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良識派からはすこぶる評判の悪い某TVの某番組を見ていると、早速、前原新外相が「ネオコン」と言われて非難されていた。筆者は前原氏の言動やらネオコンの詳細は知らないのだが、単に親米派で、中国の軍事増強に懸念を示せば「ネオコン」にされてしまうのでは、中国の周辺国はすべて「ネオコン」になるじゃないかとい気もする。
というようなことを感じていたのだが、そこで気がつくのは、「世代」である。
以下、単なる思いつきであり、論としてまとめる気はないので、ちぐはぐさや論理の非整合性はスルーで。
たとえば、仙石官房長官は学生運動の闘士だったそうだ。
要は、このあたりの年代の世代、青春時代を「闘争」で過ごしてきた世代は、特に実際にゲバ棒とかを振り回して暴れていたような人々にとっては、「国家」は敵であった。
それは時には、命がけの「闘い」であり、それに勝利することは日本に共産・社会主義国家体制の樹立であった。特殊ではあるが、「連合赤軍」がわかりやすい。
だが、結局、彼らの「青春時代の夢」は果たされることはなかった。それでも、彼らの「夢」だけは残り続けた。たとえるならば、若い時バンドに夢中になっていた者が、ずっとバンドへのあこがれをもち、歳とってからまたギターを再開する、というような感じだろうか。
学生運動にはまり、それに青春をささげていた者は、とにもかくにも、「アンチ日本」「自分たちが闘って勝てなかった相手・日本国家」というイデオロギーを内包したまま大人になり、それ相応の社会的立場につく歳になっている。
しかし、夢見た「ソ連」はとっくに崩壊、もはやどこにもなく、それに近いのは「毛沢東」の流れをくむ中国しかない。必然的に、彼らは「青春の夢」を中国という国家に重ね合わせていく。時代はとっくにかわり、時代はそれを求めてはいないのだが、「青春時代の夢」は忘れられない。中国シンパシーが多いのは、こういうことだろう。当然、親アメリカは敵となる。
それはそれで個人の自由なのだが、致命的なのは、そうした連中が日本社会において、相応に影響力と権力を行使できる立場にいることだ。
例えば、幕末においても、「鎖国」VS[開国」、「左幕」VS「倒幕」があった。だが、それらは常に「日本をどうすればいいか」という方向性の違いであり、決して「日本そのもの」の解体を狙ったわけではない。「日本を滅ぼさないために」彼らは命をかけたのである。
だが、先の「学生運動」の夢は、日本の国家そのものの解体・変革であり、その先にあるのは結局、「もう誰からも求められていないイデオロギー」しかない。青春時代に培ったものは、なかなか抜けない上に、自分自身の「思想の進歩・発展」が止まっているような者は、この21世紀の日本においても「求めるべきは、日本国家憎し」であろう。その思想の下で、どういう行動や発言がとられていくかは言うまでもない。
繰り返すが、それは結局、「時代からは求められていないもの」「すでに終わってしまったもの」であるのに、彼らの自分たちの止まった時間=「学生運動にあけくれた青春時代」を取り戻すための作業でしかない。
日本は思想自由だから構わないかもしれない。それでも、それに付き合わされて、ふりまわされる若者たち、子供たちが心配なのである。
本当に日本が正しい方向にいくのは、こうした「死せる世代のイデオロギー」を持った人々が、ご退場していただいた後のような気がしてしまう。
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