、聞こえてきた他の人の会話に「〇色の服着ているあの人、いつも見てくる」「あぁ、いつも見てくるよ」っていうのが聞こえました。
それを聞いて「あぁあ、なんで僕は他の人をじろじろと見ているんだろうか」と、思いました。
なんとかできないのかなぁと。



自分で考えていた理由は、
・あ〜あの人筋肉すごいな〜、あんな風になりたいな〜って思って見ちゃう
・あ〜あの人僕と同じ学校の出身なんだ〜。この人のこういう人生が自分にもありえたのかもな〜と想像して見ちゃう
・へ〜あんなトレーニング方法もあるんだ、いろいろ見て覚えておきたいな

とかでした。
それだけでけっこう多いのですが。

でも、それだけじゃないんだと最近気付きました。
実は職業病として、他の人を見ているようでした。
・音がした方を見る
・大きな声を出している人を見る
・危険そうな行為をしている人を見る
・部屋に誰が居て、誰が部屋から出ようとしているのかを常に確認する

それらは、自分が就いている職の仕事の間、相手の体と命を守るために常に気を張っていることでした。
仕事場でやっていることを、筋トレをしているときにもやっちゃっているんだと、やっと気付けました。
それ以降、かなり他人のことを見るのをやめられたのですが…。


今日、「ん〜。あの人、もうあの種目終わったのかな。終わったなら、そこ使いたいんんだよな〜」と思って
首を振ってサッと見たら、
またそこに居た人が
「ほらね、見てくるでしょ」って言っているのが聞こえた(空耳かもね)。

もう、人は見ていなくて空間を見ているんだけど、
これが職業病なんだって気付くまでの間に他の人のことをいっぱい見てしまっていたから
もう僕がどの方向に首を向けても
「あ、また、あの人こっち見てる」って思われちゃうみたい。


大きな音を出して、トレーニングをする人って限られている。
頭の中で「大きな音を出している=危険行為をしている可能性がある」って思って音がするたびに大きな声が聞こえるたびに見てしまっていた。
いつも大体同じ人を見てしまっていた。
だから、その人からすれば、たぶん、これ以降僕がほんの少しでも見てしまえば
「また、こっちを見ている」って思ってしまうんだろうなって、思う。


もう、「人」を見てはいないのに、ただ
「あそこ、使いたいな〜」って思っただけで勘違いされてしまう。
なんかツラいな〜って思った。
あと、僕の仕草や行動が常に、なんとなく独特っていうのも手伝っていて、そうやってすぐに誤解させてしまうのだと思う。

でも、もう、いろんな場面でいろんな人に誤解されるのは、すごく多くていつものことだから
あんまり感情的にならずにすんだ。
ツラさとか、焦りとか、怒りとか、悲しみとかそういうのにあんまり巻き込まれなかった。
これはひとつの成長なのだろうと思う。

あぁ、いくらでも僕は誤解されるんだな、こうやって何重にも誤解されてゆくんだなって思って悲しくなったけど。
それは、もうある程度仕方のないことだからなって思った。
僕は他人に誤解をさせやすいという特徴を持っているのだ。


でも、今回のことで、自分にも職業病があるんだとわかったからそれが得たものだった。


すごく好きな人のことを、
すごくキライとも思うときがある。
それはなんでかなって。
それは、すごく好きな人が自分の想いに沿うような形で
自分の想いが叶うような形で
返してくれないから。

でも、それはとってもわがままなこと。
欲しいと願って欲しいと願ったものを与えてくれないから
与えてくれない人を嫌うこと。
憎むこと。

「罪な人」って言葉は、わがままな言葉だ。
好きになったその相手の人が悪いわけじゃない。
その人がその人らしく、その人が持っている特徴を示すことは
悪いことじゃない。
その人はそういう人なのだ。
ぼくがその人の、「そういうところ」を好きになってしまうことの方が悪いのだ。
その人が悪いんじゃなくて、好きになってしまったぼくの方が悪い。
その人がその人らしくただ生きていて過ごしていて
それを責め立てるのはオカシイ。
責めているぼくの方がオカシイ。

そんな優しくしたら…好きになってしまうではないか、やめてほしい
と心で悲痛に思っていても
それは自分が悪いのだ。
すぐに人のことを好きになってしまったり恋にすぐに落ちてしまう自分が悪い。
人のいいところを見つけてしまう自分が悪い。
その人は、優しくしたいから優しくしただけで、それは罪ではない。

もう、相手を責めるのはやめようと思った。
まず、自分が相手を「キライ」とか「罪な人だ」とか言う言葉で責めていることに気付いて
そしてその意味を知って
それをやめようと思った。
その順番で、そう思った。

好きという気持ちは好きだけれど。
メリットよりもデメリットが上回ってきた頃には
もう本気で「この恋心を平常な状態にしたい」って切に願うようになった。
もちろん、その恋心が叶うんだったら叶ってそれでハッピーであって
それでいいのだけれども。
別に平常にしたり、打ち消したりする必要もないのだけれども。
叶わない恋に関してはどうにか対処しなくっちゃ。
どうにかして平常で居たい。
完全に恋心を失くしたいわけじゃない。
持ったまますごく自然な形で、平常で居たい。


恋というものを、ダークなものをいっぱい積み重ねて取り囲んで
打ち消そうと試みていた時もあった。
だけれど、そもそも恋ってものはホワイトなものじゃなかったのだと思う。
ダークとホワイトが両方含まれている…もしくは
両方から無関係なものだと今では考えている。
そもそもホワイト的なものでないものを、ダークで打ち消せるわけもない。
打ち消そうという発想とか手法自体は悪くないものだったけれども
そもそも「恋」というものの特性(属性・性質・タイプ)を見誤っていたんだろうと今では思える。

好きな人を好きでなくなれますように。

マルゴト

マルゴト

きみのこころをマルゴト欲しい
きみの愛情をマルゴト欲しい
どこに売ってる? 誰から買える?

きみのコーヒーをマルゴト欲しい
きみのポテチをマルゴト欲しい
きみが持ってる オイシイところ
ゼンブ ゼンブ 奪ってしまいたい

雑草のように 次から次へと
生えてくる欲しい を刈り込んで

「欲しい」がそのまま ぼくの愛情で
「欲しい」はそのまま ぼくの恋情で
それは 至って ぼくの感情
それは 至って ただの幸福

「欲しい」がそのまま いまの自分で
「欲しい」はそのまま 日々の力で
叶わなくたって ぜんぜん平気
叶わなくたって 至って健康!

きみがぜんぶ くれるから
きみがは「あい」とやらを くれているから

愛情 感情 純情 要らない
愛情 感情 純情 に満ちて
愛情 感情 純情 に生きる
恋は満たされて フリーダムに成る

束縛しないから 束縛されない
束縛されないから 束縛しない
ぼくはフリーで きみもフリーだ
現実も 真実も もうぼくは要らない
いい人で居たい。
社会的に適合者で居たい。

そうやって願っている。

だけど、それらは強迫観念なのだと思う。
イイ人で居なければならない。
社会的に適合者で居なければならない。
強迫観念としても、持っている。

だから、それに対して曝露してゆくことになる。
だから、イヤな人だと思われるような言動をわざとする。
社会的に不適合的な方向へわざと向かってみる。

たしかにそうやってやってゆけば、
神経質さは薄まってゆく。
強迫的なところは薄まってゆく。
強迫性障碍への対処法としては、たしかに効果があるのだけれども。

まぁ、フツーにつらいよね。
相手からイヤなやつだと思われるって。
そうしたいからそうしてるわけじゃなくて、治療としてそれをやっているわけだけど。
相手はそんなの知らないから、ただのイヤなやつって思うだけだ。

治療として、オトナらしく振舞わなかったり
社会的に不適合な方向の言動を選んだり
しているわけだけれども。
あえて。
でも相手はそんなの知らないから、「なんて子供っぽいんだ。オトナのくせに。そんなこともできないのか、知らないのか。」
ってイライラするだけなんだよね。

そういうイライラを僕は受け取ることになる。
やっぱり、当たり前だけど、それはつらいこと。
つらいけど…、それらは「治療の副作用」だから、我慢してゆく。

曝露法をすることによって、確かに過剰な神経質さというのは薄まっているのだから。
主作用はちゃんと得られている。
副作用も我慢して受け取らなくてはならない。

相手がイヤな気持ちになることも、自分がイヤな気持ちになることも。
副作用。
主作用は、僕が異常なまで神経質ではなくなって
とりあえずはなんとか生活とか仕事とか社会活動を行うことができるということ。
行えてはいても相手を不快にさせたり
自分もそれでつらかったりしているけど…でも、「なんとか」できてるかできてないかと言えば
たしかにできてはいる。
主作用はちゃんと得られているんだ。

世の中には、様々な思い込みがある。
○○でなければならないというもの。
大人はオトナらしくふるまわなくてはならないとか。
社会人は社会人らしくなくてはならないとか。

子供らしい子供が、オトナらしい大人へと成長してゆくという
わかりやすい物語の中に僕も入りたくなることがある。

でも、僕が子供らしい子供だったことなんてはなからないし。
オトナらしい大人で居ることも、禁じられているわけだし。
そんなわかりやすい物語には僕は居ることを許されていない。
その路線の運命の上には残念ながら居ない。

オトナらしいも、コドモらしいも、そういう言葉に僕がカチンと来ようが来まいが関係なく
僕はそれらの言葉のある物語の上には、はなから居られていない。
それを受け入れていくことしかきっと道はないのだと思う。
それが定められた運命。
この命に与えられた役割であり、そういう星の座りの下に生まれた。
座り直しをしたいならば、一度死ぬしかない。

イイ人で居ることも、オトナらしく居ることも、社会適合的であることも
許されてはいない。
そういう条件の下で生きなくてはならない。

他の人がそんなことを何も知らずに
僕のことをあぁだこうだと言っていたり、嫌っていたり、していても
僕はそれらを「別の物語の中の人から見ると、そういう風に見えるんだ。」と
単純に認識して進んでゆくしかない。

「イイ人で居たいならば、いい人になる努力をしろ。
好かれたいならば、好かれる努力をしろ。
社会適合的になりたいならば、そう努力をすればいいじゃないか。
きみの○○なところが問題なんだ。」と
そう言われたとしても、
その○○の問題を修正すること自体が禁じられているから、修正したくても、できない。
強迫観念に対して曝露することに忠実になれば
努力をするってこと自体が、やんわりほとんど禁止。
努力したくても、できない。
努力ってやつをするには、どうしても、強迫的な観念をエネルギー源として持つことが必須だから(僕にとっては)。

努力をすることも許されていない。

そういうのを全部自分一人で飲み込んで。
相手が、何を言っていても、何を注意してきていても、何に怒っていても。
僕自身がそれらに応えられないことをつらいと思っていても。
それでも、耐えるしかない。

良くなることも、悪くなることも
良くならないことも、悪くならないことも、禁止なのだから。
弱い念しか使えないというのは、ほとんどそういうことだと思う。

そういうのを、何年も続けているけど。
これからも続けていくけど。
ただ、ときどき、どうしようもなくすごくつらくなることがあるなって思った。
つらいのをつらいって言いたいなって思った。
もちろん初めから耐えるつもりで居るけど、ただ、つらいなって。
耐えるんだけど、たぶん耐えられるんだけど、つらいなって。

イイ人になりたいって強く思ってしまったが最後
行動としてはその逆をやる必要が出るという、この仕組み。
イヤになる。
興味深いし、或る意味面白いのはたしかだけど。
ときどきイヤになる。

僕はやっぱりいい人だって思われたい人。
イイ人だっていう自己イメージを持っていたい人。
だからつらい。

たぶん、誰も悪くない。
僕が異常なまでに神経質であることも、それに対する治療法をしなければならないことも
それによって相手がイヤな気分になることも、それを見てそれを感じて僕自身の方もイヤな気分になったりつらくなることもどれもこれも、
誰かが悪いんじゃない。
そして、おそらくだけど、僕自身が悪いんでもないと思う。

根っこは僕が異常なまでに神経質(強迫性障碍)であるというところから始まっていて
そしてそれと
僕自身の性格とかマインドとかココロとかが未熟なままに(ほとんど成長することは許されていない)
絡んでいることが原因なのだけれども。

未熟な自分のココロとか感情を発達させたいと願うけど。
そのこと自体が強迫観念だと思われるから、それをできない。
強制的なブレーキ。
唯一の進める道を、協力に真っ向から壁を立てる必要性も、同時に常にあるというジレンマ。

だから…つまり…、僕は成長してはならない人なのだろう。
大人になってはならない人なのだろう。
そうだとわかれば、それはそれで、決心して生きてゆけるものだとなと思う。
そうだとちゃんとわかったから、それはそれで、決心して生きてゆける。
それならばそういう種類の生き方で生きてゆこうと。

スタンダードな物語の中の、スタンダードな考え方での、スタンダードな生き方じゃなくても。
スタンダードではない生き方の中でしか、自分という生物は生きられないのならば
それで生きてゆくしかない。

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