いい人で居たい。
社会的に適合者で居たい。
そうやって願っている。
だけど、それらは強迫観念なのだと思う。
イイ人で居なければならない。
社会的に適合者で居なければならない。
強迫観念としても、持っている。
だから、それに対して曝露してゆくことになる。
だから、イヤな人だと思われるような言動をわざとする。
社会的に不適合的な方向へわざと向かってみる。
たしかにそうやってやってゆけば、
神経質さは薄まってゆく。
強迫的なところは薄まってゆく。
強迫性障碍への対処法としては、たしかに効果があるのだけれども。
まぁ、フツーにつらいよね。
相手からイヤなやつだと思われるって。
そうしたいからそうしてるわけじゃなくて、治療としてそれをやっているわけだけど。
相手はそんなの知らないから、ただのイヤなやつって思うだけだ。
治療として、オトナらしく振舞わなかったり
社会的に不適合な方向の言動を選んだり
しているわけだけれども。
あえて。
でも相手はそんなの知らないから、「なんて子供っぽいんだ。オトナのくせに。そんなこともできないのか、知らないのか。」
ってイライラするだけなんだよね。
そういうイライラを僕は受け取ることになる。
やっぱり、当たり前だけど、それはつらいこと。
つらいけど…、それらは「治療の副作用」だから、我慢してゆく。
曝露法をすることによって、確かに過剰な神経質さというのは薄まっているのだから。
主作用はちゃんと得られている。
副作用も我慢して受け取らなくてはならない。
相手がイヤな気持ちになることも、自分がイヤな気持ちになることも。
副作用。
主作用は、僕が異常なまで神経質ではなくなって
とりあえずはなんとか生活とか仕事とか社会活動を行うことができるということ。
行えてはいても相手を不快にさせたり
自分もそれでつらかったりしているけど…でも、「なんとか」できてるかできてないかと言えば
たしかにできてはいる。
主作用はちゃんと得られているんだ。
世の中には、様々な思い込みがある。
○○でなければならないというもの。
大人はオトナらしくふるまわなくてはならないとか。
社会人は社会人らしくなくてはならないとか。
子供らしい子供が、オトナらしい大人へと成長してゆくという
わかりやすい物語の中に僕も入りたくなることがある。
でも、僕が子供らしい子供だったことなんてはなからないし。
オトナらしい大人で居ることも、禁じられているわけだし。
そんなわかりやすい物語には僕は居ることを許されていない。
その路線の運命の上には残念ながら居ない。
オトナらしいも、コドモらしいも、そういう言葉に僕がカチンと来ようが来まいが関係なく
僕はそれらの言葉のある物語の上には、はなから居られていない。
それを受け入れていくことしかきっと道はないのだと思う。
それが定められた運命。
この命に与えられた役割であり、そういう星の座りの下に生まれた。
座り直しをしたいならば、一度死ぬしかない。
イイ人で居ることも、オトナらしく居ることも、社会適合的であることも
許されてはいない。
そういう条件の下で生きなくてはならない。
他の人がそんなことを何も知らずに
僕のことをあぁだこうだと言っていたり、嫌っていたり、していても
僕はそれらを「別の物語の中の人から見ると、そういう風に見えるんだ。」と
単純に認識して進んでゆくしかない。
「イイ人で居たいならば、いい人になる努力をしろ。
好かれたいならば、好かれる努力をしろ。
社会適合的になりたいならば、そう努力をすればいいじゃないか。
きみの○○なところが問題なんだ。」と
そう言われたとしても、
その○○の問題を修正すること自体が禁じられているから、修正したくても、できない。
強迫観念に対して曝露することに忠実になれば
努力をするってこと自体が、やんわりほとんど禁止。
努力したくても、できない。
努力ってやつをするには、どうしても、強迫的な観念をエネルギー源として持つことが必須だから(僕にとっては)。
努力をすることも許されていない。
そういうのを全部自分一人で飲み込んで。
相手が、何を言っていても、何を注意してきていても、何に怒っていても。
僕自身がそれらに応えられないことをつらいと思っていても。
それでも、耐えるしかない。
良くなることも、悪くなることも
良くならないことも、悪くならないことも、禁止なのだから。
弱い念しか使えないというのは、ほとんどそういうことだと思う。
そういうのを、何年も続けているけど。
これからも続けていくけど。
ただ、ときどき、どうしようもなくすごくつらくなることがあるなって思った。
つらいのをつらいって言いたいなって思った。
もちろん初めから耐えるつもりで居るけど、ただ、つらいなって。
耐えるんだけど、たぶん耐えられるんだけど、つらいなって。
イイ人になりたいって強く思ってしまったが最後
行動としてはその逆をやる必要が出るという、この仕組み。
イヤになる。
興味深いし、或る意味面白いのはたしかだけど。
ときどきイヤになる。
僕はやっぱりいい人だって思われたい人。
イイ人だっていう自己イメージを持っていたい人。
だからつらい。
たぶん、誰も悪くない。
僕が異常なまでに神経質であることも、それに対する治療法をしなければならないことも
それによって相手がイヤな気分になることも、それを見てそれを感じて僕自身の方もイヤな気分になったりつらくなることもどれもこれも、
誰かが悪いんじゃない。
そして、おそらくだけど、僕自身が悪いんでもないと思う。
根っこは僕が異常なまでに神経質(強迫性障碍)であるというところから始まっていて
そしてそれと
僕自身の性格とかマインドとかココロとかが未熟なままに(ほとんど成長することは許されていない)
絡んでいることが原因なのだけれども。
未熟な自分のココロとか感情を発達させたいと願うけど。
そのこと自体が強迫観念だと思われるから、それをできない。
強制的なブレーキ。
唯一の進める道を、協力に真っ向から壁を立てる必要性も、同時に常にあるというジレンマ。
だから…つまり…、僕は成長してはならない人なのだろう。
大人になってはならない人なのだろう。
そうだとわかれば、それはそれで、決心して生きてゆけるものだとなと思う。
そうだとちゃんとわかったから、それはそれで、決心して生きてゆける。
それならばそういう種類の生き方で生きてゆこうと。
スタンダードな物語の中の、スタンダードな考え方での、スタンダードな生き方じゃなくても。
スタンダードではない生き方の中でしか、自分という生物は生きられないのならば
それで生きてゆくしかない。