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水の流れる音で目が覚めた。
あるいは、浅い眠りの中で溺れかけていたのかも知れない。
枕元の明かりを灯し、のろい動作でうつぶせになって、目覚まし時計に顔を向けると、針は一時を指していた。一体どのぐらい眠ったのだろうかと、指を折って数えていると、秒針の移動するぎこちない音の背後に、やはり水の音があった。 おそらく、廊下の奥にある共同トイレの水が、流れっぱなしになっているのだ。
そのまま放っておこうと思い眼を閉じてはみたが、明かりを消すと余計に気になって眠れなかった。
廊下の遙か向こうで、冷たい陶器の表面を流れ続ける水の音に、何時しか私の耳は集中していた。
再び明かりを灯して、起き上がった。パジャマの上にカーディガンを羽織り、スリッパを突っかけて廊下に出た。裸電球の薄汚れた明かりにぼんやりと晒された冷たい廊下を歩き、誰もいる筈のないトイレのドアを軽くノックして開け、照明を付けた。
白い便器には、他人の体温と微かな異臭が残っていた。
金隠しの縁には乾涸らびた便が、瘡蓋の様に付着していた。私はタンクの蓋を持ち上げて、中を覗いてみた。予想通り、プラスチックの浮き球が鎖に引っかかって止水を妨げていた。
カーディガンを脱ぎ、パジャマの袖を肩まで捲り上げて、冷たい水の中に手を入れた。錆びた鎖を引っ張ると、赤錆びで汚れた浮き球が勢いよく浮かび上がった。間もなく、吐水口の水勢が弱まり、簡潔的な雫になった。
私は水の止まるのを確認して、トイレを出た。薄暗い廊下の両側に並んだ扉の奥から、眠れずに闇を見つめる住人達の、安堵の溜息が一斉に漏れて来るような気がした。
部屋に戻ろうと振り返ると、廊下の奥に小さな影があった。
少しずつ近付いていくと、しゃがみ込んでいる男だった。どうやら私の部屋の隣に住む住人のようだった。
裸電球の下でうずくまり、漫画座雑誌を読んでいるその男を一瞥して、自室のドアノブに手を掛けた。
「こんばんは」
私はノブを回しながら、おざなりに声を掛けた。
華奢な躰だった。雑誌から眼を離し、緩慢な動作で私を見上げるその表情が、電球の光で透き通って見えた。
男は、私の背後に伸びる長い廊下に視線を遣りながら、小さく頷いたようだった。
「どうかしたんですか?」
膝の上の雑誌に目を戻しページをめくる男の、茶色に染めた髪を見下ろして、私は訊ねた。返事が無ければ、このまま部屋に戻るつもりだったし、当然応答など無いものだと思っていた。
「部屋の電気が突然消えちゃったんです」
低く掠れた男の声が、私の肩で震えた。廻しかけたドアノブを放して、私はもう一度男の方に目を遣り、その膝に乗せられた雑誌を見つめた。
俯いた横顔は、まだ若かった。おそらく私より一回りは年下であろうと思った。
「ブレーカー・・・落ちたんじゃないですか?・・・廊下の電気は付いてますから」
そう言って、私は再び自室のドアノブに手を掛けた。真夜中に、薄暗い廊下で少女コミックを読んでいる男とは、何らの関わり合いも持ちたくは無かった。
「ブレーカーって、何処にあるんですか?」
その声には、懇願する様子が混じっていた。私は自分のドアに顔を近付けて、うんざりした表情をつくった。
「ドアのすぐ上にありますよ」
「一応見たんだけど、良く分からなくて・・・・」
「一応・・・・・・見た。それなら何処にあるか位は分かってるんでしょ」
「うん」
「それで・・・落ちてなかったの?・・・・ブレーカー」
「だからっ・・・それが良く分からなくて」
私は男に聞こえるように舌打ちした。廊下に並んだ全てのドアに、好奇心の籠もった緊張が走り抜けて行くような気がした。
「あなた、懐中電灯とドライバー持ってる?ドライバーはプラスじゃなきゃだめよ」
男は暫く考えてから、漫画雑誌を閉じて起ち上がった。それでも私の視線は、男を見下ろすような格好だった。
「ごめんなさい・・・僕は何も持ってない」
私の鼻の位置にある目線を少し持ち上げて、男が言った。その体が急速に接近してくるような錯覚に襲われて、私は息を呑んだ。
「そこで、ちょっと待ってなさい」
そう言い残して、私は自分の部屋に逃げ込んだ。
・・・・・・・・・・・・・・つづく。
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