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小さな庭を囲む垣根の片隅にしゃがみ込んで、じっと身体を強張らせていたのは、濡れた葉を
ゆっくりと這い上がるカタツムリに気をとられていたからではなかった。小さな身体を尚も縮めて
堅い枝の間に潜り込み、植え込みを隔てた路地から聞こえる話し声に耳を集中していた。二人
の女のお喋りは、夕暮れの喧噪に飲み込まれるように消えていった。洋二はその断片でも聴き
取ろうとして、撓る小枝に頬を叩かれた。
「戻ってきてるみたいだけれどねぇ・・・・・・・あんまり良くはないらしい」
「やっぱりねぇ〜・・・・・随分痩せてたから・・・・・・入院する数日前・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・奥さんは・・・・・・・仕事に・・・・・・・・・・」
「うん・・・・・・・・・・・・パートで・・・・・・・・・子供は・・・・・」
「ようくんだっけ・・・・・・・・・・・・・・良い子で・・・・・・・・・・来春は一年せ・・・・・・」
葉の先から落ちた雫が、洋二の頬を濡らした。女達の声の後ろから、自転車のベルの音や、子供
達の笑い声や、家路につく大人達の足音が覆い被さり、その度に洋二は目を瞑り、父親の噂話の
内容に耳を傾けた。
「・・・・・・・・・・・聞いた話だと、もうあまり・・・・・・・・・ないって」
「そうよだって・・・・・・・・・・・・・・・泣きながら・・・・・・・言って・・・・・・・・」
「そう・・・・・・・準備してるって・・・・・・・・・・・・・だけど人ごとじゃないわよ」
女達が立ち去る気配を感じると、洋二は慎重に、身体を後退させた。出来るだけ身を縮めて堅く
なっていた身体は、立ち上がると彼方此方が痺れた。擦りむいた膝と、枝に引っ掻かれた手の甲
からは血が滲んでいた。
揺れた葉の上から落ちたカタツムリが、芝の上にころがっていた。それに気付いた洋二は、小さ
な殻を拾い上げ、低い位置にある葉の上に慎重に置いた。
冷えた夕闇が、足下から小さな身体を包み込もうとしている。洋二は立ち上がって家に入った。
父さんの部屋に入り、電灯を点した。畳の部屋の真ん中に敷かれた布団がモゾモゾと動き、枕
の上に頭が出た。また小さくなっている。洋二はどの位置から父さんに話しかければいいのか迷
った。部屋を間違えたふりをして、そっと出て行こうとした瞬間、父さんの声が聞こえた。
「ようくん」
「・・・・・・・・・うん」
振り返ると、枕の上にある細い顔が笑っている。痩せて老人のようになってしまった父さんの笑顔
は、泣いているようにも見えた。
「お父さんのお水がなくなっちゃったんだ・・・・・・台所で汲んできてくれないかな」
「・・・・・・・・うん」
洋二は父さんの枕元に廻り、ガラスの水差しを取って廊下に出た。暗い廊下の彼方此方に人
が立っていて、父さんの噂をしているような気がした。
流しの蛇口から水を汲んで戻ってくると、父さんは布団の上に身を起こして俯いていた。はだけ
た浴衣から見える足も、枯れ枝のように細かった。父さんは膝の上に置いた掌を見つめて、なに
か呟いていた。
「ありがとう」
恐る恐る近づく洋二の仕草が可笑しいのか、父さんは声を出して笑った。洋二は枕元まで慎重
に歩を進めて、水差しを置いた。
「母さんはまだ帰らないのかな」
「・・・・・・うん。七時頃」
「そうか・・・・お腹空かないか」
「だいじょうぶ・・・・・・・・・・・」
少し怯えたような目で、自分の掌を見つめている息子に、父は精一杯の言葉をかけようとした。
だけど結局、なにも思いつかなかった。
「お母さんが僕のランドセル買ってくれるって・・・・・」
「そうか・・・・・」そういって、父さんは少し困ったように顔を顰めた。
「だけど」
「・・・・・・・・・・・・・・・・なに」
「だけど、僕はランドセルなんかいらないもん」
「えっ・・・・・どうして」
「だって・・・・・・・・・だって、そんなのずっと先の事だもん」
洋二の目に映る父さんが、みるみる濡れていった。父さんますます困ったような顔をして、
洋二の頬に指をあてた。
「ようくん、ほっぺた傷だらけだ・・・・・転んだのかな」
その晩、洋二は浅い眠りの中で、何度も何度も同じ夢を見た。大きなランドセルを背負って
カタツムリのように歩く洋二の前で、「ガンバレガンバレ」と声援をおくる父さんと母さんの嬉し
そうな笑い声が、洋二の枕元から、夜明けまで響き続けていた。
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小説
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出がけに玄関で躓いたのは、靴を履こうとする直後に後ろから孫が抱きついてきたからなのだと
妻は少し照れたように言い訳をしている。
だからバスに乗るのも一苦労だったし、停留所から此処まで歩く道は地獄のようなものだったと額
の汗をハンカチでパタパタと叩きながら早口に喋る表情には若い頃の初々しい面影があった。
呑気で無駄に暑いだけの青空に、フガフガした薄っぺらで少し汚らしい雲が漂っている。妻は小さ
な鞄からペットボトルのお茶を取り出して、空を眺めて一口啜った。それからまた鞄の中をゴソゴソ
探り、線香と百円ライターと百円位で売っていそうな数珠を取り出して正面を見つめた。
「そー云えばあなた・・・・・勇ちゃんの顔知らないのよね・・・・・・」
勇ちゃんとは孫の名前だ。
「だけど・・・・秋江の結婚式には、お腹の中にいたのよねぇ〜」
秋江とは娘の名前だ。
「あなたには知らせずにおいたのよ・・・・・悪いけど・・・・・」
つまり、妻が言いたいことは、娘の妊娠にも気づかずに結婚式に臨んだ私の亡き後、こうして墓
参りにこようとて家を出るときに、あなたが秋江の懐胎を知らされる事も無く、あなたと入れ替わり
に此の世に現れた可愛い孫である勇ちゃんに後ろから不意に「おばあちゃ〜ん」と抱きつかれて足
を挫いてしまったと云うことなのだろう。
「だけどね・・・・秋江もとうとう・・・・・・」
そう云って、妻は線香をパサパサと振って、先に点いた炎を消した。日陰の草の匂いに混じって、
白い煙がノー天気な青空めがけて上っていく。
「秋江もさあ・・・・・だけど・・・・・仕方がないのかも・・・・・」
なにが仕方ないのだ・・・・・秋江もとうとう・・・・・・どーしたと云うのだ。
「・・・・・・・・・・止めとくわ・・・・・・あなたまた、カッカくるから」
そう云って、妻は柄杓で水をかけた・・・・・・黒く艶のある墓石の後ろを這い上っていた蝸牛が一瞬
怯んで立ち止まった。背後から何か声をかけられた妻が横を向いた。その一瞬、美しい風が悪戯
な光と戯れた・・・・・。妻の小さな唇が動き、誰かに何かを囁いているのだが、私には聞き取ること
ができない。次の瞬間、フカフカの少し薄汚い雲が光を遮った。
「・・・・・・・・・・・・・さて・・・・・・・・今日はあんまりノンビリもしていられないの・・・・・・行くわね」
殻に閉じこもった蝸牛が顔を出し槍を出し、またツヤツヤ光る墓石を上り始めた。そろそろ餌を探
して鳥達もやってくる頃だ。そして日が陰る時刻に必ず訪れる女がいる。私の隣の墓石に跪きサメ
ザメと泣く声が立ち去ると、また夜が訪れる。
「さてさて・・・・よっこらしょっと」
膝頭を手のひらで押しながら立ち上がり、妻は私の墓石に最敬礼した。
「また来るからね・・・・・」
そう言った瞬間、妻はよろけて、墓石のてっぺんに手をついた。頂上付近にいた蝸牛が驚いて身を
隠した。妻は暫く手をついたまま少し荒い息をしていた。それから墓石に顔を近づけて、ほんの一瞬
頬をあてた。温かな匂いが冷たい石の表面を覆うように伝わっていく。
「・・・・・今度来るときは」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・なんだ?
「今度此処に来る時はさあ・・・・・・・」
なんだよ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・?
「まっ・・・・・・・・・・・・いいか・・・・・・・・・・・・・・サヨナラ」
区画された墓地の通路を去っていく妻の後ろ姿を見送った。午後の日差しがいっぺんに押し寄せ
て陽炎のように・・・・・・・その姿は一瞬のうちに・・・・・・・・・・・消えた。
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両側に雑草が生い茂るぬかるんだ細い道を歩いていた。薄暗く冷えた空気の匂いは何処か懐かしく
遠い記憶の中にある甘い疼きのような感情を蘇らせ、乾いた皮膚がジワジワと震え、自分のものでは
ない熱が加わった。
人間の匂い
糞尿や食材や腐乱した肉や雨上がりの腐敗した生活排水などの入り交じった、街の臭いが漂うこ
ろ、小さな明かりに浮かび上がる集落が見えた。道は相変わらずぬかるんでいる、それに粘り気が
加わって、私の足取りは重かった。
道の両側は整地され、白いロープで区分けされていた。その道が二手に分かれる手前で、誰かが
「私は此処で・・・・・・・」と云った。その時私は自分が一人ではなく数人の集団の中にいる一個である
ことに気付かされた。私の横をスーッとすり抜けて、男が脇道に入っていく。私は・・・或いは私たちは
その後ろ姿を見送った。
歩を進めていくと、小さな平屋の家が見えた。どれもこれも古い木造の家屋で、人の気配は感じら
れなかった。「あの家が君のものです・・・・」私の背後でボソボソと呟く声があった。その時私は、その
集団が家族であることに気付いた・・・・・私・・・・・或いは私たちは夢の中で死と戯れるように無言で
微笑む機械を探っていた。死んだ祖父母・死んだ父・そして死んだ従兄弟達が私の背後でモゴモゴ
と囁きあっていた。その時私は自分が女であることに気付いた・・・・・・女の子が欲しかったのだと母
に囁く父親の声が・・・・・・その声が・・・・・・「あの家が君のものです、家の半分が店舗として使える
造りになっています・・・・・小さな商売に向いてますよ」・・・・・・それもやはり父親の声だったのかと、
恐る恐る振り返り・・・・・・・・・・・・・・・遠慮がちに目蓋を開いた・・・・・・・・・・・8月最後の朝。
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帰宅途中の県道で長い渋滞に巻き込まれた。いつもの通い慣れた道、そして同じ時間なのだが
今日に限って混雑していた。この先に踏切があるので、事故でもあったのだろうと思い、少し待
っていたのだが、前の車はジリジリとも動かない。気が付くと陽は翳り、遠くで鳴り続ける信号機
の音も気になり始めた。私は車から降り、前方へ歩いた。数台前の車に何人かが集まり立ち話
をしている。
「・・・・・・・・・・・なんですかね。」
タバコを吸っている男の横顔に話しかけると。「飛び込みらしいですよ」という返事が帰ってきた。
「事故ですか」
「いや自殺みたいだね・・・・・警察が集まってる」
そう言って男は不機嫌そうに紫煙を吐き出した。
私は其処を通りすぎて、踏切に近づいて行った。何台かおきに、ライトを点けた車があり、その
廻りには、細かな羽虫が群がって舞っていた。
帰途につけない群衆の頭越しに線路を覗き込むと、眩いサーチライトに照らされた黒いものが
見えた。私はそれを見てすぐに牛を想像した。昔北海道の土産にもらった木彫りの彫刻を連想
したのだ。蹲った姿勢でこちらを見つめる牛の像は、暫く我が家のテレビの上に置かれていた。
銀色の光に煌々と照らされた毛布の廻りを、やはり細かな羽虫がしつこく飛び回っていた。
「おんなだってよ・・・・・・」
私の前に立つ老人が、隣の男にそう言った。
「かなり大柄な女だな」
「そう・・・・・・ホラ・・・・・何時も自転車で昼間この辺を・・・・・・・・」
男達の話しが、羽虫のように耳元で蠢いていた・・・・・・私は、その女の顔を思いだしていた。
病院の暗い待合室で、じっと俯いていた女の顔を。
「暫くノイローゼだったらしい」
「歳は四十過ぎか・・・・・」
「ダンナは」
「いや、ずっと一人暮らしだ」
一月前に右手に怪我をして、二週間ばかり通院した。年寄りばかりが賑やかに集う病院の待合室
で、女の姿は奇異に映った。胸元が大きく開いた黒いワンピースは、肩のあたりがパンパンに張って
いて、姿勢を変えると破けそうに見えた。ゴワゴワと量の多い髪は汗で湿っていた。額に浮いた脂を
ハンカチでパタパタ叩きながら、時々周囲を睥睨するその瞳は、鈍重に何かを探しているようだった。
毎日、ある距離を置いて、私はそれとなく女を観察していた。病院での退屈な待ち時間を、私は未
知の動物でも見るような気持ちで過ごした。何時も必ず、女は私より前に座っていた。そして私の治
療が済んでも、女は同じ姿勢で待ち続けていた。
「踏切の脇の縁石にずっと腰掛けてたらしいよ」
「へぇ」
「二時間以上前に見た人がいるって・・・・・」
「飛び込む決心固めてたのか」
「さぁな・・・・・誰とも喋ったことない女だそうだから」
「・・・・・・・・・・・・・・とにかく・・・・・・早く片付かねえかな」
最後の治療を受けた日。診療室から出た私は女の方に真っ直ぐ目をやった。そこに女の視線が
向かってきた。一瞬だけ交錯した視線に怯み、私は俯いて病院を出た。
通りすぎる瞬間、微かに匂いが過ぎった。
横たわる物体が運ばれて行った。信号機のけたたましい音が止み、人垣は崩れた。
私も自分の車を目指して歩を速めた。
線路の真ん中に横たわっていた女と、待合室の女が同一なのかどうか、私は明日、病院で確か
めたい衝動に駆られた。
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「そろそろ・・・善い頃合いなのかな・・・・」 |





