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前回はメディアの大義名分のひとつである、「客観報道」をちくちくとやってみたが、もうひとつ、魔
ディアの大義名分に「ナショナリズム」というものがある。これもおそらく、多くの方が聞き飽きたお題
目だと思うが、「メディアはナショナリズムをあおる報道はしてはならない」という前提である。特に、
韓国・中国とのもめごとに関しては、「ナショナリズムの危険性」をメディアは声高に叫ぶことが多い。
無論、それは戦前・戦中の報道統制化の反省(トラウマ?)の上での慎重姿勢なのだろうが、実は問題
は分けて考えねばならない。例えば1県1紙体制や検閲などの「国家干渉」は言ってみれば、権力の行使
によるメディアの非自由化であり、それは日本に限ったことでもない。そこはむしろ、「報道の自由」の
権利の文脈で考えることだ。むしろ、ナショナリズムとはメディア自身が国の外に「敵」を見出すこと
が、メディアの言うところのそれであろう。
そこは先の「客観報道」と文脈を一にする場合もあるだろうが、むしろ、「ナショナリズム」=「国
家」=「悪」というアレルギー反応に近いものがある。戦前のトラウマかもしれないが、そこが過剰にな
ると今度は、「国家」そのものの否定にまでいきつき、「グローバル市民」などという小奇麗なカタカナ
に終始することになる。だから、「ナショナリズムが危険」と声高に叫ぶメディアが提示してくるものが
「グローバル」とか「地球市民」とか言う場合が往々にしてある。
ナショナリズムが清廉で安全などというつもりは、筆者にはまったくないが、危険極まりないものと言
うつもりもない。ナショナリズムとは、などと大上段に構えるだけの素養もないのだが、「日本でナショ
ナリズムが高まっているのは危険」とかいうメディアの論には違和感をおぼえる。
というのは簡単な理由で、ナショナリズム自体がその国家なり民族なりの文化性とは切り離せないから
だ。何をもって「ナショナリズム」とするかという定義やレベルにもよるだろうが、単純に言えば、日本
人の「日本語」そのものとて、「ナショナリズムだ」と言えなくもないのである。例えば我々は「グロー
バルな国際人」は「英語」が必須だと教え込まれているではないか。そうなると逆に、日本人しか使わな
い日本語は、とてもグローバルなものとはいえない。
そうなると、「ナショナリズムが危険」と言うメディア自身、そのネイションの所属メンバーであると
同時に、そのネイションのメンバーに対して、そのネイションの「言語」で主張をしているのだから、自
分の襟をつかんで自分で自分を持ち上げようとするような話だ。「グローバルの時代だ」と日本語で語っ
ていること自体が自己矛盾と言えなくもない。
つまり、メディアが「ナショナリズムはけしからん」と言うのはいいのだが、自身もその背景・礎石と
なる「国」に所属していて、そこの固有言語を使っているのだという「意識の希薄さ」が逆に不気味では
ないか。まるで、「自身はナショナリズムとは無関係な、けがれなき完全体」とでも言っているようでは
ないか。その「現実から乖離した感覚」が、今日のメディアが非難される一因というと言いすぎだろう
か。
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