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. さて、これの代表が
ということで、三宅雪子はブログにこんな事を・・・ ↓ ↓ ↓ 2012年02月15日 歌を忘れたカナリア 1 2009年の夏、『国民の生活が第一』を掲げて当選した同じ志を持った仲間たち。しかし、今、進む道は分かれて行こうとしている。 私は忘れない。国会一番乗りしたあの日。 テレビの密着取材があり、スタッフと何時に行くか相談をしていていた。正直、選挙中の取材攻勢に疲れていて、これ以上目立ちたくないという気持ちもあり、5時くらいでいいかなとも思っていた。しかし、なぜか夜中に突然この政権交代の歴史的な日に一番乗りをしたいという衝動が沸き起こったのだ。そして2時47分。私が到着した10分後に玉木雄一郎議員がやってきた。本当にぎりぎりの一番乗りだった。 開門したときを見計らったようにそれまでの暗い空から太陽がぱっと射してきた。と同時に物凄い数のカメラのフラッシュ。打ち合わせしたわけでもないのに、皆で自然と国会議事堂に向かってお辞儀をしていた。ひどく感動して『ああ、政治が変わるんだな』と思った。 そして、2年半たった今。民主党は苦悶している。様々な政治課題が山積。マニフエストが変更、撤回を迫られている。どこからほころびが出てきたのだろうか。何が間違っていたのだろうか。 きっかけは鳩山総理の思いもしない早期辞職だ。確かに国会は鳩山・小沢氏の追及に明け暮れて審議もなかなか進まない状況だった。沖縄問題で5月と期限を切っていたことも一つの節目となった。二人は退き、菅さんが総理に就任。支持率も回復。軌道修正でき、さあ、これからとなったが、菅さんの消費税発言で一気に支持率は下落してしまった。これは大きな誤算だった。今でも『何故?』と無念である。二人が辞めた意味がまったくなくなってしまったのだから。 各選挙区の二人目の候補の取り扱いや、幹部から『みんなの党と連携も』という最初から敗北宣言のような発言があったことにも批判が集まった。党内で不満がつのり亀裂が入るきっかけことは間違いない。選挙に負けたこともさることながら、敗戦処理もいただけなかった。選挙で負けたら責任をとる。これは政界の常識。しかし、誰も責任を取らず(枝野さんが一時期降格すぐ違う役職で復帰)、その無責任体制はその後ずっと続くことになる。 それでも、代表選挙で勝負をする機会があった。菅VS小沢。これが最後の闘いになるかもと懸命に応援をしたが小沢元代表は破れてしまった。国会議員票はほぼ互角で肉薄していた。 執行部が責任を取らない一方、小沢元代表の疑惑に関しては検察が不起訴だったのにも関わらず、検察審査会という謎の組織によって『強制起訴』となり、それを受けて党員資格停止となってしまった。ここに至る過程でもう嫌になるほど岡田幹事長に会い、申し入れ、処分をしないよう動いたがだめだった。岡田幹事長は、『小沢元代表の党員資格停止』がさも目下の政治の一番の重要課題のように、そのことに邁進していたような気がする。 http://www.miyake-yukiko.com/blog/post-781.html なんとも
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三宅雪子観察記
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. さて、小沢一郎本人が、この三宅雪子のツイートを見たら
ということで、今ことをツイートしているわけですが・・・ ↓ ↓ ↓
で、思わずこんなものを返信してみたのですが ↓ ↓ ↓ 残念ながら、三宅雪子は
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に対して
ということで、part1でも指摘したとおりに
http://kapitkamay.up.seesaa.net/image/1.JPG で、それにはわりと早く向こうもリプライをしてきまして、その内容がこちらです この返答は、どうも
で、ならば
すると、上のリプライへの返事はなく、わりと唐突に
そして、その6時間後に
別に「勝った・負けた」という決着を望んでいるわけではないですが、自分的には
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. さて、また三宅雪子が
ということで
http://kapitkamay.up.seesaa.net/image/0.jpg で、類は友を呼ぶのか、それとも反対意見は消されたり書き込めないようになっているのかは不明ですが、基本的にはこういう意見で占められています ↓ ↓ ↓
問題の本質は
ようするに三宅雪子は
確か、三宅雪子は
<民主>消費増税に反対 広野広報委員長が辞表提出
毎日新聞 2月9日(木)13時12分配信 民主党の広野允士広報委員長は9日、消費増税方針に反対して広報委員長の辞表を輿石東幹事長に提出した。広野氏は小沢一郎元代表に近く、野田佳彦首相の増税方針に反対する動きが党役員からも生じた形だ。 民主党は7日の常任幹事会で「『明日への責任』対話運動本部」を設け、税と社会保障の一体改革に関する全国キャンペーンを展開することを決定しており、同本部メンバーの広野氏は「キャンペーンを広報委員長としてやっていくのは(できない)という気持ちだ」と語った。元代表には8日夜に辞表を提出することを伝えたという。【葛西大博】 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120209-00000037-mai-pol
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. さて、三宅雪子が父親のことをツイートしたので調べてみたら
http://thumbnail.image.shashinkan.rakuten.co.jp/shashinkan-core/showPhoto/?pkey=881038623e6cf999cba9f39745c484eada6de2f9.46.2.2.2j1.jpg
↓ ↓ ↓ 三宅 和助(みやけ わすけ、1930年9月27日 - 2004年1月24日)は、北海道夕張郡由仁町出身の元外交官。外務省外務報道官、中近東アフリカ局長、駐シンガポール特命全権大使等を歴任。 来歴・人物 北海道札幌南高等学校、東京大学法学部卒業。1954年外務省入省。1973年、アジア局南東アジア一課長時代、ベトナム戦争では南ベトナム崩壊前から、ベトナム民主共和国(北ベトナム)政府幹部と接触、同年9月の国交正常化に尽力したことでその名が知れ渡った。 のち、アジア局次長などを経て、1983年情報文化局長、1984年 初代外務報道官着任。1985年 中近東アフリカ局長時代には、飢餓によるアフリカ支援のため、外務省、アフリカ協会、立正佼成会、難民を助ける会と共同して「毛布千枚運動」を展開した。駐シンガポール大使にて退官後は、1989年12月 中東調査会理事長就任、中央大学総合政策学部教授など歴任した。 晩年は病気療養中の身のなか先物取引業者に騙され、家・財産を獲られたことが週刊誌上でとり上げられた。 妻は元労相・石田博英の娘であり、実娘に衆議院議員の三宅雪子がいる。 人脈 福田家との関係 三宅が北ベトナム政府と接触を図ろうとしたとき、当時の外務省は北ベトナムとの接触に消極的な意見が大勢を占めていた。さらに、田中政権中枢からも疑問の声が挙がり、三宅は省内で孤立し窮地に立たされることになる。このとき、田中政権の実力者だった福田赳夫が三宅を庇い、思うとおりにやってみろと激励した。三宅は「福田家には足を向けて寝られない」と語り、生涯にわたって福田赳夫への恩顧を忘れなかった。しかし、2000年代に入ると、福田赳夫の長男である福田康夫と、三宅の娘である三宅雪子が、群馬県第4区にて議席を争うことになる。 三宅雪子は「父は天下りをしなかった」とありますが、経歴には
で、三宅雪子の父親の経歴を見て、一番驚いたのは
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